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例の掲示板「1ページレビュー」2009年記録
[691](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:56 [削除]
[公演名] 雪女化け物
[劇団名] 中央ヤマモダン
2009年12月12日〜22日の公演。
蔵織の蔵での深夜公演でかなりの寒さを覚悟していたが、床暖房
でぽかぽか。原氏と江尻さんが出ず、山本氏、小田島さん、そして
客演の逸見友哉氏。
面白かった。それぞれのよさが出ていたと思う。
「修学旅行の夜」のように、ありそうな光景を別の(引率教員の)
視点から見て、細かい言葉での笑いに、オチの意外性でもっていく
もの。「くつや」のようにどこか不条理で、しかも続編があるという
たのしさ。「飛び込み営業マン」のように、奇矯なキャラクターの強
さが引っ張るもの。コントは、ストーリーの紹介などが無意味なの
だが、しっかりきっちりおとすものも面白いけれど、ともかくすぽ
ーんとオチを投げっぱなしてしまう素っ頓狂さにもやられてしまう。
逸見氏は、じろりと横目で睨む眼力、そしてキャラクターのしっ
かりした作り方、間の取り方などがいい。真面目にやるから面白い
というのは、ユルさとブレがある意味持ち味の(失礼)ヤマモダンと
は違うけれども、この世界にフィットしてなかなか相性がよい。シ
ダジュン作品といい、ヤマモダンといい、適応能力の高い役者だな
と思う。異種のものをぶつけ合ってできる新しさ、これはヤマモダ
ンの公演タイトルにも感じるのだけれど、これは可能性だな。
ところで、確かにここでそんなに笑わなくても、というくらいに
客のノリがよかったけれど、いつもこうではないにしても客との幸
せな共犯関係があるのだなあと思った。これは初期の一発屋公演で
自分もしばしば感じたものですよ、ナカジマさん。そのうち、また
次の段階が来るでしょう。そのときどうしていくか、楽しみです。
[690](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:55 [削除]
[公演名] ペリクリーズ
[劇団名] KURITAカンパニー
2009年12月14日〜20日の公演。
gt.mooギャラリーでのKURITAカンパニー公演は、毎回空間処
理が楽しみだ。今回はスタジアム式に設えられた客席に対面する壁
に大きな地中海地域の手描き地図が掛けられ、物語の主要な舞台の
位置がよくわかるようになっている。自分はこの地域結構勉強して
るから(えへん)、なるほどと見ていたが、別にリアルな土地感覚は
必要ないのだ。辿ってみたら明らかに行動パターンおかしいし。当
時の客もそこら辺は適当に聞き流していたはず。でも、場所の変化
がわかっていい。両脇には題名や場面が示されるめくりもある。両
側の壁際には楽師の座と楽器が置かれている。キャストは登場して
いない場面では脇で楽を奏でる。吐息や掛け声。特にギタリスト荒
井氏のフラメンコ風ギターが全体のトーンを支配している。そして
中央奥には長机の上に6つの包みが置いてある。実は6つの被り物
が入っている。栗田氏演ずる中世の詩人ジョン・ガワーが、この6
つの被り物によって6種の人物を演じ分け狂言まわしとなる。これ
が実に見事。
アンタイオケの国王(栗田氏)が娘(町屋美咲)とのインセストを隠
蔽するため求婚者に謎を仕掛けては殺す中、タイア王ペリクリーズ
(河内大和)はその秘密を知り、命を狙われる。重臣へリケイナス(荒
井和真)に国を任せ、放浪の旅に。飢饉に苦しむターサスでは大量の
食料を施し、ペンタポリスでは騎士のトーナメント(中世的だなあ)
に飛び入りして優勝、王女タイーサ(山賀晴代)に見初められ結婚。
しかし祖国へ帰る途中、難産でタイーサは亡くなり、遺体を棺に入
れて流し、生まれた娘マリーナ(町屋)をターサスに預け、自らは沈
黙の中に閉じこもるペリクリーズ。しかしタイーサは流れ着いたエ
フェソスで医師セリモン(栗田)により息を吹き返し(!)女神ダイア
ナの巫女に。一方マリーナは美しく成長するがターサスの大守クリ
ーオン(栗田)、妻(永宝千晶)の妬みで殺されかかったところを海賊
にさらわれ(!)ミティリーニの売春宿に売り飛ばされる。しかし純
潔を保つマリーナの姿に、放蕩三昧だった大守ライシマカス(傳川光
留)は心を奪われる。そしてここに人との会話を断ったペリクリーズ
が訪れマリーナと出会い、さらにお告げに従いエフェソスのダイア
ナ神殿に詣でてタイーサと再会。大団円。
何という荒唐無稽で、ご都合主義で、ジェットコースタードラマ
な展開。でも、それを強引に納得させ、うるっとさせてしまう。こ
れはすごい。ギリシア演劇以来、極端な設定の中で現実の私たちに
通じるさまざまな経験や感情を揺り起こし、涙と笑いの中で浄化(カ
タルシス)を与える演劇の作用を、まさに体現している。また、演奏、
歌、踊り、殺陣、総合的エンターテイメントとしてとても楽しめた。
能楽堂から離れても、様式美というスタイルは一貫し、そこに小
劇場的な猥雑さをミックスしてくるあたりがそそられるのだが、こ
の振り幅が今後どうなっていくのか。次回の「喜劇」十二夜はその
意味でも興味津々。
[689](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:51 [削除]
[公演名] Spooky House
[劇団名] パラグラフ
2009年12月12〜13日の公演。
例によって12月に行われてきたパラグラフの公演にここ数年行く
ことができなかった。ちょうど忙しい時期なのでした。今回は多少
の無理をしても行こうと決意。後藤ひろひとのSpooky House、意
欲的な挑戦と思う。残ってきた人々。帰ってきた人。長く続ければ
こそ、さまざまなことがある。年齢的にも生活環境がいろいろな変
化をうけざるを得ないだろう。でも、続ければこそ経験できること
がある。
万代市民会館に、セットを作り上げることはいろんな難しさがあ
ると思う。今回、洋館の室内で上手に2階への階段、中央には大き
な額縁に当主(?)の肖像と暖炉、下手に出入口となかなか作り込ん
だセット。もちろん、りゅーとぴあで行われる中央の劇団のそれに
比べることはできないし、かなり粗が目立つことは確かだけれど、
階段があるとやはり展開に奥行きが出る。ホールとして、開放性が
高くなかなか暗い閉鎖空間を演出しにくいので、もっと暗さ怖さが
出てくると笑いも引き立つだろう。小道具など、大分頑張って作っ
てあるなあと思う。
謎の洋館に不法に住み着く異形の親子、ひろゆき・松本章嗣と妻
みづほ・池上亜矢、娘たま子・山形理奈。さすがにベテラン、松本
氏の情けないお化けっぽさ、池上さんの色気、山形さんの暴力的な
子どもなど各キャラクターをうまく作っている。いい意味で力が入
っていることをひしひし感じる。そこに撮影のため訪れるキャスタ
ーのマリ・鈴木華七(急遽助演)、ディレクターの星・小林将志、彼
らを案内してきた隣人沼田・田邉善和。特に田邉氏のキレた顔(目つ
き)がとてもいい。さらに、この館に隠された金を狙ってやってくる
淳二・岩谷桂吾と戸川・青瀬博樹、舞台での力強さが印象的な岩谷
氏、スリムな立ち姿が素敵な青瀬氏。ワルな小物キャラがよく出て
いる。調査に訪れる謎の男・小林素秋、もうなんというかその佇ま
いが唯一無比。彼らが繰り広げる、出たり入ったりのスラップステ
ィック。
話としてはまあアリガチ、いかに面白く見せるかは役者勝負。頑
張っていたなあ。芝居は、やりたいことと自分たちができることの
バランスが重要で、パラグラフはその点いつも自覚的だと思う。で
きるだけ、やりたいことの方向に近づけられるといいのだけれど。
ね。
[688](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:49 [削除]
[公演名] 雄弁な沈黙
[劇団名] 瞬Project
2009年12月5〜6日の公演。
砂丘館の蔵、そして大きな石彫作品を真ん中にした限られた空間
の中で、むしろそれを取り込んだ意欲的なパフォーマンス。
瞬Projectの前回公演は、畳の和室という滑りやすい、また天井
の低い中で、また蔵でと場所を移して行われた。女性と男性のせめ
ぎあいのような迫力とともに印象に強く残っている。今回は東海林
靖志と平原慎太郎2人。
ほの暗い蔵の空間に石彫が浮かびあがる中、静かに歩み入る男。
自らの身体に対するコンシャスネスを示す、執拗なセルフタッチ、
身体を打撃する音の響き、それはやがて空間の中で大きく激しい動
きになっていく。そしてもうひとり。動きを辿るように、そして反
するように、両者の動きは時にユニゾンで、時にぶつかり合い、支
えとなって、そしてほどける。ストーリー的な意味を読み込むこと
も可能なのかも知れないが、まずはその動きの地を這うような重心、
ゆっくりとした中から爆発的はじけるエナジィの放出などに眼を奪
われる。
無音から、ミニマルなノイズ、そしてやがてインド的な楽の響き、
イスラミックな詠唱へと音が変化していく。ここでも、確かに意味
と意図があることは感じるが、それを特に言葉で定義する必要を感
じない。味わい、ひたる。じわじわと、沁みてくる。
Noismで、金森氏から得たもの。それは確かなベースとして平原
氏の一部となっている。同時に、自らが感じつくり上げてきた世界、
自分なりの身体をもって世界と関わって行くそのやり方を、平原氏
は掴みつつある。しんとして、どこか暖かい。そんな世界観。
[687](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:48 [削除]
[公演名] 大人の中の大人、まずは男
[劇団名] 劇団第二黎明期
2009年12月3日〜13日の公演。
劇団第二黎明期の芝居に中央ヤマモダンの2人が出演した「スト
ックホルム〜」、そして今回は中央ヤマモダンの江尻晴夏の台本を劇
団第二黎明期のしっかりとしたキャストが演じる。いずれも異種格
闘技だから、多少の齟齬と同時に新しい化学反応の可能性がある。
どうなるか、と思ったが、江尻さんの台本が意外に(?)シュールさ
よりもちゃんと物語となっており、逆に演出面、高橋景子のかなり
異様なマネージャーの動きをはじめとするキャストのキャラクター
が発揮され、やはり黎明期の作品と成り得ていたと思う。
地方局のTVショーで、強気な女性キャスター・山崎真波と謎の
敏腕マネージャー・高橋景子に無茶振りされ翻弄されていく中で、
次第に独特の個性を発揮しはじめ全国区に抜擢される男性タレン
ト・佐藤正志。それぞれが役柄にフィットして、紙上の物語を立体
化していくスリリングさ。
一見傍若無人のキャラクターが、ふと見せる憂いや揺れ、そこで
示される感情の乗せ方、抑え方は黎明期ならではで、別のキャスト
でやれば当然ながら別の物語になるのだけれど、この作品には特に
それを感じる。1人変わっても別物だろう。ちょうど「大作家先生(う
ふ)」が来られていて、実に楽しそうに観ていたのが印象的だった。
あえて言えば、外部作家の作品でもこうして笑わせキュンとさせ
る作品はまだシダジュンのテリトリー。ここまでシダ世界にできる
のだから、もっとかけ離れた世界、完全にアウェーの作品だったら
どうなるのか、興味深い。まあ、まったく違う世界を観たいかどう
かはまた別の問題だけど。
[686](2009年作品について)
オトアン 2010/01/14(木) 13:47 [削除]
[公演名] 朝の鹿でドライブ
[劇団名] 劇団ハンニャーズ
すっかり遅くなりましたが、思い出しつつ年末までの公演につい
て書いていきます。
2009年11月21日〜28日の公演。時間は飛ぶように過ぎる。
具象絵画を丁寧に描いていた画家が、次第に抽象表現に移行して
いくのをしばしば見るけれど、そこに表現者としての必然を感じる
ことができれば、変わらず好きでいられる。ナンセンスだからこそ
緻密なストーリーを構築していた一発屋の芝居が、ある意味濃縮さ
れた形でハンニャーズのコント公演が行われてきた。キャラクター
の背後に、物語がある。1本ごとの濃さは、これが「劇団」のコン
トであることを再認識させる。
同時に、シュールでキャラが二次元的なものも時にスパイス的に
放り込まれてきた。ハンニャーズのコント作品には、それぞれ「ら
しさ」はあっても、未だ確定されたスタイルはないと言える。それ
は可能性と言い換えることもできる。こうくるだろうと予測される
ような、笑いに対する免疫耐性ができてしまったら、コントを純粋
に楽しみにくい。その点、いい意味で裏切られることは観客にとっ
て幸せだ。
オープニングの作品が、今回特に豪華ゲストの声で彩られて印象
的。遠藤麻里さんの声。トナカイさんの声。高橋景子さんの声。実
に効果的。きちんとしたラジオの文脈にすっと入り込む「しかもき
ました」のシュールさは、日常に侵入するナンセンスそのものだ。
ストーリーとして説明できない、コントの醍醐味。
「スター」らしきキャラのコマッちゃんの味は横山氏ならでは。
小出さんのピュアな女学生と何を考えているかわからない暴力的な
無表情の共存。山田氏の女装が気持ち悪いながらどんどん「先輩」
のキャラに惹かれていく。中嶋氏は何をやってもナカジマなのだけ
れど、常にテンションをあげて一役者として真摯だ。ラストの「応
援」ネタは、どこかインスタント○ョンソンのネタを彷彿としたが、
歌もネタも中嶋氏の関心空間がよくわかる作り。下ネタも入りつつ、
ある意味王道的。
一番短くて、ピリッと利いていた5本目、とてもよかった。膨ら
ませていくより削いでいく作り方は難しいだろうけど、こういうも
のを差し込んでテンポを変えて行く、全体構成を通して1つの作品
にしていくことは作り方として自分は好きだ。雑多なネタの寄せ集
めも場合によってはアリだけれど、見終わってなるほど、と言いた
いじゃないですか、ワガママな客としてはね。
[671] オトアン 2009/09/09(水) 12:53 [削除]
[公演名] マクベス [劇団名] KURITAカンパニー
栗田氏が関わっている作品には全て氏のしるし、あるいは匂い
がある。とはいえ、りゅーとぴあ能楽堂シリーズ、KURITAカンパ
ニーとしての劇場、スタジオ、gt.mooギャラリー公演、それぞれに
表現するテーマや方法論が違っている。同じ戯曲でもアプローチが
違う。それは素晴らしいと思う。
前回のgt.mooでは、リア王・栗田氏が舞台中央奥の机の上にい
て、他のキャストは机の周りで、その外周にはコロスである演奏者
たちという同心円構造が独創的だった。ギャラリーの何もない空間、
能楽堂よりは自由に使える、そこで敢えて演技エリアを限定する方
法。
ネタバレになるがご容赦。
今回は、舞台空間の中央に椅子3脚で囲われた橙色の灯があり、そ
の外側に椅子9脚を鎖で繋いだ環がある。それのみのセット。受付
から、演技者が黒づくめの衣装で、すでに妖しい雰囲気が漂うのは
少しテント芝居のよう。そして下手前のソファには栗田氏が横たわ
っている。そこから始まるのかと思えば、おもむろに立ち上がりゆ
っくり出て行く。荒井氏、そして山賀さんの口上。内側の円は生者、
外側の円は死者の世界。そしてこれは魔女の大釜であり、その中で
マクベス、夫人、バンクォーの三人にスポットをあて、外からの働
きかけに対して反応するその心情が炙り出されて行く。簡単にそう
いう説明があったのは客への配慮だと思うが、観て納得。テキスト
はレジュームされ、三人に焦点を当てている。ある意味心理劇であ
る。
演技空間は内側の小さな環の中に限定され、その中で三人が入れ
替わりながら、外の世界と対話しながら進められる。彼らの苦悩や
逡巡、そして死でさえ、大釜の中の出来事なのだ。生贄として煮ら
れた三人の魂は、破壊を経て浄化されて行く。そのため極度に抽象
化された舞台が必要なのであり、具体的な時間空間を超えた、スト
ーリーのエキス、主要人物の心象が浮き彫りにされて行く。 全身、
手袋まで黒い衣装の三人、そしてフードとベールで顔まで覆ったコ
ロス。そして中央の仄暗い橙の灯りだけの照明。限られた光量だが、
身体の位置で下から照らされ、横から照らされ、あるいは背後に回
るとシルエットになる。見えにくいことが実に効果的。くどくどし
い場の説明がなくても、小道具がなくても、芝居の表現はこんなに
広く深い。こんな狭い空間が、身を翻すだけで鬱蒼とした森の中、
王宮、マクベス邸、どこにでもなる。1枚の布切れが灯りを覆い、
手紙になり、短剣になる。この洗練された様式美は、異質ながら能
などの方法論に通ずるものがある。それを支えているのは栗田氏、
山賀さん、荒井氏のしっかりとした演技であることは言うまでもな
い。
言葉や上辺で忠義と友愛を表しながら、内側では野心と欲望が渦
巻く。マクベスも、夫人も、バンクォーも、清らかな心の持ち主で
はない。しかし同時に、その悪は理解や共感を超えたものではなく、
運命に弄ばれる中で我々の誰にでも起こりうる悲劇であること、観
ている者の鏡像がなにがしかそこにある。そして破滅の中でむしろ
生の世界から外に出てくる彼らの顔が安らかに浄化されていく姿に
は一抹の救いが見える。
この大釜を煮て運命の輪を回し、物語を導く魔女たちコロスの様
式的な動きと役柄に合わせ変転する台詞回しは見事。登場人物とと
もに列をなし場から立ち去っていく大団円。終演後ベールをとった
彼女たちの晴れやかな美しい顔がまた印象的。この場でのみできる
貴重な体験だ。
[670] オトアン 2009/09/05(土) 21:01 [削除]
[公演名] 犬を救急車に乗せろ [劇団名] ちず屋の二階大行進09
高校演劇を四本見た。
少し、うるっとしたり、首を傾げたり、終わってみると何だかもっ
と見たくなって、上越から帰る途中に思い立って電話を入れ、一気
にちず屋へと駆け込んだ。
すでに見ていると面白さが減る場合もあるけれど、むしろディテー
ルが見えて面白くなる芝居もあり、そういうものは何度でも見たい。
多少無理しても、見てよかったと思える芝居に出会えることは幸せ
だ。
実際、毎回芝居は違う。視線ひとつ、息遣いひとつ、台詞の発語や
間ひとつで大きく変わる。まさに、芝居は生モノだ。
限られた空間と装置だが、SSやストロボなどが有効に使われ、下手
に劇場で見るものより充実している。
クラシック、特にポピュラーなものを要所に使い、これが人類、我々、
の文明をある意味代表するものとなっている。未来の異種生命体を
通した、文明論であり、しかしそういった大上段の意味性はテーマ
ではなくて、社会地位的上下関係や恋愛・生殖関係などの人類にあま
ねく見られるものが、時を(一兆年だろうが)遥かに隔ててなお見ら
れること、そこから婉曲的に見ることで相対化してみる我々の姿、
などを考えるのだけれど、実は見ている時は男優たちの表情をにや
にやと楽しんでいるだけなのだ。
奇矯な掛け声や合図など、異種性がより強調されていた。
改めて、それぞれ異質なのに、いい役者だなあ。好きだなあ。その
良さを、シダさんがよく引き出しているなあ。
単なるミーハーなファン化しているな。
[669] オトアン 2009/08/31(月) 21:32 [削除]
[公演名] 犬を救急車に乗せろ [劇団名] ちず屋の2階大行進'09
初演のことを思い出そうと、自分の旧1ページレヴューを見直
してみた([215][216]です)。ああ、2005年だったのだ。ああ、素
敵な面子だった。内容については結構かぶるため(1兆年前という
とんでもない台詞があったが、基本は一緒)、同じことは書かないよ
うにしたい。
見た目は我々と同じ、言葉も、どうやらボキャブラリーも、あま
り我々と変わらないのに、未来の、そして性が周期的変化するらし
い生命体。我々の文明の遺跡たる、普通の家屋とその内容物を調査
中。同じ設定の同じ芝居なのだが、女性がやるバージョンと男性が
やるバージョンでこうも印象が違うものかと感銘を受けた。これは
自分のバイアス、偏見から来るものかも知れないけれど、学術調査
という仕事を行う役人たちの生態ではあるが、女性の姿で演じられ
ると、どこか仕事の生臭い感じがなくて、学術研究的な印象が強い
し、男性の姿で演じられると、仕事の悲哀やペーソスのようなもの
が前面に出てくるように思う。小役人としての融通の利かなさや、
目上の人間に対する卑屈さ、目下の人間に対する横柄さ、これがま
さにサラリーマン的だったり公務員的だったりする「働くおじさん」
の姿としてリアルなのだ。初演の不思議な感じも面白かったし、異
質の生命体らしい説得力が出たが、今回の男優によるバージョンは
むしろ身近な感じでまた別の味わいがある。
胸式の呟くような感情を乗せない台詞回し、ポーカーフェイスと
いったシダ演出がきちんと呑み込まれており、独特のおかしさを醸
し出す。登場順に、計測の水柿(横山泰之)、小役人甘柿(逸見友哉)、
言語学の花柿(本間智)、生物学の黒柿(こばや☆ス)、それぞれの
キャラクタが濃く、かつそれぞれの役にピッタリはまっている。「繁
殖期」に入った甘柿=逸見氏の妖しい視線は、ちょっと篠井英介の
ようでもあった。花柿=本間氏の顔とおネエ言葉は、ちょっと可愛
らしかった。水柿=横山氏のちょっとやな感じ(笑)は彼一流。黒
柿=こばや☆スの、意外な大きさに似合わないウブな感じ、上気し
た顔で一点を見つめるやばい感じなど、それぞれキャラが立ってい
てとても面白かった。「サバ」という掛け声にはまった。久しぶりに
笑顔で芝居を見たなあ。とてもよかった。
[668] すてU 2009/08/29(土) 21:56 [削除]
[公演名] 陪審員 [劇団名] 演劇製作集団アンカー・ワークスセ
ルフプロデュース
話を引っ張る渡辺建の個性的なキャラクターに、最初心配したが、
冗長すぎることなく、よくやっていたと思う。
それと、やはり劇団空志童の今井明やフリー(?)の平田誠市、斉
藤陽一らの年相応の味を自然に感じさせるいい役者がまわりを固め
ていたのもいい。
ワンシチュエーションで時間の経過とともに変化する登場人物の心
の変化がこの芝居の醍醐味だと思う。ややもすると、それぞれの個
性が独りよがりに空回りするところを、うまいこと役者個々が盛り
上げあって、最後まで気を抜くことなく作り上げている感じが伝わ
ってきた。
[665] オトアン 2009/07/22(水) 14:46 [削除]
[公演名] 見上げれば青い空 [劇団名] 劇団 共振劇場
劇団共振劇場。強震でも狂信でもなく(笑)。そういう固さとは縁
のない、柔らかい共感や心の襞をいとおしむ感覚。主宰・田村和也
氏の原体験をベースに、地方都市に生きる市井の人々の何気ない日
常を掬い取って見せる、という面では、「静かな演劇」的なのだけれ
ど、ただある時間をそのまま切り出して、というものとは少し違う。
ごく日常的な台詞の中に、実はかなりメッセージ性が潜ませてあっ
たり、「結」に向けてなだらかながらドラマが展開していく。大都市
でもなく、村落でもなく、中規模の地方都市という設定、そして昭
和から平成への変遷を見てきた世代、そうした作者の身の回り感覚
を土台にしている点で、「あるある」と思える層には自ずと共感を生
むだろうが、何となくわかる人もいればあまりイメージがわかない
人もいるだろう。しかし、同じ環境を経験していなくても何らかの
形で響き通じるところがある、という信念が見える。
内容ネタバレ。
ある古い家のつぼ庭にやってきた姉妹、中村順子(大作綾)と中村
晶子(大港摩弥)。会話の中から、姉妹が幼い頃両親が離婚し、母の
持ち家なのだが父と姉妹が住ませてもらうことになって、父が亡く
なり姉妹も成長して自立しているため家を返すことになり、その整
理をしに来たことがわかる。高校の芸術教師である順子は両親の諍
いを聞きながら心痛めていた経験から、未だに母親を「あのひと」
と呼ぶ。介護士をしているらしい晶子は、それに少しひっかかりを
感じながら、後輩の介護士・田中真由美(小山はなえ)、同僚の妹で
大学生の木山宏美(川上智栄)を手伝いに呼んでいる。この四人が、
入れ替わりながらこのつぼ庭で椅子に腰掛け繰り広げる会話劇。目
的の蔵を片付けるという行為はあまりなく、仕事前や中休みでの庭
での光景なのだが、これで80分引っ張るのは少し冗長か。短くし
てもいいし、何かイベントを持ってくることもありでは。
会話の中で、それぞれの性格や現在の生活、考え方、そして互い
の関係性などが描かれていく。多少説明的かな、もっと情報量を抑
えても構わないなとは思うけれど、流石の筆。これは年齢や職業な
どの設定が役者本人にとても近いことが一因で、当て書きかなと思
うが、それ以上に、自然な会話を心がけていることが見える。この、
見える、というところが見えなくなるとさらに素晴らしい。自分に
近いキャラクタでも、本人とは違う皮膜があるわけで、ただ自分自
身で舞台に立つわけではない。役を着ているのだ。しかしその着用
感、着ているのに着ていないように見せることができるといい。
大作綾は、本人を知る人はそのまんまだと思うであろう自然さだ
が、しかし自分と役柄との区別が恐らく意識的にできている。高校
演劇出身の3人が、ナチュラルさを表現する上で、高校時代とは違
った苦労があっただろうことは想像できる。田村氏の薫陶を受けた
2人はその利点もあるだろう。特に大港摩弥は共振劇場に関わって
もう大分経つが、今回自分とは違う晶子をナチュラルに造り出して
いて見事だった。小山はなえは少し大人になって、しっかりしてい
るけどかわいらしさのある真由美になっていた。余計なことだが、
みな「いいひと」になってしまってるなあ、もしフックを作るなら、
真由美をもっと今どきのギャルにして少し違和感や葛藤を生み出す
という作劇もあるかな、と思った。人の意見に反発するキャラがい
ないのは弱い。川上智栄は、少し超然とした、感情の起伏があまり
見えない宏美を表現していた。今彼女の中ではかなり感情を出した
んだろうな、だけどあまり無理しなくていいのに、というところも
あったが、ナチュラルにやろうという意気込みが逆にそれを阻害す
るジレンマは、回数を重ねてこそ処理できる。
多分普通の会話って、話を聞いてそんなにまじめに考え込んだり
反応したりしないよ。ラストの方でみんながあえて明るく話題を変
えたように、あまり深刻にしないような意識がどこか働いて、会話
の重さを減ずるようになっているはず。
庭のピンポイントにできる日だまりを見つめて、その中で遊ぶ子
どもたちがやがてその外で見つめる立場になり、という時の移り変
わりが語られる。これが肝。かなりがっちり見せていたが、サラリ
と印象的にできると一番いいと思う。
セットはよく作られていた。下手側の戸は、開いて何か使われる
かと期待したがよく見ると嵌め殺し。ならば、客席に対して台形状
に開いたこの舞台、もっと四角く切って、視界を制限していいので
はないか。下手に角度をつけるなら、上手はそれに平行させて、壁
面を見せなくていいと思うし、客席に対して直角のセットもありだ
と思う。椅子が台形に客席側に開いているのが、特に四人で話すと
き不自然なのだ。また、埃でむせるなら、確かに演技で見せるのが
王道だが、粉を振っておくのもありだし、椅子その他ももっと汚し
ていい。週末はりゅーとぴあで。
[664] オトアン 2009/07/13(月) 16:25 [削除]
[公演名] ぼくのわたしのブリタニカ [劇団名] 中央ヤマモダン
中央ヤマモダン結成5年なのですね。おめでとうございます。
初期、ちず屋の2階とかから見ているコアなお客様たちに比べたら、
実際ちゃんと見るようになったのはいつ頃からかなあと、自らを省
みるのです。今回、およそ150本のコントから25本をセレクトし
て50音順で紹介というやたら5の倍数が目立つ企画、思いついた
ものを実行に移すことはどれだけ大変かと、お察し申し上げるので
す。皆さんが苦しむ分、こちらは楽しませていただいている。経済
的・時間的犠牲を払ってくださり、提供される笑い、パフォーマン
スを、有り難くも軽々しくいただいています。メンバー自ら受付に
立ち、しかるのち上演という手作り感溢れる感じがワタミチには合
います。コンプリートまであと1公演なのですが、もう、書いちゃ
います。すいとう。えっと、すきです。くだらないことを、得にな
らないことを、誰に強制されることもなくやっているひとたちはす
きですが、特に中央ヤマモダンはその飄々たる佇まいがキュートで
す。
各公演、一応のテーマらしきものが見えたりしますが、今回はバ
ラなので、コンセプトが前面に出てはいません。前に見たのとは別
の文脈で、独立して見ることになり、ネタの強度がより明らかにな
ります。上演前の映像、繰り返し見ていますが、やはり面白いです。
そして、各回、前説しながらプロジェクタを片付けた後、黒マント
に身を包み、辞書を手にニヤニヤしながらメンバーが並び、明かり
を明滅させる脱力のオープニング(笑)。ニヤニヤします。
各ネタについて語るのは、ネタバレにもなるし書きにくいのです
が、作者名を見ると「ああ、やっぱり」という感じがあって、やは
り個性があるのね、と思います。一方で、アナーキーさがより強か
った時期のナンセンスさ、そしてワンアイディアじゃんという安易
(に見える)ネタもあれば、よく寝られているなあというネタもある。
ただそれはあくまでも印象なので、実際は逆だったりもするのでし
ょう。そして、ネタそのものというより、やはりメンバーの個性が
あってこそ成り立つものが多いことを改めて思いました。タイトル
があって、面白さが引き立つものも多いです。「参観日」や「前の方
がよかった」など、特に奇矯な設定でなくともシチュエーションそ
のものが面白いという王道もの、「蚊帳」「商店街の魚屋さん」のよ
うにシュールな世界など、いろいろなタイプがあります。
「ナイルの鼓動」は、ent.でも笑ったのだけれど、ワタミチバー
ジョンもまた別の面白さがありました。こちらには見えないあるル
ールに基づいて行われるその法則性を考えるというのは、ひとつの
型ですが、アドリブまで計算されていて、とにかく面白いですね。
「アトピーの先生」とか「被り山さん」のように、あるパターンに
基づく繰り返しも、わかっていてもおかしい。「かつ丼」は「前衛的
コント」(笑)として、「救急医療の現場」はシュールなリアルさが面
白い。きっちり落ちをつける、強度があるもの、何となく終わって
いくものなど、統一感のなさが、笑いどころを絞れなくしてはいる
のだけれど、そこが魅力でもあるのかな。
寂しい夜、遅い時間にも関わらず、ワタミチに明かりがともり、
ひとがいて、「開いててよかった」と思う経験を、何度かさせていた
だいて、嬉しいです。あったまつきぬけて、益々のご発展を。
[662] オトアン 2009/07/13(月) 13:11 [削除]
[公演名] ダンシングトリップベイベー★
蔵織で行われた「ダンシングトリップベイベー」は、各日内容
が異なっているのであくまでも一面的な感想しか書けないのだけれ
ど、まずは面白かった。ここまでちゃんとできていると思っていな
かったので、ある意味ナメてたなあと反省した。何でもそうだけど、
たかを括って見ないよりは、見てがっかりする方がいい。そしてが
っかりしないで感動できたら、素晴らしいぢゃないでつか。
受付が済み玄関脇の和室で造形大特設N美術部の絵を見ながら開
演を待つ。蝶ネクタイの案内人が、まずは奥の蔵1階へ導く。渋谷
陽菜「Line」。奥でメイクボックスに向かい化粧をする女の子、し
かしその顔にはけばけばしい面をつけ、手足は縛られている。そし
て半袖体操着にブルマ(アンスコ)という、「萌え」的な(いや僕は特
に・・・汗)装い。ラジオ体操の音に合わせ、拘束され限られた身体自
由度で必死に踊る姿は、滑稽なようでいてまた我々の写し身である。
このアイディアそのものが、コンテンポラリー的だなあと思ってい
ると、今度は鋏で拘束を断ち切り、次第に激しく踊り出す。自らの
腕を、脚を、手で叩く音が響き、肌は赤く色づいていく。それは痛々
しくも艶めかしい。やがて面がとれる、が、後ろ向きで最後まで顔
は曝されない。渋谷嬢自身はかわいらしいお顔なのだが、この面は
ある意味素顔以上に雄弁で、そして顔が見えないことはとても効果
的だったと思う。
続いて前の和室に。すると、ライトアップされた西堀の柳を背景
に、水着の上に羽織っただけの露出度でnama(YUPPE&NOPPU)が、
ウインドウを額縁のようにして踊り始める。「えろはす」。水をかけ
られながら、サマーな雰囲気満載、ドライバーは驚いただろう。や
がて室内へ、濡れた身体で「いろはす(笑)」を飲みながら、喘ぐ。
絡む。目の前数十センチのどきどき。そのまま部屋奥の喫茶室へ、
死角に入っていくのだが、相変わらず「あは〜んうふ〜ん」の声が
響く。制限された視野から覗く光景はしかしあっけらかんと明るく、
爽やかなえろである。カバーオール?を身につけ、ドレミ音階のシ
ーケンスをバックに絡まりながらゆっくりと踊る動きは美しい。
次に蔵2階でN美術部によるライブペインティング「街遊美」。2
人の女子が蔵に張られたブルーシートを切り裂いていくと、その奥
にはビニールで覆われた壁面にペンキを塗りたくる女子。顔を見合
わせ、3人でぶつかり合いながらそれぞれの色と形を壊し合いなが
ら塗り込めていく。背景には学生たちの取り留めない(ガールズ)ト
ーク。こころの世界=まちが変化していく。もうひとつ、描き出さ
れていくものにカタルシスというか、意味性を求めてしまうのはワ
ガママかな?
休憩で美術作品を味わった後、蔵1階で劇団かにづくし(仮)の
「Bolebole」。3脚の椅子、そして黒いパフューム(笑)のような3人
が、ラベルのボレロに合わせて動き始める。選曲からしてイカにも
じゃん、と思ったが、なかなかどうして、実は一番しっかりコンテ
ンポラリーダンスっぽかった。身体の使い方が、これはバレエかダ
ンスをやった人だな、という感じ。ボレロを正面からやって、物真
似にしないのはそうできることではないし、その勇気に拍手。三者
の葛藤がよく表現されていた。ちらっと、どこかで見たような動き
もあって、なまじしっかりしているだけに既視感というか、オリジ
ナリティという点でもっと行けると思うのだけれど、力作。
終演後、出演者の手料理を囲んでの談笑がアットホームで楽しかっ
た。ゴチになりました。
[661] オトアン 2009/07/13(月) 13:08 [削除]
[公演名] テンペスト [劇団名] りゅーとぴあ能楽堂シェイクス
ピアシリーズ
以前、KURITAカンパニー・ヴァージョンのテンペストをスタ
ジオで見た時のレビューを書いたけれど、カジュアルな服装でかな
り喜劇的要素も多く、意外な面白さを楽しんだ。今回はりゅーとぴ
あ能楽堂シリーズで客演もあり、それなりの格式のようなものが強
調されるだろうと思ったが、実際そうだった。能楽堂、客演、時広
氏衣装、力(金)の入りようが違うのだろうけれど、これはこれとし
て、KURTAカンパニーのよさもまたある。
こうしてみると、KURIカン版はかなり台詞もアブリッジされて
いたのだなあと思う。ナポリ王の船が難破するところから、プロス
ペローがミランダに来歴を語る説明的な部分、そしてエアリエルと
の会話など、多少冗漫な感じがあるけれど、正面から行っているな
あと思う。プロスペローの語りで、時の流れの重さを感じるものの、
実は難船から大団円まで、一日いや数時間という短い間の出来事。
恨みと復讐のテンペスト(嵐)が、静まってやがて大きな赦しのゆる
やかな波動となる。これはプロスペロー自身の心の中を表すもので
もあるだろう。
イタリア人の口を通して語られるアフリカ人へのあからさまな差
別意識。魔法使いの子、異形のキャリバンに対しても差別的言辞が
なされる。時代的な制約はあるだろうが、キャリバンの造形がより
厭わしいものになっていることである程度説得力を持つ。プロスペ
ローのエアリエルに対する言動も、居丈高であるかと思えば後半は
いとおしさを滲ませ、エアリエルも使役するプロスペローに不平を
漏らしながらやがて清らかな佇まいを見せる。一見、整合性の乏し
さが目立つのだけれど、それをあまり意識させない作劇はやはり流
石。
4人の女性が、TEMPESTと記された本を掲げながらゆるやかに
動き語ることでエアリアル(と配下の妖精)を表現する。摺り足の滑
らかな動きは素晴らしい。そして、能面をつけた能楽者・津村禮次
郎によるエアリエルの現前。人外のものの表現として、面白いと思
う。また面をつけながらの謡い、その動きに魅了される。質の高い
芸能の力。これは能のテクニックを使いながらもそのものではなく、
あくまでもテンペストのために構築されたものだ。ただ、一方で、
トリックスタアとしてのかろみが薄くなった気がする。ちょっとゲ
イジュツテキになってしまった。
父とキャリバン以外を知らずに育った無垢な娘ミランダ。山賀晴
代は、美しい。能面というハンデを負いながら、傳川光留はナポリ
王子ファーディナンドを好演。また面(若男?)がいい表情を見せる。
あまりに簡単なボーイミーツガールのイエス、フォーリンラヴには
苦笑だが、このふたりはいいや、許す(笑)。
ゴンザーロー小池匡は、ある意味何を演ってもこのひとらしい、
人のよさがある。ついでに言えば小物感?があって、重厚な老臣と
いう感じではない。
河内大和は、いやらしいキャリバンと欲に揺れるナポリ王弟セバ
スチャンを見事に演じ分ける。荒井和真も、ナポリ王アロンゾーの
威厳と悲嘆、そして道化トリンキュローのとぼけた感じをしっかり
演じ分ける。客演の廣田高志もまた賄い方ステファノーとプロスペ
ロー追放の黒幕、腹黒い弟アントーニオを演じ分けて流石。彼らの
軽妙な掛け合いは、一番の笑いどころだった。
特に、プロスペローが一同を赦すラスト、視線を合わせてやがて
去っていくアントーニオには、悔恨と自省を見せながらも、単純に
謝罪するわけではない心の揺れが見られて、深みがある。演出の力
でもあろう。
そしてプロスペロー栗田芳宏。邪悪な顔、傷心、諦観、実に味の
ある表情は実に素晴らしい。この芝居に深みを与える最大の要素。
絶対仲良くなれないだろうけど(失礼)、敬意を抱く。
ことさらに客に迎合してわかりやすくしなくても、シェイクスピ
アは面白い、という信念が感じられ、また実際楽しんだ。もっと気
楽でいいとは思うのだけれどね。
[658] オトアン 2009/06/29(月) 17:04 [削除]
[公演名] 今度の終末 [劇団名] 劇団カタコンベ
カタコンベの新作チラシを見て、若手、しかも初の顔ぶれが多
いことに多少の危惧を抱いた。流れとしては、わかるのだけれど、
果たして現在カタコンベの方向性で若者たちがどこまで対応できる
のか、下手をするととんでもなくつまらないものになってしまうの
ではないか。
実際に舞台を観て、演「技」の力量には確かに個人差があるのだけ
れど、それぞれが舞台上で生きているという点で、芝居が成立して
いたことにまず感銘を受けた。例えば、冒頭の男子モブシーンでの
騒ぐ姿は、内輪にだけ通じるジャルゴンで喋り自分たちだけで盛り
上がる(演劇部やアニメ系によく見られる)姿で、非常に危ういとこ
ろでもあるのだが、そのはたから見ていてイタいところも、手を処
理できない立ち方も含めて、等身大の彼ら自身だ。あまり等身大と
いうことを強調すると、勘違いする人がいるけれど、それは「素」
なのではない。どの程度それができていたかといえば、途上だと思
う。しかし、方向性は間違っていない。
その要因のひとつは、戸中井三太を含め、役者がすべて実名で舞台
に上がっていることだ。もちろん名前など記号に過ぎないし、台本
での表記はカタカナで、生身の役者自身ではないことは確かだし、
もしそうだったら芝居にならない。しかし、これが「役名は役者各
自の名に準ずる」と書かれているのではなく、きっちりその役者の
年齢、性別、顔、身体、声、性質などを踏まえて、その役者だから
こそ成り立つキャラクタが(恐らくアテ書きで)、作られていること
は、意味が大きい。役者は、自分自身の存在をもって、もうひとり
の自分として舞台の上で「在る」ことを求められる。自分の名で呼
びかけられることで役者の中に生じるある種の感情。それが芝居に
独特の雰囲気を与えている。
非常に削ぎ落とされた台本、しかし舞台に乗せられたものの豊穣
さは、文字では捉えきれない。カタコンベらしい長い暗転のたびに、
じっと眼を閉じる。各場、淡々とした中にも、目の離せない緊張感
があるので、この暗闇は自分にとって必要なインタバルだ。
ネタバレ。
「ハテ」と呼ばれる、科学者も理解できない「無」が2001年に
現れ、その中に世界が少しずつ飲み込まれて消えていく、そんなも
う一つの2009年。じわじわと迫る終末に社会も人の心も荒廃して
いく中、「逝く」、すなわち他人の顔が読めず没コミュニケーション
となる人が出てくる。イメージ的には、フランシス・ベーコンの絵
のような顔になるのだろうか。こちら側からも、逝った側からも。
その前には、人に聴こえない音の幽霊や、人に見えない幽霊を感知
するという前兆がある。ただ、それが即「逝く」ことに繋がるわけ
ではない。漠然とした不安を抱えながら生きていかざるを得ない
人々の、それでも普通であろうとする日常。
「逝った」人は死なない、という事実が明かされ、それについて
「じゃあもう死んでるのと同じだ」という言葉が語られる。死んだ
ものはもう死なないという現実、死んだものとはコミュニケーショ
ンがとれないという現実。しかし、それでも実際周りに存在してい
る。この死生観には考えさせられる。
互いの関係性が詳細に説明されることはない。しかし、ソウとか
つてつき合っていたシズカが、今ソウとつき合っているミドリと出
会うシーンなど、心情のディテールが読み取れる丁寧な芝居となっ
ている。シズカが姉の死を認める場面やアイエのマサトに対する感
情など、女性たちの気持ちにシンクロしてしまい、何度か涙腺を刺
激された。
個人的な話になるが、基本的にレビューは年齢や性別に関わらな
いニュートラルな立場で書いてきた。でも今回、大学に入った頃ま
だ学生だったカタコンベに出会い、芝居を見始め、現在に至る昭和
生まれのひとりの男として、自らの在り方を問われるような、そう
いう芝居だったと感じる。
[657] オトアン 2009/06/29(月) 17:03 [削除]
[公演名] ストックホルムシンドローム症候群 [劇団名] 劇団第
二黎明期プロデュース公演
今年前半、面白い芝居がいろいろあったけれど、なかなかレビ
ューを書けなかった。これは芝居の問題ではなく自分の個人的な事
情による。リハビリ(?)をかねて、ちょっとづつ。遅ればせながら。
自分は、黎明期の初演「ストックホルムシンドローム症候群」を
面白く観たのだが、今回は中央ヤマモダンの男子2人ということで、
コント寄りになるだろうなあと思っていた。確かに、ネタ的なもの
が数多くて、ある意味コントだったが、思った以上にしっかり芝居
が成立していて、ヤマモダンの山本・原氏の真摯な取り組みに好感
を持った。笑いの取り方は、自分のフィールドに持って行くのだが、
しかし芝居の流れの中で、台本を崩さないように配慮している。制
約を取っ払えば、それはもう中央ヤマモダンの世界になってしまう
ので、そのせめぎ合いが新しいものを産み出すのだ。その新しいも
のが、はっきりと現れたわけではないが、可能性を垣間見たと感じ
る。
こちらから観ると見た目悪くない(原氏だけに)、けれどどこか勘
違い野郎でもてない男(原範和)。そこに登場する、さまざまな依頼
に応え、時に非合法なことにも手を染める得体の知れない猫の手ブ
ラザーズの男(山本康司)。手っ取り早く配偶者をゲットするために、
男が提案したのは、そこそこの家の令嬢を誘拐し、監禁する中で、
次第に被害者が加害者との共棲に慣れていわば調教され、シンパシ
ーを感じ共犯意識を持つ傾向、すなわちストックホルムシンドロー
ムを利用するということ。法を犯すことを辞さない男の言葉に、最
初は戸惑い気味で、拉致した女の子におそるおそる接していた男だ
が、結局失敗に終わった後、味をしめたのか次第にストックホルム
シンドローム作戦にのめり込んでいく、その静かな狂気。そして、
それをまた上回る計画を着々行っている男。
笑いながらも、底の知れない、何を考えているかわからない、そ
んな人間の感情にヒヤリとする。コント畑の2人は、芝居のキャラ
クタ造形とは違って、その人物の生い立ちや背景を自ら作り上げ客
に感じさせる、奥行きのある人物造形をしない(、と勝手に思ってい
る)のだが、それがこの芝居には逆に合う気がする。高橋景子の、さ
まざまなことを感じさせながらも心の深奥を薄いヴェールで包んだ
ように見せないやり方とはまた違うアプローチながら、この一種コ
ント的なあり方が、むしろ寓話的にこのストーリーに普遍性を与え
ているように思う。
ただ、これをやったことで山本・原氏は、恐らくホームであるヤ
マモダンへの思いをまた強くしたのではないか。な。
[637] すてU 2009/05/30(土) 10:02 [削除]
[公演名] ストックホルムシンドローム症候群 [劇団名] 劇団第
二黎明期(プロデュース)
黎明期以外のいろんな役者さんを舞台にあげて見事に黎明期の舞
台をつくってきたシダさん。
今回は出てくる役者さんが全員(といっても2名ですが),中央ヤマ
モダンというコント集団(?)の一癖も二癖もありそうなコント師
(こんな呼び方でいいのかどうかわからないけど)。それに台本は以
前黎明期でやった非常に黎明期らしい(と私は思う)「ストックホル
ムシンドローム症候群」だ。もう、見る前から面白いと思わせる企
画。さすが黎明期。
で、舞台をみてきました。
以前黎明期でやったシダ×佐藤バージョンの「ストックホルムシン
ドローム症候群」は演じる役者に導かれるストーリーとストーリー
から浮き上がる役者の表現とかひどく合点がいったのだが、今回の
山本×原バージョンのは見終わってから小首を傾げる自分がいる。
これはなんだったのか?
中央ヤマモダンの2人は非常に多彩で魅力的。もちろんシダさんの
この本は魅力的。なのに?なにかが腑に落ちない。
おそらく私は無意識のうちに以前のストーリーを追っていたのかも
しれない。まずそれが間違いだった。
本は変わってなかったけど、設定が変わっていた。だから、ストー
リーが変わっていたのだ。
そりゃそうか。役者がちがうんだ。今回の舞台で以前のストーリー
を追っていたら、そりゃつじつま合わなくなる。
ただ、これは言い訳だが、目の前に繰り広げられるアレヤコレヤが
多彩すぎた(?そんな言い訳あるのか?)ために、ストーリーを追
い切れず、以前のストーリーを引っ張りだしてきて、自分を納得さ
せようとしていた部分がある。今回のストーリーをもっと感じた
い!というところが多少欲求不満として残ってしまったのは否めな
い。
とはいえ、ほぼ出ずっぱりの役者としての舞台は多分初であろうと
思われる中央ヤマモダンの2人の舞台での立ち姿は非常に自然(お
そらく緊張はしていたと思う)。中央ヤマモダンのコント師として場
数を踏んでいる2人だから、当たり前といえば当たり前だが、舞台
上で自然体で演じることは非常に難しいことだ。下手な役者よりず
っと自然体でなおかつ多彩。一瞬一瞬の面白さは格別。
以前黎明期の「ストックホルムシンドローム症候群」を見た方は是
非見てその違いを実感してほしいところだけど、初めてみる方のこ
の舞台の感想を是非お聞きしたいところです。
[610] すて 2009/03/25(水) 18:43 [削除]
[公演名] 夏の夜の夢 [劇団名] りゅーとぴあ演劇スタジオキッ
ズコース APRICOT
遅くなりましたが、少し感じることがあり書き込みさせて頂きま
す。
アプリコットは何度か観て、その作品の出来上がりに驚き、感動し
ていました。
しかし、今回観て(あれ?)と感じました。思わずDVDを買って
前の作品を見直してしまいました。
今回の「夏の夜の夢」を観て感じたことは、
一つ目。アプリコットの子達はこんなに滑舌悪かったでしょうか?
今回は結構気になりました。
二つ目。歌が、なんというか芝居の流れとなじんでないというか…?
歌のたびにちょっと流れが切れる様な、歌は歌、芝居は芝居みたい
なかんじを受けてしまいました。
そして、やっぱり子供達でシェイクスピアは難しいかな、という印
象を受けてしまいました。
…なんだかちょっと芝居が浅い感じというのでしょうか。相手の言
葉を受け取れていなくて、自分のセリフを投げっぱなしな感じで…。
良い作品になってたとは思いますが。全体として今まで観た物より
少し物足りない感じを受けてしまいました。
観る側の私の観る目が厳しくなったのかも知れません。アプリコッ
トを観る時にある程度の出来上がりを期待して行くようになったの
でしょう。確かにこれだけの作品を作れる子供達というのはそうは
いないように思います。実際DVDを見直しても厳しい見方をしな
がらも、うるうるしながら観ていました。
しかしアプリコットの良いところは、毎回すごく良い物を魅せてく
れる子供達がいることです。今回はボトム(奥山裕樹)が良かって
です。最高。今まではあんなパワフルな芝居をする子はいなかった
感じです。それにタイテーニア(瀧澤綾音)。『100万回生きたネ
コ』でもそうでしたが、一人、別格なくらいの存在感でした。ヘレ
ナ(星山美玖)も良かったですし、ハーミア(馬場ふみか)はいか
にもお人形な感じでよかったです。そして今回ダブルキャストの両
方を観る事が出来たのですが、もう一人のハーミア(青柳萌々)は
ちょっとハーミアというかヘレナっぽかったけれど、この子はお芝
居が上手いですね。『グリックの冒険』の時もそうでしたが、あらた
めてそう感じました。『グリックの冒険』のときに手にクセがあって
気になった覚えがあったんですが、今回は逆に手を使った表現が出
来てたりして、成長を感じました。それからもう一人、スナッグの
(三浦真央)。出てきた時の独特の存在感というのでしょうか、目が
引き付けられました。びっくりしました。
こういう発見があるのがアプリコットの良いところですね。
やっぱりこれからも期待してしまいます。
りゅーとぴあのホームページを観ると、アプリコットは2000年か
ら始まってるんですね。すごいことですね。これからも続けていっ
て欲しいです。
[564] s**w 2009/02/13(金) 22:45 [削除]
[公演名] 椿説 夜叉ヶ池 [劇団名] 舞台屋 織田組
最初何故ent.で公演するのかと思ったが、
なるほどent.でしか見れない効果。
舞台をこんな使い方も出来るのかと思った。
竜神の人形?が1度しか使われないのが少々勿体ない気がした。
百合と晃は生まれ変わってやっと幸せになれたのだろうか。
晃と山沢の“鐘をつき続ける訳”の説明の時の
役は見事だった。
最初に舞台をおおっていて落ちた布も2重3重に
意味があってすごい考えられてると思った。
最初に見たときに真ん中に切れ目があって何故あるのか
と思っていたけれど最後に意味がわかり、また感動。
女性が全体的に切ないな・・・と思った。
椿が中心となった話、という意味もこめて「椿説」
だそうだがそれにしてはいまいち椿のキャラがよくわからず。
雪夜叉姫の味方なのか何なのか。
役者が全体的に後ろを向いていることが多かった。
と感じた。
声が聞こえないのではなく顔が見えない。
顔が見えないのはとても残念。
観客は顔をみていろいろなことを台詞になくても
無意識に感じ取っているので。
やはり奥にひろい舞台というのも影響しているのだろうか。
90分とは思えないくらいの濃い時間だった。
そして久し振りに泣かせてもらった。
悲しくて辛くて泣いているのに
後に苦しい感情のみが残ることがないという
高技術の舞台だった。
[539] すてん 2009/01/14(水) 10:33 [削除]
[公演名] ちず屋の2階大行進、TRUTH、大いなる遺産
遅くなりましたが、新潟大学齋藤陽一研究室・芸能時評に以下の
レビューがありますので、勝手ながら貼ります。
No201 ちず屋の2階大行進
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~y.saito/writing/mapshop.htm
l
No202 新潟大学演劇研究部第111回公演 TRUTH
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~y.saito/writing/truth.html
No203 りゅーとぴあ10周年記念ミュージカル 大いなる遺産
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~y.saito/writing/ryutopia10.h
tml
[537] オトアン 2009/01/12(月) 00:48 [削除]
[公演名] 堀川久子舞踏公演「背骨の青空」
演劇表現のようにストーリー性が強くロジックで追って行けるも
のに比べ、舞踊・舞踏表現に接すると言葉の不全を感じずにはいられ
ない。堀川久子の表現も、見ていて幾多の言葉が浮かび上がってく
るがまた泡のように消えて行き黙さざるを得ない。
堀川の表情に、童女あるいは老女を連想することは容易だ。両者に
共通することの一つは、無垢であること。世界に対する強烈な違和
感や自分の思いと身体とのギャップへの戸惑い。やぶにらみの表情
は、そういった感情を素直に反映する。人がどう見るかなど構わな
い。成長するにつれ、羞恥心により覆い隠すようになる驚きや不快
感や嬉しさなどの感情の動きが濾過されずかつ増幅もされずただス
トンとそこに在る。古代ギリシャの巫女のエクスタシィ、奈良美智
描く少女たちの三白眼、いずれにも通じる気がする。もう一つ、身体
への関心度の高さ。幼児も老人も、思いのままにならない自らの身
体に新鮮な驚きをもって向き合うことになるだろうが、成人は自ら
の身体をコントロールできていると思い込み、あえて意識的に向き
合おうとしない。手、脚、胴、各部位として頭で考えている。しかし、
勝手な見方だが、堀川は身体を細胞レベルにまで割って意識して動
かしているようだ。それは同時にホーリスティックな身体の復権で
もある。甲野善紀や内田樹が武道の立場で語るそれに通じる。こう動
かねばならない、こういう形にしかならない、こう振る舞うべきだ、
そういった作り物の「枠」が乗り越えられていく。空と大地の間で、
この身体に与えられた自由はもっと大きい。性意識によって縛られ
ているものからも、自由。性の無意味化もまた幼児と老人の特徴で
あろう。これらの連想妄想はあくまで個人的感懐なのであしからず。
さて(ようやく本題)、厳寒の二宮家米蔵に置かれた木製の椅子を真
ん中に繰り広げられた前半の踊り、そして奥へと誘われて行く後半、
そこには高い窓へと伸びる梯子、吊された新巻鮭、無造作に置かれ
た石の群れがあり、遠く海鳴りを聞きながら梯子に登り窓の向こう
に思いを馳せる姿、雪が舞い込む中で石に頭をこすりつけるように
転がる姿、どれも剥き出しで胸をかきむしられるようで、それなの
に沈鬱さだけでなくどこかがぽっと暖かくなる。曇天の多い「裏」日
本だからこそ、遠い青空を思い描く気持ちは強い。アイヌの素朴な
唄が繰り返されるのも、郷愁に似た思いを掻き立てる。
一般の劇場のように影を消そうとするのでなくむしろ美しい影を生
み出す伊藤裕一の照明は流石で、あらゆる時間帯の微妙な光を作り
出すことができる。寒さを忘れさせる堀川の熱演もさることながら、
伊藤、今井麻衣子、ほかスタッフ各位の頑張りにも温められる。
終わってから、切られることになったという門脇の柿の古木に捧げ
られた短い鎮魂の舞。胸にくる。幹に巻かれた朱い布。これは堀川
の足にも、梯子にも巻かれているが、温かい血の色を思わせた。
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