2010年1ページレビュー

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例の掲示板「1ページレビュー」2010年記録



[752] すーてー 2010/12/15(水) 13:02 [削除] [公演名] ヴェニスの商人 [劇団名] KURITAカンパニー

勝手にご紹介、 新潟大学齋藤洋一先生の演劇時評 KURITAカンパニー「ヴェニスの商人」 アップです。 http://www.human.niigata-u.ac.jp/~y.saito/writing/marchant.ht ml

[751] オトアン 2010/12/13(月) 16:34 [削除] [公演名] ラッキーパーソンは暗算が得意な人 [劇団名] 劇団第 二黎明期

 公演も終了なので、ネタバレ。 男(逸見友哉)が、テーブルで洗濯物を畳む。結構、慣れた感じ。時 折、独白。照明が変わり、女(山崎真波)が出てきて朝食の席でのや りとり。これがその朝の回想であり、働くキャリアウーマンの妻と、 それに頭が上がらない在宅の夫という関係が見えてくる。妻が特に 高飛車ではなくむしろ優しさも見えるけれど、ちょっとした言葉と 感情のすれ違いが見えてくる。以後、照明の変化でリアルタイムと 回想や想像の世界とが区別される。建築関係の仕事らしい妻は、憧 れる先輩のガンジヤさんと独立して新しい仕事に乗り出したい、や る気に溢れた颯爽たる女性。一方夫は細かいことを気にする性格で、 強迫性神経症と過敏性腸炎のため、外出先でトイレに困ることから 家に引き籠もっているが、使えるトイレマップ作成をと、少しずつ 外出して距離を広げようと目論む。妻が自分を気遣っていることや、 お荷物になっているのではないかということや、ガンジヤさんの存 在や、そんなことがごちゃごちゃと夫の妄想を加速させている。  これを観ている存在がある。いつもの客席隅に居るシダジュンが、 男が席を外した際にいきなり舞台に上がり洗濯物をまき散らして消 える。回想シーンでは女の後ろにたたずみぽそっと呟く。女の携帯 に意味不明の一言を告げる。携帯を持ち去る。戻す。果物ナイフを 持ち去る。戻す。要所要所に現れては、混乱の種を蒔いていく彼の 存在は、台本では「ソレ」と記されている。終盤、舞台に可視的に 登場する彼を見て、ふたりは「あ、猫だ」という。客には台詞とし て聞こえるソレの言葉が、ふたりにはニャンニャンと聞こえる。男 をひっぱたいたり(ひっかいたり)、みかんにじゃれたり飽きたり、 確かにそういわれればこれ猫だったのかあ、と納得してしまわない でもない。擬人化された猫の行動。だがしかし。じゃあ、あの台詞 は?あの電話は?疑問が湧いてくる。確かに、ふたりには猫として 見えているソレは、実は別の何者かであるということが見えてくる。 たまたま猫として実体化しているけれど。逆に言えば、我々が普段 猫として認識しているモノが、実は知性を持った何者かであるとい う可能性をも暗示してはいないだろうか。 互いのことを思いながら、自分には自分の思いがあって、それをわ かってもらえないもどかしさを感じるふたりの関係は、結婚5年の 夫婦ならずとも身につまされるところが誰しもあるのではないか。 話し合っているようでも、核心部分をつい避けてしまうこともある。 ちゃんと話せばわかることがたくさんあるのにね。 ガンジヤさんのことを巡る男の誤解が解けて、どうやらハッピーエ ンドで締められるのだが、思えば結構ディープな方向に向かい得る 話。感情をコントロールしたふたりの演技で洒落たおとなの会話劇 に仕上がっている。ソレの存在は謎のままだが、ソレはそれでいい のだ。

[750] オトアン 2010/12/09(木) 16:11 [削除] [公演名] ラッキーパーソンは暗算が得意な人 [劇団名] 劇団第 二黎明期

 逸見氏、いい味だなあ。ニヤニヤ。真波さん、素敵だなあ。デ ヘデヘ。えっ、えっ、こんなところでこの方が!乱入?どどどどー いうこと!しかも、ワーイルド!バイオレーンス!これはいわゆる 人外のナニですか?と思いきや、ほほうほほう、へえ、そう来る。 にゃー、かわいいにゃー。うーん、やはり寒いこの時期、黎明期は ココロ温まるほのぼの系で締めてくれるのね。きゅん。パチパチパ チ!  と、いうことでニコニコとDOMOを離れるわけだ。ハートウォー ミングな1時間。だがしかし。改めて考えると、謎がいろいろある のですよ。ソレがアレだっていうことを会話からつい納得しかけた けど、でもでも、じゃあ女の背後でのソレの一言は?あの電話の声 は?アレの形状で現れたとしても、ソレが必ずしも本当にアレだと は限らないのでは?  と、観劇後にじわじわと考える、そういう意味では二度美味しい 芝居であったことですよ。照明の細かい変化で、リアルタイムと過 去の情景、妄想の情景を分けるなど、わかりにくいようでフェアな 演出。一方、ストレートなようでフックのある台本。それを血の通 ったものに仕上げている役者たち。 まだ公演があるので、皆さん書きにくいだろうし、自分もネタばれ を避けてこんなレビューになってしまうのだけれど、ぜひ観ていた だいていろいろと語っていただきたいです。

[749] オトアン 2010/12/07(火) 12:36 [削除] [公演名] ヴェニスの商人 [劇団名] KURITAカンパニー

 gt.mooギャラリーでの公演を観てくると、シンプルなスタジオ Bの空間でさえとてもかっちりした劇場に見える。具体的には、袖 というか役者が引っ込む場所があるというだけの違いで、かつてり ゅーとぴあ劇場でもステージ上に役者が留まって出番を待つ「ハム レット」もあったのだから、演出上の差ではあるのだけれど、袖が あることで場面の変化がわかりやすく、荒井氏・河内氏・今井氏が 衣装やメイクを変えて二役できる。まあ、実際は別の形での処理も できるはずだから主要な理由ではないが。またホールならではの照 明や音響の効果があるのはメリット。一方でgt.mooのような制約 された空間でのテント芝居的な近接感も捨てがたい魅力ではある。  両袖から張り出した黒い幕と、長方形の卓と、三脚の椅子のみ。 それがそのままで役者が入れ替わり立ち替わりするにつれ様々な場 所になる。芝居の説得力。男性の衣装は至ってシンプルなもので、 女性の衣装は多少時代味を出しつつも極端ではない。このカジュア ルさは、シェイクスピアを身近にしてくれる。一方ユダヤ音楽らし 響きやシャイロックの衣装は特にユダヤ人らしいエキゾチックさを 出しており、この芝居が「ヴェニスの商人」アントーニオをはじめ とするヨーロッパ人にとってはハッピーエンドの喜劇、一方の主人 公である「ヴェニスの商人」ユダヤ人シャイロックの悲劇であるこ とをしっかり描いている。  大筋は多くの人が知りつつ、実際読む人はあまりないシェークス ピア。だからこそKURITAカンパニーの正統的な作劇に教えられる ところは多いし、一方現代の視点からテキストを読み込み、テキス トからいま我々に通じるものを汲み上げてリアルな手触りをもたら す演出は単純なシェークスピア劇と一線を画している。この芝居を はじめ、シェークスピアの有色人種や非欧州人に対する蔑視は確か にあり、それは時代性の烙印を帯びている。それはもみ消されずそ のまま(さらりと)演じられている。一方、時代的制約の中でも、一 般人の捉え方とは少し違う彼の視線の深みもまた栗田氏は敏感に受 け取っている。  いわゆる「人肉裁判」は、ポーシャが若い法学士として審判する 点ですでに喜劇性が示されており、恐らく当時の観客はやんやの喝 采だったのだろうが、そこで展開されるシャイロックの転落は、勧 善懲悪ですっきりという枠に収まらない深い悲愴を感じさせ感情移 入してしまう。そもそもシャイロックの立場は強者ではなく弱者、 日頃虐げられている者の精一杯の抵抗であり、敵対するアントーニ オに金を貸し同意の上で担保としての肉1ポンドを取るという、正 当な取引を要求しているのだ。ユダヤ人が受けていた理不尽な差別。 これは召使いランスロットやあまつさえ娘ジェシカからシャイロッ クが悪魔呼ばわりされ大向こうを納得させる背後で、ちゃんと言及 されている。ただ、裁判で問題となるのは、正義と正当性を振りか ざし慈悲(というかカリタス)を無視する者はその当該論理によって 慈悲無く裁かれるということで、そこにアントーニオへの憎悪と娘 絡みのキリスト教徒への復讐に凝り固まったシャイロックがあまり に悲惨な判決を受けることの説明がある。この過程は丁寧に描かれ ていた。全てを失うシャイロックがうなだれて退くのは、それを悟 ったからでもあろう。その後コミカルな大団円で、空気が和んだあ と、独り座るアントーニオの前に静かに立ち現れるシャイロックと 無言で対峙する印象的なラスト。2つの相容れない原理が衝突した 悲劇、互いに自分を主張して譲らない両者だが、己を曲げずに相手 を容れる道はないのか?と考えさせる深さがあった。  荒井和真は篤実な人物としてのアントーニオをよく演じ、黒塗り のモロッコ大公もこなし、恐らく袖では迫力あるギターを奏でてい た。河内大和は脆弱な部分も持つバサーニオの凛々しさやおかしみ のあるキャラクタを創出していた。傳川光留はシリアスさもありつ つジェシカの前では甘過ぎのところもある恋人ロレンゾーを演じて いた。星野哲也はがさつだが友情に厚くネリッサとの楽しいやりと りを見せるグラシアーノを過不足なく演じた。今井明のユダヤ人テ ューバルは、無表情にいい知らせと悪い知らせを交互に伝え面白か ったし、公爵としての重々しさと裁ききれない弱さを的確に演じて いた。ランスロットの大家貴志はとぼけた感じがはまっていた。永 宝千晶は今回のメインキャラ、可愛らしく聡明な若々しいポーシャ を演じてとても好感を持った。山賀晴代は今回脇的なジェシカ役だ が、見せ場をわきまえていてこの掴み所の少ないキャラに存在感を 持たせた。町屋美咲は利発でキュートなネリッサを体現し書記の扮 装も楽しい。召使や黒子的な部分を担った大門和佳子、岡崎加奈、 大渕聡子、大事な役割。大渕氏の舞は美しい。そして、シャイロッ クの悲劇性、憎悪ゆえの増上慢と頑迷、没落を鋭く描いた栗田芳宏。 拍手。

[748] オトアン 2010/11/20(土) 11:05 [削除] [公演名] Nameless Hands〜人形の家 再演 [劇団名] Noism  1

「Nameless Hands 人形の家」は、見世物小屋シリーズの発端 であり、ストーリィ性のある公演として画期的なものだった。その 衝撃は今も忘れられない。今回の再演は、その基本構造は変わらな いが、ダンサーの入れ替わりや衣装、細かい演技や新たに加わった 演出などの違いもあり、新鮮な感覚で観ることができた。オープニ ング、客入れから額縁の中で見世物小屋支配人・宮河愛一郎が人形 を動かしながら何やらぶつぶつ話しかけている。アブなくてにやり とする。口上も笑える。そして、顔を白く塗った「人形」たちが黒 子に担われて登場する。パンフレットに、各シーンのタイトルと使 用曲があって、これが何とも面白い。なるほど「神輿」なのか。そ の顔は道化のようで、能面のようで、怖くて悲しげだ。宮河がセー ラー服の人形・井関佐和子を引き寄せるが崩れる繰り返し「抜殻」。 同じことを、生身のみゆき・後田恵と繰り広げるが、他の女の影を 感じてかみゆきは抗い、やがて人形・井関と対峙し鏡像のように対 称に動く「ミラー」。この3者の関係は大きな軸の一つとなっている。 挿入される「昔話」、グリーンスリーヴスに乗せて男・中川賢と女・ 真下恵の人形が繰り広げる無邪気な舞がやがて黒子に蹂躙されてい き、「冷雨」が降り注いで倒れた女の身体から花が咲く。ここにはか つての宮河たちの姿が重ね見られているのかも知れない。操られな がら人形・井関がビゼーのカルメンにのってコミカルに宮河を蠱惑 する「狩ルMan」、応えて宮河が翻弄される「人レアDoll」(Les Toreadors)。このさまにみゆきが嘆きつつ歌い始める「ジダイ」。人 力で回るミラーボール。やがて、歌いながらみゆきは顔を白く塗ら れて人形へと化していく。そして人形となった女2人がデュエット する。場面は変わり、「夢見る老婆」。老婆姿の藤井泉が登場する。 当初腰も曲がり弱々しいが、黒子により衣装を剥がれて身軽となり、 若々しく空を舞う。次に「秋の葉の原」。黒子・計見葵の持つカチン コには「甘えるように身悶えする女達は男達の妄想か」と書かれて いる。その通りに、色取り取りの衣装に身を包んだ女たちがモンテ ヴェルディにのって舞う。そこに現れる男たち。女たちは、媚びを 売るようにポーズを取りながら、時折男たちの野卑なさまにこっそ り顔をしかめている。やがて登場する「エ口スター」櫛田祥光。群 衆の歓呼に上気しながらパヴァロッティにのって踊る。スターとし て祭り上げられることは、同時に生贄として消費されることでもあ る。深いテーマを根底に覗かせながら、このあたりとてもコミカル で笑いを誘う。  休憩後、黄金の幕を隔てオーケストラのリハ音が聞こえて第2部 が始まる。ストラヴィンスキーのペトルーシュカに乗り、「人の形の 形の人形」たちが踊る。それぞれに意志を持とうとしながら、しか し黒子の手によって操られていく。テーブルに並ばせられ、「偽造の 晩餐」につかせられる。やがて、「戯画」として額縁の中に押し込め られていく人形たち(凄い)。額縁から抜け出していく人形たち、し かしそれを追うように黒子の手は伸び、やがて捕らえられた人形た ちは抗いながらも黒子に四肢の動きを修正され蹂躙される。あから さまな支配・被支配。必死にようやく逃れて脱走するが、それを黒 子たちは追う。走る人形、追いすがる黒子。ついにひとりの女が抜 け出していくが、他の者は捕まってしまう。物質化した人形を見つ めるひとりの黒子、頭巾をはずすとみゆきである。彼女は「半人半 黒」として、人形からも黒子からも距離をおく。やがて黒子たちは 互いに衝突し互いを支配しようとする。その中で、ひとりの女の人 形・井関が生け贄として引き出される。取り囲む椅子の真ん中で、 恐怖におののきながらも、次第に生け贄の舞は興奮とともに激しさ を増す。再演では当初観客には心臓の鼓動のような重低音が聴こえ ているが、井関の耳にはイヤフォンを通して春の祭典が聴こえてい る。これが取り去られるとともに、観客にもこの異教的で熱狂的な 音楽が届く。取り囲まれて衣服を剥ぎ取られ、裸体を晒して踊る井 関の上に、血潮が降り注ぎ朱く染まっていく。まさに、生け贄。そ の表情には、いつしか恍惚感が垣間見える。鬼気迫る、舞。 狂騒の夜の果て。ひとりまどろむ支配人が目覚めると、そこに闇の 中から登場人物たちが現れてくる。その中で、じっと支配人を凝視 するみゆき、そして人形井関。「狼になりたい」にのって礼をし闇に 消えていくダンサーたち。最後の瞬間まで、遊びはあるが一切無駄 がない。実に濃密な、忘れがたい、ひととき。

[747] オトアン 2010/11/10(水) 15:07 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その10 I新潟南高校「夏への扉」

 高校生だから高校生が主人公の話をやらなければならないわけで はない。枠にとらわれず物語として響くものに取り組もうとする新 潟南の一貫した姿勢は素晴らしい。戯曲の選択に感心する。もちろ ん、大人の芝居を大人が演じたときのリアリティにかなわない部分 はあって、背伸びしてる感が否めないところもあるけれど、自分た ちなりに物語を理解し作り上げ感動を生むことがしっかりできてい る。幕開き、薄暗い中に浮かぶレトロな喫茶店。見事なセット。欲 を言えばもう少し凹凸がほしいのだが、この空間にドアを3つも4 つも作り階段を作りカウンターを作り、十分と言えば十分。1990 年冬、喫茶店セブンドアーズの7つのドアは1つ以外塞がれている (コンクリートなら打ちっ放しぽく白を混ぜてウェザリングしたい) が、かつては外に通じていた(人形立てが見切れない工夫が欲しい)。 写真家の父親は行方不明、ひとり店を守ってきた母親が亡くなって 放心状態、母が生きているように振る舞う明日香(幕開きは寝てるよ りぼーっとしてた方がいいかな)。それを気遣う隆。怪しいセールス マンが売りつけたお香をかいで、眠りに落ちた明日香が気づくとそ こは1966年の初夏、ビートルズ来日とベトナム戦争の真っ最中。 まだ若い両親、好きだった叔父がいて、自分はみどりという別の人 間として受け入れられている。なかなか採用されない小説を書き続 ける叔父冬希が書いた「夏への扉」は、過去に通じるタイムスリッ プの話で、それを作家の江戸川散歩に見せて盗作されることになる。 ビートルズを追っかけて転がり込んできたミーハー娘・恵は、ロカ ビリーやGSへと変わり身が早く、幼なじみで散歩の弟子である若 き日の高森朝雄(あしたのジョー原作者)と再会する。そして何かと 批判的なPTAの藤倉。元気だった叔父、母親、報道写真への思いを 捨て切れない父親との日々に、現在よりも幸せを見い出して目覚め ようとしない明日香を追って、隆もまた香をかぎ過去にやって来る。 衣装など昭和の雰囲気がよく出ているが、清次郎はべらんめえの江 戸弁でいいし、藤倉はざーます言葉など、キャラを作り込んでリア リティを出せるといい。90年が冬で暗い雰囲気なのはわかるが、あ まり現代の香りがない。セットか服装の工夫はできそう。ビートル ズを中心とした曲、当時の流行曲などは懐かしい。できればラスト は、ト書きのように階段の上から夏の強い日差しがあるといい。多 少キャラメル(ボックス)っぽい甘めのストーリィだが、大人たちの 若かった姿を見ることで、自分の生を見直すというポイントが押さ えられていて感銘を呼ぶ。  こうして感想を書くことはできても、実際演じたり作ったりして いく中で経験していくことの苦しさ楽しさ達成感は批評を超えてい る。自分たちは、自分たちが胸を張って作ったものを提示していけ ばいい。人の意見は人の意見、参考にしつつ自分たちの信じる道を 進んでほしいと思う。

[746] オトアン 2010/11/10(水) 15:03 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その9 H佐渡高校「嘆きのサンバ」

 どちらかと言えば、ご当地ネタは現地の人がやるのが一番と思う。 でも、この上演ではある場所に限定されない普遍的な人間性の悲し さと尊厳のようなものが伝わってきて、感銘を受けた。2人芝居で これだけ素舞台に近い舞台空間と時間を埋めることができたキャス トに拍手を贈りたい。オープニングのサンバ、女2は「激しくセク シー」とは言えないが(笑)頑張っていたし、女1は日本舞踊という よりは盆踊りっぽかったが客いじりなどしっかりやっていた。大分、 勇気のいる入りだと思う。客に助けられた部分も大きい。女1は腰 を曲げた苦しい姿勢のキープと老婆の口調、劇中での演じ分け、一 転役者である高校生としての自分、切り替えがちゃんとできていた。 女2は孫として、また劇中の子ども、そして役者としての自分、あ まり差異のない分演じ分けは難しいが、チャーミングな笑顔でそれ ぞれ好感を持って見せられていた。出征した夫を待ちながら産婆と して命を取り上げながら共同体の中で貧しいながら恵みの手を差し 出し、子を育ててきた老女の戦後史が、孫に対してコミカルに語ら れる。日本人全体がベガー、乞食となった時代、ホージンと呼ばれ る物乞いはマレビトでありつつも実は自分たちも同じなのだという 悟り。生活が苦しいからこそ、同じく苦しんでいる人のことをほっ ておけない心情。裏切られたり損をしたりしても、まあ仕方ないと 受け流せる懐の広さ。現在は失われつつある美徳だ。今では想像が つかなくなってしまった昭和の人々の思いが、しっかりと伝わって くる。もちろん、現代の高校生ゆえにまだ消化されていないところ、 本当の貧困や底辺の生活、精神状態をどれだけ実感し体現できるか ということについては、まだまだの部分はある。しかし、自分たち なりに精一杯表現した2人はとてもよかった。シリアスなところは 嘘のない真剣さで、現代からの語りの部分はころっと戻って、とい うメリハリがさらにつくと素晴らしい。美空ひばりの歌は、よかっ たけれど上手さよりもあの鼻にかかった声の再現を心がけるといい と思う。

[745] オトアン 2010/11/10(水) 15:02 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その8 G新潟江南高校「いろいろありがとう」

 文化祭の合唱コンクールに向けて委員会が設けられているという 設定で、9尺のパネルを立て込みそれらしい部屋を作り込んでいる。 できれば少し角度をつけて、部屋の広さと間取りのリアリティを出 すといい。ロッカーは、ああ使うだろうなあ(笑)という存在感。ピ アノを効果的に使い、高校生活の楽しさがよく出た群衆劇。みんな 楽しそうで好感が持てる。メインとなるのは恋愛模様で、無口(にし てはしゃべる。もっと無言でも面白いかな)でパンクロッカーの深沢 をめぐり、かつて付き合っていた合唱部部長・美樹、その友人だっ たが今は深沢と付き合い美樹との仲が冷えている春香、そしてバン ドのボーカルで派手なユリアが深沢は自分と付き合っていると言っ てきて益々こじれる。素っ頓狂な演劇部部長・平太郎は美樹に想い を寄せるが、陸上部の夏美は幼なじみの平太郎に罵声を浴びせなが らも密かに想っている。美術部の陽子も少し(これもうちょい掘り下 げてもいい)。さらに、ユリアのファンである合唱部の1年・姫子は 同じく幼なじみで演劇部の1年・亀田(特異なキャラでおいしい)に ストーカー的につきまとわれる。狭い人間関係の中での惚れた腫れ たは、第三者にはどーでもいいことなのだが、役者の切実さが注ぎ 込まれるとハラハラドキドキ感情を移入できる。その点、いいキャ ラ作りがされていた。特に夏美の純情にはほだされるし、一方恋愛 沙汰には関わらない久美の姿はきりっとして好感が持てる。多分、 断ることができない深沢の優柔不断が、単純に女たらしとして断罪 されているのは少し描き方が浅い。また、ごたごたの中結局振られ た同士の美樹と春香の仲直りに「いろいろありがとう」という台詞 が出てくるがそれほどいろいろ感謝することはないような気がする。 もう少しテーマの掘り下げというか題と中身のすり合わせが必要。 あとせっかくピアノがこれだけできるなら、最初と最後はここのと ころ遣われ過ぎた感のある「手紙」でなくもっと別の曲がいいよう に思った。

[744] オトアン 2010/11/10(水) 15:01 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その7 F新潟中央高校「Is−アイズ−」  

 これだけの人数を、しっかり演出をつけて舞台に立たせられるの が新潟中央の素晴らしさ。2年生を中心に今後が楽しみな1年生を 交えたキャストはよく稽古していてアンサンブルもある程度できて いる。わざとぶっきらぼうに男の子っぽくしている主人公サチ、そ の内面の楽天的な私1、少年的な私2、女性的な私3、悲観的な私 4、短絡的な私5が正確に合わせデザインの異なる黒い衣装(一部ポ イント色有り)で本人の周りで動き語る。現実の世界にはキャピキャ ピと男の子の話で盛り上がる友人ミサ、鹿島、椎名、そして名前を 思い出せない友人A(広田)がいて、またほのかに想いを寄せる先輩 水本、その友人でサチに興味を示す柏崎がいる。女子の演じる男子 には、首をかしげることが多く、男子がいないならいなくてすむ戯 曲をと思うのだが、今回は各役者の髪型、発語、見た目がとても男 子的でよかったし、客の笑いをさらっていた。柏崎に名前を聞かれ たミサがついサチと名乗ったことから、水本がミサをサチという名 で好きになりややこしいことになる。学校中で敬遠される「平成の 切り裂きジャック」滝沢は、実はサチの兄、無口な小学生の依子は 妹、女子の憧れフードコーディネータ米原はるみは母親で、夫に去 られ女手一つで子どもたちを育てるが忙しく食事を作る暇もない。 サチは兄からもらった絵葉書の中に幸せな家族の記憶を夢想する。 サチがフラストレーションを外に見ているだけでなく、やがて自分 の中の凝り固まった部分に気づいてほどけていくことが、パンツか らスカートだけでなく表情その他から醸し出せるといい。リリック ホールの黒い舞台に、私1〜5が黒く、さらに現実の制服ブレザー や詰め襟が紺や黒で、差が出にくかった。せっかくのカラフルなコ ロだけれど、そこに眼が行くというのは芝居としてあまり良くない。 ずっと大黒幕を下ろしておきラストで上げホリゾントに青空を映す のだが、むしろホリは早い段階から使ってもいい。いずれにしても 黒さに紛れないような工夫が欲しい。また劇中劇の「リア王」は、 思い切りそれっぽく、現実のナチュラルさと区別してシェイクスピ ア劇らしさを出すとさらにいい。

[743] オトアン 2010/11/10(水) 15:00 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その6 E高田北城高校「四姉妹の不在証明」  

 知的なお嬢さま(が多い)学校というイメージが強い高田北城。そ れが、かなりエキセントリックでオトナの姉妹を頑張って演じてい る。十代の三女・四女はともかく、赤いワンピでゴージャスと言う よりは水商売ぽい服装の長女、20歳にしてはおばさんぽい次女の衣 装などは少し大人を意識し過ぎた気がする。両親が姿を見せない佐 藤家で、四姉妹それぞれの事情や問題が見えてくる。男に振られて はワグナーを大音量でかけ涙する次女あゆ20歳(最初は台詞や泣き で振られたアピールが前面に出ていたが、むしろだんだんわかる方 がいい)。三女ちえ18歳は見た目チャラく(筋とは関係ないが身体が 柔らかいところが示されて素敵)、一見のほほんとして見えるがスト ーカーの影に怯えている。長女みさは毎日のようにブランド物を買 い漁る買い物依存症。高校生の四女まいは真面目そうながら電話に 敏感な反応を見せ、受けた電話について虚言をはく。この背景には、 電話に何か不吉な予感を感じていることがある。テレパシーという 言葉が何度か語られるが、虫の知らせというか、(幕開きで既に語ら れるのだが)自分探しの旅先で父親が死んだこと、それが伝えられる ラストに向かって坂を下っていくように、何となく悲劇を予期しな がらその事実に抗うように、姉妹は騒ぎ泣き笑う。楽しいところは より笑えるようにした方が、悲劇とのギャップが出るはず。楽しく 幸せなはずの家庭、しかし姉妹それぞれが何らかの問題を抱えてお り、父親にも母親にも、それぞれ自分の問題がある。薄い皮膜一枚 の下には、暗い深淵が覗いている。これはどの家庭にもあり得るこ とだ。ただ、この台本にはどうにも釈然としないところがあって、 父親の死を予感する不安が言いたいだけなのか、他にも何かあるの かはっきりしない。センターに入り口を持ってきたセットの作りは いいが、パネルが広く置かれていて、部屋全体がやたら広く見える のはいろんな学校にも言える問題点。間取りを考えてどの程度の広 さにするか想定した方がいい。

[742] オトアン 2010/11/10(水) 14:59 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その5 D見附高校「うつむき加減でこんにちは」

 演劇部の生徒が、部室で、台本選びに悩みながら会話を繰り広げ る。と言えば、高校演劇ではある種定番ともいえるパターン。しか し、むしろ描かれようとしているのは、ここにしか居場所のない若 者たちの内面であり、教室や生徒の集団に入っていけない自分に苛 立ち戸惑いながら、生きていく姿。これは、2010年現在の高校生そ のままのリアルだ。名作とされる高校演劇作品は、その時々のリア ルだったもので、逆に言うと現在とは微妙な齟齬があったりする。 いい作品は時を超えることは確かだが、自分たちのナマの声を届け たいならばたとえ拙くても創作にトライしていくべきだと思う。役 者の実名を使いながら、本人とは別の人格でありつつ等身大の高校 生を創出している。しっかり勉強もする浅野、元気一杯なようで実 はクラスで浮いている湯川、出すことのない手紙を書き続ける八木、 そして成績はいいけれど教室に入れなくなっている、身体は大きい が気の優しい長橋。リアリティからすれば、あと数人の部員が、筋 に絡まなくても顔を出すくらいのことがあってもいいかな。セミパ ブリックというよりは限定された生徒が出入りするだけの部屋なの だが、この部屋だからいることができるという説得力がもう少しほ しい。台本が決まらない中、長橋が推す「ハムレット」のテキスト レジュームを始める。会話の中で、それぞれの抱える問題を浮き彫 りにしていく手法はストイックで、下手をするとつまらない「静か な演劇」になる。その意識が、最初と最後のちあきなおみ「喝采」(好 きですけどね個人的には)の歌唱などに現れているのかもしれない が、あまり必然性を感じない。多少関連性のある歌だとよいかな。 作者が構築する会話は、練れているものの、高校生の会話ってもう 少し乱暴でしかもオブラートがかかってて・・・、そこら辺例えば実際 エチュード的に会話させる中から生徒たちが作って行くというのも ありかなと思う。ラスト、寡黙な長橋がハムレットの独白を朗々と 語り始める姿は感動的。いい声だ。これは、昨年の「はじめの一歩」 がどうしても踏み出せない姿から、一歩踏み出した姿だ。そこに手 放しのハッピーエンドではない、そこはかとない希望が感じられる。

[741] オトアン 2010/11/10(水) 14:58 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その4 C 塩沢商工高校「麦に水を」

 ネットで入手できる作品らしいSFチックな設定、世界観。ペダ ンティックなアフォリズム、挿入される聖書の断片、同人誌的なキ ャラ名。うーん、好みではない。しかし、幕開き、台本にはないが ドイツ語や中国語などが響き渡り、独裁的な抑圧状況がイメージさ せられる。そして捕らえられ監禁される女性の姿が薄暗い中で断片 的に示される。台本を読み込んだ上で、設定されている状況をかな り考えて作られていることがわかる。幕が開き、黒いリリックホー ルシアター中央に正方形で赤い線で囲われた部屋の枠が作られ頂点 が舞台前に向けられ奥には階段、その上に赤い扉がついている。部 屋の真ん中に机と椅子が1脚ずつ、その上に木材を寄せ集めた鉢が あり一本の麦が植わっている。上手前には時折光を放ちながら鳴り 響くサイレンが吊られている。シンプルだが、狭苦しい説得力のあ るセット。壁のペイントも床も、舞台空間をきちんと仕切っている。 そしてその空間に限定され、ちゃんと顔が見えるような明かりの作 り方。リアリティがある。劇中、イメージ的なシーンではSSなど を使うのもありかな、など照明的にはまだできるところもあるかと 思う。体制に適応する従順な人間、そこからはみ出る人間が区別さ れ、矯正がなされる。創世の7日に比して7日の期間が与えられ、 限られた食事と1杯の水、決められた歩行と読書。変わらない人間 は、消えていく。7日目を迎え既に諦観を示す女セブン、新たに連 れて来られ抗う男ナイン(あれエイトは?)。狭い空間に閉じ込めら れ、精神的に追い詰められるナイン、時間の経過の中で達観し始め、 運命を受け入れながらも自分を曲げず、希望を失わないセブンの姿。 2人の演技がとてもよかった。管理側のゼロが、セブンの実妹だと いうことが明かされる。限られた水を一本の麦に注ぐ行為は無駄に 見えるけれど、踏みつけられ消えていく定めでも最後まで希望を捨 てず自分にできることをやり続けるという思いを、ナインが受け継 ぐことを見せた終わり方は、見事に台本を超えたと思う。

[740] オトアン 2010/11/10(水) 14:58 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その3 B六日町高校「しんがくじゅく」

 いわゆる進学校の生徒には身につまされる話題なのだろう。後期 日程まで進路が決まらず本命に賭けて進学塾に通っている生徒たち。 その差し迫った感覚は、残念ながら当事者でないと伝わりにくいか も知れない。安い公立高に通い安い公立大を目指す少しとぼけた信 子と数子、私立高のお坊ちゃまお嬢さまである中山と憲子。コミカ ルなやりとりの中から、それぞれの抱える問題点が浮かび上がって くる。ディベートのノウハウをシミュレーションしながら、昔から の友人で今は高校が違う信子と憲子を軸に、食べ物に目がない数子 がトリックスター的に掻き回し、ボンボンのスノッブさをいい具合 に出している中山、ニュートラルな立場で良識を保ちつつ結構間抜 けな河村が絡んでいく。ある程度進学塾らしいセットを組みながら、 貼ってある合格者名にジョジョのキャラクター名や声優の名をちり ばめたり、遊び心はわかる。ただ、コミカルシーンは嘘っぽくなら ないように、とってつけたようにならないように、ある種のリアル さが必要。例えばフライドチキンの箱を追い求める数子が、その関 心をどこまで見せ、どこでスパっと切り替えるか。ファイトォ!い っぱあつ!ごっこを、いかにそれっぽくやれるか。毎日稽古してい て、自分たちがルーティンでなく楽しく面白くやれているかどうか、 観ていて楽しさが伝わってくるかどうか、チェックしていくといい。 ディベートシーンも、多分実際には机など動かさず椅子の位置移動 だけでやるのではないか。50分も塾の講師が遅刻なんて現実にはあ り得ないと思うが、多分ここは教室でなく自習室なのだろうと思う。 話が嘘にならないように、現実に引きつけること、そして自分たち に引きつけ、自分だったら?と考えながらその役を生きたものにし てほしい。題材として、実はそんなに重いネタではないと思うのだ が、ラストのみんなの落ち込み方はかなり重い。これは台本自体の 問題ではあるのだが、そこまで深刻にやらない方がかえってリアリ ティをもって共感できるようになると思う。

[739] オトアン 2010/11/10(水) 14:57 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その2 A十日町高校「クロスロード」

 あまり勉強に熱心でない高校で、授業に身が入らず漫画や化粧や ゲームやメールに勤しむ生徒たちに、フラストレーションを抱えな がらも普段はそれを抑え冗談を絡めて楽しい授業をやっていた青年 (36歳)教師・村田。たまたま、その日の授業でいろいろな生徒の身 勝手な言い分に怒りを覚えているところで、メールをやっている貴 之に注意をし、携帯を取り上げようとすると、他の連中に比べてメ ールをやっている自分は人に迷惑をかけていないと反論される。押 し問答の末、携帯を奪い合い、壊してしまう村田、かっとして村田 を殴る蹴るする貴之。ツッパリの将一が止めるが、村田はおもむろ に貴之を殴り、報復する。交差点でたまたまぶつかったようで、し かしそれはただの偶然ではない。36歳独身、若い頃はとんがってい てやられたらやり返さずにはいられない性格の村田という教師像は、 実はとてもリアルで、学校現場にいた石原哲也氏ならではの台本。 教員だって生身の人間だ。一方、昔だったら決して認められない貴 之の言い分ではあるが、しかし他の普段から言うことを聞かない生 徒でなく貴之だからこそ村田は執拗に注意したのであり殴ったのだ ということを、貴之はわかっているんだという村田の言葉は深い。 村田にあくまで反抗するわけでなく理解を示しながら自分を曲げな い貴之。我が子を守ろうと村田の辞意を撤回させようとすがる母は 36歳と若い母親だが、着ているものがおばさんぽく、兼ね合いが難 しい。でも好感の持てる役作り。自分も騒いでいて授業に身が入っ ていなかったが、意外に物事を知っていて細やかな心遣いを見せる 将一。みなそれぞれ欠点があり、みなそれぞれに共感できる、血の 通った人間像が描かれている作品。丁寧に演じられていて、きちん と間が作られている。間延びせず、間抜けにならない、ちょうどい い間があるはずだから、行間を考えて間をとるといい。将一の役は 人の良さがにじみ出ている。見た目や口調にもっとワルい感じが出 るといい。ラスト、将一に「だめだぞ、簡単に辞めては!」と呼び かける村田は、教室に残りながらそれを自分に問いかけているのだ。 簡単に出て行かないで余韻を残して欲しい。

[738] オトアン 2010/11/10(水) 14:55 [削除] [公演名] 新潟県高等学校総合文化祭演劇発表会 その1

長岡リリックホールシアターで行われた高等学校総合文化祭演劇 発表会、いわゆる県大会。出場の10校は、こりゃだめだというの が1つもない、また互いに似たものもない、それぞれに力の入った いい発表会だった。審査により北関東大会出場が決まるコンペティ ティブな側面もあるけれど、自分たちの上演だけでなく観客として 他校の演劇を熱心に観て、素直に笑い、涙し、感想を寄せる、素晴 らしい生徒たちでもあったことに感銘を受けた。役員として長岡地 区の生徒たちもよく働いていたと思うが、こういう機会にいろいろ な学校の上演を観ることは何よりの勉強だ。積極的に観てもらいた いと思う。また素晴らしいホールを高校生に使わせ、細やかな助け をされていたスタッフの皆さんには頭が下がる。以下、感想を。 @新潟明訓高校「Be More Tough!」  Be More Tough! もっとタフになれ、タフであれ、ゴキブリのよ うに、ということを生物部の文化祭研究発表を通して語る。高校演 劇らしい作品で、理屈より高校生らしいエネルギーで怒濤のように 見せるべきものであり、男女の部員が相当数いて演劇についてのセ ンスと熱気がある学校でなければ面白くはならない、これらの要素 に新潟明訓は見事に当てはまっていた。照れずにバカをやれること は大事なことで、学校生活が楽しそうに見える。また、見えないゴ キブリが動き回っている様子を役者の動きだけで見せることがある 程度できている。特に男子キャストがいい。男子がいるだけでもう らやましい学校もあるだろうが、キャラが立って、いわゆる「役者 が揃っている」。マッチョさとおカマっぽいエキセントリックなとこ ろを見せるユウジ、ニヒルなかっこよさを見せるヒデハルは、ある 意味おいしい役。一方、目立たないがゴキブリ好きの変わり者五木 が後半、軍艦で死んでいくゴキブリ役、そして名前からゴキブリ的 あだ名をつけられ引きこもっていく「五木」を演じて胸を打つ。ゴ キブリのように嫌われている存在にも感情があり、よく知っていけ ば共感していけること、理不尽に死んでいかなければいけない悲劇 に戦時中を重ねること、虫となって死んでいく引きこもりにカフカ 「変身」のグレーゴルを重ねることなど、盛り込み過ぎの感もある 台本で、特にどこに力点を置くかを考えた方がいいとは思うし、タ フであるということは、表面的なものではないということを語るに は少し言葉足らずで、「変身」と重ねてもただ死んでいくだけではあ まり意味がない。また土浦一高、茨城という設定に拘らずご当地ネ タに仕立ててもよい作品だと思う。また、机の出し入れに時間がか かっていたが、場転の工夫をして、見せながらの転換を使い暗転を もっと減らすと舞台が締まる。細かいことを言えば、戦時中の言葉 遣いをもう少し時代性を考慮して話すといいと思った。

[737] オトアン 2010/10/18(月) 16:25 [削除] [公演名] こ、・・・こんなもん!〜主婦・アエギキリコの愛と性の 冒険〜 [劇団名] プロジェクト・B@ZAN-TO

 この公演、嬉しかったことがいくつか。ZAN-TOを名乗るけれ ど、爆男倶楽部と周辺の面々が年を重ねながらも健在で相変わらず 年齢を顧みず(笑)はじけているのを観ることができたこと。休止状 態の五十嵐劇場、ここが久々に芝居で使われ、五十嵐劇場の面々が 駐車場整理などで関わっているのを見たこと。テイストは違うけれ どアンダーグラウンドな匂いのする2つの団体が、形は違ってもこ うして残っている。そして、客演のD-soulの2人、スタッフのハン ニャーズの2人、若手が絡んでいることも嬉しい。闘魂伝承(笑)。 客席には、昔馴染みに加えやはり若者もいて、これまた嬉しい。  ツッコミ所満載のハチャメチャでグダグダな部分や、戯曲の質も あって大掛かりな屋台崩しなどはなかったが手作り感満載のセット、 いなたい場転などは予想通り。一方、頭髪やら歯並びやら下腹やら 二の腕やら、うわー時間って、という部分もありつつ。観て感じた のは、大人計画の芝居(ミュージカル)がもとではあるけれど、徹頭 徹尾B@マークの芝居であったということ。妖しいえろさや旧日本 軍、差別被差別、皇族ネタなどのやばさがあまり前面に出ず、明る く笑える芝居であったことは、この公演のよさでもあり限界でもあ る。  以下ネタバレ。沖縄の海で、恋多き姉ナミエ(堀口さつき、ダイナ マイトな体当たりの演技)を待つナハヒコ(酒井大輔、かつての若手 が今や逞しく、一途な変態を演ずる)。彼は恋する能力が欠如するが、 姉の恋に感応しその分与に浴する。ゆえに、姉に強く依存する。ナ ミエの新しい相手は、沖縄牛乳の部長で記憶を失っている。変わっ て第二次大戦末期、日本軍は「パラケルススの秘法」を密かに研究。 携わるナルセ中尉(後藤ヂツ、何をやっても後藤ヂツ)とヤマギシ中 尉(ホシノケン、バーコードでもホシノケン)は激しく?愛し合う男 同士だが、これが戦争だと捕虜を殺しまくるそのマッドなやり方を 少尉(小池匡)に責められ、銃撃の末にナルセのみ生きて秘法を持ち 去る。転生して女になり、再びヤマギシに出会うことを誓って。  現代のアエギ家。夫が不明になった主婦キリコ(丸山祐三子)に育 てられる、性の目覚めを忌避する息子セイキ(K5)と無邪気な妹ミョ ーコ(木津美奈子)。そこに、雷に撃たれ記憶を取り戻した夫、沖縄 牛乳部長(橋爪丈)が戻ってくる。ナミエとナハヒコ、そして人の姿 をした食用の黒犬(ホシノ、ケンケンぽい引き笑い。ふてぶてしさが 蜉蝣峠の古田新太みたい)を伴って。同居して家族になろうという彼 らに、動揺して家を飛び出したキリコは、本町から差別されている 鯖臭いさば町に迷い込み、そこで鯖町の住人(久保朝太郎)、前世占 いの母を持つセイキの同級生ノリっぺ(稲葉綾子、)、その兄ヒロ(小 池)らに出会い、町の大物さば次朗(後藤)から町の由来を聞く。何か が変わり始めたキリコは家に帰るが、ナミエは次第に夫より同性で あるキリコに恋情を向け始め、キリコも意識し始める。アエギ家の 隣に突如できたお城から聞こえるヴァイオリンの音は、家族を不安 定にし、特にキリコはトラウマを刺激される。かつてキリコは息子 セイキのソレをちょん切ろうとし、止める夫を突き飛ばし記憶を失 わせることになったのだ。このコンプレックスは、キリコが「生ま れかわったらナニをちょん切り女になりたい」と願ったナルセ中尉 の転生であるためだ。セイキが意を決して大人になろうと城に乗り 込むと、住人のマダム(高橋郁子、複数の役を大怪演)と下着もっこ りの連れ合い(曽川裕司、やばい)が迎える。実は、キリコの記憶を 目覚めさせるため意図的に奏でていた天使?たちである。前世占い の女(久保朝太郎、超やばい。まだできる)は、かつてテニスコート(も はや知る人も少ないか今上帝・軽井沢の恋)で出会ったやんごとなき 方と3度の逢瀬で身篭もった3子ヒロ、不具のアヤ(村田雄司)、ノ リっぺを抱え(だからやばいって!)、キリコを拉致し、伝説のサバ ズ・マンソンの予言、「変な髪(おばさんパーマ)、金の腕輪(ゴム)、 銀の靴(鯖皮)の男(が転生した)」キリコを、悪魔を召喚するパラケ ルススの秘法を握る者として記憶を呼び覚まし差別される自分たち の世界を逆転させようとする。蘇る記憶。召還された悪魔は、何と(わ かってたけど)黒犬ホシノ。天使曽川との対決、しかし両者が触れ合 うと大爆発が起こるという、その通りストロボフラッシュの中カタ ストロフが起こる。  本来、世界が崩壊に向かうという大げさに盛り上がるべき終末が、 意外にあっさり。恐ろしさや結果としてのカタルシスはない。ナニ を得てナミエに応えようとするキリコは、リアルナニはいらない、 化け物と拒否される。ナハヒコの利き手が逆転、やんごとなき方が 鯖町にという、そんな拍子抜けの結末。このシニカルさは松尾スズ キならでは、しかし本来ディープな大人計画のそれとは違う、楽し さと笑顔がここにはある。

[736] オトアン 2010/10/15(金) 08:31 [削除] [公演名] ちず屋の2階大行進'10「ボボジャックバウアー飛び散 る花束」

 ちず屋の2階は、特殊な空間だ。しかしそこで通用する芝居、 役者は信用できる。目の前で、確かめることができる。あの空間で 6人出演?と思っていたけれど、そして作者が3人クレジットされ ていたけれど、観てその疑問は解消した。役者2人ずつの場が重ね られていく。そこに何か入れ替えや相互浸食があるわけではなく、 ユニットとして個々に構成されている。しかし、ストーリィが進む につれて、この3つが実に有機的に絡み合っていることがわかって くる。いちいち場転が煩わしいのだが、これは意図的なものらしい。  ネタバレいたします。まずは、佐藤正志と小出佳代子。赤を基調 にドレスアップして瀟洒なレストランにやってきた彼女、和菓子屋 の看板娘で、閉店間際にゆべしを搗かせたという押しの強い女性客 の話をし、ゆべしのキラキラでメイクアップという奇矯さで笑いを 持っていく。いいなー、小出さん。店を貸し切りにして思わせぶり な態度で渡したいモノがあると告げる男サトナカ。12年待たせて、 ついに!とテンションの上がる彼女に、差し出されたのはシューマ イの蒸籠。シューマイ作りの異様な情熱を語る彼。話の流れでどん どんズレが見えてくる2人。しかし、彼が座を外した際に、彼女は シューマイに仕込まれたリング、そして文庫版ゼクシィを発見。男 の部屋に誘われ、じいとおばばの運転する車で向かう。 一方、暗い中ライトを手に何やら探し回る未熟な空き巣男・大家貴 志。そこに外から声をかけ、入ってくるのはベテランの空き巣女・ YOKOTA。部屋の住人を装う男に全く怯まず、作り声で対応しつつ その化けの皮を剥がす。声色の変化、目線、素晴らしいね。男は大 学院生らしいが、惚れた女性があり、こっそり見守っているつもり らしい。空き巣で息子を育て上げてきた肝っ玉母さんである YOKOTAに弟子入りを願う。この部屋、シューマイの作りかけなど でやたら散らかっている、そうサトナカの部屋らしい。 もう1ペアは、引きこもりの若者・五十嵐淳のところに母の依頼で 出前を届けるやなぎぃ。若者は和菓子屋の娘に振られた9年の片思 いを引きずる。とぼけた味がとてもいい。その話に対応しつつも、 名前を覚えようとしない出前娘は、このところストーキングされて いて、自転車に得体の知れないモノが入れられたりすることを語り、 なかなか帰ろうとしない。 この3ペアの話がザッピングしながら次第に関連が見えてくる。和 菓子屋の娘・小出に惚れていた若者・五十嵐の部屋に出前を届けさ せメールする空き巣の母親・YOKOTA。五十嵐の部屋の窓から、出 前娘・やなぎぃの自転車に入れられた雑草の花束が見える。ストー カー的な空き巣・大家が「贈った」のだ。金持ちらしい男・佐藤と 和菓子屋娘・小出が乗る車が、この自転車にぶつかり、飛び散る花 束。怒って窓から出前の玉子丼の具を車に投げつけるやなぎぃ。怯 んで走り去る車。車中では、小出がリングとゼクシィから当然予想 されるプロポーズを期待するが、眼鏡をかけて見ると輪切りの鷹の 爪と郷ひろみ「ダディ」だという無理やりな(笑)オチ。しかも、男 が申し出るのは、家事をするお手伝いさんとして契約したいという プロポーズ。よく怒らないね娘さん。その間、男の部屋では、空き 巣YOKOTAが閉店間際和菓子屋に強引に作らせたゆべしをお茶受 けに茶を飲む空き巣たち。散らかった部屋を片付けてくれと帰って 来た男とすっかりあきらめ掃除をしようとする女が見たのは、やた らきちんと片付いた部屋、ただし意図的に空き巣・大家の指紋つき カップのみ洗わずに。部屋の異変に気づいた娘・小出に差し出した 男・佐藤の契約書は、何と婚姻届であった。  これ、ストーリィ説明しても意味がないし伝わらないことは承知 なのだ。実際に見てこその面白さ。もちろん体験したみんなは知っ ている。粗もありあり、スマートにやろうと思えばいくらでも改善 の余地はある、だけど、こういうオモチロイものが、狭いちず屋2 階で繰り広げられていたってことを、声を大にして言いたいのだ。  最大の謎?であった、演出の瀬戸あさお。山本氏のトークストリ ートなどを見て、ははーん、そーゆーことかあ、と勝手に納得して いるワタクシです。と、さ。

[735] 匿名 2010/10/11(月) 13:17 [削除] [公演名] 淑女のお作法 [劇団名] 劇団猛反発まくら(新大劇研)

安定したおもしろさがあったけど足りない。 思った通りの展開すぎで飽きてしまいました。 思った通りの展開でも飽きないものは飽きませんが… 結局何を伝えたいかわからなかった。 お母さんが頑固なはずがあっさり付き合うのを許すし傘に入れても らっただけで好きになるとか安っぽい少女漫画みたいでした。 そこら辺の過程がもう少し欲しかったです。 滑舌が気になりましたが演技自体はそんなに気になりませんでした。 ただ主人公の男の子が無感情に感じる事が多く本当に彼女が好きな の? と感じる事が多かったです。

[734] 稲目 2010/10/05(火) 23:37 [削除] [公演名] ボボジャックバウアー―飛び散る花束

開演直後はちょっとシュールなコントかな、と思ったが、話が進 むにつれて、どうやらそれだけではないらしいってことがわかって くる。 シュール含みの会話も面白いが、ストーリーの構成全体が綿密に練 られている。伏線にいやらしさがなく、素直に見られる。 ベテランの味が素晴らしい。くせが強いと感じるが、それがだんだ ん気にならなくなり、はまってくる。若手はそれに比べるとやや劣 るが、演技に切れがあり、楽しませてくれる。 自分としては、場面転換にもうひと工夫あってもよかったのではな いか、と感じた。場転が多い割に、少し単調かな、と。 内容としては軽く、楽な気持ちで見られるのだが、終わった後、じ わじわ満足感が高まってくる。あの空間、あのの距離での今回の観 劇は贅沢だ。

[729] オトアン 2010/09/13(月) 16:25 [削除] [公演名] 花 ドラマリーディングのための三つの話 [劇団名] 劇団 共振劇場

 「朗読劇」は、単なる朗読ではないし、だからといってかっち りした劇ではない。基本は椅子に座ってのリーディングだが、時折 立ったり歩いたりの最小限の所作が入る。この形態は、場所を問わ ず、さまざまなシチュエーションで展開が可能なフットワークの軽 さを持っている。とはいえ流石に共振劇場、3箇所それぞれの「場」 に合わせて舞台を作り、動きを決めて、その場での最適を探って提 示している。  「杜若」「女郎花」「忠度」という能の演目をベースに、作・演出 の田村和也氏が独自にイマジネーションを広げて作り上げた連作の ドラマリーディング。  第一話「杜若」。杜若が群生する公園に昼下がり訪れた男(今井明)。 公園の管理をしている女(大作綾)と、初対面らしき四方山話をする。 しかし、次第に男の記憶が曖昧であること、初めてのはずなのに周 辺地理が頭に入っていること、放課後遊びに来る子供たちの中に、 鬼ばかりやらされている子がいること、その子の身の上などが明ら かにされていくと、逆にこの男の足元が砂のように崩れていき、自 分が何者であったのかを悟っていく。ほのぼぼした前半に対して、 ぞくっとするような真相が女の口から明かされていく。しかし、赦 しを希う男の言葉に救いがある。今井氏の実にナチュラルでしかも 存在感のある話し言葉が印象的。  第二話「女郎花」。休日出勤して段ボールの整理をする女子社員(石 附弘子・大作綾)。会話の中で、元同僚の女の残した荷物(遺品)の処 理を大家に依頼されたことがわかる。気が進まないまま荷物を見て いく中で、特別仲間はずれにされていた訳ではないが誰とも親しく なかった孤独な女の姿が浮かび上がってくる。もはやいないその女 と、友だちになろうかと言い出すOLは、あまりウェットでないな がらそこはかとない罪悪感や同情心を示している。生きている間に はできなかったけれど、月を眺めて、心を通わせることはそんなに 難しいことじゃない。石附さんのOLっぽさがリアル。  第三話「桜」。電車で気ままな旅をする女性(大作)が片田舎で車窓 から見た桜に惹かれ、やってくる。近所で農業を営む男性(今井)が、 ぽつぽつと桜について語り、やがて夜桜の素晴らしさに及ぶ。近く に宿をとり、夜桜を見にやってきた女性に、男性は東京に行った叔 母の哀しい思い出について語る。都会で心を病み亡くなった叔母の、 「結果」しか知らない男性が、この桜に「過程」を見ているという こと。いろんなものを抱えて、あてどなくやってきた女性は、この 夜桜と語り合う。ちょうど、そんな年頃の女性の生を感じさせる大 作さんの等身大の姿が感動を誘う。  動きを伴う場合は台詞と連動するため、比較的自然な掛け合いが 成り立つ。その点、相手の表情や動きが掴みにくい朗読劇の場合、 台詞を聞いてから反応する呼吸、いわゆるアンサンブルが意識する あまり走り気味になったりすることは見受けられる。逆に言えば、 動いたほうが役者はやりやすいだろうなあと思う。しかし、あえて 動きを制限することで、夢と現とのあわいを揺れるこのような劇が 観るものの想像力を刺激することは確かだ。  共通して、田村氏の紡ぐ物語にシビアながらもどこかに光明が見 え、清涼感を感じるところがよかった。合わせて70分くらい、し かしもっと長い時を過ごしたような、不思議な感覚だった。

[718] オトアン 2010/07/23(金) 17:23 [削除] [公演名] 劇的舞踊「ホフマン物語」 [劇団名] Noism1&2 合 同公演

 Noismはダンスカンパニーだけれど、Nameless Handsや Nameless Poisonなどの「見世物小屋シリーズ」、そして今回の劇的 舞踊「ホフマン物語」は、台本がありストーリーがある。もちろん 演劇ではなく、台詞もないし説明的な舞台でもない。しかし、立ち 上ってくる物語、見えてくる世界がある。以前、ダンサーは踊って いる時に感情表現をするわけではなく何かを考えて踊るわけではな いと言っていた。しかし、今回の舞台では井関佐和子をはじめとす るダンサーたちの表情が印象的だった。演劇の役作りとは異なるだ ろうが、役に血が通っているのを感じる。  一般的演劇の感覚では考えられないような舞台の使い方は、とて も刺激的。2×6、3×6、4×6、6×6などの平台が壁のようにコの字 型に立てられ、ところどころドアのように開閉する。平台や山のよ うに積まれていた箱馬が、黒衣のダンサーたちによって運ばれ、書 斎や舞踏会のホールや娼館や居間や寝室や、さまざまな情景を生み 出す。ガムテやカスガイ、釘、人形立てなど一切無しで、スリリン グな場面転換が行われる。珍しく映像も駆使され、さらにランプな どに本火が使われ、また3幕では本水がりゅーとぴあで降ってくる。 凄い。しかも、それぞれが物語の中で自然に必然に行われていく。  E.T .A.ホフマンの作品をベースに、オッフェンバックがホフマン 自身を物語にしたオペラ。それをもとに、さらにもう一段階ひねり を加えて金森氏独自の物語が生まれた。E.T.A.ホフマン・宮河愛一 郎と、亡き女優ステラ・井関佐和子が客席を静かに下り、舞台に現 れるところから、最後に再び上って消えて行くまで、3幕約2時間 半、緊張感に満ち充実したとき。ホフマンが、書斎で苦悩しながら 生み出す物語は、E.T.A.の分身である木、火、水のホフマンたちが 主役となる物語と溶け合い、そしてオランピアの作家、ジュリエッ タの愛人、アントニアの父親として登場するE.T.A.=宮河自身が、 この物語の中でたゆたう。入れ子構造のように、万華鏡のように、 紡ぎ出される模様は美しい。  1幕、木のホフマン・藤澤拓也は、理性の妻・計見葵との夫婦仲 が冷えている中で、常にホフマンの影としてつきまとう影男リンド ルフ・櫛田祥光の差し出す眼鏡をかけると操り人形オランピア・井 関佐和子が生きた女性として見え、それを追う。ホフマンの天使、 光る子供ニクラウス・藤井泉が阻止しようとするが、ホフマンは舞 踏会でオランピアを腕に踊り、やがてオランピアが崩れ落ちる姿に 愕然とする。  2幕、男装の娼婦ジュリエッタ・井関の娼館で妖しいダンスを繰 り広げるNoism2の娘さんたち、火に入る虫のように(笑)いざなわ れていくNoism2の若者たち。仮面の妻・後田恵が帰りを待つ中、 火のホフマン・永野亮比己はジュリエッタに惹かれて館の中へ。ホ フマンの子供・藤井がホフマンを連れ帰り、束の間家庭の団欒があ るが、再び抜け出して館へ赴き、ジュリエッタの愛人・宮河と決闘 を繰り広げるホフマンが、ついに腕に抱いた女は、仮面をとれば妻 であった。  3幕、病弱な娘アントニア・井関を気遣う父親・宮河が近寄る友 人達を遠ざけようとする中、水のホフマン・中川賢はアントニアと の甘いときを過ごす。しかし、病魔ゆえに力つき倒れていくアント ニア。母親(記憶の妻)・井関もまた、追憶の中で倒れていた。こう して、愛するものを腕にしたと思った瞬間、それは儚くも崩れてい くのだ。この悲劇の裏で暗躍するリンドルフも、さまざまな形でホ フマンと対立するE.T.A.も、すべてはホフマンの光と影なのだ。  物語としての構造、演出効果、そしてダンス表現の素晴らしさ、 それらが揃ってこの舞台が作り上げられている。Noism2の成長、 それに輪をかけてNoism1の充実。大きな成果、実りといえる公演。 新潟限定3回きりの、大きなプレゼントだった。

[717] オトアン 2010/07/22(木) 17:42 [削除] [公演名] オセロー [劇団名] KURAITAカンパニー

 今回の「オセロー」は、急遽上演となったようで、時間の無い 中それでもよくまあこれだけのものを作ってくるものだと感心する。 主にGt.mooギャラリーで行われてきたKURITAカンパニーの作品 群は、普通では考えられないほど光量を絞った、薄暗がりの中で、 そして客席との近接感の中で演じられている。構造的にはもっと明 るくできるはずだから、これは意図的なものだ。テント芝居のぞく ぞく感。17世紀の劇場もこのようなものだったのではないか。今ま での作品と似た作りのところもあるが、これぞKURITAカンパニー という作品だとも言える。  白いソファが置かれ、空間の両脇に役者が奏でる楽器が置かれた だけのシンプルな空間。役者の身体だけで、そこはヴェニスの宮殿 からキプロス、オセローの館、士官の宿舎、酒場、どこにでも成る。 複雑で回りくどくもあるシェークスピアの台詞が、ちゃんと届いて ストーリィが理解できることは凄いことだ。  美しいデズデモーナ(山賀晴代)を妻にし、キプロスの戦場へ赴く オセロー(河内大和)。アフリカ出身のムーア人でありながら、勇猛 さでヴェニスでも特別の敬意を受ける彼だが、副官にキャシオー(傳 川光留)を選んだことに恨みをもつ旗手イアゴー(栗田芳宏)は復讐 をもくろみ、キャシオーとロダリーゴー(星野哲也)の諍いを起こさ せキャシオーを罷免させる。復職のために愛妻デズデモーナを通じ て願うようキャシオーを説きつけ、一方でオセローには2人の不義 をほのめかし疑いを起こさせるイアゴーは、確かに悪役であり黒幕 である。しかし、感情移入のできない全くの悪ではない。飄々とし た悪人ぶりは時ににやりとさせる。彼自身には妻エミリア(永宝千 晶)とオセローについての噂に対する嫉妬があった。全てが露見した とき、妻を手にかけもはや一言もしゃべらないと宣言するイアゴー は、ある意味ギリシア悲劇的なヒーローだ。  オセローは、一方的な被害者ではない。イアゴーの蒔いた疑いの 種を自ら育てる土壌を持っていたといえる。それは彼自身のコンプ レックスによるものであり、信じ切ることのできない弱さ、緑色の 目を持つ怪物である嫉妬に翻弄される人間の、サンプルなのだ。河 内氏は疑いによって、人相まで変わっていくオセローを演じて見事。  愚かで計略に利用されるロダリーゴーもそうだが、酒に弱く、エ ミリアやデズデモーナにやたらべたつき、娼婦ビアンカ(町屋美咲) にも甘いことを言いながら結婚する気はないキャシオーもまた単な る被害者ではなく自ら災厄を招いている。夫を愛するエミリアも、 知らずイアゴーの計略に加担することとなった。無垢なるデズデモ ーナですら、その無邪気さゆえに無防備で悲劇を招いてしまった責 がある。すなわち、全く問題の無い人間はひとりも登場しない。各々 はその生き様について、結果を刈り取らなければならない。  デズデモーナの父ブラバンショー(荒井和真)は、将軍として目を かけていたオセローが娘の愛を得たことに逆上する、これまた身勝 手でもある。弟グラシアーノーとの二役、同じ顔でも別人格(笑)。 島の女・大門和佳子、大渕聡子のダンスは迫力があってさすが。皇 后・小島のぞみ、ビアンカ・町屋美咲、追憶の中で歌うバーバリー・ 岡崎加奈、いずれも限られた出演ながら、自らの役割が小さくても 不可欠であることを認識して舞台を見つめ、また楽師としての役割 を担う。これらの面々が、カンパニーを支えている。この場を体験 できることの幸せ。

[716] オトアン 2010/07/22(木) 17:39 [削除] [公演名] ララバイ・フォー・ティアーズ [劇団名] 劇団第二黎 明期

 第二黎明期の作品名はどれも詩的だ。ララバイ・フォー・ティ アーズは、初演のシダさんと真保しのぶさんの印象が今も残ってい て、オトナの寓話としてぞくっとするところもあった。今回のバー ジョンは、展開を知っている気安さはあったけれど、しかしまた新 しい物語として新鮮さがあった。いつの間にか、県内の役者さんの 多くが年下になってしまったなあ(涙)。これって、本当は嬉しいこ とだ。若い人が出てきてもらわないとね。  佐藤正志氏が若手とは言えないけれど、それでもどこか初々しさ が残るのは、誠実さが滲み出る氏の持ち味だろう。同時に、黎明期 特有のポーカーフェイスが時に凄みを感じさせるところに、培って きた経験を見る。一見軽そうな人外のモノ(妖怪とされていたが定義 することもないだろう)、飄々として脱力するような物言いをするの だがしかし人の心を喰らう恐ろしさも併せ持つ。  同類のもう一匹?やなぎぃ嬢。このところ黎明期を中心によく客 席にお見かけしていたが、演じる姿を見て、若さ(未成熟さととも に可能性でもある)だけでなくキャラクタの切り替えがなかなかい い。次第に男(逸見友哉)に興味関心を募らせていき、こころを喰 らい味わいつつ、自分は人に近づいていく。異形の、恋のようなも の。それは相手を蝕んでいくことであるジレンマ。恐らく、当初何 の罪悪感もないのだが、人に近づいてこころを持つようになったと きに、自らの行為に慄然とするのだろう。  愛するひとを失った悲しみの中で、記憶を失い女医の庇護の下で 引きこもる男。モノノケやなぎぃの来訪が、彼の中にかつての記憶 をよみがえらせていく。繰り広げられる無邪気なボーイ・ミーツ・ ガールのやりとりは、かつての自分の再現ドラマだ。無表情な姿と、 記憶の中のはじけた姿のギャップを演じる逸見氏の力量。  記憶を失った男を献身的に保護する女医(小田島美穂子)は、無償 の愛情を注ぐようでありながらそれは男を自分のもとに繋ぎ止めて おこうとするエゴでもある。これもまた異形の愛情なのだ。感情を 露わにしない精神科医としてのマスクが、しかしモノノケ佐藤氏の 揺さぶりで綻びていく姿。彼女自身にトラウマがあることが次第に 見えてくる。これを飄々とやれる小田島さんは凄い。  悲劇的カタストロフィを、ただひとり無感情に眺めるモノノケ佐 藤氏、その姿は恐ろしくもあり、実は最も観ていて哀しいのだ。  何度か観ているからだろうが、すっと通った筋が次第にはっきり と見えてくる作劇、意外な設定をすんなりと受け入れさせる軽妙な 会話、やはりよい作品だと思う。

[706] げんぱ 2010/04/10(土) 02:53 [削除] [公演名] 「何かと何かの祭典」 [劇団名] 中央ヤマモダン

久々に、かなり真面目に感想を書いてみました。 ヒ〜ヒ〜。 ネタばれ、ばれっばれに含みますので、ご注意を! http://blog.livedoor.jp/genpagiga/archives/52030595.html

[705] オトアン 2010/03/23(火) 12:57 [削除] [公演名] 松崎バックチャックス2 [劇団名] 劇団ハンニャーズ

 コントにも様々なかたちがあって、匿名性の高い無個性の「男」 や「女」を用いて普遍的な、誰でも演じられるようなものもあるし、 全くのシュールな、あるいはナンセンスなものもあるけれど、この 「松崎バックチャックス」シリーズはそうではない。キャラクタが 立っていて、コミカルな短いウェルメードプレイのオムニバスとな っている(カタカナ語の濫用はイケません)。つまり、ひとつひとつ の話が芝居としてまとまって落ちがついており、短編の小説や映画 のような味わいがある。この四人が演じるからこそのバックチャッ クスで、私たちは中嶋氏の姿を通してナカジマを、山田氏を通して ヤマダを、平石氏を通してヒライシを見る。それは決して役者の実 像ではないけれど、そのDNAを共有していることは確かだ。他の 誰かがやったら成立しない。渡辺氏のカルロスは、飛び道具だけれ ど、根本は同じ作りだ。誤解を恐れず言えば、片桐仁の「ギリジン」 みたいなものかな。  いわゆる男子の、学生的な友だち(ダチ、ツレ)感覚。彼女のいる いないとはまた別の腐れ縁。どこかが溜まり場になって何となくだ らだら一緒にいる。経験のある人も、ないヒトも「わかるわかる」 って感じ。  シリーズものは、またこの世界が楽しめるという嬉しさがある。 また会ったね、って。一方で、予定調和的になる恐れもある。しか し、シダジュン、戸中井三太という書き手が加わることで、意外な 展開ができるというのが長所だ。台詞の言い回しや細かいギャグに、 あ、シダさんぽいとか、戸中井さんが言わせそう、とか感じてニヤ っとするけれど、おふたりともちゃんと各キャラクタを把握した上 で世界観を壊さずにしかも膨らませているのはさすが。  しっかりと作り込まれたナカジマの部屋。『オープニング』とはい え本編といえる最初のエピソードは、週末集まってライト明滅式の アンケートゲームに興じる4人。掛け合いの中で、さりげなく各キ ャラの性格を見せていく。トイレットネタで騒ぐ小学生ノリ(笑)と 「ゲシュタルト崩壊」「悪魔憑き」などを絡めて最後はきれいに落と すかと見せて一瞬のドッキリも振りかける。  『ゴールドタイム』もよく練られたネタで、アメリカン連続ドラ マブームを上手く使って、DVDレンタルの延滞、ビデオ屋へのクレ ームや支払い請求、ヤマダのビデオデートを絡める。それぞれの思 惑が交錯し、ああそう繋がるのねという面白さ。あれ、ヒライシが 「情熱大陸」を上書きしたVHS、返却されてて上司から5万もら えるの?とか、やっぱナカジマ可哀想すぎ、とか、いろいろ考えた けど、まあ深く考えなくても楽しめる。  映写での『元に戻そう』『僕らの得意技』(うろ覚え)は、展開は読 めるものの実際にやっているリアルな面白さがあって、ちゃんとナ カジマの部屋の調度で撮られている。笑わせられた。思わぬ儲けモ ノ。  シダ作『俺窓』は、ヒッチコックの「裏窓」が土台になっていて、 足を骨折したナカジマが双眼鏡で覗いていたアパートで起こった 「事件」の顛末と真相の話。これもまたコッテコテのネタではある けれど、軽妙なやりとりとクスリとさせる軽い言葉遊びがシダさん らしい。おばさん姿のカルロスが大活躍。  戸中井作『占い専科』は、急に穏やかに怒らなくなったナカジマ を尻目に部屋を散らかし放題のカルロスとヤマダ。それぞれ精霊ロ ア様のカード占い、血液型動物占いに凝っている。そして二股で女 遊びのヒライシ。何をやっても怒らないナカジマに、もしや不治の 病かと心配するのだが、実は、という話。なんだキノコ占いって(笑)。 ナカジマの微笑みと最後のキレ具合の差が素晴らしい。  特に外部作者の2作はナカジマを中心にフィーチャーしていて、 中嶋氏が書かないような要素を取り込んでいることが公演全体のバ ラエティを生んでいる。うん、本当にすっごく面白かった。

[703] オトアン 2010/03/02(火) 13:28 [削除] [公演名] 喜劇 十二夜 [劇団名] KURITAカンパニー

 万代市民会館多目的ホールは、芝居に向いているとは言い難い。 ここで公演を打つ団体は、この空間の使い方に苦労しながらむしろ それを生かして様々な舞台を作り上げてきた。りゅーとぴあや gt.mooギャラリーなどで公演を重ねてきたKURITAカンパニーの 次なる舞台となったわけだが、特にこの場所である必要は感じない。 可動式のステージを標準の形で出し、そこからはみ出すわけでもな い。シンプルで、どこででもできる形のセット。ただ客のキャパは いい感じだし、客席がスタジアム式になることがメリットか。今後 また舞台の使い方は工夫されるのではと思う。  パネルを立てて中央に出入り口を設け、椅子2脚に手で持つ幕1 枚、必要最小限に簡略化されたセット。現代の、とはいえ多少クラ シカルな洋服。栗田氏が、どこかで聞いたメロディに恋の歌を乗せ て歌い、3人のぴえろが濃紺と黄(夜と昼を表すらしい)の表裏の幕 を持って舞台を回し世界が動き出す。幕の反転に伴い場面が変わり 人物が動く。時に幕のバックで顔のみ見せる映像的な処理にも使わ れる。これが細かく速やかな人物の入れ替わり、一人二役を可能に する。この3人が出ずっぱりで舞台をコントロールする。コミカル な仕草、表情、パーカッションなど、大活躍。シェイクスピアの、 特に喜劇は、「ありえねー!」という無理矢理な展開が多いのだが、 それを笑いながら、時に涙しながら、見ることができるのは、嘘を 夢のように納得させられるだけの芝居の力だ。  難破した船から救われた娘ヴァイオラ(傳川光留)は、男装しシザ ーリオという名で公爵オーシーノ(河内大和)に仕え、密かに愛する ようになる。オーシーノは伯爵令嬢オリヴィア(山賀晴代)に想いを 寄せ、シザーリオを使いに出すが、オリヴィアはこのシザーリオに 恋する。やがて別に救われたヴァイオラの双子の兄セバスチャン(傳 川の二役)がシザーリオと勘違いされて起こるドタバタ。  最初、女装した傳川氏が登場した時、思わずキモッ!と笑いがこ ぼれたが、それが男装したシザーリオになると、女性が男装したと いう設定が納得できる所作と表情、声色が見事。セバスチャンの男 らしさとの差がしっかりできている。ラストの対面シーンをどうす るかと思ったら、幕を使って実に上手く見せていた。流石。凛々し いオーシーノと、オリヴィアに求愛する少しおつむの弱いサー・ア ンドルーの演じ分けをした河内氏。オリヴィアの叔父で飲んだくれ のサー・トービーと、尊大でいやみでからかいがいのあるマルヴォ ーリオを演じ分けた荒井和真氏は特に素晴らしく、笑いをかっさら っていた。しっかり者でかわいさもある侍女マライアをよく演じた 永宝千晶さん。髭と肩パットがキュート(笑)な小島のぞみさんと三 バカの友人フェイビアンの福島美穂さんの男装振り。トランスベス タイトのスラップスティックが、無理なく表現されている。星野哲 也氏のアントーニオは凛々しく、投獄された後のケリをつけてもら ってないのが気がかり(笑)。そして道化(Fool)フェステを小気味よく 演じ、朗々たる歌を披露しギターまで爪弾く栗田氏。「荒城の月」の 替え歌や中島みゆき(研ナオコ)の「あばよ」、長谷川きよしの「黒の 舟歌」、昭和の匂いのする、どこか懐かしいメロディを上手く使った 歌は舞台のムードを形作る大事な要素だった。  カーテンコールで何度も「あほあほ光線」(笑)を浴びせられた我々 観客も、幸せな阿呆(Fool)になれたかな。次は、「ヴェニスの商人」 ですってよ!楽しみじゃありませんこと、奥様。

[702] オトアン 2010/03/02(火) 13:16 [削除] [公演名] ワタミチで「往復書簡」を二人が読む [劇団名] 齋藤 陽一&高橋景子

 2月25日(木)・26日(金)。  閉店するワタミチを惜しむように設けられた宴、というには確か に静かで重い内容ではあったけれど、それぞれの思いで集った人た ちが、同じ空間と時間をともに味わうことのできる、素敵な「宴」 だった。併設の古書店FISH ON移転に伴い、趣味的で楽しい本の セール、ワタミチの商品、そして数々の写真に囲まれ、心尽くしの お茶とお菓子をいただきながら、この小さな空間で繰り広げられて きた様々なことに思いを馳せる。そして、静かに語られる、劇団第 二黎明期の高橋景子さんと新潟大学齋藤陽一教授の顔合わせによる 朗読に耳を傾ける。何とも贅沢なひととき。  突然の脳梗塞で声を失い右半身不随となった免疫学者・多田富雄 と原因不明の難病に苦しむ遺伝学者・柳澤桂子。考えてみると、自 分の親も同じような年代になる。しかし老齢とはいえ、さすがに一 線級の学者として明晰な頭脳の働きが残っていて、だからこそ思い 通りにならない身体に人一倍の苦しみや悔しさがあるだろう。しか し、互いに相手に対するリスペクトがあり、思いやりがあり、それ ぞれ素晴らしい配偶者に支えられながらも、ここには一種「愛」と 言ってよいこころの交流がある。  同じ「障がい者」であっても、急に不随となり自死を考えた多田 氏と、原因不明の病に倒れ30年余りを病床で過ごす柳澤氏には、 男女の違いもあり介護に対する考え方の差もあり、「障がい者」をひ とつには括れないことがわかる。なるべく介助用具に頼らないよう にする多田氏、便利なものはどんどん使おうとする柳澤氏。健常者 が気づかないようなところに向けられる視線の鋭さ。健康だった時 は気がつかなかったことを知るようになった自分の今を受け入れ、 むしろ喜んですらいる。専門分野の、多分字面を見てもわからない ような専門用語がバンバン出てきて、頭がちんぷんかん(死語)なが ら、意味はわからなくても聞いてて面白い。その他科学や政治の現 状にも目が向けられ、音楽や能などの芸術にも関心が向けられる。 そして壮絶なリハビリの合間に、季節の移り変わる風情を愛でる。 それもユーモアを散りばめて。この文章の美しさは、お二人とも一 流の知性を持つからこそなのだが。しかし、多田氏は実際にこれら の言葉を口には出せないのだ。互いに淡々と綴りあう文の端々に「今 日はこの手紙を書き始めてもう四日目です。」「ここまで書いたとこ ろで、また、心臓の発作を起こして寝込んでしまいました。」「この 手紙を書き始めてもう一週間たちました。」「私が入院してしまい、 すっかりペースを乱してしまいました。」などの言葉があり、衝撃を 受ける。文章の行間に、どれだけの思いがあるのだろうか。ことさ らに感情的にならない文章であるからこそ、涙腺を刺激される。し かし、それは憐れみではない。むしろ健康な自分がひととしていか に生きるべきかということを問いかけられている気がする。  穏やかな中に凛とした知性と矜恃、そして女性らしい細やかさを 覗かせる柳澤氏の言葉が高橋さんからすっと出てくる。そして、多 田氏のマッチョとはかけ離れた、しかし男性としての逞しさを齋藤 先生の優しくかつ豊かな響きを持つ声がよく表している。重いけれ ど、素晴らしい時間をいただいた。早速本書を注文した。

[700] オトアン 2010/02/18(木) 16:22 [削除] [公演名] 第45回関東高等学校演劇研究大会東御会場その4

○六本目、見附高校(新潟県)。顧問・田村先生作で、主宰の共振 劇場で見せる日常を切り取ったような戯曲と通底するが、高校演劇 らしさも採り入れた作りで、高校生たちの子供時代の回想、だるま さんが転んだに興じるシーンから始まり、それから時が経って、高 校生となった彼らがだるまさんが転んだをするシーンで終わる。変 わったこと、変わらないこと。  あることをきっかけに高校に行かなくなっている津原の家である 寺の離れに、それぞれの高校に進学した、勝手知ったる旧友たちが 集まり上がり込む。話題は、中学の恩師が退職するお祝いの相談。 クラス委員だったためいろいろ当てにされる人のいい親松、部活動 で推薦されたけれど最近あまり身の入らない石田、周りから優秀と 思われるプレッシャーの中で進学した学校では楽に上位を占めるが、 クラスメートにいやがらせをしてストレスのはけ口にしているらし い浅野。何気ない会話の中で語られていくそれぞれの事情。ある意 味だるいシーンが続くのだが、ラストに向けての助走部として必要 なのだ。ただ、ナチュラルさはなかなかよいが、やはり微妙に「演 技」してしまうのが高校生で、むしろ本当に大げさな表現を抑えて 訥々とやった方が実は観ていて疲れないと思う。  学校に行けない津原は、しかし意外なほど元気で明るい。これは リアル。で、それでも時折見せる複雑な感情の端々。学校に行くこ とのプレッシャー、一方で不登校についても「それもあり」とされ てしまうことへの苛つき。しつこく声をかけられることも、全く声 をかけられないことも耐えられない。昔のヒトには「何をわがまま 言ってるんだ」と言われそうな彼のような高校生は、今実にたくさ んいる。  恩師を懐かしみ、好意を持っているのに、祝賀会に行って花束を 渡すことを、懸命に練習しながら、それでもふとしたことから吹き 出してしまう津原の激しい感情。その姿は、痛い。それを気遣う仲 間たち。気分を変えようと、久しぶりにだるまさんが転んだを始め るが、「はじめのい〜っぽ!」と声をかけられて、動けない、動かな い津原。叫びながら泣き崩れる3人。胸に迫る、ラスト。何かを訴 え、何かを解決するような話ではなく、問題は客の前に投げかけら れている。  余談だが、見附高校もバックは大黒幕だった。とかく、ホリゾン ト幕に色をつけることを高校生は好む傾向にあるが、室内のシーン なのにホリが色づいて行くような芝居が多いのには閉口する。少な くとも、これらの上演校にそういうものはなかった。高校演劇部の 皆さんは、いろんないい作品を見ていいところを学び採り入れてほ しいと思う。

[699] オトアン 2010/02/18(木) 16:21 [削除] [公演名] 第45回関東高等学校演劇研究大会東御会場その3

○五本目。疲れが出てくる頃だが、個人的には一番面白かった前 橋南高校(群馬県)「黒塚Sept..」。ここは1年4人、2年3人の少数 精鋭。顧問の原澤先生は以前の学校で「恐ろしい箱」というシンプ ルながら素晴らしいブラックコメディを作り全国にその名を轟かせ た(笑)。生徒顧問創作で、名前から能「黒塚」がモティーフにある と想像されるが、それらしいアピールはあまりない。糸車がさりげ なく置かれているくらい。幕が開くと実に雑然と散らかった部屋、 下手のベッドに素足を投げ出して倒れる少女の姿。やがてもぞもぞ と動き始め、何かを探す。どうやら(自宅なのに)マナーモードの携 帯電話に起こされたらしい。通話から、演劇部の仲間がやってくる ので道を教えていることがわかる。これがぶっちー(本人・大渕礼奈 の愛称らしい)。慌てて部屋を片付け、というかあっちのものをこっ ちに動かし始める。やってきたなっちゃん(三森夏穂の愛称らしい)、 ついでやって来る男子かに(中西崇将の愛称らしい)、後輩うっしー (伊藤栞の愛称らしい)らとどうってことのない会話をする中で、イ ンフルエンザで登校・部活動が禁止され、迫る演劇部の大会すら開 催が未定な中、限られた時間と制約の中で何をやるか、むしろやら ないかということが語られていく。  実際の事情を色濃く反映し、以前の能をベースにした作品のよう なものにしよう、という相談まで前橋南の現実とリンクしていく。 しかし、そこに虚実が混じっている。ぶっちーの言動がかなりアヴ ァンギャルドなのは性格のように見えながら、時折虚空を睨むよう な所作をしたり、もうひとりの部員の話をするが、ぶっちーのいな いところで部員たちはそんな人間がいないこと、ぶっちーの頭の中 の存在であることを語る。なっちゃんとかにが密かにつき合ってい るというぶっちーの話、ぶっちーはかにとつき合っていたという話 など、相手によって微妙に会話がずれていく。訪れた僧を食おうと する鬼婆の話(黒塚)の話をしつつ、素敵に奇妙なロックをかけなが らそれに乗り気なうっしーと二人きりになったぶっちーが形相を変 えて、糸車の見えない糸を手繰ってうっしーの首を締め上げていく、 照明で真っ赤に染まったシーンのインパクト。そして、実際には誰 が実在で誰が幻想なのか、観ている方が混乱してくる。  時折声もなく突然入って来る弟が、最後にぶっちーに言う、「学校 に行けよ」という言葉から、実はぶっちーが引きこもっているらし いこと、現実のように見えていたことが幻影であることが伺われる。 暑さが残り、雨が降り、だるい9月の空気感が描かれた、奇妙で印 象深い作品。しかし、一般受けしないだろうと思ったがこれが最優 秀で全国大会へ。芝居の出来は部員数によるのではないということ がよくわかる。

[698] オトアン 2010/02/18(木) 16:20 [削除] [公演名] 第45回関東高等学校演劇研究大会東御会場その2

○二本目は松本蟻ヶ崎高校(長野県)「花を摘む」。幕が上がると、 上方に吊られた銀色の蓮のような植物たち、そして黒い板と台が組 み合わされた抽象的な舞台。可動式で、シーンに合わせて役者たち が変化させていく。衣装も黒をベースに、性別や職業を示すポイン トだけ変えた抽象的なもの。全体に洗練された演出。  ベトナム戦争の後遺症に悩む帰還兵の話で、舞台は戦争のニュー スが流れるバーで会話する兵隊たちのシーンから、戦場の兵舎、ジ ャングル、アメリカの病院、野球場、主人公ジュリーの部屋など、 どんどん変わっていく。兵隊を女子が演じることや徹底した抽象化 などから、テーマを人類共通の普遍的なものとして捉える視点が示 されている。顧問・日下部先生の作・演出(!)は流石。 だが、普遍化することが必ずしも正解でないこともある。脱臭・脱 色されてしまうこともある。ベトナム帰還兵の問題は、参考文献と して上げられていたものにも示されているが、戦争の普遍的な悲劇 にとどまらず、アメリカという国、文化、その中での黒人を中心と する低所得層の事情を抜きにしては語れない固有のものがある。こ れを女子高校生が演じてリアリティを生むことは難しい。それは冒 頭の酒場のシーンからそうで、よく演じているが、それはあくまで も表面だ。帰還兵の叫びを、彼女たちは上げることができない。も ちろん承知の上でやっているのだろうが、どうしてもこのテーマに 取り組まなければならないという必然性を感じなかった。しかし、 戦場での被弾シーンなど印象的な場面が何カ所もあったし、このこ とについて考えるきっかけになればよいなと思う。 ○三本目の岡谷南高校(長野県)「リア王」は、昼食時外に出ていた ためちゃんと観ていない。モニターで見る限り、能舞台を思わせる 方形のエリアに、ホリゾントに映写された鏡の松、そして上に吊ら れる道成寺の鐘のようなカゴと、能を意識した舞台。そしてリア王 という父親を中心に三人の娘(松子・竹子・梅子)とその影、道化、 コロスたちが繰り広げる、ダンスあり、能的な歩行・所作ありの、 ちょっと「りゅーとぴあ能楽堂シェークスピアシリーズ」を思い浮 かべてしまう作り。生徒顧問創作というが、まあでも意欲的に良く できていると思う。観た知人はとてもよかったと言っていた。 ○四本目の秩父農工科学高校(埼玉)は、50名を超える部員数で、伝 統的に大がかりなセット、ナンセンスで深い話と高校生離れしたも のを作るこれも常連校だが、長年の顧問が替わられてからも現顧 問・小池先生の書くものはやはり一味違う。幕が開いて、暗い中に スモークが立ちこめセットのライトが点灯するこのファーストショ ットが、期待を高める。・・・ここが一番よかったかな。明けると、舞 台奥に組み上げられた機械の固まりを中心に立体的なセットが組ま れ、オフィスらしいことが示される。やがて奥の機械が「社長」で あることがわかるのだが、ある企画会社が「コミュニケーター」と いう喋るぬいぐるみの企画開発の最中、大企業が買収をもちかけ、 エージェントがやってくる。いろんな笑いを散りばめながら、やが て見えてくるのは会社組織の中で歯車化し、自ら機械と化していく 人間の姿。こういうブラックなコメディって、若林先生の頃から秩 父農工のカラーだったなあ。社長が機械と一体化し、また新しい社 長がそこに収まるという図はなかなか面白かった。でも、よくでき ているがちょっと意外性がないというかありがちな終わり方。

[697] オトアン 2010/02/18(木) 16:18 [削除] [公演名] 第45回関東高等学校演劇研究大会東御会場その1

 高校演劇の独特な雰囲気があまり好きでない人もいるだろう。 自分もそれほどではない(笑)。でも、ここにしかないものもある。 少なくともこの瞬間、こいつらはこのために生きている。そう感じ られる演劇は、尊い。コンクールという性質は好ましくない面とし て語られるし、それは否定しないけれど、結果の悲喜こもごもも含 めて、芝居を作っていく過程の全てがまたひとつのドラマだ。高校 生には、自分の地区、県など、自分たちが終わった時点以降で「観 る」ことをやめてしまう傾向があるけれど、それではそのレベル以 上にはなりにくい。ぜひ、万難を排して観て欲しい。また、あれだ け熱心に演劇のことを考えていた日々が終わると(むしろそれゆ え?)、8割方の人は演劇から遠ざかる。これもまた残念なことだ。 特別何かをすることはなくても、忘れないでいよう。例えば「ナル ニアの友」でなくなる哀しさ、それを多分本人は気づかない。  北関東大会は、東京や千葉、神奈川などの文化的先進地域を含む 南関東大会にひけをとらない、むしろそれを凌ぐ作品が見られる全 国でも屈指の地域。今回は1日目しか観られなかったけれど、何度 もはっとさせられぐっとさせられた。 ○一本目は、常連の作新学院(栃木県)「La Mason」。幕が開いて、 高原の小さなレストランのセットがまず目に入る。流石に40名を 超える部員、裏方専門のチームがあるだけあって、下手なプロ・セ ミプロよりしっかりした装置作り。上手の窓からは山並みが見え、 下手ドアから外の石壁が覗く。そして、時間経過とともにきれいな 間接的照明で色が変化してゆく。正面奥には厨房がこれまたしっか り作られる。椅子やテーブルも、既製品でなく手作りだがきちんと している。そして、エキストラという表記だが、それぞれ老若男女 の客のキャラクタを作り込んで見事な部員たち。  那須でレストランLa Masonを営む穏やかでみんなに好かれてい るマドカ、そこに転がり込んできてアルバイトしているアヤ。毎日 入り浸っている酪農家のせがれタイゾウ、そのおやじシゲらとの掛 け合いが楽しい。母親と喧嘩して家を飛び出してきたアヤの事情が 見えてきて、そこに突如やって来たミサキという少女が、実は家族 を捨てて家を出てきたマドカの娘で、父親の死を告げて去ろうとす る。動揺するマドカ、許そうとしないミサキ、間に立つアヤ。そこ に、牛のお産が始まったことをタイゾウが知らせに来て、アヤは強 引にミサキを伴って見に行く。命をかけて命を産み出す母の姿、命 の重さに打たれる二人。次の朝、別れ際にミサキは硬い表情だが、 最後にまた来ることを告げて去り、アヤもまた家に帰る気持ちを固 める。  うーん。ええ話や、だけどさ。たった一日で、十数年の思いが溶 けるの?60分であまりにきれいな起承転結をつけてしまうのはど うだろう。顧問・大垣先生の作品には、ビタースヰートな名作が多 いが、今回はどうせ客はこれくらいわかりやすくないと、というよ うな見切りがあったように思う。でも、最初から高水準でレベルの 高さが示される。

[694] オトアン 2010/01/18(月) 15:46 [削除] [公演名] 「人でなしの恋」 [劇団名] 山賀晴代ひとり夜話 人 形添え

砂丘館の蔵で江戸川乱歩なんて、はまり過ぎ。わくわくして会場 に向かった。待つ間に通された和室には、後藤信子さんのかわいら しくも異形な人形たちが並んでいる。  そして、蔵へ。蝋燭の灯り、ぼんぼりや灯篭の灯りの仄かにとも る中、奥には古い和箪笥、下手には衣紋掛けに内掛けが、そして古 い時計が秒を刻む。上手には3尺余りの和服の人形が立っている。 蔵の階段を静かに白い衣装の山賀さんが下りてくる。そして座に着 くと、一礼、おもむろに卓上の頁をめくり、第一声を発する。「門野、」 その声に、思わずびくっとする客。もう、掴まれている。白石加代 子が「百物語」の「箪笥」でまず背筋を何段か折り曲げて老女と化 すように、ある世界に入る手順、異質なものではあるけれど、異世 界に誘うこの導入部からして、栗田氏の演出が行き渡っているよう に思う。それ以上に、山賀さんの資質の素晴らしさ。 そこから約75分、というのが信じられないくらい、夢幻のような、 甘美な悪夢のような、そんな時間が経過し、気がついたら終わって いた。この間、時折頁をめくるのだが、それは「間」であって、彼 女は一切テキストを見ることなく「語る」。時折、コップの水を口に することさえも、計算され尽くした「間」であり、どこか人形めい てすらいる。 門野という名家の、浮世離れした美形の夫に嫁いだ十九歳の京子が、 時を経て回想する形で語られる。女嫌いで気難しいという門野、し かし半年は思いのほか優しく愛情を注いでくれているように見え、 京子は幸せに暮らす。ところが、それから門野は夜毎に床を抜け出 し、蔵の二階に上がって行くようになる。不審に思い後をつけた京 子は、固く閉ざされた階上で囁かれる、夫と知らない女の睦言を聞 くことになる。しかし、時が経ち出てきたのは夫のみで、女の姿は ない。明るい時間に蔵の中を改めても、抜け道もなければ人の潜む 場所もない。嫉妬に駆られた京子がやがて見つけ出したのは、蔵の 長持ちの中にしまわれた名人の手による艶めかしい人形であった。 そして・・・。 謎解き的な要素も交えながら、いわゆるミステリではない掌編。い かにも乱歩らしい猟奇性、そして人間心理の哀しさに満ちている。 現在、フィギュアを偏愛する一部の人々のことを考えれば、当時か らそのような嗜好があったことも特に異なことではないかもしれな いが、それとはまた別の次元でどこか背徳的で異形な愛情の形が垣 間見える。 突然、蔵の上階から物音や笑い声が降ってくる。ぞぞっとする。決 して怪談ではないし驚かせるわけではなく、語る内容に血肉が与え られるような生々しさ。憎い演出だ、いろんな意味で(笑)。  カタストロフを語り終え、つと頬を伝う涙。そして、礼をして動 かなくなる。しばし、拍手すら躊躇われるような静寂が覆う。これ は、あたかも最後になってかの人形に立場が入れ替わったようでは ないか。いや、そもそもこの語りそのものが、京子の念が何ものか に乗り移っていたかのような、あるいは京子のモノローグのようで ありながら実は京子の形を借りた何か異形なるものの語りなのでは ないか。そんな思念がどんどん浮かんでくる。副題に〜あなたが見 ているのは誰?〜とある。単純に考えれば、門野が見ていた女は誰 なのかという京子の言葉のようで、また別の読み方が誘発される。 のでございます。  小さな空間、少人数の観客、たった2回、もったいないようだが、 これ以上のキャパでは成り立たない世界でもある。体験できたこと の贅沢さを、噛み締めたい。出口でご挨拶される山賀さんの、憑物 が落ちたような笑顔が印象的だった。

[693] オトアン 2010/01/18(月) 13:32 [削除] [公演名] いきていないということのほかは [劇団名] 劇団カタ コンベ

 初演から約5年だなんて。この5年、何してたんだ自分。今回、 台本を買って、初演のそれをまた見返してみた。基本構造や、ネタ まで同じ部分が多いけれど、同時に、例えば西山が男から女になっ ていたり、斉藤美奈が奈美になっていたり、死んだ彼らにも見えな い「孤独」が「影」という形で、そのセリフや他の人物たちとの関 わり方も大分変わっていたりということに気付く。もちろん役者も、 そういえば総入れ替えだ。初演の自分のレビューを読み返して、役 者のことについて随分字数を費やしていたことに気付いた。舞台の レイアウトも違う。同じ戯曲、同じテーマでしかも新しい物語とし て見ることができるのは何だかオトク。  川瀬浩一と真理子の姉弟、戸中井三太・高橋景子の残した強い印 象は無二のものだが、イカラシ・コージと小山由美子は、2010年の また新しい姉弟を体現していた。妻を失い、喪失感に茫然としてい たために事故死か(自殺か)憶測があった浩一は、死んで気がつくと ある建物(ホテル)の前にいた。そして窓から見下ろす原平(熊倉静) と言葉を交わし、そこにいつく。時間について考え込む小坂名(長谷 川創)。子どもの顔を思い出せないまま店で勤め続ける西山(萩野み どり)。その他にもいるらしい、死んだことを自覚している彼らは、 やがてある時点で消えて行く宿命にある。この狭間のような世界で は、望みの全てが叶うわけではないけれど、欲していたものが現れ そこにある。浩一の缶コーヒーや西山の店や原平のケンタその他。 対立があり、怒りや悲しみや喜びや願いや、淡い触れ合いがあり。 彼らの日常は、ほとんど我々の写し身だ。「いきていないということ のほかは」。そして、死んでいる(being dead) 彼らとコンタクトが できない「影」(木村美喜・渡辺ぼぶダブルキャスト)は、自殺した 人間。一方、生きている人たちの世界は、同じ空間ではあるが次元 が違うようにそこに現前する。幽霊が出るという噂を聞いて、会い たくて、いやいないことを確かめて吹っ切りたくて来た真理子と友 人の奈美(上村亜沙美)。舞台上で2つの世界は交わることなく並行 して進む。  単純に、死者と生者の交流を「させてしまう」、安易に気持ちを通 わせてしまうような演劇をよく目にする。高校演劇では多発。しか し、たったひとつの言葉が重なり合う、それだけのこと、ほんの一 瞬の交錯、そこに向けて収斂していくこのストーリーの切ないまで に美しく感動的でかつストイックな作劇をぜひ見てほしい。出会え ないのだ。それが、死ということなのだ。呼びかけても、相手には 届いていない。でも、話しかけずにはいられない思い。瞬時、つな がるかすかな可能性。こうして死者の、フィクショナルな世界を描 くことで、生きているということの意味を問いかける。いや、問い かけるわけではないが考えざるを得なくなる。声高に訴えることな く。  萩野さんの、ちょっとキツいショップ店員西山の姿がよかった。 熊倉さんのモノローグ、そして消えていく原平の表情に、涙腺を刺 激された。  カタコンベ初体験の知人を連れて行ったのだが、どうだっただろ うと思ったら「とても面白かった!」と感動を口にした。笑いと涙 を誘われたようだ。感想の真っ直ぐさに、逆にいろいろ教えられた。 奈美の上村さんがツボだったらしい。ですよ。

[692] オトアン 2010/01/16(土) 02:25 [削除] [公演名] まさかのマドンナ超え [劇団名] nama

チラシ写真に立ち込める濃密なeros、でもどこか笑える感じ。上 半身を脱いだ髭の男、一瞬ムーディー○山かと思ったが(笑)、逸見友 哉氏。チラシのみならず、今回挿入されるムービーでも活躍。 まさかのマドンナ超え、ということで、オープニングのデュオ「まさ かの……」から、すでに全開。女性としての自らの身体に自覚的、い やむしろ過剰なほどの意識を向ける。namaのダンスに、上手いと か上手くないという言葉は無意味だ。評価ではなく、何を感じるか。 で、旦那様や彼氏が、どんな気持ちかなあと思ったりもするのだ。 だって、ある意味はだかよりもむき出しだもの。感情、感覚。それ を人に見られるのって、フクザツじゃね?あー、そんなかお他の人 に見せないでー!って。でも、それを抑えて彼女たちの表現衝動を 認め協力する男心って、グッときます。協力と言えば、音響・ムービ ーの横山氏、照明の藤井氏、チラシ製作小田島さんなど多くの人が関 わり、またいろんな人が観に来ていた。何かしらの面白さを感じて いるということだ。 さて、ネタバレ続ける。 YUPPEさんソロ「ホセ部長」、床に、壁に、そして柱に、彼女一流の ダイナマイトな色気が弾ける。挑むような目つき、指の動き。しかし 実に健康的なオイロケ。にこにこしちゃう。 NOPPUさんのソロ「kimini…」。背負ってきたニット(腹巻き?)とひ としきり戯れ、おもむろに話しかける。ふっと空間が演劇的になる。 音と詞が耳に入ってくる。その叙情性。切ないほどピュア。実は少 しご本人からいきさつを聞いた。あえて書かないが聞いたら教えて くれると思うよ。 さてムービーが二回あって、最初は駅に男(逸見氏)を車で迎えに行 き、一緒にパンダ焼き買ったりサンド食べたりして仲良く出勤?し ていくNOPPUさん。もう一本は、朝食?の席で新聞を読む逸見氏 に、宇多田ヒカルを歌いながら家事をこなすYUPPEさん。そ、そ のランチのサンド、もしやフタマタ男!と思ったら、彼を送り出し た後チャイムが鳴り素肌にジャケットの男が上がり込む。ダ、ダブ ル不倫? で再びふたりで踊る「泥棒猫」。二人の女の修羅場が、まさに猫の戦い のように繰り広げられる。そしてラスト「求愛」。マドンナ(笑)ワイン を浴びるラストまで、何だか爽やかな感覚。 同じ振付でも、ふたりの資質は違うとわかる。リビドーのあり方、 欲望の指向性がそれぞれだからだ。しかし、その差異の上でともに 踊ることにこのユニットの面白さがある。


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