2005年1ページレビュー

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例の掲示板「1ページレビュー」2005年記録

[137] 本間 弘行 2005/01/10(月) 07:16 [削除]
[公演名] 青年団第47回公演『S高原から』
 平田オリザの作品を上演する青年団の舞台に、日常性だとか、
日常のリアルさといったものを期待するのは容易いことかも知れな
い。だが、そこにあるのは、あくまで青年団という団体が創造し、
確立し、維持されていくスタイルであり、誰でもが持つ、あるいは
身につける日常性や日常感覚といったものそのままではない。だか
ら、舞台上で同時に起こる俳優達の台詞のある演技も、上演中に何
度もあるわけではない。青年団は、日常のリアルさといったものを
雰囲気としては漂わせながら、きちんと観客に言葉を聞かせようと
しており、また観客とコミュニケーションをはかろうとしている。
青年団の演劇は、それがおこなわれる場から考えれば、観客と俳優
が織りなす非言語的な会話劇であり、非常に詩的である。
 さて『S高原から』は、サナトリウムが舞台の非常に地味な作品
であるが、それだからこそ、今すぐには死なないがいつかは死ぬだ
ろうという状況に置かれた人々とそうではない人々との会話(対話
ではない)が引き立ち、魅力的であった。ただ、そのような世界を
作り出す作者の想像力は輝かしいが、たとえば結核が国民病とは呼
べなくなった時代に生きる俳優達が年単位で死と向かい合うことに
なる病を生きる登場人物を演じるわけで、そこにはまだ冒険の余地
があるだろう。
 他、青年団の公演の前に、小竹向原のアトリエ春風舎というとこ
ろで地点という団体の 『雌鳥の中のナイフ』(三浦基:演出)を観
たが、出演していた安部聡子という俳優の演技が信じられないほど
美しかった。この団体はやがて京都に移転してしまうようで、東京
を離れるという事情が演出家に影響しているように、終演後の演出
家の様子で感じたが、何とか次の公演にも行こう。
 (1月9日 こまばアゴラ劇場 午後6時)

[138] ケムマキ 2005/01/16(日) 19:38 [削除]
[公演名] 蝉の声の止む頃に [劇団名] 共振劇場
淡々と進む日常劇。

書道家の舅と2人で暮らす主人公(嫁)の話。
舅が亡くなり、生前から催される予定だった舅の書道展を舅が亡く
なった今、主人公(?)春子が仕切って行う。登場人物は、春子(嫁)
とその義理の姉・清美と書道展を開催する会場主・中野と舅の弟子
の俊雄。
話から、春子の夫、つまり清美の弟は父(書道家)と仲違いの末家
を飛び出し、7年間行方知れず。姉・清美は父に期待をかけられて
いた弟に父を取られていたという思いから、父との関係がうまく行
かず、弟が行方知れずになった後自分も家を飛び出す。
結局家に残ったのは、春子と書道家の舅。

弟子の俊雄がかつて師匠からもらった言葉が「余白が潔い」。
紙に残された墨の文字と紙の余白。
家に残された人間と家の余白(空間的・心的)。
その二つがなにか謎かけ(?)のようにリンクしたお話の芝居。

ただ、舞台の演出が全然潔くない!
「余白が潔い」という言葉とまったくリンクしてこない。
暗転前の台詞の無い役者だけをクローズアップした間が余計なくら
いに長い。
役者の間がもたんよ。と観る側の私は感じた。
それから女性2人の不自然さ。自然に見せようと見せようとしてい
る不自然さ。違和感。
無味無臭と感じる舞台の中で役者の臭さが鼻をつく。

中野さん役のおじさんが見た感じ自然体でこの人の何気ないしぐさ
に注目してました。


[140] 一発次郎 2005/01/16(日) 21:17 [削除]
[公演名] 「蝉の声の止む頃に」 [劇団名] 劇団 共振劇団
 この劇団を見るのははじめてだ。
 最初に劇を見始めて気がついたのは、セットにずいぶんと力を入
れていると思った。古びた日本間が再現されてました。縁側や柱の
材料を見ると古い木材を集めてきて器用かつ精巧に作り上げている
と思った。でも、柱のななめの切り口からふと疑問がわいた。あれ?
ななめに柱がカットされているのに何で?真新しい断面がでていな
いのか?と思った。切断面が目立たない様にわざと切り口を黒く絵
具か何かで塗られている。その断面の色と床や柱の古びた感じの色
が同色なので、この木材部分は古びた雰囲気は出ているが、全て新
しい木材にあとから着色しているのがわかり、木材部分の多さから
美術スタッフが相当に時間をかけて色を塗り作りこんでいるのがわ
かった。壁のはがれやひび割れなども実に手が込んでいる。
 この部分は古材を利用したんだと思わせるのがいいのか?美術ス
タッフが時間を相当にかけて苦労して作りこんでいると気づかせる
のがいいのか?僕には判断できない。
 第二の疑問点は営業で一番最初に中野さんが訪ねて来る前に、春
子と清美は玄米茶を飲んでいたと思うんだけど。(お茶を入れた時に
玄米の香ばしい香りが観客席まで漂ってきたから。)これは僕の偏見
だと思うんだが、一般の男性のお客さんが来たならば、煎茶を入れ
るような気がする。会社などだと普通は煎茶だよな。って思ってし
まった。しかし、これも女性二人で玄米茶を味わっている所に急に
中野氏が現れたので、そのまま彼女達と同じ玄米茶を入れたとも判
断できる。または、中野氏はある意味、父の仕事仲間とは言え親戚
同然の相当に親しい間柄なのかもしれない。だとしたら、玄米茶で
もいいのかもしれない。このあたりも判断に困る。
 自分は子供頃に書道をやっていたせいか?書道家の家の中の備品
がすごく気になった。つり下げてあった筆は20本近い数であの普
通の筆でも3千円から5千円いやもしかしたら、今なら1万円はす
るかもしれない。10本だから、普通の筆だけでも3万から5万。
大筆は見たこともない大きさの筆まであるので予想不可能だが全部
で10万から20万くらいはするんじゃなかろうか?なんて思って
しまった。
 でも、書道の道具一式があるのに、文鎮が見当たらないのが妙に
気になった。
 それから、あの作品の多さはスタッフが書いたものなのかな?
 1000枚くらいあったな。
 それから、いくらなんでも作品の上に本などの重い書物は絶対に
あげないよ。
あれじゃー作品に斜めに折り目が入るだろう!って突っ込みたくな
る。
 それにあれだけの大きな半紙にあの枚数を書くには美術セットと
はいえ、とてもスタッフが書いたとは思えない。知人に書道家の先
生?でもいるんだろうと思った。そこから、全てお借りしてきたの
かもしれない。でも、壁の額縁に入った作品の名前部分は失礼だが、
どうもしろとっぽいし、作品の上に本なども上げて粗末に扱ってい
る所を見ると美術スタッフ全員で一枚一枚書き上げたのかもしれな
い。気の遠くなるような労力だ。
 ここの劇団員ならそれくらいの労を惜しまないメンバー達なのか
もしれない。
 最後のうどんを食べるシーンで気がついたが、野崎晴美(姉)は
書道家の先生の娘で小学4年ぐらいで書道をやめたと言っていたが、
左利きだから当然だと思った。そのあたりをせっかくだからもっと
突っ込んだ方が面白かったかもしれない。
 以上が一発次郎が見ていて妙に気になった。ストリーには触れな
いでおきます。僕は舞台美術だけなら、Sをあげたい。新潟にもこ
んな劇団はいたんですね。いろいろ疑問の残る芝居だった。

 ある意味、流石、職人の町。燕の劇団だと思った。舞台美術に凝
りまくってました。


[141] 中ニ 2005/01/17(月) 01:03 [削除]
[公演名] 蝉の声の止む頃に [劇団名] 劇団共振劇場
 記憶違いでなければ、この劇団は新潟県の高校教師で構成され
ている劇団だ。野崎春子役の大作綾は地方演劇の雄といわれる弘前
劇場の元俳優とか(因みに弘前劇場も高校教師の集団で実力派)。
 初日に行ったのですが、随分と御客さんが少なくて驚いた。高校
生が沢山いると思ったのですが、そう言えば高校生はセンター試験
真っ只中か、なーんて。
 日常の風景を切り取る所謂「静かな演劇」?こういった作品は下
手をすると「隣の席で酒を飲んで人生を語っている人の声」が聞こ
えてくるに過ぎないシーンの連続となってしまいがち。通夜とか葬
式とかでのワンシーンみたいに。え?!と思う事がないと、眠くな
る。エッセイみたいなもので、文体は控えめでも、話題やその展開
にセンスと工夫が必要なんでしょうね。
 「蝉の・・・」は一見控えめな演技スタイルだけど、会話のリズ
ムがやや一本調子で、声の雰囲気が良い分だけ2級のドラマリーデ
ィングの感があり。話題展開は僕の親戚の実話の方が春かにドラマ
ティック(・・・笑えねー)。舞台美術へのこだわり方が尋常じゃな
く凝っていたので、作りたい世界は予想できた。が、パンフレット
の挨拶文と同じくらいの密度の作品であった様に思えたのは残念。
「人の不在による余白」がテーマだった気がするけど(平田オリザ
の得意技か?)、であれば、キャストが一人、場から退場する事で醸
し出される、あの居心地の悪さなど(平田オリザの得意技か?)も
っとあっても良かった様な気がする。2列目の席に座った僕。2列
目には僕と友人の二人しか座ってなくって、これぞ不在による「余
白」による居心地の悪さではないか、と思ったのでした。

[144] 本間 弘行 2005/01/29(土) 10:26 [削除]
[公演名] アブ・バース Live!
知らない人はきっと意外に思うだろう人の演奏もあった休憩後の
セッションで、求められて踊った堀川久子は、決して広いとはいえ
ないスペースの中で、ソロの時にあらわれる鋭角な動線とはまたひ
と味違う、スローな、まるみのある豊饒な身体の動きを見せる。そ
れはすぐそばにいるアブ・バースをはじめとするミュージシャンか
ら生まれる音を受け止めて送り返される堀川久子の身体の声であり、
踊りで表現された視覚的な音である。
 実際ヨーロッパで何回か堀川と共演しているという今回が初来日
のアブ・バースも、それはセッション前のソロライブでその特徴が
明らかであったが、空間に音で絵を描くようなアーティストであり、
インプロビゼーションといってもなかなか構築的で、視覚的なパフ
ォーマーである。
 より音楽の話になってしまうが、2回目の休憩後では、ローカル
ミュージシャンとジャズのスタンダードナンバーが演奏された。ア
バンギャルドがどうしてスタンダードナンバーをと感じる方もいる
かも知れないが、聴衆あるいは観客にとって大事なことはそれがど
のように再生されたか、またどんな風に再生されたかであり、確か
に個人の嗜好が何よりも問われるときもあるが、それと同じくらい、
時には個人を越えて、いいものはいいのだ。
 (1月28日 Jazz Flash 午後7時30分)

[145] 音庵 2005/02/01(火) 13:39 [削除]
[公演名] 消失 [劇団名] NYLON100℃
 ストーリーおさらい編〜ネタバレバリバリ!

チャズとスタン(リー)のフォルティ兄弟は、39・35になるまで2
人で暮らしている。クリスマスに知り合いを呼ぶパーティを準備し
ながら、スタンはスワンレイクという女性への思いを募らせており、
兄チャズは弟が告白するよううながし、プレゼントのセーターすら
編んであげるという少々行き過ぎのような愛情を見せる。スタンの
立ち居振舞いにおかしなところがあるのは当初キャラクタに埋もれ
てあまり意識されないが、記憶が飛ぶこと、写真がないことなどか
ら次第に見えてくる。チャズは弟の成長自立を喜びながら、手元に
おきたい気持ちを抱える。少し奇妙で女性と縁遠いな兄弟の日常は、
後に見えてくる事情はともかく、リアリティがあり、身につまされ
るものがある。笑いに混じり細やかな感情の機微が描かれるのが今
回の特徴で、役者が「難しい」というのもよくわかる。しかし6人
とも実に見事なキャラクタを創り出していた。
 兄弟の企画はスワンレイクの貝アレルギーでぽしゃり、きまずさ
が生まれることが説明される。登場する男ドーネンは傍若無人でち
ゃらんぽらんだが、息子安二郎(小津へのオマージュか)への偏愛
を示し、つまづきやすい、頭が働かないなどの異常をさりげなく見
せている。兄弟との関わりは次第に見えてくるが、彼はすでに亡く
なったスタンや安二郎のレプリカント(ロボット)を作り、記憶を
捏造・調整している。一見穏やかな日常の背景には、地球規模の戦
争による環境の異変があり、水やガスなどに異常がある。この世界
観の上に、兄弟の特殊な事情が重なり、家の中には奇妙な違和感が
ある。
 2階を間借りしようとやってきた女性ネハムキン。そしてからか
われたと思い怒るスワンレイクが相次ぎ訪れる。スワンレイクは子
供の頃タンバリンという少年に淡い思いを抱くが、彼に向けられて
いたいじめがやがて彼女に移行した経験を語る。実は彼女はその中
で少年の片目を鉛筆で刺すのだが、それがネハムキンの夫だという
ことが後に明かされる。彼はやがて人類が打ち上げた第二の月、ム
ーンステーションに行き、情勢の変化で取り残されて死を迎えたで
あろう事が語られる。
 ガス点検に来たというリントは、隙を見て家の中を探る。ネハム
キンには探偵だと打ち明けるが、実はそれもフェイクで、管理局か
ら失踪した女性たちの捜査に来たのだった。スワンレイクは押入れ
に眠る多くの贈られなかった贈物を見てスタンの純な思いに惹かれ
ていくが、それらもチャズの調達したものだった。スタンを振った
とされる女性たちはみな行方不明、実はチャズにより消去され、ス
タンの記憶もまた改ざんされている。スタンは女性に惹かれながら
も兄と共に生きたいと告げ、またおぼろげに兄が事実を隠している
ことを感知している。
 多くの死体に囲まれ、虚構に支えられながらも、兄と弟の間には
いびつで真摯な愛情があり、スワンレイクと無垢なスタンの間にも
心の交流がある。ドーネンは作った息子に異様なほどの愛情を注ぎ、
ネハムキンはリントにほのかな思いを寄せる。ここにはKERAの暖
かな視線があり興味深い。しかしこうした束の間の穏やかで暖かな
触れ合いが、やがて破局を迎える。それはリントの追求によるもの
というより、自滅に近いのであり、終わりへの予感は冒頭から漂っ
ているのだ。


[146] 音庵 2005/02/01(火) 13:41 [削除]
[公演名] 消失 [劇団名] NYLON100℃
感想編〜ネタバレリーナ

さて、「消失」を観て思ったことをいくつか。KERAの作品について
見ている度合いが圧倒的に低いので、もっとふさわしい語り手がい
ると思うが。
 KERAは天才か、といえば、自分はむしろ普通の人だと思う。し
かし、KERAのセンス、バランス感覚、嗅覚のようなものは抜群で、
面白そうなものを見つけて上手く取り込むことが一種の才能になっ
ていると思う。楽譜も読めずにバンドをやっていた頃から、要領の
よさは変わらない。いつも時代の空気のようなものを読んで、自ら
の問題意識を織り込んでいく。1960年代に生まれ80年代を通って
今があるという、自分と同世代の感覚に共感すると同時に、他の世
代のことは置き去りかも、と感じるのだが、他はどうあれ、自分の
視点で斬っていく中で響く人には響くはず、という姿勢がケラリー
ノ・サンドロヴィッチたるゆえんでろう。兄弟の姓フォルティはす
なわちFORTYであり、40という年齢を意識させる。これはKERA
と同世代の者を直接に撃つ。人物には年齢設定があり、それは役を
考える上でかなり重要に思える。ドーネンが34で兄弟より年下で
あること。スワンレイクの複雑さは32の女性としてリアルであり、
リントの独善的で人を裁く性質(言われたことをそのまま伝えるだ
けかという局の人間への非難は、そのまま彼自身の姿である)は、
30という年齢で説得力を持つ。
 設定・ストーリーの秀逸さ。ロボットによる擬似的な家族関係の
中で生まれる、感情の交流というのはテーマとして新しいものでは
ないが、兄弟やドーネンの人物造形の中で、この関係は不思議な自
然さで腑に落ちる。もちろんチャズもドーネンも、対象を愛するこ
とで自分自身を愛しているのだが。タートルズの
HAPPYTOGETHERは、60年代的な温かさをもって奏でられるが、
「とても幸せいっしょにいられて」というリフが、実は透明な哀し
さをもって歌われていることが見えてくる。世界の崩壊を背景に、
個人的な生活もねじれてかろうじて保たれている。しかしやがてそ
れは崩れる定めである。こうしたニヒリスティックな物語は、ケラ
リーノ作品のシリアスコメディ群にはままあるが、少ない観劇経験
から言えば阿佐ヶ谷スパイダースのノワールにも通じる、破局へ向
かう虚無的な悲喜劇は、「いま」の空気をよく表していると思う。終
末・終焉を漠然と感じながら日常を過ごす我々にとって、このささ
やかな日々の営みが、やがて大きな波の中に飲み込まれすべて「消
失」していくことは暗黙の了解のうちにある。だからこそその中で
いとしさを覚え何かを守ろうとする。しかし、その「愛情」はそれ
ぞれのベクトルと強さを持ち、時に交錯しぶつかり相殺される。こ
れはデフォルメされた人間存在の実際の姿であり、特に現在をよく
映す鏡である。人類全体の問題としての傲慢な(宇宙)開発、政治
(戦争)による計画の頓挫、環境の破壊と生存の圧迫、すべてを根
こそぎ奪っていく強制的な死。人間の営みが全て消えていくことの
空しさを改めて考えさせる。そんな中でも日常は続き、生き残って
いる者は生きていかざるを得ない。むしろエンディングに残る3人
が、浮かび上がる死者3人よりも哀しい。宇宙論や原始人類の話は、
時間と空間の広がりの中での自己の小ささを意識させるものだが、
結局は虚無的になるだけの話になりやすい。随所に織り込まれたこ
れらの会話は、しかし終盤、「五万年も途絶えてた人類が、また生ま
れた」というスワンレイクの話で、ほのかな光を見せる。消失して
すべてが無になったような地平で、しかし残るものがある。「がんば
れ○○」と言われるより、今の我々にとってどれだけこのダークな
悲劇が救いになることだろうか。


[147] 本間 弘行 2005/02/05(土) 22:32 [削除]
[公演名] ミュージックシアター『浄土』
 “三島由紀夫の文章世界の結構が透けて見える作品のひとつで
ある(谷川渥)”という作家の短編小説の中でも特に美しい「志賀寺
上人の恋」がどのような曲になり、またそれがどのように舞台化さ
れたのかと、期待を持った今回のミュージックシアター『浄土』で
ある。さて横浜公演の会場であるBankART1929/192
9Hallに入ると、制服姿の三島が椅子に坐っており、開演間際
になればエレクトロニクス・サウンドの水の音が聞こえたりして、
銀行だったという建物にあった柱を利用した、神殿のような舞台に
重量を伴った沈黙が降りたって舞台は始まり、浄土に呼ばれた三島
が立ち上がって志賀寺上人に変わり、宮城聡がテキストを語る。
 この“オペラでもミュージカルでも、コンサートでも生演奏付き
芝居でもない。ましてや出たとこ勝負のジャムセッションでもない。
音楽と演劇と文学が、順番がつけられないくらい好きな人に贈る、
音楽と演劇と文学を順番がつけられないくらい愛しているアーティ
ストの新作。(チラシより)”は、終わった後の印象としてはたとえ
演出の宮城聡が“演出する私にとっては、音楽と演劇と文学のうち
どれをどれに従属させるという必要のない理想的なプラットフォー
ムである。”と述べようと、まぎれもなくジェームス・ウッドの作品
の舞台化であり、この曲を他の作品と比べることができるとすれば、
武満徹の「系図ー若い人たちのための音楽詩ー」のような作品には
及ばない。ただ、この作曲家の持ち味はエレクトロニクス・サウン
ドの聴かせ方であり、この人がIRCAMと共に開発したという「ス
パシャライザー」は、スピーカーとの物理的な距離感を感じさせる
ことなく、また客席に座っていて、今どのスピーカーから音が出て
いるかがわかることもなく、確かに魅力的である。そういうことで
は、ジェームス・ウッドはあくまで聴覚的なアーティスト、あるい
は聴覚にこだわるアーティストであり、視覚的な三島の世界と相克
が生まれることは必然である。そのため演出は、パーカッショニス
トであり、この作品を捧げられた加藤訓子にテキストを語らせたり
して、演奏家や生音を視覚的なものに変容させることでその溝を解
決しようとしたように見えたが、それは加藤がまさにパーカッショ
ニストであるがゆえに成功していないように感じられた。舞台の視
覚的なものに関連することとしては、演奏家であるがゆえに自分の
肉体と向き合ってしまい、それに制約される加藤よりも、俳優とし
て世界と向き合った江口麻琴のほうが人間の美しさといったものを
表現できていたように思えた。
 ただ私にとって決定的なこの舞台への違和感は、作品を“上人は
立去った。御息所は冷たい心になった。”で終わらせているところで
あり、いったいどうして最後の段落が省かれたのか知るよしもない
が、まず“冷たい心”という表現はこの美しい作品のウィークポイ
ントであり、これはその後の段落がなければ御寝所の宮廷人として
の造形を弱めてしまうほどのものであると思う。それが無く、ただ
“冷たい心になった”で作品を終わらせてしまえば、三島の世界も
西洋の古い騎士物語のようである。 
 結論を言えば、このたびのミュージックシアター『浄土』は、や
や無国籍的なヨーロッパ人が自分の音楽で表現した、日本がテーマ
の観念世界であり、それは美しかったかも知れないが、幻が持つ美
しさであった。
(2月5日 午後2時 BankART1929/1929Hal
l) 

[149] 一発次郎 2005/02/13(日) 22:57 [削除]
[公演名] 「銀河旋律」 [劇団名] 劇団ミネルヴァの梟
 作品の評価はAです。
 この劇は高校演劇などでもよく上演されるらしい。去年も西川竹
園高校が公演したが、僕はたまたま見なかった。だから、初めてこ
の劇を見た。
 主演の柿本とはるか役の山本氏&梅田氏のさわやかでハツラツと
した演技が好印象。
 この劇のテーマである人と人との出会いをどう考えるか?偶然?
必然?それとも不可思議や神秘的?はたまた運命?。柿本の行動を
見ていると「運命は性格の中にある。」と言う言葉が思い出される。
彼のはるかに出会うんだという強い意志が再会という運命を呼び込
んでいるように思う。高校生がこう言ったテーマについていろいろ
考える時期だと思うので、毎年のように公演されるのもわかる気が
する。

 照明を前方の正面よりあてた方がよいと感じる場面が多々あった。
 頭上からの照明だと顔に影が出来、役者さん達の表情がわかりに
くいと感じる場面が多々ありました。


[150] 春彦 2005/02/16(水) 00:10 [削除]
[公演名] 第95回長岡市高校演劇発表会 [劇団名] 長岡地区高校
私のサイトに講評UPしました。お暇な時にでも読んでください
な。

[153] おっとー 2005/02/18(金) 09:16 [削除]
[公演名] 第95回長岡市高校演劇発表会
ご本人の承諾なしで恐縮ですが

N大・齋藤洋一研究室HP 芸能時評に
長岡市高校演劇発表会
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/nagaoka02.html
ロミオとジュリエット(ホリプロ・蜷川)
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/randj.html

それぞれUPされています。

[154] 本間 弘行 2005/02/20(日) 20:43 [削除]
[公演名] ぼくらが非情の大河をくだる時 [劇団名] ク・ナウカ
 たとえば土方巽の踊りをおさめた映像は、市販されているもの
もないわけではないが、ほとんどない。私だって、土方の踊りはリ
アルタイムでは観ていない。それにその頃、60年代から70年代
中頃までの東京の文化や、その時代の雰囲気を知っている人は、新
潟にだって全くいないわけではないが、多くはない。
 演劇において、オマージュは可能だろうかと思うことがある。と
くにリアルタイムで観たことのない芝居や、そのような芝居が上演
されていた時代まるごとについての。そんなことを考えさせるのが、
今回のク・ナウカの公演である。もちろん大真面目なのだろうが、
“このコトバ、凶暴につき”というコピーが躍るク・ナウカの『ぼ
くらが非情の大河をくだる時』は、第12回ガーディアンガーデン
演劇フェスティバルの2次審査に出場し、昨年は利賀演出家コンク
ールで最優秀賞を受賞した仲田恭子が演出する。その舞台は白が基
調で、四方に柱が立ち、下手側の、客席と舞台との狭間の上の方の
空間にモニター画面が設置されるのだが、その画面は四角に4分割
され、分割画面の右上の部分では寺山修司の“ジャンケン戦争”の
ような映像が流れ、他は舞台に設置されたカメラから上演されてい
る芝居の映像が音なしでそのまま中継される。白い立ち便器のある
舞台は舞台で、とくに制服を着た俳優のひとり(詩人を演じる大道
無門優也)が最近の「青年団リンク・地点」の三浦基の演出で知ら
れた脱構築的な演技をみせる。私にはそう感じられたこの演技自体
は、文節の切り方や、文節や自立語に与えるアクセントの位置がお
そらく意図的に自由な、私たちが知らず知らずおこなっている日常
的な意味での言語活動を解体したものであり、これはまず、ことば
の意味というよりも、それだけを聴けば意味を持たないように感じ
られる音で空間に戯曲をその場その場で再構築していく、視覚的な
ものであるが、この方法は特権的な身体といったものが意識されな
くなった現代において、それが常に成功するかどうかは別であるが、
あいまいな身体を持つ俳優に有効な表現技法である。
 さて舞台を少年院の中と設定したらしい仲田の演出は、詩人と兄
にバトミントンをさせたりして時にユーモラスであるが、全体的に
おとなしく、先に述べたような演技も三浦の場合ほど過激でもなけ
れば美しくもないが、それは主軸をずらすという仲田が目指したこ
とが、時にただのあいまいさに堕ちて、ひらきなおりの強さといっ
たものにまでは至らなかったからだろう。それでもクライマックス
の兄の長台詞は、兄を演ずる中野真希の経験に助けられてもいるだ
ろうが、なかなかの見せ場であった(ただそのあとで観客席からお
そらくはさくらの観客の手を引いて退場させる演出は、時代性を意
識したにしては時代錯誤である)。
 この清水邦夫のあまりにも有名な戯曲に今回のような設定と、俳
優にそのような演技をさせたのは、ひとつにはそれが上演された時
代や、その時に観客と共有できた前提を意識しては上演不可能だと
仲田は思ったからのようだが、私にはそれが演劇実験室「天井桟敷」
や劇団状況劇場の初期の頃の公演やそれがおこなわれた時代をリア
ルタイムで知らない若い演劇人の、古い時代の記憶や想像の中の公
演に対する、挑戦というよりも、私的なオマージュのあらわれであ
ると感じた。そして、その姿勢がこの芝居の限界を示すものである
と同時に、若い演出家の今現在の達成点なのだろう。
 最後になるが、下北沢は今月いっぱい演劇祭の開催中で、駅を出
るとすぐに町が演劇祭であることをアピールする横断幕や、他の会
場で開場を待つ人々の姿を見ることができて、楽しい。
 (2月19日 午後7時 ザ・スズナリ)


[155] 本間 弘行 2005/02/26(土) 22:43 [削除]
[公演名] 『ラーメンズvs山川×平石』 [劇団名] Cassis Beat
山川祐賀子(一発屋)は器用ではないかも知れないが、何か信念の
ようなものに支えられたテンションの高さがある。それは時にかた
い表情になって外ににじみ出てしまうけれど、やわらかさが表現で
きるようになれば、今よりももっとスケールの大きな役者になるこ
とだろう。
 演出の津野あゆみは、もう一つ持ち味というか、特徴が見えない
と私には感じられてやや物足りないが、今回はきっと山川と平石一
仁の経験に助けられたことだろう。
今回の公演は、あと6回あるが、後半は初日以上に期待できるので
はないか。
(2月26日 午後8時 シアターent. )

[156] 中ニ 2005/02/27(日) 00:20 [削除]
[公演名] ラーメンズvs山川×平石 [劇団名] Cassis Beat
 暖かい客席を作り出した事を評価。
 客席の堅さが徐々にほぐれていくのは、完璧な演技に拠るもので
はなく、失敗(?)の演技を強引にでも、柔軟にでもやりくりして
しまう役者の機転に拠る所が大きかった。お客さんを笑わせるのは、
変な言い方だが、完璧さとは対極にある「スキ」が大きく作用する
場合があると言うことだ。
 無事に初日を終え、明日からどの様に作品が変容して行くのか、
また、客席の空気がどの様に変容して行くのか興味深い。

[157] 一発次郎 2005/02/27(日) 08:02 [削除]
[公演名] 背伸び公演 『ラーメンズvs山川×平石』 [劇団名]
Cassis Beat
 昨日の僕は新人お笑い芸人の芸とこの公演の二つを見る事にな
った。
 芸人の卵さん達も笑いの空気を作るのに苦労しているのが感じら
れた。
 笑いが取れないとへこんでいく新人達もいたが、山川&平石の場
合は自分達は芸人でない!うけようがうけまいが、この劇を最後ま
でテンションを落さずに1時間をやり抜くという意識が感じられ流
石と思った。
 自分はTVでお笑い芸人を見て、いつも思う事はお笑い芸人はお
笑い芸人と言う顔をしているな!と思う。
 それは決して美女や美男子ではなく、どことなく愛嬌のある憎め
ない顔をしている。顔がまさに芸人って感じだ。
 ラーメンズを見た事ないんだが、やっぱりボケ役と突っ込み役が
明確なんだろうか?明確ならば、山川のボケ?白石の突っ込みのポ
ジションを明確にした方がよさそう。でも、山川&平石のイメージ
は芸人で言えば、二人とも突っ込み役のような気がする。
 残り6ステージもあるので、このお二人&ステージはどんどん変
化すると思うのである。どう変化するか楽しみ。
 今回の芝居は演劇人にとっては非常に貴重な体験だと思う。演技
力がいくら高くても、笑いはなかなか取れない!笑いを誘うには何
か別の要素が必要だと言う事がわかっただけでも、この公演をやっ
た意味あいは大きいです。芸人がよく言う笑いの神様が降りてきた
って。状態を上手く作り出せるかどうか?。お笑いって、実に奥が
深いと思う。


追、TVで劇団ひとりをよく見るんですが、彼の演じている芝居は
一度しか見た事がありません。芝居は上演時間が長いから、5分か?
10分くらいの漫才と同じくらいの時間になれば、TVでもどんど
ん放送されるのかもしれません。


[158] 音庵 2005/02/28(月) 17:18 [削除]
[公演名] 悪魔の唄 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイダースpresents
まずはネタバレのあらすじから。

人里離れた少しレトロな洋館が舞台。冒頭、歌を口ずさむ女・牧田
サヤ(小島聖)が座っているところに、窓から覗く目つきの険しい
女・愛子(伊勢志摩)、それを追ってくる中年男・山本壱朗(吉田鋼
太郎)。そしてサヤを追ってくる夫・牧田眞(長塚圭史)。実際は山
本の浮気でこころを病んだ愛子を「療養」させるため借りた家なの
だが、何かを探してこの家付近を徘徊するサヤ、それを追う眞が勝
手に入ってきたのだ。愛子は森山という男と連絡を取りここから連
れ出してもらいたい、壱朗とは一緒に居たくないと執拗に電話を探
す。サヤは深夜こっそり訪れ、携帯を餌に愛子を外へ誘い、土を掘
り返させる。その夜、泥だらけの旧日本兵・鏡石二等兵が家に現れ
る。愛子は電話に執着して、顔を合わせても驚きもせず、腐って落
ちた鏡石の腕すら無造作に扱う。掘り返された鞄、認識票は鏡石に
とっては重要だが愛子には何の意味も持たない。愛子にとっては愛
人森山の事が気がかりだが、それは愛子が妄想の中で作り上げ、弟・
紀行(池田鉄洋)が電話で調子を合わせていただけだった。そこに
平山上等兵(山内圭哉)も出てくる。彼らは二次大戦中、ここで列
車から用足しに出て米軍の機銃掃射に遭い落命し、腐りかけた身体
のままゾンビとして出現したのであった。自分たちの状況や時間の
経過を飲み込めない2人は短剣で刺し合っても痛くない。壱朗は当
然怯えるが、どうも物理的にこのゾンビは貧弱で、愛子にもかなわ
ない。しかし発射される銃弾は実体として壱朗を傷つける。さらに
登場する立花伍長(中山祐一朗)は、射し始めた日光に煙をあげ、
3人は日の当たらない物置を「兵舎」として立て篭もる。自発的に
同行する愛子を「人質」として。彼らの出現はサヤの目論見による
もので、それは思いながらも別れた立花と再会するためだった。し
かしサヤを離したくない眞はそれを妨げようとし、かつてサヤは眞
に撲殺されたのだった。幽霊となって、なお立花を思うサヤ、そし
てそれを追う眞の悲劇は、再び繰り返される。生きた人、ゾンビ、
そして霊。さまざまな形態でしかし情念を引きずり続ける人間。愛
子を連れ戻しに弟・紀行がやって来るが、壱朗に鈍器で殴られる。
夜しか出てこれない3人の兵士は、敗戦の事実に失望するが、敢え
て米国に突撃しようという結論に達する。足が悪い鏡石は名誉の戦
死を遂げていく兄たちに引け目を感じ、せめて皇国の矢として散り
たいという。平山は国はともかく、爆撃で死んだ妻子のために復讐
したいという。立花は開戦前から敗北を予期し、戦争に疑問を持ち
つつもしかしこのままではゾンビの状態から浮かばれないと感じる。
そして愛子を人質(というか協力者)として壱朗に爆撃機の調達を
迫る。約束せざるを得ず、紀行と出て行く壱朗。サヤは立花に呼び
かけるが、届かない。それは眞の情念による妨害のためだ。霊体と
してサヤを追う眞に、立花は自分は女に構っている暇はないと言い
放つ。納得しない平山に、立花はサヤのことは気晴らしだったと言
う。平山はサヤの思いにほだされ、外へ出て行き、日光に当たって
溶ける。飛行機調達に悩む壱朗と負傷した紀行は朝再び戻るが、紀
行の身体に入った眞の計画で兵士らを騙し退治しようとする。それ
は館に幕を巡らして夜を偽装することだった。現れたサヤに、紀行
の身体から出てきて立花の言葉を伝えようとする眞。それを阻止す
るため、実体を失って「普通に化けて出てみた」平山が立ちふさが
る。互いに銃弾に倒れる眞と平山。サヤに、嘘でもいいから好きだ
といってくれと願い、消えていく眞。眞の消滅で、つい出会ったサ
ヤと立花は寝室に上る。それを見届けて消える平山。やがて寝室か
ら出た立花。そして物置から出てきた鏡石と愛子。壱朗は爆撃機が
調達できたと言い、兵士らは愛子を置いて、日本が好きかと問いか
け日本を頼むぞと壱朗に呼びかけて、出撃しようとする。何か心に
咎めるものを感じ、必死に引きとめようとする壱朗だが、その時幕
が落ち、兵士らは焼けていく。しかしなお、「米国に、いやその男に
日本人の魂を見せつけるのだ」と外へ走り出す2人。茫然とする壱
朗、反応を失ってしまう愛子、その上を爆撃機の轟音が飛んで行く。

[159] 音庵 2005/02/28(月) 17:21 [削除]
[公演名] 悪魔の唄 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイダースpresents
続き。
阿佐スパはただでさえ心理的に怖い話が多いのに、今回は特に初の
ホラーと銘打たれて実際宣伝が怖そうだったし、相当覚悟して行っ
たのだが、こんなに笑うとは思っていなかった。そりゃ多少は推測
できたけど。長塚圭史としては、シリアスを書こうとしつつも役者
を見てつい入れてしまってるのであろう台詞の掛け合いが、役者の
身体を通って実体化されて絶妙な間を生み出しているので、それが
テーマの重さといい塩梅で絡まってよい方向に働いている。30代そ
こそこの世代が先の大戦に対してもつ微妙な距離感と、敢えてそれ
に向き合おうとする姿勢が、結論に賛否はあるだろうが1つのアプ
ローチとして頷ける。そして劇の味わいが、先日のNYLON100℃と
重なるように個人的には感じられた。設定は荒唐無稽だがリアリテ
ィがあり、微妙な無理に笑わなくてもいい笑いのまぶされたシリア
スな話。これは「いま」の空気を反映したものだと感じる。
兵士らを演じるのが戦争を知らない若い世代で、にじみでる飄々と
した風情は、重い話にユーモアを与えている。特に立花は(中山の
キャラもあって)いわゆる軍国青年とは全く異なったアティテュー
ドを見せながら、しかし最終的に一番米国攻撃に執着し、女を二の
次にする狂信的な姿を見せる。恐らく寝室で、すがるサヤを手にか
けてきたであろうと思われる。立花の口から語られる、いわゆる右
翼思想とはまた違うしかし偏った愛国精神に、長塚は一定の共感を
示しつつしかし批判の目も忘れていない。山本の口から、「日本もい
っぱい殺したよ」と南京その他の民間人虐殺も語っている。被害者
意識と加害者意識、両方を併せ持つ日本人の揺れる思いに、どちら
という結論は与えられていない。単純に非戦や反戦を語っているわ
けでもない。したくないのはやまやま、でも避けられない時に、我々
は戦争に対しどういう態度を取るのかを考えさせられる。突っ込ん
でいく彼らの姿は愚かである。がそれを笑い飛ばせない。ただ、彼
らが撃とうとしたのは何か。かつての米国、現在の右傾化した米国、
その両方か。あるいは、戦争そのものか、現代のぬるい日本か。立
花とは逆に妻子を思い、愛国よりむしろ愛する者のため銃を取る平
山。一方、サヤを追い続ける眞は偏執的であり一途な女への思いを
示す。彼もまたサヤを手にかけるのだ。時代を隔てて、山本は浮気
のため苦しめた妻をやはり愛し、身勝手なようだがよりを戻そうと
する。大義より女の尻を追っかける現代人の姿、最年長の吉田がそ
れを演じる転倒も面白い。また紀行は一種異常なほどの近親愛で姉
を思ってその妄想に付き合い、山本から引き離そうとする。男たち
それぞれ、異なった女性への思いが示されている。また女性の情念
の深さと重さに対する怖れのようなものが見えるのも長塚らしいと
言えよう。扱いかねる、というか。
さて、「悪魔の唄」というのが何を指すのかは明らかでない。劇中歌
われる歌はいくつかある。サヤが歌う「マロニエの木陰」などのメ
ロディ。兵士らが歌う「ああ我が戦友」などの軍歌。そして「君が
代」。そのどれをも指すのかもしれない。「日本中を虜にしたあの唄」。
我々が単純に感じる愛国心と、政府が制度的に推し進めようとして
いる愛国心喚起は別のものだと思うが、しかしそこは微妙に絡み合
いまたさりげなく擦りかえられる危険性を持っている。テーマとし
ての戦争が論議の的となるだろうが、いずれにしても戦争を忌避し
つつ当時の日本人の思いを全否定したくないという長塚のアンヴィ
ヴァレントな思いがそのまま表現されているという点で誠実な芝居
だと思う。そして細部に及ぶ仕掛けが楽しませる。エンターテイメ
ントとして十分楽しめるのが素晴らしい。


[160] 音庵 2005/03/02(水) 10:11 [削除]
[公演名] アリス [劇団名] ラーメンズ
コント、だけど。劇団、じゃないけど。
幸運にして長岡公演2回とも見ることが出来たことを感謝している。
映像でしかみたことがなかったのだが、やはりライブはいい、とい
うことを認識させられた。コントそのものの枠組みはあっても、そ
の時のテンションと客の空気その他でどんどん変化するということ。
芝居でも音楽でもそれはあるのだが、よりフレキシブルな感じがあ
った。
同じコントでも複数回見てやはり笑えるということが、ネタそのも
のの上手さとアドリブの展開と両方によるものであると感じる。
客層について、いつも芝居を見に行く層とは重ならない部分が多い。
若いし、おされ系多いし(いや芝居がそうでないというのではない
のよ)、そして最初から笑おうと思ってきている。もちろんいわゆる
お笑いのファン層の中で、ラーメンズファンというのはより知的な
くすぐりを求め評価しているのだと思うが、しかし他人の大笑とい
うのは、笑いを喚起する効果と同時に、そこまで笑わなくても、と
引かせる逆効果も確かにある。笑いに来る人は(そりゃみんなそう
なんだけどもさ)そんなことは気にしないのだろうが。
ネタとしては、すでにポスターから仕掛けがあり読んでみるとああ、
と思う。(バレになるのか?注意)「アリス」を微妙に思わせるうさ
ぎやらインコやらロブスターやら、隠し(てないけど)テーマが様々
に読み取れるのだが、それはそれとして、本人もいわく「力技」で
無理やりもっていくナンセンスな笑いも多く、またわかる人だけわ
かればいいという投げっ放しのスープレックスもある。以前の懐か
しいキャラやネタを織り交ぜたり、また小道具も使い、スタイリッ
シュで洗練されながらも自分たちのキャラを熟知しているがゆえの
自己戯画化ができている。ワンアンドオンリー、自作自演(演出)
が芝居とはまた少し異なってよい方向に働いている稀なケースでは
ないか。
今回特に小林がマイムを多用するなどよく動くし、かなり壊れて見
せる。(ギリジン返しのバニー部など)。しかしアドリブに見えて実
はちゃんと演出されたものであったり、フリーにその場で足し引き
されたものであったり、リピーターが多いことも頷けるものだった。
地方ではいつもそうなのかわからないが、非常にサービス精神旺盛
で、幕間ですら笑いを取り、客席とのコミュニケーションすら試み、
客に向けて言葉が発せられる(げんぱさんご指摘の通り)あたり、
芸人だなあと思う。初日はカーテンコールも4回で、お心遣い有難
し。
大雪にこりずまた来るといいなあ。と単純にファン化してみました。

[161] 音庵 2005/03/06(日) 02:07 [削除]
[公演名] ラーメンズv山川×平石 [劇団名] Cassis B
eat
1週目を見ていないので、見た方々のレビューを読んでいろいろ
想像していた。で、実際に見て、暖かい客席というのが何となく頷
けた。
ラーメンズ公演を見た後なので、客の笑いの弾け方や拍手がやたら
大きかった本家に比べ、暗転になってもここで手を叩いてよいのか、
という感じで比較的静かに、そして笑いも爆発的というよりはくす
ぐり笑いのようなよくいえば上品なものが多く、全体に静かな感が
あった。予想以上に客は入っていたが。
これは客層の重複が少ないこともあろうし、ラーメンズのコントそ
のものが一般にそれほど知られていない状況もあろうけれど、一番
大きな要因は公演のスタンスにあるのではないかな。パンフで山川
さんが書いていたことと関連するが、「お笑いライブ」ではないとい
うこと。来る人の中にはお笑いと思っての方もあろうが、やる側は
きちんとコントを「演じ」あげていた。つまり公演をうった側とし
てはどっかどっかん笑いがこなくても、焦ることはないし、客とし
ても受けていないとは笑いがすべったというのではなく、居づらい
雰囲気では全くなかった。暖かい(物理的に寒くても)。
ラーメンズはいわゆるお笑い芸人という認知から外れてきているし、
公演の内容も演劇的な要素が強く、KK(小林健太郎)プロデュー
スの芝居もあるわけだが、しかしスタンスとしてはいわば「コント
職人」とでも言えるもので、コントという形式にこだわり、またコ
ントの笑いのために演劇的な方法論を用いているのだと思う。客の
反応を見ながら受ける部分を掘り下げたりできるのは、場数を踏ん
でいる余裕や自作であることの強みでもあろうが、何より客を笑わ
せるために、意識が客席側に投げかけられているからだ。
ラーメンズは他のお笑いに比べてそのあたりがスマートに表現され、
笑わせようというあざとさが緩和されているのだが、この点山川×
平石は、それ以上に抑えられている感がある。もちろんコメディで
あり笑わせることが大きな目的ではあろうが、短い小劇として、そ
の中で展開する人物の心情描写をきっちりやっている。だから見て
いて大笑いはしなくても素直に見ていて面白かったり、例え既知の
ものでも改めてネタのアイディアに感心したりしながら居られる。
ただ、それはそれとして、キャパ的により大きく客席との距離があ
るはずのラーメンズより、目の前にいる2人が舞台から客席にはみ
出してくる緊張感というかこっち側に投げかけてくる感じが弱いこ
とは確かだ。舞台との間に線がある。もっと侵食してきていいのに、
と思う。きちんと原作の本質とテイストを大事にしながらやってい
る(この点、見ずに批判する人はちゃんと見てから評してもらいた
い)し、精一杯真摯に作品と向き合っているのだが、作品をきちん
と演じきりました、というのが目標になるわけではない。客席と共
有する感動(喜怒哀楽含めて)をその場で生み出すこと、そのため
にはもっとワイルドでいい。
コマツ企画のように顔真似まで込みでの完コピというアプローチも
アリだが、あえてそうではない路線なのだから、VSという刺激的
なコピーにしては非常に紳士的で丁寧なアプローチ(だから見てな
い人誤解しないでね)なのだが、どうせならもっと挑んでもいいか
な、とは思った。
山川が片桐、平石が小林というのはすぐに思い浮かぶ図だが、あえ
て逆をやってみるという手もあった。山川が女性としてのキャラを
作ったのは正解と思うが、どちらも常識的な範囲でのおかしな人で
はあっても、異常性に欠ける。
ただ、コントというのは台本だけではなくキャラクタにより血肉化
されて初めて成り立つのだな、と感じた。多分台本だけ読んでいて
も面白さは半減以下。ラーメンズの場合はあのキャラを思い浮かべ
ながら読むことになる。そして山川×平石で笑えたところはまず例
外なく彼らのキャラとして消化されていた部分だ。平石はもともと
「2・5」(枚目)くらいの線の人だが、3・5くらいまで幅広く器
用にこなすその表情の作り方は実に巧い。小林とはまた別のキャラ
を作っていた。山川は片桐の異常性には及ばないが、むしろ女性と
しての特性が生かされ、寄り目・半白目などの「はいった」表情が
よかった。また時折、あー綺麗になったなと感じさせる。手が汗ば
んでるほどの熱演だった。オリジナルも見たかった。




[162] のっぷ 2005/03/06(日) 02:24 [削除]
[公演名] ラーメンズ VS 山川×平石 [劇団名] Cassis Beat
ネタバレです。

音庵さんのレビューに補足みたいなものですが、、、

山川さんと平石さんの配役、
小林さんと片桐さんの役を交互に担当してました。
最初が山川が小林、平石が片桐、以下交互に。

ふふふ。

[163] 音庵 2005/03/06(日) 03:12 [削除]
[公演名] ある日の朝 [劇団名] 安達修子一人芝居
ネタバレですので。
古い民家の建物を生かした画廊FULLMOONの空間で、安達修子が
どういう「芝居」をやるのか。を見に行った。柱時計の刻む音、そ
して鳴る音が上手く取り入れられた、約60分。
それが「安達修子と60分」か、「安達修子を60分」か、といえば、
結果的に後者だったように感じる。ちゃんと説明できるかどうかわ
からないが。
客が集まり、時間となり、時計が鳴って、奥の小さな内庭に明かり
が入る。制約のある中、相変わらずキメの細かい伊藤裕一照明であ
る。欲を言えば、こういう民家の朝は外が明るい分、内が暗く、そ
こに光が侵入する感があるはずで、むしろ劇終頃の明かりの方がそ
れに近かったように思う。
障子の向こうで雑巾がけをする安達、雑巾を実際にお勝手で洗う安
達、室内に移っても掃除を続け、花を生け、雛人形を片付けていく。
こういうドメスティックな行為そのものが劇の大半の時間を占めて
いく。この間、安達はしばしば客の視界のフレームから外れるし、
客に正対していても、視線は客を透り抜け、客は空間を共有すると
いうよりは外から見ている感じ。ああ安達さんも家ではこんなこと
をしているのかなっていう、何ていうのか、ありますよねアイドル
の日常を撮ったという作りのイメージビデオみたいな、いやあまり
見たことないんだけどさ、そんな感じを受ける。目の前なんだが画
面の向こう。
雛人形の片付けは、大変な作業で、これほど時間をかけなくてもと
は思った。個人的には家になかったので、収納の合理性と手順の複
雑さに感心したり、今井家の大事なものを、てきぱきと手際よくし
まえることに感心したりしていた。男(自分)ならもっとぞんざい
に扱うか、緊張してもたつくかだろう。女性は偉大なり。
作業の合間に「彼女」は「お父さん」に語りかける。もちろん客に
は見えない。椅子にかけているらしいのだが、それにしては彼女の
行動は自己完結しており、さらに後半は一種異常な感じの言動が展
開される。電話があり、片付けも済み、彼女は荷物を持って椅子の
父親に深く礼をして「行って来ます」と家を出る。上手く時計が使
われ、時間設定の巧みさに感心する。それは外出ではなく、別れで
あろう。婚家へ帰るのか、独りの部屋へか。いずれにしても、実は
そもそも此処に父親は実在していないのではないか、と思わせる(と
いうかそう感じた)。ひとり芝居、か。祖母のエピソード、兄、友人、
そして親と、この部屋で起こった過去の思い出を確かめながら、丹
念に部屋は片付けられる。あたかも家を引き払うかのように。
ある年齢層の女性を実にリアルに描き、身につまされる人もあろう
し、立場の違う自分のような者にも想像可能な心情が表現されてい
る。しかし説明はごく限られ、また彼女への感情移入はところどこ
ろではずされる。安易な共感や感情移入ができないのは、意図的で
あろうか。
当初無言の所作が長いため、この空間でも何度か踊っている堀川久
子氏の舞踏を見る時の一種のもどかしさを伴う身体表現のようなも
のが展開されることを一部予想していたのだが、安達が口を開いて
からはそれとは異なり、普通の芝居のようにも見える。しかし、や
っていることはいわゆる静かな演劇的な日常の光景ではあっても、
安達の台詞回しは基本的にそれとは異なる資質のものだ。その佇ま
い、そして目、いずれももっと大きなドラマツルギーを期待させる、
そういう資質。劇的なるものを客に求めさせずにはおかない、そう
いう現在には稀有な女優なのだと改めて認識する。
今回ひとつのチャレンジとして、この空間と人形たちを借景として、
小津安二郎的な世界を現前させたことを評価しつつ、同じ空間でも
またよりデイープな、あるいはどろどろした世界も作れるだろうし、
それもまた見てみたいと思う。

[164] 一発次郎 2005/03/06(日) 03:30 [削除]
[公演名] 花の園 [劇団名] The 9th Cloud
 観客は満員に近く入っていたな。
 今回のパンフレットを読み、いろいろ気がつく事があった。
 1.達馬役の棚橋優さんは男性だったと言う事。彼はT9Cと情
熱歌劇団の両劇団に所属し、あの名作「NOVEL」の脚本&演出
を手がけていた事。(シンプルでピュアでおしゃれな楽しい作品だっ
た。)今後も棚橋作品に大いに期待したい。クリスマス、バレンタイ
ンデー、七夕などに期待したい。
 2.僕の個人的な勘違いですが、演出の石上里英子氏は劇団マジ
カルラボラトリーの長岡公園の「核恋慕」の演出はしていなかった。
作・演出とも実は昼町夜村氏の作品だった。(この公演の演出は非常
によかった。)なぜか?石上さんの演出と勘違いしており、これで昼
町さんの評価がまた、あがった。
 
 石上さんと鬼島さんが似ており、どちらか判別できなかった。
 高田さんの控えめな所、大竹さんの雰囲気、神田さんの怪しさ。
HIDEMIXの幼さのバランスが良かった。

 樋口氏はトナカイ役のときより太っており、肉襦袢を着込んでい
るのだと思った。

 神田&HIDEMIXのハチャメャぶりは次回作に期待すること
にしょう。
 T9Cは僕が地元演劇を見るきっかけになった劇団で、「旅人」で
は衣装のデザインが個性的で良かった。そんな劇団なので、密かに
注目している。

追、「花の薗」の感想になっていないのが気になる。
 

[165] 22歳 2005/03/07(月) 02:12 [削除]
[公演名] 花の園 [劇団名] The 9th Cloud
【セット】
大道具の人は不安定さを猛省してください。
役者はアドリブ力の無さを自覚してください。
花魁がなんで力任せに開けるんですか!
必死感が客席に伝わっていました。
萎えました。
ふすまを開けるたびに萎え、途中で離席しようかと思った。
ゲネでセットの調子が悪いのは気づいてましたよね?
それであれは酷い。
HIDEMIXは途中からなんとか誤魔化していた。

【殺陣】
剣舞の師範代がつけた割につまらない。
殺し合いという自覚が皆無。
自分の攻撃を待ちすぎ。
なぜ自分がここでこの攻撃をするのかと考えてない。
だから嘘っぽくなる。

【台本】
無難なものだけど、良かった。

[166] 本間 弘行 2005/03/07(月) 12:28 [削除]
[公演名] 「ある日の朝」
 「班女」の頃から、安達修子は何かに抑圧されたように不自由
で、舞台のどこにいようと、いつも遠くにひとりでいるように見え
る。
 そういう、持ち味として何か哀しみを感じさせる安達は、その不
自由さと闘うというよりは、その不自由さに身を任せようと試み続
けているようで、安達修子の演技は、その試みの上に成り立ってい
るように見えるが、それはまた自分自身を非日常の存在にしてしま
おうとする安達の自意識が観客という外界と対峙するときに生まれ
てくるもののようにも見える。
 演劇が観客の、あるいは人間の感性を肥大化というよりは特化さ
せるものなら、それの触媒としての安達の演技として私がすぐに思
いつくのは、私にとっての五十嵐劇場のベストプレイでもある「こ
の道はいつか来た道」や、「幾千の、その双眸に。」や「わたしのビ
ートルズ」のクライマックスや、川西町での「瞳はすでに凍りつい
て」や、もっと前になれば「華燭の囚人」で人形として舞台にあら
われるところだけれど、ただ安達だけを取りあげるのならもっとも
印象に残るのは舞踏家の堀川久子とともに踊った「路地」の、ソロ
の部分だろう。
 今でも私はあの壊されてしまった家の中の階段の部分や、柱を使
った場面を思い出すことができるけれど、あれは本当に、そこに何
か人間ではないものがいるようで、だけれどそれを私に感じさせて
いるものがまぎれもない人間で、その落差というか、その場にある
生命のレンジの広さに感動したのだ。
 そういう、何か人間ではないものになれる、見慣れた世界ではな
い風景を展開させられる力がある安達修子の一人芝居「ある日の朝」
は、その芝居としてのスケールはともかくとして安達修子という一
人の演技者の集大成であり、かつての舞台での演技を思い起こさせ
るような表情を観ることもでき懐かしかったが、全体としては芝居
が上演される場の力を利用できていなく、新しい表現方法というか、
脱皮の瞬間を模索しているようにも見えてもどかしくもあった。ま
た雛人形の扱い方がフランス人形を扱うようで、紐を結ぶとき、ま
るで人形の首を絞めているようなのは、それが演出だろうとそうで
なかろうと大目に見るが、衣装は芝居での役者の身体の見せ方とい
うことを思えばもう少し考慮して欲しかった。
 他、舞台の一番奥にある、会場にある庭にあてた照明に伊藤裕一
の特異な才能を感じた。伊藤は今のところ照明の仕事が先行してい
るように見えるが、昨年の「齧歯目に団栗」では、演出に奥行きの
ようなものが生まれてきていたと思う。
 最後に、繰り返しになるかも知れないが、芝居の最後で“行って
来ます”と挨拶をして外に出た安達修子は、これからどこに行くの
だろう。
(3月5日 午後7時  画廊 Full Moon )

[167] 本間 弘行 2005/03/07(月) 20:49 [削除]
[公演名] 山の巨人たち [劇団名] ク・ナウカ
 むかし天寿園の萬寿鏡館というところでタイニイアリスが制作
した「セオリチョッター歳月の恵み」の公演があった。「セオリチョ
ッタ」は美加理(その時は確か“TALK A LATTER”と
いうところに所属していることになっていた)の印象が強いが、あ
れから十数年経って、それにも出演していた、今度の「山の巨人た
ち」(以下「巨人たち」と略す)の公演にも出演した宮城聡が仕掛け
る演出が本当におもしろかった。
 それはつまり、もう公演が終わってしまったので話してしまって
よいと思うが、ピランデルロの「巨人たち」というお芝居が、途中
から同じ作者の「作家を探す六人の登場人物」(以下「作家」と略す)
になってしまうのだ。開演前は普通にいつものク・ナウカのデザイ
ンで「巨人たち」のパンフレットが客席の椅子に置いてあるが、公
演終了後に配られた「作家」のパンフレットを読むと、どうも最初
から「作家」をやりたくて、そのために「巨人たち」を上演するこ
とに決めたようだ。
 それにしてもどう説明すればよいのか。乱文になってしまうが、
まず「巨人たち」(これはこれで闇と灯りとスモークと俳優の身体と
美術を使った立体的なオープニングだった)が上演され、比較的早
い段階で男がなにやらぶつぶつ言いながらスズナリの狭い通用路か
らあらわれる。それはつまりは作家を探す父という登場人物なのだ
けれど、それに気がついた「巨人たち」というお芝居に出演中の宮
城聡役の宮城聡がその男に駆け寄って、そこでその男と言い合いに
なって、そこまではその男が衣装を付けた吉植荘一郎であることも
あって、まぁ普通に観ていられるけれど、その中で宮城聡が今度は
具合の悪い人が出たと言って「巨人たち」の上演を止めてしまう。
これも通用路近くに坐っていた人は、それも芝居だとわかったかも
知れないが、スズナリの4列目下手寄りに座っていた私には、本当
にそういう人が出たのかと思ってしまわせる演技で、この観客の集
中力をいったんステージから離してしまう演出は(一般大衆をねら
ったテロが劇場でも起こる可能性を考えなければいけない社会であ
るから、病人の出現という設定を受け入れない観客もいるかも知れ
ないが)、宮城自身が開場時に案内係をつとめたことと、ク・ナウカ
の代表であることを使った非情に巧妙な、それこそ催眠術的な演出
であり、冴えていた。
 さてそれからは、吉植をはじめとした作家を探す六人の登場人物
たちが舞台に上がって、彼らの話を聞いてそれに興味を持った演出
家役の宮城聡が「巨人たち」を演技するはずだったク・ナウカ俳優
にその話を台本にして稽古をつける。もちろんその前に「巨人たち」
の上演を止めてしまうことに対して本物(!)の観客に対しての謝
罪というか説明の言葉があるのだが、これもフィクションなのであ
ろう(でなければク・ナウカは来年3月までにもう一度「巨人たち」
を上演しなければいけなくなる。宮城聡がク・ナウカの代表として
もう一度「巨人たち」を上演するから今回はこれでというようなこ
とを観客に向かって言ってしまったのだから)。この稽古の場面では
宮城の演出法と演劇に対する考えが語られて興味深いが、ここでは
ク・ナウカ俳優を演ずるク・ナウカ俳優と、それを観て、自分たち
の言っていることが演出家の都合で脚色されてしまうことに憤慨す
る、額縁(これは物語のメタファーだろう)の中に閉じこめられた
登場人物達がいる。なんというかザ・スズナリの中は、劇中劇と、
それを観る虚構の登場人物達と、それら全体を観ているつもりにな
っている観客のいる構造が出現しており、登場人物達の要求にこた
えて稽古を付けようとするために、以前同じ会場で実際に上演され
たク・ナウカの芝居の美術のことまでが台詞の中に出てくる混み具
合であり、やがて舞台は、だんだ「作家」になって、最後は登場人
物の世界に演出家が取り込まれ、演出家というよりは人間としての
存在を揺るがすアイデンティティークライシスを迎えて、暗転とと
もに、彼はついには消えてしまうのだけれど、公演自体は演劇を解
体するだけでなく、下手側の外へとつながるドアから洩れる光りを
巧妙に使った娘(この役を演じた布施安寿香のこの時の声の哀切な
こと)の退場で、この入れ子構造の劇的な芝居は解体されてバラバ
ラという風には終わらず、あくまで演劇として終わる。「作家」を上
演することを観客に知らせない前提で、「巨人たち」を「作家」に変
えてしまう力業のために、この芝居の転換部と言えばよいのだろう
か、中間で宮城聡がやや説明的に過ぎる役回りであるが、久しぶり
に舞台に立った宮城の化け物のように静的に抑圧されたエネルギー
に満ちた演技と共に、記憶に残るおもしろくて美しい芝居であった。
(3月6日 午後3時 下北沢ザ・スズナリ)


[168] トックメイ 2005/03/10(木) 18:04 [削除]
[公演名] ラーメンズ第15回公演『アリス』対Cassis Beat 背の
び公演『ラーメンズvs山川X平石』」劇団The 9th Cloud第8回
公演 花の園
齋藤洋一研究室HP 芸能時評に

芸能時評No134「ラーメンズ第15回公演『アリス』対Cassis Beat
背のび公演『ラーメンズvs山川X平石』」

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/rahmens.html

芸能時評No135「劇団The 9th Cloud第8回公演 花の園(万代演
劇祭)」

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/flower.html

それぞれUPされてます。ちぇきら!

[170] 本間 弘行 2005/03/12(土) 11:55 [削除]
[公演名] Noism05「no・mad・ic project」
 無性的な少年や少女の孤独、彼らが抱く恐れ・恐怖・不安、大
人が彼らの中に見つけるリリシズム、大人の中に生きる彼らのよう
なリリシズム、子どものころの夢・少年や少女が抱く恋情、その子
どものような甘え・わがまま・怒り・叫び、成長していく中での挫
折、それを救う愛、救えない愛、仲間、友情、その少年や少女の身
体、その少年や少女の言葉・言葉、大人になった子どもが持つ、少
年や少女のころのあこがれ、大人の中に生きる少年や少女のような
あこがれ、記憶の中の、少年や少女のころのあこがれ・・・
 作品についての態度がどこかBalthusを連想させる金森穣率いる
Noism05の「no・mad・ic project」を観たが、
先の「black ice」を覆うネガティブなもの、ペシミステ
ィックなものはまだ芽であって密やかである。また舞台は人間の体
温に満ちており、公演は開演時、いやもっとその前、気がつけば会
場にあるドアが開いており、そこにダンサーが立っている予定され
た開演時間の少し前から会場の無機質の体温にNoism05とい
う有機体の体温が加わることで始まるが、その暖められた舞台に目
撃するものは、今まさに青春の中にいて、これから否応なくひとり
になることを求められる少年や少女の、未知の世界におそるおそる
触れようとするそのデリケートでナイーブの瞬間の、力強い手の動
きだ。
 彼らは世界の全貌をこれから手探りで発見していくのであり、今
はまだその一部に触れた瞬間に身体の中に起こる反応を自分のもの
にすることに精一杯のようであるが、それでも恐れずに勇気を持っ
て歩もうとしており、その歩みは、光にあふれた、遙かなものへの
あこがれに満ちており、トリスタンのようなあこがれを生に向かっ
て焼き直したものである。
 
 Noism05の中に、ダンスの先行者の影を感じることは容易い
ことかも知れない。だが、それはNoism05が、伝統あるいは人
間というものが作り出すある流れの上に立って自分たちの表現をお
こなおうとしているためであり、ただそのことを、今はまだ若いカ
ンパニーがおこなっているためである。
 そういうことでは、次回の「Noism05 triple bi
ll」は、演劇的というよりは絵画的なセンスを感じさせるこのカ
ンパニーの発展を考えると、刺激的で重要な公演になるだろう。今
からとても楽しみである。
 (3月11日 午後7時  りゅーとぴあ 劇場)

[171] 音庵 2005/03/13(日) 02:26 [削除]
[公演名] no・mad・ic project 〜7fragments of memory [劇団
名] Noism05
今回の公演は再演ではあるが質・量ともに充実したものであり、
またNoismメンバー個々の充実とも相まってNoism05としての新
たな展開を見せたと思う。個々にはスキルというか身体能力に多少
差があると見えるが、しかしもう金森穣とその他、ではなく、ひと
りひとりが個性を持ったダンサー・パフォーマーとして「顔」が見
えてきたし、金森がそれぞれを道具としてではなくきちんとソロア
ーティストとして尊重している様子が伺える。
演劇とダンスの境界はかなり曖昧で、相互侵食しているケースも
多々ある。一般的には台詞の有無が大きな違いとなるだろうが、太
田省吾作品など無言劇もあれば、言葉を伴うダンスもある。ただ、
今回アフタートークで、ダンサーは感情をダンスに込めるかどうか
ということについて、(感情という言葉の捉え方の差も含めて)なか
なか興味深い言葉が聴けた。個々の作品にもよるが、こういう感情
を演じようと意識した時点でそれはフェイクになる、その場で湧き
上がってくるものに自分を委ねる。このアプローチは、演劇とはま
た異なるものであろう。
一方で、金森穣の舞台構成や振付、そして作品の内容を見て思うの
は、非常にクレバーでロジカルであるということだ。作品タイトル
を見ても、金森穣の「言葉」に対するこだわりが伺える。作品のテ
ーマそのものがかなりタイトルに反映されている。また各作品の繋
ぎ方も有機的で、スムーズだ。彼の振付・演出には(本間さんご指
摘のように)諸先達の方法論や本場で磨かれた(ダンスの)文体も
散りばめられているが、こういうことを表現したい、ということが
彼の中にはきちんと整理されている。その全てが丁寧にわかるよう
に説明されているわけではない。しかし難解で抽象的で客の理解を
拒むようなスタンスのものではなく、むしろちゃんと手がかりのよ
うなものを示し、あとは客の自由な解釈に委ねるという姿勢のよう
に感じる。全くの私感だが、OPでダンサーたちが客席に現れ、互
いの名を叫びながら探し回る姿、倒れる姿、起き上がって舞台に上
がりその腕の中に灯を抱えてそれが天に昇って行く姿に、昨年の震
災やその他の惨事を重ね、鎮魂歌のように感じられた。もちろん深
読みし過ぎなのだろうが。作品によって純粋にダンス度?が濃いも
のもあれば、よりシアトリカル、演劇的なものもあり、後者の場合
抽象というより具象の色合いが強く、パントマイムに通じるものが
ある。金森のソロ「Voice」では、実際に声が用いられてより演劇的
な色合いを示した。また井関佐和子のソロ「Under the marron tree」
もパントマイム的で、幼時目に映る世界の大きさの中で感じる不安
や感情の動きのようなものが大人の女性として演じられていた。
もうひとつ、りゅーとぴあ専属という地の利をいかして、照明ほか
舞台作りが非常によく練られていた。「WW」で光の輪の中に金森が
飛び出す、輪の中に突如現れる四角い闇の穴(上手上方のモニター
の影がちょうどそれになる)に飛び込むなど実に上手い。「1/60」
では緞帳位置の暗転幕が上下左右に絞られてファインダーのような
役割を果たし、またリノリウム張りとはいえ、「Out of the earth…
from heaven」 で降って来る白い砂など、かなりわがままな要求に
もりゅーとぴあ側の対応がよい。シンプルながら演出意図によく応
じた舞台が作られていた。次第に幕は排除されていき、3部目には
もはやホリ幕や袖幕すら飛ばされている。剥き出しになっていく舞
台で、ダンサーの身体がますます浮かび上がっていく。プラトン「饗
宴」が出展である3種類の性を描いた「1/60」、男女の愛憎を織り
込んだ「L」や「Out of〜」など、セクシャリティをモチーフにし
たものはあるが、いずれもエロティックなものではない。とはいえ
男性女性それぞれの人間の肉体の美しさを改めて意識させられる。
様々な位相の客があり、ダンスのアビリティと表現力に感銘を受け
る人もあれば、所作の意味を探る人もあり、各地公演を追う人も、
初めてコンテンポラリーダンスに触れる人もある。それぞれの受け
取り方が許容されるのだと思う。これだけのポテンシャルを持った
集団を新潟が持てることに誇りを覚えるとともに、ここに新潟出身
の名が加えられることを願うものである。


[172] おと 2005/03/16(水) 10:05 [削除]
[公演名] 新潟大学演劇研究部卒業公演 未完成人☆アワー、D−
soul旗揚げ公演 陰〜Yin&Yan〜陽 [劇団名] 新潟大学演劇研究
部 D−soul
トックメイさんにならって。

新潟大学齋藤洋一研究室HP 芸能時評に

No136新潟大学演劇研究部卒業公演 未完成人☆アワー
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/unfinished.html

No137D−soul旗揚げ公演 陰〜Yin&Yan〜陽(万代演劇祭)
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/yinyan.html

それぞれアップされています。
いやー、評というものはかくあれかし、という感じですね。敬意を
込めて。




[173] おと 2005/03/16(水) 13:57 [削除]
[公演名] >172
あん、あたしともあろうもの(?)が。
すみません、齋藤「陽一」教授ですとも。ええ。訂正させてくださ
い。

[174] 一発次郎 2005/03/17(木) 05:20 [削除]
[公演名] 未完成人☆アワー [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 僕は前にも書いたように2回見た。初回と最終回を。
 初回の時にパンフレットに演出者の名前のない事に何か?違和感
があった。(去年の作品を調べたら、やはり演出者名がなかった。新
大では演出を皆で行っている為?に書かないのかな?)
 一歩、間違えるとあの作品を二度見て、演出上のヤラセが行われ
ているとわかる。だから書けないのか?と邪推をしてしまった。(ヤ
ラセ=わざとやる)と言う意味で書いてます。

 演出上のヤラセという表現が適切かどうか?疑問なのだが。長い
沈黙もネタ忘れたのも喧嘩もあれは筋書き通りに展開してる。がヤ
ラセだよな。まあ、演劇そのものがヤラセか?
 下手するとテレビ番組などでよくあるお笑い屋さんも観客に仕込
んでいたのかな?とか演出名があるとばれた時に責任を問われるか
ら書けないのか?とさえ思えた時もあった。

 あの脚本家なら、観客席にお笑い屋さんを一人入れておく事!!
とか。リクエストがあってもおかしくないと思った。
(笑)

 演出上のヤラセは許されるのか?(笑)と思ってしまった。

 腐ったみかんとかピンクレディーとか20年前くらいに流行った
事柄だったので、以前の作品を掘り起こしたのか?と思いました。
 初回はお笑いネタばかりに集中したけど、最終回は最後の突っ込
みが出来ないという展開あたりから、段々と切ない展開になりよか
った。熱演でした。

 エントのあの静かな空間に卒業生たちの声は響き渡っていました。
本当に4年間、お疲れさまでした。
 

[175] 481 2005/03/17(木) 11:26 [削除]
[公演名] >174 [劇団名] 新潟大学演劇研究部
この発言が不適切であったら削除お願いします(レビューではな
いので)。

一言いわせてください。昨年の新潟大学演劇研究部の卒業公演を演
出したものです。昨年のパンフレットに関しては演出の名前は実名
できちんと掲載しておりますし、舞台演出には、演出家が全責任を
負うものと考え僕は演出しております。決してみんなで演出してい
るというようなことはありませんでした(みんなで演出というのは、
もはや演出ではないと思いますし)。最近の(去年の)定期公演の演
出の実体は、引退した身なのでわかりませんが、僕が所属していた
ときはどの作品も演出家が演出していました。
この点が一発次郎さんの発言で非常に気になりましたので、不適切
でしょうが書き込みさせていただきました。申し訳ございません。

[176] 一発次郎 2005/03/18(金) 05:55 [削除]
[公演名] >175 [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 大変失礼しました。そういわれて僕も改めて資料を全て探しな
おしたら、パンフレットがありました。そして、去年は演出家の名
前も載ってました。僕は万代演劇祭2004のチラシを見たら、他
の劇団が作者&演出家を載せているのに新大は載せていなかったの

毎年、載せないんだなと判断してしまいました。大変申し訳ありま
せんでした。


[178] トックメイ 2005/03/19(土) 01:13 [削除]
[公演名] 愛とはどういうものかしら [劇団名] 劇団気まぐれ☆
コンセント 
毎度、大きな世話焼きやさんですが・・・
齋藤陽一研究室HP 芸能時評に


芸能時評No138「劇団気まぐれ☆コンセント 愛とはどういうもの
かしら(万代演劇祭)」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/whatislove.html

が、UPされてます!
みんな、待ってたよネ!

[179] 本間 弘行 2005/03/20(日) 20:35 [削除]
[公演名] 『日常的英雄〜惑星戦隊スターファイター外伝〜』『ロ
ケッティ』 [劇団名] 高校演劇連合軍 Oxygen
 hideが生前最後に出演したTV番組で演奏したのは確か
「ever free」で、それはもう本当に楽しそうに演奏して、
幸福そうに歌っていたけれど、高校演劇連合軍 Oxygenの二本
立て公演は、最初が『日常的英雄〜惑星戦隊スターファイター外伝
〜』、次が『ロケッティ』で、その『ロケッティ』の最初と最後で、
hideの「ROCKET DIVE」が流れて、今の高校生くら
いの人には、hideはどのように聞こえているのだろう、またh
ideの曲をどのように感じているのだろうと思ったけれど、まず
最初の演目『日常的英雄〜惑星戦隊スターファイター外伝〜』は、
資料を見る限り昨年のあの地震で県大会に出場できなくなった小千
谷西高校の公演であり、最初で、唯我独尊の四天王の一人であると
いうアロンアル星人が段ボールでできた道具の中から登場するとこ
ろが楽しかった。
 ただ、残念ながら、ところどころ会場に流れる音楽の大きさに役
者の声の大きさがまけてしまうことがあって、これはきっと、いろ
いろな事情でたとえばゲネプロのようなことがきちんとおこなえな
かったのだろう。身勝手な想像だけれど、出演者やスタッフに、こ
の演劇祭で初めて万代市民会館に入ったという人もいたのではない
か。上演中も時々暗闇の中で舞台監督だと思われる人の声が袖の方
から聞こえて、やはり、こんなこと考えたって仕方のないことだけ
れど、まぼろしとなった予定の会場で予定の時期に上演されていた
ら、一体どんな公演になっただろう。だけど、そうはいっても今回
の公演は小千谷西高校の力だけでは実現できなかったかも知れない
のだから、この『日常的英雄〜惑星戦隊スターファイター外伝〜』
というかわいらしい小品は、万代演劇祭に参加した高校演劇連合軍
Oxygenによる公演の、演目の一つとして記憶しよう。
 そしてその高校演劇連合軍 Oxygenのもうひとつの演目『ロ
ケッティ』は、私は何人かの役者が印象に残った。その人たちに限
らず、たとえば『ロケッティ』に出演した全員が新潟を離れて、違
う土地で演劇を続けたっていいけれど、行ったきりになってしまっ
て、そのまま戻ってこないとしたら、きっとさびしく感じるだろう
なと思うくらい、印象に残った。 
(3月19日 午後6時 新潟市万代市民会館6階多目的ホール )

[180] 一発次郎 2005/03/25(金) 02:54 [削除]
[公演名] 『日常的英雄〜惑星戦隊スターファイター外伝〜』『ロ
ケッティ』 [劇団名] 高校演劇連合軍 Oxygen
 先生のコメントが載ってましたので。

新潟大学齋藤陽一研究室HP  

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/oxygen.html

[182] 本間 弘行 2005/03/27(日) 07:24 [削除]
[公演名] 「イッセー尾形みたい!vol.2〜食玩大好き!〜」 [劇
団名] コマツ企画
 昨年同様、なかなか洒落た装置が楽しめるコマツ企画の「イッ
セー尾形みたい!vol.2〜食玩大好き!〜」は、その横山泰之の身の
こなしがスムーズになり、台詞もなめらかで、着替えなども今回は
ほとんど正面を向いて2年目を感じさせる舞台だったけれど、ただ
一つ目の表情が大きく変わっていて、時に目と台詞との間に相克が
感じられた。
 目の演技、あるいは表情の演出について、いろいろな考え方が出
来ると思うが、目に語らせてしまうと、それだけ等身大の人物には
なるかも知れないが、演技だけについて言えば、それだけしかしな
ければ、まさに等身大の人物にしかならないだろう。
 それはそれでよいのだろうが、では等身大の人物を見せながら観
客とどうコミュニケーションをとるかで、なぜ“イッセー尾形みた
い!”をするのかということになると、たとえば、ただ好きという
ことだけでは、観客は何かで舞台を観る行為を補完しないといけな
い、あるいは観客が補完してくれることを期待しないといけない、
そういうことにならないだろうか?
 (3月26日 午後8時 シアターent.)


[183] 一発次郎 2005/03/27(日) 21:36 [削除]
[公演名] 新人魚姫 [劇団名] 劇団マジカルラボラトリー
 「ごめんなさい。」これから、ぶちゃけるので最初に謝っておき
ます。
 僕が演劇を見はじめた頃、快転舞台さんの掲示板の中でマジカル
の演劇を物凄くたたいた事があった。当時の新潟の演劇界では、公
の場で批判する奴がいなかったから、物凄く面食らってもめたのだ
と思う。快転舞台さんにも迷惑かけたと思うし、マジカルさんも他
の劇団の掲示板に自分達のボスである織田氏の演劇スタイルを悪く
書いてあったから、ビックリしたのだと思う?多分。それを読んだ
どこか?の劇団から快転舞台さんにクレームがついた。そういうい
ろいろな経過があって、この「例の掲示板」がその後、おもな劇団
の合意のもとに誕生したのだろう?と認識している。
 当時のマジカルの演技は織田さんが一人演技的にも声量的にも抜
けていて、悪く言えば、他のメンバーのキャラクターが確立されて
なかったので目立たなかったと思う。劇の後半、織田さんが役に入
り込んで絶叫するシーンがあった。その時の様子があまりにも周り
の役者とのバランスが取れていなかった為にたたいた。あの声の大
きな人は役に張り込みすぎると。しかし、役に入り込みすぎる織田
氏が悪いのか?周りの役者がそこまでついていけないから悪いの
か?草野球のチームにプロの投手がいるような感じがした。回りが
追いつけないなら、あの場合、全体のバランスを考えて押さえるべ
きだったのかもしれません。
 織田氏の演技が激変したのが、長岡のリリックホールで行われた
「核恋慕」だった。彼が前面に出るのではなく、押さえた演技が凄
く評判がよく、高校生も高く評価していた。最優秀の演技候補にも
あがっていたと思う。
 今日の演技を見て、織田氏に対抗できそうな俳優達が出てきた。
羽田氏や渋谷君とか他も。若い方も個性がにじみ出てきていた。ほ
んとあの頃に比べるとこの劇団も成長したなーーあ。と思う。
 客演の花野あゆみさんは新世紀エバンゲリオンの綾波レイに似た
感じなので、眼帯が似合いそう。(笑)もっと恋愛っぽい演劇も見て
みたいものだ。本間克彦氏についても、彼がトマトを持ち出す前か
ら、なんか?戦艦トマトに似ていると思った。そして、やっぱり出
てきたか。と爆笑した。若手や女性人もよく個性がどんどん明確に
なり、今後、物凄く面白い作品が見れそうな可能性を感じました。
 話題にも敏感で、最近流行っているといわれる親父ギャグや台本
の件などここやTVやニュースも取り込みが早いと感じた。

 他の老舗劇団はメインの役者と新人とではあまりにも演技力に差
があるために、なかなか演技の差を埋めるのが(新人俳優の育成が)
今後は大変かもしれませんね。あと、マジカルは新潟駅前という立
地条件にも恵まれた練習場所があるのもマジカルは有利なのかもし
れませんね。

 あの頃の僕は五十嵐劇場の掲示板で「ここはそんなに熱く語る掲
示板でない」と断られ、快転舞台さんともなんとなく、その後、些
細な意見の食い違いで喧嘩っぽい感じになり、自ら出入り禁止を宣
言して書き込みを止めてしまった。ついでに演劇を見るのもやめて
しまった。一発屋さんで復活し、ここの存在を知った。一発屋さん
にもいちゃもんつけたような気がするし。第二黎明期さんにも照明
の件で五十嵐劇場の伊藤さんにもクレームつけてたし冷蔵庫の件で
もクレームをつけてたなぁ。今から思えば、恐ろしい事をしていた
ものだ。

追、新人魚姫の感想?にあんまりなってないのが気になる。



[184] 音庵 2005/03/28(月) 00:32 [削除]
[公演名] イッセー尾形みたい!vol.2〜食玩大好き!〜 [劇団
名] コマツ企画
終わった後、横山泰之がイッセー尾形の舞台を好きだと言った、
その率直な物言いを聞きながら、改めてこの企画がいわばオマージ
ュであり批評的なスタンスではないことを思った。Vol.1でのオリ
ジナル映像との同時進行のような形はとらずとも、しっかりと細か
く模写されていることがわかる。「ニュー・バーテンダー」を見なが
ら、イッセーのビデオを見ていた頃のことを思い出していた。ああ、
このポーズ、この台詞。「中華亭」もそうだが、場末の、市井の名も
なきおっさんたちの微細な描写に、思わずにやりとしてしまう、イ
ッセーワールドが「再現」されている。ただしシンクロではなく自
分のタイミングで行われる。進化、なのであろう。コントと芝居の
区別はなかなか一概に定義できないが、イッセーの場合演劇的なア
プローチに近いと思う。笑いのためというより、人物描写に伴って
笑いが喚起される。横山氏がひかれたのもそのあたりにあるのでは
と勝手に思う。つなぎの舞台上での衣装替え、メイクがまた見せ場
でもあるのだが、今回3本の上演でチェンジも3回、1本の時間が
長めではあるが、がらっとイメージの変わるキャラクタが出来上が
っていくあのわくわく感が楽しみなので、その点少し物足りなかっ
た。贅沢だが。
イッセーの作るキャラクタは、様々なバリエーションがあるが、い
ずれも彼の佇まいから大きく外れないしある種のリアリティがある。
横山がその年齢の割にイッセーの作り出したキャラを上手く演じえ
ていたことは認めるが、コピーであっても「モノマネ」でないわけ
でその肉体と声は30男のそれである。そういうこともあって、ネ
タとして完成度が高いのはもちろんコピーの方かも知れないが、よ
り面白かったのは3本目のオリジナルだった。そこでは今回のテー
マでもある、食玩にアニメにSFにという、80年代に少年時代を過
ごした同世代のものが皮膚感覚で笑える世界が展開され、演じられ
るキャラクタも等身大。玩具と戯れながら、「敵」と戦い「お嬢さん」
にときめき「ヒーロー」を演じる。オタク男の願望そのものではな
いか。ドッグファイトシーンなど、惑星ピスタチオのパワーマイム
に通じる楽しさとばかばかしさだ。で、このやりたい放題で失笑す
らこぼれる光景に既視感があると思ったが、これは一発屋「ティッ
シュニモウヒツ'04」での「こまっちゃん」の長〜い「オレの殻」ネ
タと自分的にはかぶるのだった。で、横山の少しイタイ面白さがよ
く出ていたと思う。オープニングのムービーと合わせて、演出村井
氏と2人の世代感がよく出ており、今回の収穫はここにあると思う。
個人的には、最後に一人遊びであることが明らかとされてオチにな
るのかなと思っていたが、そういうこともなく(というかまあ当然
の助動詞べしなのだろうか)するっと終わる、そのあたりもらしい
なあと感じた。さて、この後の展開。次第に、イッセー尾形みたい
でなくてもいいじゃん、てな気になってきた。いい勉強してきてる
じゃん。天下取ろうぜ。


[185] 本間 弘行 2005/03/29(火) 20:29 [削除]
[公演名] 「新人魚姫〜しんじんさかなひめ〜」 [劇団名] 劇団
マジカルラボラトリー
 なんとなく、横内謙介の戯曲(たとえば“フォーティンブラス”)
を上演させたらおもしろいのではないかと思う劇団マジカルラボラ
トリーは、今のところアイデアの量と、それを組み立てて他とつな
げることばの力と、演出の力のバランスが悪いように感じられて、
もったいない。
 そうはいっても、男の役者は充実していて、玉木雅志や本間智、
渋谷和明、もちろん本間克彦や織田智頼と、何人も印象に残る。で
は芝居は印象に残るかというと、そりゃあ、防ぎようのない天災が
あって、生き残るために人間が新人魚になったり、それを食べる者
が出たりと、わかりやすい風刺があるが、その風刺と娯楽性とのバ
ランスが悪く、舞台は淡泊な味の巨大なハンバーカーのようだ。
 他、渡辺智明の照明(とくにラストなど)が印象に残ったが、音
は、役者の声の質とスピーカーから流れる音の質との間に乖離があ
って、もう一工夫欲しいところだ。
(3月27日 午後5時30分 新潟市万代市民会館6階多目的ホ
ール )


[186] 本間 弘行 2005/03/30(水) 20:46 [削除]
[公演名] 葵上 [劇団名] ク・ナウカ
 「葵上」というお能で、シテが“三つの車に法の道、火宅の内
をや出でぬらん”と謡うと、私はそれを梅若六郎でも観たけれど、
そのかがやく哀しみが美で、「葵上」はあとの“われ人のためつらけ
れば〜”ではじまる地謡から“思ひ知らずや、思ひ知れ。”の、後妻
打(うわなりうち)のあたりまでが特に、おそろしいほど美しいと
思うのだけれど、今回ク・ナウカが取り組んだ謡曲「葵上」は、祈
りのところなど、どうするのだろうと思ったが、唐十郎の「ふたり
の女」という戯曲を用意していた。
 舞台は、能でいえばシテの吉植荘一郎が“三つの車に法の道”と
語るとなんだか歌舞伎の演劇風だったけれど、そのあとの“火宅の
内をや出でぬらん”は唄うようで、その声の響きが美しかった。さ
て私はこの唐十郎の戯曲についてはよく知らないのだが(だから観
劇後のアンケートで、その部分を、三島由紀夫風の現代劇みたいだ
が、是光という役を演ずる吉植荘一郎の台詞が唐十郎みたいだと書
いてしまった)、舞台を病室と設定し、そこで物語を進行させること
で、統一を保っていた。つまり葵上は、入院患者であり、六条御息
所は入院患者の衣装で登場し、源氏(「ふたりの女」では光一)はそ
の病室のある病院の精神科医になってしまうのだ。こんな「葵上」
も、最後は民間療法の権威のような、ややマンガチックな小聖があ
らわれて、怨霊は無事成仏するけれど、女が入院していた6号室に
入院して、そのことで女のことをとらえ直そうと欲する源氏は、そ
れがかなえられず、芝居もそこで終わってしまう。
 なにぶん「ふたりの女」を未読なのであまり立ち入らないことに
するが、印象だけを述べれば、源氏に翻弄される女には救済が与え
られるのに、まるで初めて自分が翻弄してきた女を理解しよう、愛
そうと欲したような男には“君のような重症患者が入院する部屋で
はない”というようなことを是光に言われて拒絶され、その機会が
与えられない。私はそこに、昨秋の「マクベス」から始まる男性論
理への、はっきりした絶望ではなくとも、猜疑心といったものが感
じられて、やや、男性論理と格闘する、ジェンダーが演出に薫る宮
城聡は、いったいどうしたのだろうと思ってしまう。
  (3月28日 午後4時 旧細川侯爵邸1階サロン)


[187] 本間 弘行 2005/03/30(水) 20:56 [削除]
[公演名] 「葵上」補足
 つまり芝居を観て、アンケートを書いて会場を出て、帰路初め
てパンフレットを読んで唐十郎に「ふたりの女」という戯曲がある
ことを知ったお粗末さで。
 

[188] トックメイ 2005/04/01(金) 01:35 [削除]
[公演名] イッセー尾形みたい!vol.2 食玩だいすき! [劇団
名] コマツ企画
なんだか恒例となってまいりましたが・・・
齋藤陽一研究室HP 芸能時評に

芸能時評No140「コマツ企画 イッセー尾形みたい! vol.2食玩
だいすき!」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/komatsuvol2.html

がUPされてマッスル。

[189] 音庵 2005/04/01(金) 12:30 [削除]
[公演名] お気に召すまま [劇団名] アプリコット
まず、外側?のことから。これは、お金を十分取れる公演だ。そ
れだけの人と力が集まってできている。りゅーとぴあで行われる中
央の劇団公演で、値段に見合わないものも多くあるが、これは質的
に通常の料金でも十分なだけのクオリティを持っている。それが、
子ども料金はともかく大人600円という破格でシアター公演という。
開場前から長蛇の列。1つには気軽に見れる料金設定、そしてもう
1つ、多分普段は観劇などほとんどない親の層を子どもぐるみで取
り込めていること。わからないけどシェークスピアだし、知り合い
が出ているし、ちょいハイソな感じ?…すごく反感を買う言い方で
申し訳ないけど、そういう人も結構いるでしょう。で、自分はそれ
を評価したい。すごいことだ。これが演劇的土壌を作る上で果たす
役割は大きい。で、これは芸文に言いたいことだが、今回どれだけ
の助成があってこの価格があり得るのか?こういう設定料金ならこ
れだけ新潟の人間は動くのだから、県内諸劇団・諸団体に対しても
っと使用の配慮をお願いしたい。もっと新潟の演劇状況はよくなる
でしょう。
さて、肝心の内容だが、沙翁のばやい筋の説明がいらんので楽。ま
あ話そのものはアレだし、今さら感もあるけどね。舞台監督をはじ
め音響・照明など、りゅーとぴあの専属スタッフであるため十分に
使いこなされ見事なスタッフワークで、過剰とも思えるほど華麗な
効果。黒のコロを除けばほぼ素舞台にも関わらず、場転を含め各場
の設定に違和感がない。2幕約140分飽きない。
沙翁@りゅーとぴあ、と言えば栗田氏の一連の作品が浮かぶが、シ
ンプルにデフォルメされ芸術性が際立たせられる栗田作品に対し、
アプリコットはむしろエンタテイメント性を強調している。これは
正しい。悲劇・喜劇の差だというだけではない。沙翁は芸術として
芝居をやっていたというより、ダイレクトに客の反応に合わせるエ
ンタテイメントとして、喜劇も悲劇もサービス精神満載だったのだ
と思う。栗田氏の場合も、「芸術」性を好む客層のニーズを踏まえた
上での確信犯的なある種のエンタテイメントだとは思う。アプリコ
ットの場合、客層をわかった上でより入りやすいアプローチであり、
音楽にしても野瀬さんのメロディはとてもPOPで耳に馴染む。しか
も、子供向けだからと沙翁のテキストをぶった斬らずに、難しい言
い回しも詩もかなり取り込み消化して、男女の機微もきちんと役者
たちが(少なくとも頭で)わかった上でやっていることが素晴らし
い。好き嫌いは別として、非常に真直ぐな挑戦であると評価する。
すれた?客である自分など、あのいかにもミュージカリーな仕草、
大仰な身振り、いちいち歌うことに対してアレルギーがないわけで
はないのだが、そんな薄汚れた大人(涙)にも届くキラキラした少
女たち(若干名少年)の歌と演技は、まさに王道。拍手。音響的補
助があるにしても、歌唱の声量と質は素晴らしい。遠慮せずもっと
カーテンコールに応えてよいと思った。
今回、舞台に最初から出ずっぱりで主役といってもよいのは、実に
エンジェルたちである。萌え、という言葉を使うにはほぼ親の世代
であることを思えば違和感があるのだが、純粋無垢なきよらかさと
立派な役者魂に脱帽。コロスとして歌で場面を伝え動かし主要人物
をフォローし踊りながらコロを動かし場転。八面六臂の活躍を小4
〜中1の少女たちがよくこなす。見ていると台詞(歌)の入りきっ
ていない小さい子もいるが、無理もない。高校生だって難しいこと
を、あれだけできればすごい。一方で中には(パンフの写真だけで
特定が難しいが)町屋美咲嬢のように明らかに舞台表現に抜群のセ
ンスと能力を見せる役者もいる。そこで、様々な個人差をもって集
まる子どもたちを、それぞれの特性を生かしながらこうして練り上
げてきた笹部氏・戸中井氏の手腕に感服するとともに、こういう打
てば響く子どもたちを育てていく過程に大きな愉悦があるだろうと
拝察する。
メインキャストはじめ、皆適材適所で、キャスティングがよくでき
ていると感じる。現在、学校演劇ではこれだけの質が揃うのはほと
んど望めない。しかし適切な指導がこれをなし得るのだということ
は事実。素人からここまでなるには、本人の適性と努力に加え第三
者の目が必要だろう。
男役、老け役、それぞれほとんど手を加えず少女たちの生の姿で演
じられるが、声や所作でかなりの説得力があった。前公爵を演じる
中島もも嬢が、年齢設定的に周りと比べ苦しいところはあったが、
個人的には彼女を高く評価している。高潔さがよく出ていた。華の
あるメインキャスト、印象的な脇キャラたち、それぞれのピースが
上手くはまって織り上げられた絵は、スウィートながらきっちりし
た仕上がり。2000円くらい払っていいな。少ない?


[191] 一発次郎 2005/04/02(土) 09:54 [削除]
[公演名] 新人魚姫 [劇団名] 劇団マジカルラボラトリー
 今回は先生の好きな分野のようで、かなり長文(力作)です。

 齋藤陽一研究室HP 

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/fish.html



[192] 本間 弘行 2005/04/02(土) 10:14 [削除]
[公演名] 鈴木ピアノ教室 創作ミュージカル「ジョン万次郎」〜
笑いと感動の江戸幕末物語〜
ふだんはピアノ教室に通う人たちのようだが、その人たちがピア
ノの発表会だけでなく、創作ミュージカルまで作って、発表会で昼
と夜、ピアノ演奏のあいまに2回も公演をしてしまう。この公演の
ために、半年かけたそうだが、ダンスなど、ジャンプがきれいで、
きちんと宙に停止したように見えるのだ。
 もちろん、舞台そのものは、発表会での公演であったけれど、人
は機能や技術の美や、ある人の特異な表現力だけに、感動するわけ
ではなく、いっけん自分とは関係がなさそうに見える世界の自律性
にも、そこに自分の感情を投げかけたり、自分と同じ感情が見いだ
せたりできれば、感動するのだ(もちろんそれが楽しいか楽しくな
いか、おもしろいかおもしろくないかといった二分法を持ち込まれ
てしまうと、話は別になってしまうけれど)。
 その人のピアノの演奏に、ミュージカルをしたことがどう影響す
るのか、また今後どう影響していくのか、そんなことはわからない
し、知りたいとも思わないが、目に見えない財産というものがこの
世にはあるのなら、この人たちにとってはそれはミュージカルを作
り上げた体験であり、今生きている自分とは別に、目に見えないも
のが終わったと感じられることで生まれる歓びであろう。
 目に見えないものが見えたような気がするのも、それが見えたよ
うな気がした者が今生きているからこそであり、それは生命の力の
奔出である。芸術は、生命ほど大きなものではないかも知れないが、
何をしても、また何を使っても表現しきれない、知り尽くせない世
界があることを知らせてくれる。作品とはきっと、目に見えないも
のが見えた、見えてしまった一瞬であろう。そういう意味では、人
は結局、作品の作り手だろうとそうでなかろうと、その時その時の
自分に見えるものを、きちんと見るしかないのだ。
 このミュージカルの制作・総指揮であり、ピアノの指導者でもあ
るらしい内海啓子は、ピアノ教室の生徒の主導によるミュージカル
制作をかなり長い年月続けているようで(前回は「レ・ミゼラブル」
をとりあげたようで、それをステージでの挨拶の中で「レミゼ」と
略していたのはややいただけないが)、カリスマ性のある方のようだ
が、この方が最後の挨拶で出演者に投げかけた「みんな、おわった
よ、よろこぼう」は、いい言葉だった。
(4月1日 午後7時 新潟市音楽文化会館大ホール)


[193] 本間 弘行 2005/04/03(日) 12:12 [削除]
[公演名] りゅーとぴあ演劇スタジオキッズコースAPRICO
T2005春季公演「お気に召すまま」
 子どもがシェイクスピアを演じたっていいのだけれど、ミュー
ジカル仕立てになって、音の海に溶けたシェイクスピアの言葉は、
すっかり漂白されて、テレビのコマーシャルに出てくる真っ白な洗
濯物のようだ。
 今回の公演は、私はその塵ひとつない清潔さに辟易してしまった
けれど、劇中“〜が恋しくて”のメロディが印象に残る野瀬珠美の
音楽は馴染みやすく、一緒に唄いたい気にさせる。
 ただ演出は、全体としては子どもを集団の一員として扱う姿勢で
あり、だから大勢が出る場面は確かにそれなりの迫力があるが、個々
については、何か子どもへの教育的配慮といったものが感じられて
私には物足りなかった。しかし、そうはいっても、今の時代に公的
施設で子どもを演出すると、ああなるより他に仕方がないのかも知
れないし、また今回の舞台は、笹部博司の演出作品というよりも、
APRICOTという有機体の演劇的発生の場だと捉えるべきなの
かも知れない。
 最後にこの公演は、演劇の好きな10歳前後の小学生を観客とし
て想定しているようにも感じられたが、エンターテインメントがあ
り、舞台技術の機能美があり、親を納得させられる(あるいは安心
して子どもを連れていける)シェイクスピアであり、安心して出か
けられるりゅーとぴあの劇場であり、APRICOT広報委員とい
うスタッフが果たした役割も大きいと想像するが、集客的には成功
する要素をそろえている。これを観て舞台に立つことを夢みるよう
になる小学生もいるかも知れないと思う。
(4月2日 午後5時 りゅーとぴあ 劇場) 


[196] 本間 弘行 2005/04/17(日) 21:20 [削除]
[公演名] 新潟県中越地震チャリティー公演 〜Noism05
メンバーによる振付作品ワークショップ〜
素人考えだけれど、踊りというものが、からだに規制されつつ、
からだからの解放を目指すものであるとするなら、今回のワークシ
ョップの作品は、どれも演劇的に過ぎるように感じられた。何とい
うか、観ていると受けた印象を意味のある言葉の連なりに、物語に
変換したい気持ちがわき起こるのだ。それだけなら我慢するが、ス
テージから音楽と共に、時に過剰に、無数の言葉の胎児が降ってき
て、それが演劇を観たいわけではない私には、時に煩わしいのだ。
 私はもっとシンプルに、身体が頭脳の専制をひっくり返す、そこ
から生まれる渦におぼれたい。
 もちろん、そうはいっても、単純に、印象に残る作品・場面はい
くつかあって、それはたとえば最初の、たしか“まずはじめに言葉
があった”で始まる平原慎太郎の「掻落」の最初、照明と人間の関
係や、清家悠圭の「za-za」のコクトーの映画に出てくるような
馬や、松室美香の「DOLL」の、舞台が明るくなった最初の瞬間
などだけれど、どうなのかと思うこともあって、それはどの作品か
らも発せられる、まるで文章の朗読を聴いているような、独白を聴
いているような、想いをそのまま音楽に託したような選曲の過剰な
センスや、同じ「DOLL」の、Kirieを染めるダンサーの無
防備な黒い影や、青木尚哉の「チューリップ」である。
 だがその一方で、音楽の装飾が過剰であることにかわりはないが、
辻本知彦の「down」は月明かりに輝く花のような、モノクロー
ムのメゾチントのようで、だからこれが私はいちばん、まるで言語
で表現できるような、そういう意味の存在の重さを感じないですん
だけれど、他にも松室美香の「I who am plain」は、男
性ダンサーが踊ってもおもしろいのではないかと思ったし、パーツ
パーツが肥大してやや凸凹であるが、島地保武の「やさしスワン」
は、我らの金森隊長へのあこがれを感じたけれど、また同時に構成
力の芽を感じたし、井関佐和子の「panic blue」は、これ
はもう、きれいなオマージュだった。
 
 どうぞ“まずはじめに言葉があった”ではなく、“まずはじめに踊
りがあった”をわれわれに!


[197] 本間 弘行 2005/04/17(日) 21:25 [削除]
[公演名] Noism05補足
 ごめんなさい。私が観たのはダンサーにかたさがあったらしい
午後ではなく、午後7時からの公演です。
 (4月16日 午後7時 りゅーとぴあ 劇場)

[198] 音庵 2005/04/19(火) 09:49 [削除]
[公演名] Noism05メンバーによる振付作品ワークショッ

自分は午後3時からの追加公演を観たのだけれど、追加なのに1
時間前から長蛇の列。まあ金森氏は出ないにしても、Noismがワン
コイン500円から見れるということで、高校ダンス部員の他老若男
女が集い盛況であったのは何より。ただ、チャリティということは、
間口を広げて普段コンテンポラリーダンスを見ないような人も多く
集めることが一つの方向性だと思われるのだが、それにしては内容
(特に冒頭)の難解さはむしろ逆行するようで、客席でも「すごい、
けどよくわからない」という声が結構聞こえた。こうしたダンスに
(本間氏ご指摘のように)演劇的要素が多くなっているのは世界的
な流れでもあろうし、コンポラダンス界(?)では普通なのだとし
ても、一般向きにぐっとハードルを下げて純粋にダンスの美しさ楽
しさを打ち出してもよかったのでは、と個人的には思う。でもアフ
タートークで金森氏が、これはあくまでもワークショップなのだと
言っていて、それは確かにそうだと改めて認識した。完成度ではな
くトライなのであると。してみると、Noismメンバーはそれぞれに
いろいろ考え、表現意欲に燃えてこれらの作品群をつくってきたの
であり、彼らの志向がどの方向にあるかを見れたという点でなかな
か面白かった。
#1掻落 平原慎太郎振付 冒頭の「初めに言葉があった」(これは
ヨハネ伝の言葉だが)から、そこで展開されるロジックは創世記的
であり、隠喩や明喩に満ち意欲的かつ刺激的、ながら未消化でもあ
る。メインダンサーの若さも透けて見える。心余って、の伝か。た
だし言葉足らずでなく身体表現が、だが。
#2 za−za 清家悠圭振付 黄金に輝く3人のシンクロが見事な冒
頭部から、Noismらしいキレのよいダンスで魅せる。
BolotBairyshevのダミ声が声明のようで心地よい。後半、脚立を使
いまた後方にゆっくり歩く妊婦が現れるなどやはり象徴的表現が入
ってくるのは要らないかな。
#3 DOLL 松室美香振付 女性5人が人形に扮してコミカルに踊
る。可愛らしく受けもよかった。で、こうなると逆に何か残るもの
が欲しくなるってのは贅沢なんだろうなあ。
#4 down 辻本知彦振付 進境著しい辻本のソロで、落下を示すよ
うな照明と身振りがよくマッチし、上品な表現力に満足。
#5 I who am plain 松室美香振付 赤の衣装がよく合う松室の情
熱的なソロ。ミュージカルの曲を借りてストレートなおんなの感情、
開放感が感じられた佳作。ただ、4も5も完成度は高いがどちらか
といえば自分の得意な表現であってチャレンジ度は高くない。ダン
サーを交渉により振付ける作品は何倍ものエネルギーを要するだろ
う。
#6 チューリップ 青木尚哉振付 Noismのちい兄ちゃん?青木
による、夏の浜辺で戯れる男女4人の追憶をコミカルに描きながら、
そこで生じる摩擦や葛藤をひとりの男の回想として苦さをこめて綴
る。胸に描くチューリップなど様々な引っかかりが、わかりやすい
ようで未消化。
#7 やさしスワン 島地保武振付 キャイーンポーズで作られた
スワンの形から、スワニーな?チュチュから、コミカルさが演出さ
れ、さらに映像を用いた仕掛けなど意欲的な試みが多い。大柄な島
地のソロ部分はやはり舞台栄えする。ゲスト福島昌美の黒衣のソロ
が美しい。井関佐和子は上手い。が盛り込みすぎの感もあり。
#8 pisoposo 木下佳子振付 舞台転換の中で客席から現われ、ハ
モニカ片手に舞台上で脱衣して始まるソロは流麗で見事。その存在
感でひとりで立ち舞台をもたせることに成功している。
#9 DVD jo'sbirthdayvideoのメイキング画像 楽屋落ちといえ
ばそれまでだが、このメンバーの絆と雰囲気のよさ、金森氏への思
いがよく表れていて(無駄かもしれないが)自分には面白かった。
#10 panicblue 井関佐和子振付 ダンサー総出演でのレッグダ
ンスから、そろいの青スカート、全体にコミカルながらモブダンス
としての美しさも見せ、オオトリにはふさわしい。
全体に、有機的なつながりが乏しく一個の公演としてのまとまりに
欠ける点はやはりワークショップなのだということだろうか。ファ
ンサービスとしての面と、各自の実験的な発表であることとの兼ね
合いが難しいのだと思う。が、金森作品以外でも可能性を見せてく
れた点で7月のTriplebillが楽しみになる。


[201] 本間 弘行 2005/05/01(日) 10:01 [削除]
[公演名] オイリュトミー・デモンストレーション「宇宙と私」
新潟ではあまり公演されないオイリュトミーであり、だからオイ
リュトミストとしての子安和夫の技量というか、表現力については
あまり触れられないだろうが、会場でオイリュトミーを見ながら感
じたからだの落ち着きのなさについては、少しは述べられるだろう。
 オイリュトミーの動きの一つ一つが、ある言葉の母音・子音をあ
らわすものであるなら、その動きの一つ一つには、何かはあっても、
言葉という面では、それは言葉ではないだろう。
 そうはいっても、その一つ一つの動きが連続すれば、たとえば“生
まれて”であるなら、“う・ま・れ・て”と動きが終わった時点で(動
きにはオイリュトミストによる母音・子音の選択という要素が入っ
てくるのだろうが)、わたしは“うまれて”“生まれて”“産まれて”
といった言葉を思ってしまい、同時に“うまれて”や“生まれて”
“産まれて”という音にからみついている、言葉の意味の影を感じ
てしまう。もちろん感じるのはほんの一瞬のことだけれど、オイリ
ュトミストの動きはそこでは終わらないから、すぐに、まだ前の言
葉が持つ意味の影を見ているうちに、次の言葉を断片から見ていく
ことになる。そしてそのあとは、同じことがわたしの中で繰り返さ
れるわけだけれど。
 なんだろう、聴覚が視覚のじゃまをして、同時に視覚が聴覚のじ
ゃまをするとでもいったようなことが、わたしのからだの中で起こ
るのだ。
 素朴に思うが、オイリュトミーというものが、言葉の響きやイメ
ージを表現するものであるなら、音を動きで表す方法には、オイリ
ュトミーが人に見せる芸術でもあるとするなら、まだ発展させる余
地が残されているのではないか。なぜなら、プログラムにもあった
北原白秋の『狼』は、たとえば、“お・お・か・み”であるけれど、
“お”という音やからだの動きから、イメージを感じることは難し
い。つまりは“お・お・か・み”と、一つのまとまりが終わった時
点で、はじめて“狼”“オオカミ”“大神”といった言葉がわたしの
中でうまれるのであり、そのときの“お・お・か・み”が、プログ
ラム通り“狼”であるなら、狼という言葉から受けるイメージは、
わたしの知っている痩せた狼でしかない。
 子安和夫は、終演後のアフタートークで、笠井叡はヴェールを使
わなくとも動きに質感があるという意味のことを述べていたが、オ
イリュトミストのからだの動きから質感といったものを感じたとし
ても、そこにある質感はたぶんオイリュトミストが身につけた技術
であって、イメージは、その質感のうえに成り立つものだろう。わ
たしの感じ方からすれば、子安和夫のからだの動きは、今のところ
文章のからだの動きへの翻訳であり、それ以上のものではない。
 言葉をからだという道具でパーツパーツに分解しつつ、同時にそ
れを実体としてもつかもうとするかのようにわたしには見えるオイ
リュトミーは、そういうことが可能であるなら、それを支える思想
は錬金術であり、シュタイナーの神秘思想の衣装をまとっている。
 オイリュトミーは、そういう、ひとつの伝統芸能である。
(4月30日 午後7時〜  新潟市音楽文化会館練習室11) 


[202] 本間 弘行 2005/05/01(日) 20:06 [削除]
[公演名] 慾界のニコ [劇団名] 演劇集団一闡提U
 当時のことを少しは覚えているけれど、評価という点では不仕
合わせだった劇団無形舎が休団になってしまってから、新潟市でテ
ント芝居をする劇団はなくなってしまったけれど、演劇集団一闡提
Uの今回の公演は、途中火があり、まさに身体を張った演技があり、
水のように絵の具が使われたりと、テント芝居の匂いを感じさせる。
 今日の公演では、開演のぎりぎりまで人の入場があって、終わる
とすぐにバッハのカンタータ第140番が流れて、登場人物達が勢
揃いをする披露宴の始まりまでがなんだか鈴木忠志みたいだなと思
ったけれど、雰囲気はすぐに変わって、この芝居、アートというよ
りは芸能である。
 演劇集団一闡提Uは、劇中にあった見世物に象徴されるように、
テント芝居の猥雑さに、即物的なリアリズムを混ぜた、人間社会の、
虐げられた者たちが織りなす物語を、ところどころ綻びというか、
力業にまかせた部分が見られなくもないが、前に向かってくる役者
の身体の力のある質感でみせる。この身体の勢いがうるさいほど前
に向かってくる感じは、最近の新潟市の都市化されてしまった芝居
では見られないものであり、なつかしかったが、ただ最近多い短め
の作品や、展開のスピード感になれた人たちにはどうだろう、ちょ
っとタフでないと楽しめないところだろうか。
その途中の見世物や、ところどころで挿まれるシュールな場面は、
一つ一つはおもしろかったりするけれど、あるいは構成力の弱さで
あり、また物語の進行を考えると評価が分かれるところかも知れな
いが、これについては一闡提Uの役者達の生真面目さをたたえよう。
ただ難をいえば、男が演ずる女から子どもが産まれるのはよいが、
その子どものぬいぐるみのような人形を沐浴させたとき、赤ちゃん
の泣き声を音響で聴かせて、なんというか、そのまま過ぎて、かえ
ってちぐはぐではないか?
 どうして赤ちゃんの泣き声は本物を使うのか、なぜ怒鳴るように
台詞を言う必要があるのか、なぜ妊娠している男の背中を実際に足
で蹴る必要があるのか、なぜそうでなければ今回はいけなかったの
か、なぜ途中見世物の場面を入れたのか、一つ一つにはどういう演
劇的な意味があるのか、聞いてみたいところだ。
 この芸能としては娯楽性がやや弱い今回の芝居が、もしもアング
ラ芝居ではなく、アングラ芝居のイミテーションだというなら、舞
台には全体を貫くこの集団のこの芝居にかけるさまざまな情念があ
るだけで、一つ一つには意味も必然性もなく、そうしたいからそう
した、情念にしたがったまでだというところだろうが、一闡提Uは、
そうではないだろう。
 他、今回の公演では、あの場面・あの演出・あの創作方法自体は、
目新しいものではないが、車椅子の芸術家の作品が印象に残った。
またパラグラフの長麻佐美の照明には立体感があった。
(5月1日 午後2時 シアターent. )

[203] 音庵 2005/05/02(月) 01:27 [削除]
[公演名] 慾界のニコ [劇団名] 演劇集団一闡提U
芝居の嗜好は十人十色、千差万別であろうから、あくまでも個の
視点でしか語れないので一般論にはならないことを前提に言う。自
分にとって観劇には、一種のタブー侵犯行為というイメージが不可
分である。それは内容がインモラルであることを必ずしも意味しな
い。お子様向けの商業演劇であっても、勧善懲悪であっても、何が
しかソウルを揺さぶられる経験があること。自分の中のバリアが破
られること。スリル。そんなものを自分は求めているように思う。
entで一闡提U。となれば、期待は膨らむ。あたかも密儀宗教のイ
ニシエーションのように、階段を上って降りて仮想の地下(アンダ
グラウンド)へ降下していくこのハコの作りの快感。そして芝居前
のセットが薄暗い照明に照らされるその佇まいに、胸を躍らせ開演
を待つ。…結論から言えば、この時間が一番素敵だった。多くの人
に見てもらいたいことは確かだが、個人的にはもう少しイカせてほ
しかったのだ。
かつて上越の寺院で観た谷藤幹枝のひとり芝居「盥の女」のような、
時代を感じさせるドメスティックな家具群、幔幕、花輪、いかがわ
しいにおいがぷんぷんするその中に、森チャックのぬいぐるみが置
かれているところが、ちょうど象徴的に、唐的・つか的な時代のド
メスティック臭ある芝居を21世紀の演劇人が再構築すること、最
終的には大団円に持っていく中村洋子さんの多少若さが見える脚本
を濃ゆい保坂氏の演出によりケレン味たっぷりに仕上げられている
ことなどを表していたように思う。馴染めない人もいようが自分に
とっては結構好みの世界。ではあるが、一時代前によく大学生がや
っていた芝居を観ている感がぬぐえない。自分が年取ったのか?昨
年の「坂下さん」のあのやばい感じ、切れた感じに比べたら(比べ
るべきではないのかも知れないが)今回の役者陣から伝わってくる
ものの強度はもう一つ。目を惹かれる役者もいるのだが、個人差が
大きい。敢えて言えば、これはローカルなアマチュア劇団が手持ち
のコマを全て使おうとするとどうしても出てくる問題だ。勢いで押
すのもありだとは思うが、台詞が台詞として届かないエロキューシ
ョンの問題など、考えるべき点がある。肉体を駆使しマジでの平手
や蹴りがあっても、大声で怒鳴ったとしても、それが「リヤル」を
生むという訳ではない。勘違いしてはいけない。全力でやるからテ
ンションが高い、力が入っている、すごい、という短絡はあり得な
い。役者の中に闇の深淵を感じて慄然とさせられるあの感覚が欲し
い。こういう一般的でない、アナクロとも言える世界を自分たちの
ものとして演じようとする姿勢に感銘を受けるからこそ、邁進して
頂きたいと辛口のコメントを致す。
もう一つ、entの使い方について。火や水の使用など、自由度の高
さがアトリエの魅力だ。ここはしかも自劇団だけでなく多くの団体
が使うことを前提にした、とても寛大な劇場だと思う。しかし水性
とはいえ絵の具や、水や口から飛んだ食物が飛び散る様を見ると、
舞台の板は持ち込みなのか?と疑問を持った。例えそうだとしても、
もう少し配慮があってもいい。それらの行為が進行上どうしても不
可欠だとは思われなかったのだ。(続く)


[204] 音庵 2005/05/02(月) 01:32 [削除]
[公演名] 慾界のニコ   [劇団名] 演劇集団一闡提U
続き(ネタバレ多く含む)。
冒頭、溶暗の中で紅白幕が引かれ、結婚式が行われる。今時結婚に
紅白幕って…という疑問はさておき、これは花嫁ニコのカラー・赤
としてその後も象徴的なものであろう。障害をもつ芸術家シュン(車
椅子の割に結構立ってるが何の障害?)が年の離れた助産士ニコと
結婚し、血のつながっていない息子キヨシと3人の生活が始まる。
が、ニコはどこかで助けを求める女―もうひとりのニコ―の声を聞
く。ここで構築されようとする擬似家族は、互いに求め合いながら
もシュンとニコ、ニコとキヨシ、キヨシとシュン、それぞれに理解
し合えずすれ違う。
この3人それぞれの思いをもっと描きこむことができればリアリテ
ィが増すはず。シュンは(ポロックもどきで感心しないゲージュツ)
作品を制作していたが、やがて人造人間かゴーレムもどきの作品を
制作し始め、助産士として生に関わる赤いニコは、そこに生命の冒
瀆を感じ取るが彼をいたわろうとする。しかしそれはむしろ
憐れみと感じられシュンは若い美大生に手を出している。キヨシは
(十代に見えないのは重大な問題)こういう家を出て、芸人を目指
してとあるいかがわしいバー(ショーパブっぽい)に住み付く。ゼ
ニガキ(と聞こえた)が経営するこのバーには、ダンサーとして「飼
われて」いるリリカとチェルシーがおり、キヨシは2人に可愛がら
れる。ここにはまたニコと呼ばれる黒衣の女がいる(黒いニコと呼
ぼう)。彼女のシーンには白黒幕が象徴的に登場する。彼女は男性に
対する憎悪から、性的マッサージを施すと見せて劇物を注射して殺
すシリアルキラーであり、彼女は女性を男性の暴力から守るための
フェミニズム的テロリストとして殺人を行うのだが、それは彼女自
身を狂わせ苦しめている。ゼニガキは殺人をバックアップしながら
同時にこの女を排除しようとも考えている。彼はこの庇護と憎悪の
振幅、女に見せる優しさと冷酷さで一番やばい感じのキャラで、役
者がある程度それを表現し得ていた。
キヨシが芸人としての猛練習を積んだことを示す場として、バーの
ショウがあるが、「一人舞踊」も「白波五人男」の口上もキヨシの「外
郎売り」も、努力は認めるしエンタテイメントとしてのサービスな
のだろうが、いらないと思った。取ってつけたようなシーン。確か
にストーリーそのものは終わってみれば結構シンプルで、合間のギ
ャグやこういうシーンが膨らませることになるのだろうが、その機
能を十分果たしていたとは思わない。むしろすぱっと先へ行って欲
しい。
チェルシーは実は潜入捜査官で(つかかよ)ゼニガキをマークし、
近くのけったいな主人と従業員のいる宿を取る。借金のため店の金
に手を出したリリカはゼニガキから黒いニコ殺しを命じられ、その
ためにエサとしてキヨシが使われて黒いニコの注射に倒れる。ニコ
はリリカの短刀に倒れ、リリカはゼニガキの手にかかり、そこにキ
ヨシを追って赤いニコが駆けつけ、と絵にかいたようなカタストロ
フ、そこにチェルシーらが踏み込みゼニガキを身柄確保する。倒れ
た黒いニコを抱える赤いニコは、彼女の中に自分の分身を見て、共
感を語りながら看取る。注射器や短刀、銃まで出て来るが、一つ一
つに凶器としての怖さが欠けている。扱い方一つで棒を持っていて
も舞台上では死の媒介者としての恐ろしさを持つのだが。もったい
ない。キヨシは病院に担ぎ込まれ、それを聞いたニコは場を去る。
そして幻の結婚式シーンで幕となる。どちらかと言えばステレオタ
イプな破局と大団円。男と女を生み出す女性・母性の称揚と賛美、
それを虐げる原理に対する異議申し立て、分りやすいが安易なニコ
の行動原理に共感を語ること、あのモノローグがテーマであるなら、
非常に浅薄ではないか。言わずもがな(言わないでおいてほしい)。
むしろスコーンと結論は宙に浮かせて、客に考えさせればよいのだ。
ニコとニコで1コだなんて短絡的な理解をする必要はない。黒いニ
コのシミ―ズ姿から伝わるあの震え、役者の身体性を通して伝わっ
てくるものの方がどれだけ雄弁であることか。細やかで叙情的な照
明、豪華な衣装、装置など、スタッフワークが見事であった。え?
もちろん、機会があればまた観たいと思ってます。面白かったこと
は確かだ。


[205] 本間 弘行 2005/05/02(月) 22:36 [削除]
[公演名] あたま山心中 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
 去年の劇団第二黎明期もそうだけれど、薬というと、水薬だっ
てあるのに、演出家が思い浮かぶのは錠剤なのであろうか。第二黎
明期も、今度の五十嵐劇場も、錠剤を水分なしで飲むということを
やっているけれど、できなくはないとして、これはかなり大変なは
ずだ。
 まぁ、そこで違和感を感じさせないようにするのが演出の仕事と
いうことになるのだろうが、その伊藤裕一の演出と照明は、会場と
なった「画廊 Full Moon」を広々とみせ、伊藤はまるで画家のよ
うだ。
 画家があるイメージを感じてそれを作品に仕上げたとき、その作
品にあるのは画家の中から人間の社会の中に送り出されたイメージ
であって、それは画家が社会に投げかけた私的なメッセージではあ
るまい。だから私も、いろいろ難点が無くもない今回の芝居を演出
した伊藤裕一を出口に選んだ、この世のどこかからきた「あたま山
心中」という名のイメージを感じることに努めて、画家に何故と問
うことはしないことにしようととりあえず思うが、これは問題作で
あり、いっけん耽美主義的だけれど、きちんと社会とつながった作
品であると、はっきり思う。
 他、小西奈雅子の影響が大きいのではと想像するが、今井麻衣子
の音楽が印象に残った。
 また国田珠世はときおり鬼気というか、雰囲気に凄絶なものを感
じさせる、そういう、いつの間にかスケールの大きな役者になって
いる。
 (5月2日 午後7時 「画廊Full Moon」 なお、この公演は
5月3日までとのこと )

[206] 音庵 2005/05/04(水) 18:09 [削除]
[公演名] あたま山心中 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
ファー(ネタバレあるよー注意―)。
落語「あたま山」をベースにしたものというのでナンセンスコメデ
ィの芝居なのかと思いきや、そこは竹内銃一郎だけに、彼らしく虚
実がアップサイドダウン、インサイドアウトする交錯の度合いが観
る者(自分っす)を混乱させる芝居であった。自分の頭にできた池
に飛び込んで死ぬ男の噺は、今日的にあるいはうがって考えれば精
神の作り出した深淵に溺れて自己破滅・自我崩壊する人間の姿の戯
画化として見ることができる。
頭に櫻の木が生えた妹とその兄と称する男、しかし妹は時折男が誰
なのかわからなくなりしきりに問う、あなたは誰?と。その行動は
強迫観念を伴う精神的障害を想起させるもので、無邪気な中に成熟
した女性としての鋭い視線を時に投げかける演技を国田珠世が細や
かに演じている。それをいたわり心配する兄という役柄の平手克典
は、しかしことがそれほど単純でないことを表情で語る。青い鳥を
探しに出かけるチルチルとミチルの姿を重ね合わせ、旅に出ようと
している兄妹のように見えながら、その旅は実は道行(道逝き)で
あり心中行ですらあるかもしれない。トンネルを抜けて、幸せな夢
の国へ。そこは彼岸であり、亡くなった祖母や父や母が待っている。
これは臨死体験を語るタームと重なる。少なくとも男は女の死を意
識していることが伺われる。それは旅支度の中で男が用意する錠剤、
荷物の中のナイフ、そして旅の列車の中で男がネクタイを手に女の
首を絞める行為、さらには幻視?の中で母親たる女性にロープを持
って近づく男の姿などに顕著であり、死を与えることで解き放つた
めの愛情であることを示すように思われる。
男は少年時、父の情死(櫻の木に若い女と首を吊った)を知らされ
た経験を語る。女は息子タダシのために舞台衣装を縫う母親の姿で、
夫の不在と裏切りの疑惑を語る。男と女は、兄妹の間柄の中でも、
兄に他の女性(カズエ?)の影を見て疑惑を抱く妹の鋭い視線を提
示し、また母親と帰ってきた夫の姿でも葛藤を提示する。父の不在、
夫の不在、そして自分たちがどういう関係性にあるかが瞬時に転倒
する不安定さ。繰り返される転換の中で、示されていくのは男の、
女へのむしろ愛情からくる殺意であり、それは家、列車など場の設
定が変わっても不変である。そして予め定められている心中への傾
斜は、ついに美しい櫻の元での首吊りのシーンへ繋がる。時間と空
間の転移は、これが観念上のものである可能性を示唆し、そして最
後に病院のベッドで幻想の中に生きる男の姿が提示されるときにこ
れらのシーンが男の過去の経験をコラージュしたものをベースに構
築されていることが思われる。様々な場への移動が次のシーンでは
くつがえされて行くように、移動が結局は精神の中のもので、この
ベッドから出ることはなかったとも言える。がしかし。途中のシー
ンを含め、どこに現実の位相を定めるかは、実は観る者に委ねられ
ている。
先日の安達修子ひとり芝居でも使われたこの場所が、画廊フルムー
ンとなる前の密やかで洒落たブティックであった時から、この町屋
の雰囲気は素敵であったが、伊藤裕一の照明と舞台は実に細心、か
つ雄弁で、これほどの効果を上げることに成功している。散る櫻、
降る雪のイメージが十分以上に表現され、また照明は空間に色をつ
けると同時に、和空間の凹凸を生かして陰影を生み出し、光は影を
生むためにもあることを再認識させる。
五十嵐劇場のキャストは、その作った台詞の語り方に一種独特の臭
みがある(好き嫌いが分かれるだろう)。これは感情の直截的表現を
忌避する本能なのか、演出の故なのか、時折考えるのだが、いかに
も作っている感情を台詞上演出することで逆に、台詞以外の、特に
顔の表情がむしろ雄弁でまた細やかな感情を描いてみせる(奇しく
も照明と同じ表現を使うことになるが)。特に平手克典の演じる表情
(かお)を久しぶりに眺めて実に充実した時間を味わった(誤解を
受ける表現だが)。五十嵐劇場は幸か不幸か少数精鋭、入れ替わりも
あるが現存する初期のメンバーは、年齢を重ねてその作風が変わり
つつもやはり五十嵐劇場としてのこだわりを感じられる舞台を作っ
てきた。いい例を出せないのだが、初期YMOのオリエンタリズム
とテクノの融合という定着したイメージが、ダンサブルな楽曲へ、
さらにポップスへと様々な変化をしながらも決して質的に堕さなか
ったことなどを想起した。


[207] 音庵 2005/05/04(水) 18:46 [削除]
[公演名] FULL MOON [劇団名] APRICOT番外公演
レビューを書くことについてその時期をよく考えるのだが、これ
は公園終了前にアップするべきかどうか迷ったもののひとつ。ネタ
バレあり。見てから読んで頂けると幸い。
entでAPRICOT関係者が来ればこの入りというのは予想できたと
はいえ、大入り。しかも若い女子が多いという普段の雰囲気とはか
け離れた(失礼)状況は、喜ばしいのかいたたまれないのか微妙な
がら、客観的にはとてもよかった。
APRICOTの本公演もよかったのだが、この番外編は輪をかけて素
晴らしい。ともすればウェルプロデューストからオーヴァープロデ
ューストとなり得る、オトナの目と手が入る度合いが低いことが、
今回はむしろ学生(中・高生)の等身大の情景をベースにしたナチ
ュラルでリアルな舞台を生み出すことに成功している。話そのもの
は、実はそう目新しいものではない。しかし、りゅーとぴあ仕込み
の?演出を上手く消化して取り込んでおり、洗練されたものとなっ
ている。作・演出の大山真絵子嬢、特にその演出に大きな拍手を贈
りたい。うん、びっくり。具体的な話だが、小学生・中学生がいる
にも関わらず、これをそのまま高校演劇の大会でやったとしたら、
質的に県最優秀賞で問題ないと思う。個人的にはね。
APRICOTのメンバーでも、特に選りすぐられた感がある(これは
ほかのメンバーが劣るという意味ではない。人数を絞って表現すべ
きことができているということ)今回のキャストは、コロを使った
場面転換など暗転なしで、ほぼ無対象の演技を、ほとんど衣装換え
なしに、その身体表現のみで演じ上げた。所作とその意図が完全に
把握されており、メインキャスト以外も全て自分のキャラクタと、
さらにコロスとしての振舞い方をきちんと考えて行動している。
象徴的な冒頭のモブシーンにほぼテーマは表現されており、見てい
く中でストーリーは終わりまで見なくてもほぼわかる(ここらへん
は話の作りの若さ、甘さかな)が、朝の家庭の様子、学校の教室、
昼休み、放課後など各場面の転換がスムーズで説得力がある。ダン
スシューズを履いていることから予期されるように、踊りを交えた
軽やかな所作が舞台を進行させていく。
主人公・満月(みづき)の、母親や妹との日常的やりとり、そして
教室での会話、スピーディで同時多発会話であり、うるさく感じる
向きもあろうが、実にナチュラルで、本公演にはなかった新鮮さが
あった。その中で浮かび上がってくる、満月のBF(古いか)・輝(ひ
かり)と親友・望、その接近に感じる不安や嫉妬、友人たちの中で
感じる軋轢、家庭での不満などを満月は見つめていく。呼びかけて
も答えられない満月が次第に違和感を覚える中(観客は事態を飲み
込み始めるのだが)、しかしやがて級友の会話や輝、望のモノローグ
から、自動車事故で満月がすでに死んでいることが見えてくる。
自分が世界に対して死んだということは、世界も自分に対して死ん
でいることになる。逆に言えば、たとえ死んでも、心の中に思って
くれる人にとっては自分は生きているのであり、自分にとっても思
うならば人は生きているということ。そういったポジティブなメッ
セージを感じたのだが、意図としてはどうなのかわからないが、少
しその結論は弱いように感じる。途中の重苦しい感情の表現が身体
的に見事に表現されえていただけに、もっと深い描き方もできると
思う。
みな実に達者でまた好感が持てたが、やはり若いながら町屋美咲嬢
は目を惹かれる。また、メインではないが、岡田光恵嬢(間違って
いたら失礼)の、顔の表情が特に印象的だった。
いやー、高校演劇部諸君、見なきゃー。

[208] 本間 弘行 2005/05/04(水) 20:55 [削除]
[公演名] あたま山心中 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
 竹内銃一郎の言葉は、清水邦夫の詩のような言葉とは違い、そ
こにあるだけで血を流すというものではない。だから竹内銃一郎の
作品は、伊藤裕一が得意とするイメージでみせるということには向
いてはいないだろう。
 今回の公演では、美しい場面もいくつかあったが、暗転がところ
どころ珍しく唐突であり、また暗転中の舞台の見せ方も拙いと思っ
た。それは本来はお話としてみせるべきものを、違うものとしてし
まったためであろう。だが、繰り返すが、竹内の言葉は物語あるい
は噺の言葉であり、それだけで詩であるといえる類のものではない。
 「あたま山心中」は、全ては男が見た幻想だったのだと観客が最
後に自然に思えるようなあらわし方が、そしてその男の幻想という
枠組みの中で、さまざまなエピソードというか、要素が語られるよ
うにするのがあるいは定型的な演出なのであろうが、伊藤の演出は
それとは違うものであり、場面場面のつながりや、場面と全体との
つながりがみえてくるような小説のような演出というよりも、場面
から感じる印象・「あたま山心中」という世界から受ける印象を物理
的に表現しようとする、美術的な態度である。
 だから最初の女の登場から、最後の男の場面まで、濃淡に差はあ
るが、舞台全体の密度は均質であり、演技は楽日に国田珠世が若干
幻想の霧を振り払って突出したが、舞台は全体的には古い版画のよ
うな触感で、風景の中を歩まされ、最後に自分が歩まされた風景を
俯瞰する体験をするというよりは、ひとつの風景をそのつど違うと
ころからみせられるようである。観客にみせたい印象は、それがど
のように表現されるかという問題は残るが、伊藤の中では、既に定
まっているのだ。
 私は、そういう五十嵐劇場に、不思議なシンパシーと、そこはか
とないあやうさを感じるのである。
 (5月3日 午後7時 「画廊Full Moon」)


[210] 音庵 2005/05/06(金) 19:38 [削除]
[公演名] FULL MOON [劇団名] APRICOT番外公

これは、レビューではなくて出演した皆さんへのメッセージ。で
きるだけ噛み砕いたつもりだけど、わかりにくいところはごめんな
さい。
 中高校生が創作脚本を書く時に、等身大の日常を書く場合と、ま
ったくファンタジーの世界を作る場合とがある。どちらにも言える
ことだけれど、前者の場合特に、物語を「説明」して時間の流れを
たどって行く形になりやすい。たまに回想シーンが挟まれても、基
本的にはある時間の中で展開していく。その点、今回の作品では、
ダンスをもとにした身体の動きで感情やイメージを伝えること、そ
して時間の流れを一度解体してそれを組み立てなおすことがされて
いて、そういった視点が若い人の書くものには珍しくできていた決
して完璧な台本ではないのだけれど、水準が高い。
それに場面の説明のために衣装を変えたり装置を出したりというロ
スがなく、それでも場所や状況、そして役柄のことがごちゃごちゃ
にならずに見ることができるのもよかった。制服もばらばらのよう
で、実は対になって向かい合う冒頭と最後にシーンでちゃんと制服
も対になっているなど、よく考えられている。
話の内容は少し単純に感じるけれど、でもだからこそ一度見せてい
るはずのシーンをもう一度繰り返したりして、それによって最初は
よくわからなかった観客(特に子供たち)にも、ああ、あれはこう
いうことだったのか、とわかるようにできている。学校での生徒た
ちのシーンではいつもの学校の光景が楽しく描かれ、その中でもグ
ループや仲間同士が存在することもわかるようになっている。ここ
ではそれぞれが自分の役柄(ちゃんと名前がある)を作っていて、
血が通っている。それが、役ではなく幻影としての動きに変わると
きには一瞬に切り替えて必要な動きと表情を作っている。多少表情
の作り方に差があるけれど、それでも各自がやるべきことをわかっ
ているので、見ていて違和感がない。自分をアピールする点でそれ
ぞれが個性を発揮しながらも、でも人より飛びぬけて舞台を壊して
しまうようなことがなく、バランスがよい。また自分の演じる役の、
いやな面もちゃんと表現している(高田とかね)。そういう意味で変
にかっこつけたり遠慮したりしていないところがいい。喜怒哀楽の
表現がそれぞれ偏らずそれぞれ精一杯演じられていた。だから、全
体として抽象的で群舞のイメージが強いのに、それでも各役柄の印
象もあって、(聞き取れたところについては)役名と役者の顔がちゃ
んと一致する。特にせりふが多くなくても印象に残る役者もいる。
このサイズの舞台では、あの発声でみんながしゃべると聞きづらい
ところは確かにあったけれど、でも何気ない会話の中でちらほら役
柄のことがわかったりするのが楽しい。ベーカリーはお金取らない
のかな?
ただ、見たいものだけ見える世界、という言葉について、どういう
イメージを持つかということが少しわかりにくい。見たいものだけ
見えるということを否定的にとらえているのか(自分はそう思った
が)、それともそれでいいと思っているのか、ということ。また、満
月の姿については、確かに役柄上苦しい表情が多くなるのはわかる
けれど、もう少し普段にこやかで、輝に好きになられていて、望に
もいい友だちで、星美や母とも仲良く暮らしていたことが見えると、
彼女に起こった悲劇のつらさがもっと出てくるはず。見る者が満月
に感情移入できるとより感動的だと思う。
最後は、自分には物足りなさもあったけれど、でも途中の重さに対
して暗い終わり方でないことは救いがあっていい。
こういう挑戦は、もちろんシアターentの皆さんや、お手伝いされ
た方々のサポートがあったからこそで、それは覚えていく必要があ
るけれど、何より春の忙しい中で、気持ちを合わせてみんなで作り
上げたことの素晴らしさを忘れないで、これからそれぞれの道で生
かしてほしいと思う。とてもいいものを見せていただいてありがと
う。がんばってください。

[211] 音庵 2005/05/09(月) 11:13 [削除]
[公演名] [210]訂正
急いだせいかいろいろ乱文で失礼。
いくつかありますが特に
×星美 ○美咲
間違えました。おわびして訂正します。


[215] 音庵 2005/05/22(日) 01:54 [削除]
[公演名] 犬を救急車に乗せろ! [劇団名] 劇団第二黎明期
出演者を知り、さらに役名を記した縦長のチラシを見て、大いに
興味そそられる公演。そして、その期待をきっちりと満たしていた
だいた。
相変わらず一筋縄では行かない設定を、くどくど説明せずさらっと
舞台に乗せていく手法はシダジュンの真骨頂で、慣れないとこの設
定の説明に時間をかけたり、あるいは謎解きのようなことをテーマ
にしてしまって、結論を見せて自己満足してしまうのだが、そこら
へんがスマートにクリアされているあたりが流石。
構想数年の数時間モノの大作だって書けると思うけれど、こういう
1時間ちょっとの、そしてDOMOサイズの作品をすこんすこんと打
ち出してくるシダジュンのスタンスは、様々な事情のゆえと本人は
言うのかも知れないが、結果として(もう少し食べたい腹八分目感
はあるが)いい方向に働いていると思う。要は中身が濃いのだ。こ
れで1時間、が体感する時間はそんなものではない。
ネタバレ。
「昭和」を思わせる部屋のセットに「調査」のため入ってくる2人。
A:庶務係の小役人・甘柿とB:建築の専門家・水柿の間には、A<B
の力関係があり、しかし両者の間には「命令」は一日何回まで、「お
願い」や「要望」などはまた別、という一種契約関係がある。続い
て登場するC:言語学の専門家・花柿とD:医学の専門家・黒柿の間
も、力関係としてはB<C<Dという関係が予想通り展開されるが、
加えてD<Aという図式がこの四者の循環的関係性の環を繋ぐ。互
いの会話は、上の立場にある者に対して、下の立場の者に対して、
切り替えながら交わされ、直接の上下関係にないニュートラルな関
係ではほぼ対等である(例.BとD、AとC)。この使い分けがスム
ーズで、掛け合いを楽しく観ることができる。
会話の中で、彼らは「60万年前」の、自分たちとは異なる種の生物
である現代日本の人間(我々)の生態を、過去を遡る形で探ってい
ることがわかる。そして、彼らは両性具有で、季節によって雌雄が
変化し、同じ配偶者との間には通常子どもは1人しか作らないよう
である。そして生まれつき性が固定している生物の下等さを「ミミ
ズと同じ」という言葉で揶揄する。終盤で語られる、雄は戦いのた
めに数が多いのでバランスが取れるが、それなら争いがなければ数
は同じでよいという言葉は、人類の文明の歩みに対する批判でもあ
ろう。建築の寸法(尺貫法というくすぐりもある)、卓や新聞の用法、
言葉の意味、犬の立場などを異文化から見たら、という設定にはお
かしみと同時に考えさせられる部分があって、例えば会話の接ぎ穂
がなく所在なげに内容もわからぬまま新聞を広げる黒柿に対しそれ
こそ新聞の用法ではないかと言うのは、実際今も新聞ってそういう
使われ方をしているということを思わせる。
ここに、「繁殖行動」の時期となったAのDに対する「一方的アプ
ローチ」が絡んでいく。彼らは見た目が普通の女性で、立居振舞い
も普通の人間として見えるようだし、ボキャブラリーも生活形態も
我々とそう変わらないようでいて、実際は異なる種でメンタリティ
が違うというズレが、強引な設定のようですんなり受け入れられる
のは、台本の上手さであり役者の力量だろう。みな個性的な女性だ
が何だか舞台上で輝きを放ち美しさを感じさせる。抑制、あるいは
デフォルメされた感情表現、そして平田オリザとはまた異質の、胸
式のナチュラルな発語。DOMOのサイズならではだろうが、舞台芸
術としてこういう発語はなかなかないので逆に新鮮で面白く説得力
がある。
突然、今までの上下関係が真逆に転倒し、D>C>B>A>D…となる。
Aを避けていたDの態度も180度変わる。そして唐突に、謎の説明
はしないまま物語は終わる。Aが部屋の上方に(他の者には見えな
いが)見ている、恐らくは顔のようなものは何か、ということもわ
からない。しかし、文化は違っても、その中で自分というものは相
対的な、社会関係の中での存在であるということを改めて考えさせ
られる。
女優4人の充実。甘柿・高林夢は、第二黎明期のテイストがよく馴
染んで、とても魅力的なキャラクタとなっている。これは一種、黎
明期の理想としている演技の質を体得しているということではない
か。水柿・中村照美は、天然のぼけた感じを上手く作り出し、パラ
グラフとはまた違う舞台に違和感なく入る。花柿・志田実希は細か
い顔・身体の角度に自覚的で、表情の切り替えに頭の回転のよさが
見える。黒柿・山崎真波は、研ぎ澄まされた感があり、堂々とした
舞台姿に成長をうかがわせると同時にお茶目な表情が覗くのが楽し
い。制約のある空間で、照明は雄弁に機能し、音響は適切な量と質。
トータルで上質なエンタテイメントである。


[216] 音庵 2005/05/22(日) 09:27 [削除]
[公演名] 犬を救急車に乗せろ! [劇団名] 劇団第二黎明期
補足。
周期的に性が反転するという設定は、アーシュラ・K・ルグィンの
小説(ロカノンの世界など)を髣髴とさせる。また社会的上下関係
も反転するわけだが、彼らの固定的な関係は一見非合理に見えなが
ら、実は逆転することで相対的・可変的となりバランスが取れてい
ることがわかる。このことは、逆にこれを奇異な目で見ている我々
に対して、我々の社会的人間関係はどうなのかを考えさせる。そし
て今とらわれている関係は、実は相対的なもので、絶対的なもので
はないのではないかとも考えさせられる。もちろんこうしたことを
訴えるのが目的の芝居ではなく、テーマを押し出すことはないし、
役者も抑制された演技で単純な感情表現に堕さないのだが、いろい
ろな要素が散りばめられてスワロフスキーのような輝きを放つのが
第二黎明期の作品の魅力の一部かもしれない。

[218] ネコ缶 2005/05/29(日) 09:53 [削除]
[公演名] よく喋るロンリーウルフ [劇団名] 一発屋
いやー面白かったっす!!
ネタバレかも知れません。コントライブと名打ちつつもそら恐ろし
い場面や心温まるシーンあり、やはり芝居をやりたい集団なのだと
再認識。男ばかりでムサクサしているのかと思いきやファンシーに
仕上がっている辺り、演出中嶋氏の好みもあるのでしょうが今回は
スタッフとして出演者を支えた女優陣が周りをガッチリ固めてやは
り一役かっていたという印象です。最近の一発屋さんは作品にチー
ムワークの良さが如実に現れるようになりましたね。自分は一般人
ですが嬉しい限りです。これからもささやかながら応援しておりま
す。

[220] 音庵 2005/05/29(日) 23:37 [削除]
[公演名] シンデレラ ファイナル [劇団名] 劇団青い鳥
 青い鳥という名に、ここにはない何ものかを捜しつづけ、そし
てそれはすぐそばにあったのだというあの物語を重ねることは、こ
の集団の作品、特にこの作品において必然だろう。これはいわゆる
女性の自分探しという80年代的テーマの話だ。ただ、そこには芹
川藍が言うように、予定調和の結末に対する違和感があり、結論は
1982年の初演から85年の再演、そして今回のファイナルと、物語
は新たな装いを加えながら常に示すところは変わらない。青い鳥は
女性の劇団として、フェミニズム的視点で語られる事が多く、また
彼女たち自身そのことに自覚的でもあろう。がともかく壇上に揃っ
た彼女たちが、スタンドバイミーを踊る姿は、かつてその姿に多く
の若い女性たちが憧れ勇気をもらって来たのだという感慨と、また
今現在も年輪を重ねながら生き生きと躍動していることに、こうい
う年のとり方をしたいと思わせる、微笑ましさと敬意を喚起する。
フェミニズム臭さが薄いことは作品の質を上げている。衣装のセン
スにしても、恐らくは意図的な既成曲の使い方にしても(百恵の美・
サイレントは意外にハマる)、ダンスや歌の入れ方も、演技のテンシ
ョンも、実に80年代的な懐かしい匂いが強い。仕掛けは多いが台
詞のきわどさや危険さはあまりなく、安心して見ていられる感じ。
しかし、それは物語が古く硬直化していることを意味しない。現在
の「青い鳥」が、古い話をなぞるのではなく、実は今も大きく変わ
ったわけではない女性の状況を新たに描いてみせるのだ。
 ネタバレあり。
 一人残って一しきり激しく踊り、おもむろに止まって消える女は
大河内哲子の内面を表現していると取れる。化石化したような褪め
た色に覆われたアパートの一室には1982という暦の表示がある。
無人の哲子の部屋に友人・考子、母・正栄、大家・東、市川さなえ
刑事が文字通り踏み込んで展開されるどたばたはお約束通りながら
楽しい。実際はちょっとそこまで買い物に出ていたのであっても、
心理的には何かを求めて彷徨っているということはある。哲子の「失
踪」は、周り(大家)の考え過ぎによる妄想であったとしてもある
意味で真なのだ。一人残る考子のもとに訪れるミステリーゾーンと
その時間(カルミナ・ブラーナにどうしても映画オーメンを連想す
るのは世代のゆえか?しかし音として有効。韓国舞踊の金利惠の舞
はインドのカタカリにも似た地面への親和感が素晴らしい)。シンデ
レラのストーリーに納得せず、待ち続けることへの懐疑を持つのは
哲子だけではなく考子もまた同じで、異空間に哲子を追う中で彼女
も自分を捜す。自立して生きる事を求め・求められる現代女性の、
幸せを追う、または待つ心理的葛藤が、シンデレラの物語、カエル
の世界、刑事のスラップスティックなどところを変えながら描かれ
る。時計を止めていた釘を抜くこと、待つことをやめて時間を動か
すこと、抱えていたガラスの靴を自ら打ち壊すこと。そこに至る精
神の彷徨を、糠床の釘をモチーフにして紡ぎ出すのは、女性ならで
はの視点だろう。
 何気なく戻って来たような哲子、しかしその部屋は2005年の表
示がある。これは初演からファイナルまでを示すだけのものかも知
れないが、深読みすれば「ちょっとそこまで」の間に幾多の時が存
在し得るのだ。日記に向かい、受け継いできた糠床を生かし続ける
女性の営み・ドメスティック(家庭的)な生活を受容することを綴
る哲子の背後に、再びかのミステリーゾーンが口を開いている。「と
んでるおんな」ではなく伝統的な女性の生き方に帰結するようで、
それでもどこか非日常に思いを馳せずにはいられない。とても正直
な表明だと思う。妖しい異形の者たちの舞が、不吉なものではなく
むしろ心騒がせ掻き立てるものとして好もしく見えた。おんなの物
語はまだ終わらない。家の片隅ですら、続いていく戦いがあり、す
ぐそこには異世界が口を開いているのである。


[221] 音庵 2005/05/29(日) 23:47 [削除]
[公演名] よく喋るロンリーウルフ [劇団名] 劇団一発屋
 一発屋の公演が、キャプテン中嶋のその時の心理をよく反映す
るようになったと思えるのはここ2・3年のことで、もちろん作・演
出の精神状態と作品は切り離せないモノながら、初期作品において
はそれが意識されないほどにぶっ飛んで見えたことは確かだ。この
ことを本人がどう感じているかはともかく(恐らくそれは望まれて
いないのだろうが)、第三者的にいうなら、より身近にシンパシーを
もって見ることができる。コメディ主体の一発屋だがコント公演は
意外にも初めて(逆にシリアスなイメージのカタコンベの方が何度
もサニーサイドカタコンベでコントをやっている)、長大なストーリ
ーではなく細切れのオムニバスではあるが、一貫しているのは男の
とほほな感じ(わかるわかる)。そして、登場することのない(Dの
山田を除く)女性の見えない姿は、どれも何だか素敵で、想像を掻
き立てる。みんないいオンナって感じ。裏切り傷つけ無視すること
があるにも関わらず、それでも女の子に惹かれて憧れるのは実にオ
トコの子の世界なのだ。以下ネタバレもある、かな?
 設定は様々ながらそれぞれ説得力があり、一発屋公演に見られる
SFチックな「とんでる感」よりはリアルな世界観で、登場する人物
もエキセントリックなところはありつつも「あーいるかも」と思わ
せる。オチでどっと笑わせる、いわゆるお笑い系のコントスタイル
ではなく、プロセスの中での役者の台詞や仕草で笑わせるのが劇団
としてのアプローチであることを感じさせる。状況の設定、キャラ
クタの作り方がしっかりしているので、普通に芝居として見ること
ができる(ゆえに笑いが炸裂しなくても気まずさはない)し、役者
のはじけ方が上手く行ってるところは笑いもしっかり取る。演出が
各役者の特徴を把握していることがよくわかる作りとなっていて、
流石。例えば平石の、適当に気の抜けた感じを作る器用さ、二枚目
半のいい加減な男の感じ。横山の、生真面目さが空回りするイタイ
感じ。渡辺の、黙って二の線やってればそこそこイケるのに妙なテ
ンションで失笑を誘う、「カルロス」などに顕著な壊れ方、五十嵐の、
おとなしそうでいてどこかフキゲンというか腹の底に「ジャアクさ」
を持ってそうな目つき、山田の、何ていうか小鳥のような頼りなげ
な、被虐心を煽る佇まい、などなどを、素材を活かしてさっと和え
ました的な気軽な一皿に盛り付けている。即興性も取り入れながら、
好き放題に放り投げるのでなくきっちり丁寧に作ったコント集であ
る。人数の多い、オープニング、A、Gなどは笑いどころも多いが、
笑いとは別にDのネタ、特に暗転後の傘を持つ渡辺の姿は、しみじ
みと訴えるものがある。
 DJプレイ(うん、「プレイ」だよね)、映写(OPムーヴィーや、
ネタ間の、時間表示を含む山川の挿絵)、巻き段ボールのセット、ク
ラフト紙を生かした道具類の統一感(クリスト的な包むアートの感
じ)、衣装のセンス、ネタを繋ぐ場転のスマートさ(ちょいラーメン
ズ的)など、周辺の作りがきっちりしている行き届いたところは一
発屋らしい美点。


[222] 本間 弘行 2005/05/30(月) 12:37 [削除]
[公演名] シンデレラ ファイナル [劇団名] 劇団青い鳥
 劇団青い鳥の演劇をみるのは初めてであるが、今回の芝居の冒
頭である哲子の部屋の場面や、捜査一課の刑事達が横一列に並んで
歌うところなど、テント芝居に通じるものを感じさせ、歴史の長い
劇団であることがよくわかった。また開演までのステージ、音楽が
流れている暗いなかにひな壇のような美術があり、これからどうい
う人たちがそこに登るのかイメージをかき立てて、雰囲気があった。
 芝居は全体的に言葉の使い方が巧みであり、時にテンポよく、み
ていて気持ちがよいが、それに走りすぎて、観客の想像力や感性に
まかせずに、そのせりふが何をあらわしているのか、自分たちで講
義をしてしまうかのようなところが問題であった。たとえば最初の
ミステリーゾーンの“人は誰だって仮面をつけているものさ”とい
ったせりふ、その“仮面”という言葉のあの場面での使われ方や、
舞台には考子が一人であり、あとは声だけで、まるで天の声のよう
にそれや他のせりふを聞かせる表現の仕方などは稚拙(まるで音の
迫力だけでカルミナ・ブラーナ を使っているかのようなところは受
け入れるにしても)であると思った。あそこまで説明的にしなけれ
ば、観客に自分たちの思っていることが表現できないと考えている
のなら、問題であろう。またあの韓国舞踊家の金利恵の表現も、そ
れが衣装と色彩が印象に残るミステリーゾーンを構成する要素であ
るとするなら異様な演出で、なぜあそこで他とは明らかにその存在
感も表現力も異なり、登場人物達と連結しているようにも見えない
金を出現させたのか、疑問が残った。
 そして、このミステリーゾーンは、ラストの哲子のせりふのあと、
もう一度あらわれるが、そのことにも疑問が残った。たしかに哲子
のせりふで終わらせてしまえば何だか「シンデレラ ファイナル」
というお芝居全体がきれいに調和してしまうようで、理由はともか
く、それを避けるのであれば、再びあれを出現させるやり方もある
かと思うが、では実際にそれがされたことで観客に対して表現され
たものは何であったのだろうか。
 物語自体は説明的であることでかえって閉ざされてしまっていた
から、閉ざしきって終わりになってしまうことを破壊してしまった
ミステリーゾーンは、ラストまで続いてきたある時間の流れをうち
消してしまっている。だから、あれでそこまでの舞台の印象が薄く
なってしまったことは否めないが、ただ、おそらくあそこで初めて、
あの時だけ「シンデレラ ファイナル」は、それがどのようにおこ
なわれようと、観客に開かれた世界を出現させたのだ。きっとそう
いうことなのだ。
 
 最後に、やはり触れておかなければいけないと思うのだが、全体
的にみて「シンデレラ ファイナル」は、男性あるいはオトコ的な
ものの存在やにおいを感じさせない、母親のような女性が出てきて
も、妻のような女性のあらわれない演劇であり、その潔さに好感が
持てたが、床を磨くシンデレラの場面が秀逸であるシンデレラとま
ま母・長女・次女の場のあと、カエルの出てくるところなどは、美
術や照明の力も手伝って青空のイメージはいいのだが、あそこだけ
は、あそこのせりふだけは舞台を作ることを共同で進めてきたとい
う劇団青い鳥の言葉ではない、借りものの言葉だという印象が残り、
非常に残念であった。
  (5月28日 午後2時 りゅーとぴあ 劇場 )


[224] 本間 弘行 2005/06/02(木) 20:49 [削除]
[公演名] よく喋るロンリーウルフ [劇団名] 一発屋
 おそらく美的にしてしまうことも、スタイリッシュに仕上げる
ことも、容易ではないかも知れないが、思うほど困難なことではな
いのかも知れない。
 今回の一発屋の公演は、萩本欽一のものまねが得意なサラリーマ
ンが、会社の飲み会の余興で、酔うに酔えないまま、それでも場を
盛り上げようと、上司と部下の前で萩本欽一のまねをしてがんばっ
ているみたいな舞台だ。
 だからとてもまじめで、そういうことではとても好感が持てるの
だけれど、私はそういう人をみていると、たまには職場のことや、
職場でのような人間関係を忘れてみたらと、思ったりもするのです。
 狼なら、ね。
  (6月1日 午後8時 シアターent.)

[225] 見習いK 2005/06/03(金) 23:53 [削除]
[公演名] よく喋るロンリーウルフ [劇団名] 一発屋
いつもとは違う芝居をいつもの面々で作り上げていく…きっと新
しい発見もあっったんでしょうね。私は、自分が良いと思った劇団は
一貫して肯定的な視野で見るので『はい、今回も面白く出来上がって
ますね。』って思いが強かった。だから期待を裏切られなかった分少
し物足りなさも感じる。あと今回、某お笑い芸人のコントスタンスに似てい
ると感じたのは私だけだろうか?
個人的にスゴク良かったのは靴下。まぁ、特に理由がある訳ではない。
が、DJナカジマも舞台裏で同じ靴下を履いていてくれたらと馬鹿な期
待をしている。

[226] 音庵ちゃん 2005/06/05(日) 02:41 [削除]
[公演名] よく喋るロンリーウルフ [劇団名] 劇団一発屋
1つのコントが終わって暗転になり、再び青い明かりが仄かに灯
るとき、そこには暗転時と同じ姿の(ネタによっては異なるが)お
とこたちが浮かび上がる。
想像するに、特に笑いを主眼とした舞台では、暗転に入ったらすぐ
に動き出したくなるのではないだろうか。そこに、今回の公演を貫
く強い演出の意図と役者の自己抑制を感じる。つまり、エンタテイ
メントのためにコントロールされた舞台であり、アナ―キーな笑い
を志向したものとは異なる。前に書いたように、扱われるストーリ
ーは一発屋得意の「なんじゃそりゃー」的なものではなく、「あるあ
る!」系のくすぐりで、笑いのツボは散見される下ネタよりもむし
ろ練られたストーリーのウェルメイドなところ、そして役者の(ア
ドリブのあやうさを敢えて抑えようとしない)テンションにある。
だから、複数回見ても面白いところは面白い。力わざのヒキョ―な
笑いならそうはいかない。
ネタバレ含む。コントのネタは個々にばらばらでありながら有機的
な繋がりをもつ。ひとつには役名がほぼ実名であるからで、ヒライ
シのキャラは大体一貫して調子のいい平石らしさがあるし、オープ
ニングの司会ヨコヤマのウルフ?ポーズはラストにも顔を出す。@
の「底なし沼」は2人とも完食したことが最後に示される。Aでは
なぜか黒い顔のワタナベが喧嘩した相手であるはずのカルロスがラ
ストのGでは渡辺演じるカルロスとなっている。そして、ちなつ、
さき、こばやし、さくらい、みゆき、あい、と話題に出てくる女性
たちに思いを寄せる男たちの情けなさは。
いろいろな方が語られているように、どっちの方向にも転び得る不
安定さや可能性があり、その中でこのバランスを保つ道を選んだと
いうことだろう。いくつか削って時間を70分程度に抑えることも
アリでは。
ネタとしては、人数が多いほど引出しが多くて面白かったし、時間
が長いものもやはりよかった。コントは一本作るのにやはり一つの
世界を構築しなければならず、一本の芝居を作るのと労力的にはそ
う変わらないのだと思うが、中嶋氏の資質が芝居作りにより適して
いるということではないか。また改めて役者の上手さというか舞台
における輝きを感じた。


[227] おと 2005/06/07(火) 00:04 [削除]
[公演名] シンデレラファイナル、犬を救急車にのせろ、よく喋る
ロンリーウルフ
劇団青い鳥「シンデレラファイナル」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/cendrillon.html
劇団第二黎明期「犬を救急車に乗せろ」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/dog.html
劇団一発屋「よく喋るロンリーウルフ」
http://comnet.ge.niigata-
u.ac.jp/writing/wolf.html

など、新潟大学 斎藤陽一研究室で
レビューがアップされています。

[230] 本間 弘行 2005/06/14(火) 21:03 [削除]
[公演名] 巷談宵宮雨 [劇団名] ク・ナウカ
古い日本家屋の玄関で受付をすませると、今度は控え室に案内さ
れて、そこは和敬塾の建物のひとつ、そこにある大講義室と呼ばれ
る所で、廊下には多分その部屋で講演をした人たちが残した文字が
色紙に書かれて額に入って何十人分飾られている。会場の和楽荘の
そばには大きな樹。和楽荘の裏口といえばよいのだろうか、そこに
は出演する俳優が脱いだ靴。ク・ナウカの若手演出家シリーズ、今
回は「巷談宵宮雨」(作 宇野信夫)で、演出はこのカンパニーの俳
優でもある中野真希だけれど、これがとてもおもしろかった。
 開演時間が少し遅れて始まった舞台は、最初、本当に真っ暗な中
からふたり(?)のおんなの囁く声が聞こえて、それが少し長いく
らいに続く。明るくなると、太十女房のおいちが前を向いて針仕事
をしているが、その正面を見据える目が、和楽荘という古い建物が
持つ人間の歴史を表現しているというか、ものに憑かれて、官能的
ではないが性的である。
 この、おいちを演じる諏訪智美は、その後は演技のスケールがや
や等身大に近づいて、そのままあとはもう最初の迫力を持つことは
ないのだけれど、その最初の怨霊のように造形的な顔は、それはた
だそこにあって台詞を言うだけなのだけれど、なかなか芯が通って
美しかった。
 この『巷談宵宮雨』というお芝居、物語は江戸時代、確か女犯の
罪で入牢し、牢を出た後は甥の太十夫婦のところに身を寄せる坊主
の竜達が隠した百両をねらう太十が、結局竜達を殺すのだが、女房
と共に竜達に祟られて滅びてしまうというもの。それが怪談風につ
づられて、諏訪智美に限らず、他の俳優もみな熱演であるが、欲を
言えば太十からは何か野蛮なものを感じたかったし、竜達からは破
戒僧の凄みあるいは弱さあるいはその両方を、もう少し感じさせて
欲しかった。 演出は、最初の暗い中でのささやきが賭けで、これ
は成功しているが、その後は人間の情念の深さよりも、人を殺して
でも生きようとする、また欲望を遂げようとする人間の滑稽さにポ
イントを置いているように感じられ、実際戯画のような場面もあっ
たが、それは台詞の何気なさに潜む情念を、充分に活かしていると
言えるものではなかった。だから太十が竜達を殺してしまってから
の展開が、もう一つ迫力に欠けるのだが、それでもこのお芝居、若
手演出家シリーズであると共に身体の姿勢の良いク・ナウカの俳優
の、若手による公演であり、今回以上を望むのは、ないものねだり
なのだろう。
 (6月11日 午後7時 和敬塾(旧細川侯爵邸) 敷地内  和
楽荘 )

 この日はもう一つ、下北沢の本多劇場で流山児★事務所の『戦場
のピクニック・コンダクタ』(作=坂手洋二、演出=流山児祥)を観
たけれど、これは、この上もなくデリケートな、アングラ芝居に対
するオマージュであり、この芝居の最初で登場人物達が匍匐前進で
あらわれる場面など、印象に残るが、寺山修司に壊すだけでは駄目
だというようなことを言われた流山児祥は、今も全力でものを作り
出すことに格闘しているように感じられた。だから流山児祥という
人は、きっと今回のような、ものを作り出すピュアな音楽劇よりも、
破壊するエネルギーに満ちた芝居の方が似合うだろう。
 役者では、80歳の新人である瓜生正美の存在感が印象に残った
が、行進の場面や、人を足で蹴る場面での感情のない身体の動きな
ど、肉体にしみついた軍事教練の記憶であろう。
 (6月11日 午後2時 本多劇場)


[231] 本間 弘行 2005/06/19(日) 06:54 [削除]
[公演名] いきていないということのほかは [劇団名] 劇団カタ
コンベ
今回の舞台、これも演劇だけれど、登場人物達は自分自身を言葉
に変えて滔々と述べる。それはもう、純情と言っていいほどだけれ
ど、彼あるいは彼女の言葉は、すぐそばにいる他者の言葉とは出逢
わない。それは相手を傷つけまいとする姿勢であり、相手に優しい
ということなのだろうが、第三者のいない世界、第三者的なものが
生まれない世界から、劇的なものが立ち上がってくることは難しい
だろう。
 この、他者の現れない世界、登場人物はみな他の登場人物の別バ
ージョンみたいだ。昔のカタコンベはもう少し違った世界を、それ
もつい最近まで作っていたような気がするが、戸中井三太は、彼の
仲間と彼自身である劇団カタコンベと乖離してしまったのだろう。
そこに何かこの劇団の致命的な病を私はみるのだけれど、新潟の演
劇界の中でカタコンベはシアターent.とセットで既にひとつのシス
テムあるいは演劇をやる人にとってのロールモデルであるから、ど
れだけ戸中井三太が孤独であろうと、劇団カタコンベは安泰だ。
 自分が作り出した世界を体現する戸中井と、その世界を仰ぎ見る
役者と、演劇という広場の中でひとり、戸中井はこれからも自分の
歌をうたうのだろう。
 今回の公演「いきていないということのほかは」は、劇団カタコ
ンベの歴史に残る名舞台にはならないかも知れないが、記憶に残る
公演である。もっと身近なことをいえば、麦森あいえなど、いろい
ろ少しずつ、あともう少しだ。あとまだ4回ある。
( 6月18日 午後7時30分 シアターent. ) 

[232] みさ 2005/06/20(月) 16:33 [削除]
[公演名] ゴメンバー [劇団名] 劇団わるだくみ
疲れた。つまらない。あれでお金とるの?って感じ。一生懸命な
のもわからなくもないが、なんか努力の方向性を間違っている気が
する。真面目な人の集まりなのでしょうか?笑いをわかってないと
いうか、見ていてこっちが悲しい気持になってきました。自分達の
色にあった作品を選んだ方がいいのでは。わるだくみさんは自分ら
の器とキャラを知ったほうがいいです。声量はともかく役作りがで
きていません。全体的にははまとめあげる人がいなかったのでしょ
うか?なんともちぐはぐ。自己満の芝居しかする気がないなら料金
をとらないでください。


[234] 音庵 2005/06/22(水) 01:02 [削除]
[公演名] 変身戦隊ゴメンバー [劇団名] 劇団わるだくみ
この公演が行われるまでに劇団サイドで繰り広げられた「ドラマ」
は本編以上にドラマティックであり、団員もこの間さまざまな人生
の局面を迎えたわけだが、それを踏まえた上で敢えて言えば、中越
地震云々は観る者に対してのエクスキューズにはならない。そんな
の関係ないくらい笑わせてほしい。「がんばろう」とか「がんばって
ます」とかの耳タコフレーズではなく、むしろ「がんばってないと
思うのかい」「てかがんばらなくたっていいんだよ」くらいのことを
言ってほしいと個人的には思う。
また、きついことを言えば、10月公演が吹っ飛んで、それから半年
あまりが経過して、この出来でいいのか?自分をほめてしまってい
いのか?確かに、がんばった公演だと思う。知り合いを中心にほぼ
満席の客が集まり、暖かい笑いが起こり、拍手があり、あまり芝居
を観ない客にも、へえ芝居って面白いじゃんと思わせるところがあ
っただろう。もし、わるだくみがそこで満足するならばそれまでの
話。しかし、同じことを全く異なった、馴染みのない場所・客を相
手にやったとしたら、果たしてどうだったのか。客観的な自己分析
をしてみることは大切だと思う。ある意味寄せ集めの、そして素人
に近い人も含めた面子で、これだけのことができた、という達成感
があっただろうし、この人がここまでやってくれたのだから、とい
う目が演出側にあるように感じるが、それがわるだくみの暖かさで
あり、同時に決定的な弱点ではないか。長岡という演劇について先
進的とは言いがたい地で、仲間を増やして芝居を楽しもうとしてい
るわるだくみのスタンスは貴重だし、高校演劇出身者や社会人など
に活動の場が与えられている点、評価するのだが、レベルアップの
ためにはいろいろな意味で、役者を「切る」(切り捨てないけど)冷
酷さが演出には求められる。今後の飛躍のために言っておく。
「政府直属」の変身戦隊ゴメンバー、5人は戦隊モノ特撮番組のセ
オリー通りの配列で(中身はいささか理想とのギャップあり)、変身
スタイルやアイテムもそれっぽくかつばかばかしい。一方のブラッ
ククロウの悪の組織も、幹部のマダムゴールド(矢島亜矢子が本人
とわからぬほどのメイクで熱演)、新幹部シルバン(元・共振劇場の
岡英彦が怪演)が凝った衣装で現れ、下っ端クローニン(クローン
人間)らが全身タイツに例の怪鳥音で騒ぎ殺陣を繰り広げる。芝居
の大半はこのドタバタシーン。開演前のナレーションやオープニン
グムービーも凝っており、衣装・小道具とも力が入っていて、しょ
ぼさも含めなかなかねらったところをヒットしていたと思う。これ
には協力各位の助力が大きい。ジョイントアクションクラブの面々
も、アクションだけでなく演技にも味があってよかった。
ネタバレ
ヒーローに憧れゴメンバーに会いに来た茶沢芳輝青年は格闘に巻き
込まれるが、その中でリーダー・アカメンバー赤木一番の変身アイ
テムが作動しなくなり、これをごまかそうとする赤木と知らないメ
ンバーらとの間のズレ、茶沢の幻滅、そして赤木に思いを寄せるキ
メンバー黄島参三郎の逡巡が絡む。そして、変身ポーズ中は攻撃し
ないなどの「お約束」を守って勝てないヒールたちに対し、まとも
に戦うことを要求する新幹部シルバンにより敵にも変化が起こる。
シルバン自身は赤木との少年時代の出来事から復讐心に燃えている。
メンバーから浮いてしまった赤木、二重に真実を告げられず苦悩す
る黄島を軸に、能天気なモモメンバー桃姫りよん、アウトローを気
取るアオメンバー青葉弐助、赤木に憧れる分反発も強いミドメンバ
ー緑ヶ丘大五(斉藤桂子がそれらしく見せる、がやはり男がやると
よりよい)など各自の思いが交錯する。そして助けてやった敵グレ
イトーダスの「恩返し」。
アカが変身できないいきさつやいじめにまつわるシルバン(=ギン
ちゃん)と赤木の交錯する感情など、台本自体に多少強引なところ
があり、笑えるのはホンの力というよりは役者の見せ(魅せ)方に
よるところが大きい。ただスレた客(自分っす)は笑わないが。ヒ
ーローが等身大の情けなさを垣間見せるのであれば、やはりヒーロ
ーにはカッコよさを見せておくシーンが必要で、見た目はともかく、
その気になって気取ってみせる過剰さがむしろ笑えるはずなので、
そこらへんのキャラ作りをがんばってほしい。役作りが単純に思わ
れるのでさらに何層かの感情の重なりを。またテンションを上げて
いくことは大切だが、ずっと同じ叫びながらの台詞回しは芝居のメ
リハリをかえって損なう。テンションを保ちながらもしっとりした
シーンはちゃんと作ることで深みが増す。
ぜひ、そろそろ第1スタジオからシアターで芝居をやれる集団とな
ってほしい。その芽は育っていると信じる。



[235] 彩音 2005/06/22(水) 11:24 [削除]
[公演名] 変身戦隊ゴメンバー [劇団名] 劇団わるだくみ
昼の部を観ました。私は芝居に関して素人なのですが、とても楽
しめました。芝居になじみのない人間としては観て楽しいのが一番
なので親しみの持てるものが好きです。動きの切れのいい人と悪い
人の差が大きいのとキャラの個性が出し切れていないところが残念
でしたがわるだくみのお芝居にはいつも楽しませてもらってます。 
赤→最初今までの役と違ってとてもかっこいいリーダーで見ほれま
したが、途中からキャラ自体が情けなくなったのが残念。青→小池
さんにぴったりのキャラで笑えました。桃→元気でかわいい紅一点
のピンクらしからぬ役がよかったのですがもう少しお色気がほしか
ったかな。黄→初めて見る方ですがゲイの役が親しみもてました。
できればおどおどしたシーンはもっとおどおどがよかったです。緑
→豪快な緑にぴったりでしたがもう少し感情の起伏がはっきりして
たほうがいいかな。シルバー→渋くてすてきでした。赤とのからみ
が今ひとつぼやけた演技だったのが残念。クローニン→ジョイントアクショ
ンクラブのかたがとてもすばらしい動きと演技だったのが印象的。芝居
に深みが出ました。マダム→もっと悪っぽくてもいいのにと思いつ
つ見ほれちゃいました。グレイトータス→はまり役でしたね。私もこんな
かわいい敵なら助けちゃいます。 確かに全体にみんなが同じ調子
で進むところがめりはりが足りないようですが、いつも高テンショ
ンのままで突っ走るところがわるだくみのいいところでもあり悪い
ところでもあるのかもしれませんね。でもその精神がとても好きで
す。素人の寄せ集めだってこんなに人を楽しませることができるの
だからすばらしいです。いろいろな意見を参考にこれからも頑張っ
ていってください。またいい夢を期待してます!

[236] 中ニ 2005/06/25(土) 01:30 [削除]
[公演名] 「いきていないということのほかは」 [劇団名] 劇団
カタコンベ
 ネタバレ注意!!
最近の戸中井さんの作品は結構好み。「オイオイ、御客さん寝ちまわ
ないかい?!」というギリギリの、ひらがな文体がイイニャー。タ
イトルからして「いきていないということのほかは」ですもん。と
つとつとくりひろげられるりりかるなせりふのむれが、ねむけさそ
うひつじのむれにかわることなく、ゆめとげんじつのきょうかいせ
んをいったりきたりのすてっぷでかんきゃくをべつせかいにひきこ
もうとするこころみ。
 謎の成り立たない物語だけど、シチュエーション自体が既にヘン
テコ。そのヘンテコシチュエーションの中で語られる日常的な言葉
が以外にも光りを放ったりして、結構絶妙匙加減。
 優しいなあと思うのは、いつも思うこと。死んだ後くらい良い目
みようぜ!ってファンキーな展開なのに意表を突いて爽やか賛歌。
 客演の景子さんが、カーテンコールの際に、自分の居場所って感
じに、他のキャストと並んで後ろに立っていたのが印象的。その後
センターに出てきて一礼をしたけれど、いるべき場所にたたずむ彼
女の姿が、今回の作品のテーマの一つ「居場所」を現している様で、
画竜点睛。

[238] 猫 2005/06/25(土) 09:20 [削除]
[公演名] ゴメンバー [劇団名] わるだくみ
 脚本おもしろかった。勢いが良かった。この二つは、すごく大
事だと思った。

 他はよくできてるのに、この2つに欠けてるところだって、けっ
こうある。でも芝居にどっぷり浸ったことのない芝居好きには、こ
の2つがないと「マニア受けですね」で終わると思うの。劇団四季
とかの舞台を見ると、映画を見た後と、悪く言えば同じ気持ち。感
動するけど。
 でも、わるだくみには「明日もがんばろう」と思えるパワーがあ
った。私はこっちをとる。芝居をみるの好きだもの。地元で見るの
すきだもの。


[239] スズキ 2005/06/25(土) 10:25 [削除]
[公演名] お詫び
 237番の「なまえ」さんの書き込み、内容自体は演劇人として
参考にすべきことが多かったと思うのですが、公演へのコメントと
いうよりは、公演団体の主宰者の日記上での発言へのコメントでし
たので、管理人として削除させて頂きました。迷いましたが。コピ
ーはとってありますので、「なまえ」さん、必要でしたらお送りでき
ます。また、不適切な処置とお考えでしたら、是非、ご意見お聞か
せ下さい。
 よろしくお願いします。

[240] 本間 弘行 2005/06/25(土) 20:49 [削除]
[公演名] 近代能楽集
 ドナルド・キーンがどれほど彼の日本趣味を三島由紀夫に投影
しようと、三島の『近代能楽集』はもちろん能を翻案したものでも
なければ、能に取材した作品でもなく、能を話題作りの小道具に選
んだ、結局のところ、自分が芥川龍之介以上の天才であることを主
張しようとした、彼の社会的行動の戯曲による表現である。
 今回の蜷川幸雄の演出による公演、最初の「卒塔婆小町」は、冒
頭に登場するアベックをどうみせるかがひとつの見所だが、蜷川幸
雄はこれを全員男性に演じさせている。老婆も詩人も男性が演ずる
から、男だけの「卒塔婆小町」になるが、これはそれほど異質では
なく、むしろ古典的とさえ言える肌触りであった。他は常にステー
ジに降る、床に落ちると硬質な音を立てる椿の花が印象に残ったが、
それ以外は取り立てて新しい試みといったものはみられなかった。
昭和51年に平幹二郎が老婆を演じて始まった「卒塔婆小町」とい
う演劇を深めている(蜷川の言葉を借りれば“進化”させている)
ということになるのだろうが、公園に詩人の姿のない21世紀に何
故この戯曲をとりあげるのか単純に疑問が残った。ただ、仮に“商
業演劇”というものが存在するとすれば、これは立派な芸能作品で
あり、三島由紀夫など一度も読んだことがなくとも、充分に楽しめ
る、少なくとも退屈はしない作品である。
 次の現代劇というよりは神話的な性格を持つ「弱法師」は、最後
の俊徳の長台詞にワーグナーの「ローエングリン」の前奏曲が流れ、
蜷川の1960年代的性格とでも呼びたいようなものが感じられた
が、俊徳の最後の台詞が終わったあと、家庭裁判所の装置が崩れて、
背景の壁に長い蛍光灯のようなものが二列に並んでおり、他は真っ
暗で、そういうところにアルヴォ・ペルトが流れて、男のアジ演説
のような声がかぶさる。このアジ演説、これはどうも三島由紀夫の
あのアジ演説らしいのだが、仮にあの音楽がアルヴォ・ペルトの
Passioであり、あの男の声が市ヶ谷での三島の演説だと観客がわか
っていると蜷川が思っているとしたら、「弱法師」は演出家の三島へ
のオマージュであり、空襲で盲目となった俊徳と、可哀想な三島を
だぶらせて一人にしている。他の高安夫妻や川島夫妻といった人々
は、観客一人一人が解釈をすればよいことだろうが、ある意味カミ
のような存在である桜間級子の造形がはっきりせず、そこが残念で
あった。ただ桜間級子の特異な役回りの不完全さはそのままこの「弱
法師」という戯曲が持つ難点でもある。
 三島の視覚的な作品に、人間の身体への不信をみることは容易で
あり、言葉にたいして身体でどう立ち向かっていくか、そういうと
ころに、演劇人としての闘いの場を見いだすのは正当的だが、言葉
を生きれば生きるほど、それは逆に三島作品の視覚的特徴あるいは
絵画的性格といったものを際だたせるだけであり、読みかえといっ
たものをおこなわない蜷川の舞台は、言葉と身体の距離を残したま
まである。
 ただこれはまぎれもなく優れた芸能作品である。

(6月24日 午後7時 りゅーとぴあ 劇場)

[241] ぷぅ 2005/06/26(日) 20:38 [削除]
[公演名] いきていないということのほかは [劇団名] 劇団カタ
コンベ
〈ネタバレあり?〉
何度もカタコンベの舞台を観に行ってはいるが、最近変わって来た
作風…今回は特になんか足りない…。不完全燃焼だった。別に、あ
る1つの劇団だからといってそれ自体に一貫したスタイルが在るべ
きという観念はない。しかし、間が在りすぎた。セリフのリアリテ
ィ、全体的にあると思われるテーマ『居場所・存在』といったもの
はさすがカタコンベというものであった。だがやはり初めのつかみ
が甘い。だからあの淡々とした演出にひきこまれない。もう少しテ
ンポがほしい。私の勝手な価値観だが、カタコンベの良さはテーマ
性とテンポ、ストーリーにたびたび折り込まれる笑いだと思う。こ
の作品の中でハンカチのくだりと姉弟の再会の部分は一番カタコン
ベらしさが出ていたのではないだろうか。
 今回、ゲストの高橋景子さんの演技は素晴らしかった。そしてい
つもながら、戸中井三太さんとジャンボ佐々木さんの演技には満足
だった。まぁ、セリフが聞き取りにくい役者もいたが。
 今回の舞台は良くも悪くもなる芝居だったと思う。私が当たった
日がたまたま悪かったのかもしれない。次回に期待したい。
 初めて書き込ませてもらったが、いち客のいち意見として役立て
ていただければ幸いだ。

[242] 音庵 2005/06/27(月) 11:38 [削除]
[公演名] いきていないということのほかは [劇団名] 劇団カタ
コンベ
ネタバレ。
チラシその他で見る、(ここのところ注目されているいわゆる)「廃
墟」の写真が、実際「いきている」者の目に映るこの場所なのだろ
う。それを抽象的に、比較的まとまったいわゆる「セミパブリック」
な感じの空間に仕立て、死者の目に映る世界としているようだ。し
かも、それぞれのイメージによってこの場所を含む(死と生の中間
的な世界)は見え方が違うし、また自分の望むものが具現化するら
しい。しかし同じ空間を共有しながらも同じものが見えるとは限ら
ない。死者の見る「幽霊」。そしてやがて消えていく彼らは、その時
を待ちながらさまざまなことを思索する。
この死者の世界がさりげなくしかしかなり整合的に構想されている
ため(座長・戸中井氏が死後の世界はないという思想であることを
考えると、すっかりフィクショナルだからこそ作り得ているのだろ
うと思う)、生者たちの世界よりも比重がこちらにあるという面白い
バランス感の幽霊話になっている。フィクションである事を前提に
ある世界を作り、そこから今いきている我々に何かを自ら意識させ
ること。これは逆に死後の世界はあると思っている自分のような人
間から見ても、作劇方法として興味深い。
淡々と進行し、呟くように発せられる言葉たち(聞き取りにくいの
は確信犯的なものだ)。少し棘ある西山にしても、マイペースな小坂
名にしても、基本的にこの死者たちはやさしい。そして相手に深く
踏み込むことをしない。消えていくことを前提にした係わり合いで
あり、ここでは他者は必要ではない。しかし、必要のない食の摂取
をあえて行っているのと同じように、それでも他者を求めて集い触
れ合うのがひとの性(さが)だ。原平と浩一の間に、異性としての
ひかれ方は描かれない。もちろんないわけではないのだろうが、少
なくとも浩一は姪に似た感じを原平に見出している。この寸止め感、
いきそうでいかない感じは、もどかしくもありまた個人的には共感
できるものでもある。そしてヤマであるが、姉・真理子との、捩れ
た時空を隔てて一瞬触れ合いそうになりながら決して交わらない
(交わらせない作者)、この感覚。だからこそリアル。しばしの間で
しかないからこそ、いとおしむべき生のあり方を描く。個人的には
もうひとつ踏みこんでもいいとは思うが、教条的になる可能性もあ
るので、この寓話的な処理を是とすべきだろう。
戸中井作品にはこの「浩一」名がよく出てくるように思う。それを
含めて、戸中井の演じるキャラクタは全て架空の別人格でありなが
ら、同時にどこかしら「にごさん」ダッシュなのだろう。この高等
遊民(死語)的な佇まいは、最近体温を感じさせるとはいえニヒル
な戸中井氏の内面をなにがしか反映しているであろう。
ジャンボ佐々木(自分はギョーザと読んでますよ)は与えられた脇
的なキャラを飄々と演じる事にその持ち味を発揮する。突出した言
動のない、しかし重要な「おもし」である。
麦森あいえ。自分は演技の上手い下手などわからない人間だが、今
までカタコンベの舞台に立った女優たちに感じてきたある種の魅力
が感じられる。内面に抱えているものがあって、その上での純な微
笑み。与えられる役による部分も大きいのだが、今回特に花開いて
いる感がある。
孤独を演じる2人は、スパイスである。これはつけたしではなく、
ないと深みが薄くなる(日本語が変)。自覚して堂々と演じられるべ
き役。
こばや☆スは、出てくるだけで彼独特のおかしさがある。西山とい
うキャラの持ついやな部分が、彼の醸し出す情けない感じでほどよ
くブレンドされ緩和される。
赤塚すいかがカタコンベに対して貢献してきた事の重みは敬意に値
する。自分に与えられたキャラクタを把握し、自分の中から出てく
る感慨をそれに乗せ、過不足なく感情の襞を客に届ける。役につい
て考える時間の質と量が美奈というキャラの深みを支える。
客演の高橋景子。どんな年齢の女性でもできるのではないかという
彼女の上手さは、もはや器用だとかそういう次元ではなく、そこに
「在る」ことを、いともたやすくやってのけているように見える。
この力の抜け加減(また日本語変)は絶妙。
浩一と真理子の邂逅シーン、原平の消えるシーン、視覚化すること
の難しいこれらを美しい照明で見事に魅せている。
大声で何かを訴え、考えさせる啓蒙的な作品ではなく、次第に沁み
てくる物語の潜在的な強度。物語を妨げる事のない、客に余計な意
識を持たせない演技の質。これが現在のカタコンベ、現在の戸中井
の見ている地平だ。しかしパンフのキャラがハムスターからパピヨ
ンになったとはいえ、その根は連綿と繋がっているのだと思う。


[243] 本間 弘行 2005/06/27(月) 20:59 [削除]
[公演名] もっと!芝居の丼
みっくすじゅ〜す倶楽部 おかわり!の『駅前地縛霊の喫茶店』、
これは最初の暗転までがなかなかおもしろかった。特に生き霊がロ
ープを引いてあらわれるのは、その発想はどうということもないが、
それを大真面目におこなうところがとてもおもしろく、いいセンス
だと思った。ただ、私がよくみていなくて、よく聞いていないだけ
なのかも知れないが、そのロープが肉体とつながっているという設
定(本当に間違って覚えていたら申し訳ないが)はどうなのかと思っ
た。別にロープが生き霊の肉体とつながっていてもよいのだが、で
あれば、どうしてそれを生き霊から切り離してしまうのだろうか。
その後の劇の流れからも思うのだが、ロープを切り離す辺りを何か
もう一つ、自然に納得できる展開というか、せめて劇が終わったあ
とで、そのこと忘れさせてくれる演出にして欲しかった。それに、
ロープが何につながっているか、もう少しイメージを膨らませるこ
ともできたのではないかとも思えた。私は生き霊とロープでつなが
っているものをどうせなら、それがどんなにグロテスクなものであ
っても、またどんなに馬鹿げたものであっても、ステージに引きず
り出して欲しいと思った。
 役者では、まだ少し、台詞の言葉に負けるところがあるが、悪霊
を演じた赤い服の女性が印象に残った。
 他は劇団PasteRhythmの『行方不明のwill』をみた。
PasteRhythmは、一回きりの企画団体とのことだが、自分たちがや
りたいことと観客がみたいもの、あるいは、自分たちが表現できる
ことと観客が受容できることとの相克、あるいは、もっと単純に言
えば、演劇というものにもう少し悩んで欲しい。
 今はまだ、あまりにも安易だ。
 劇団ismの公演は、残念ながら都合でみることができなかった。
 (6月26日 午後5時から 万代市民会館6Fホール)


[245] 本間 弘行 2005/07/03(日) 11:30 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 新潟大学演劇研究部の「ハルシオン・デイズ」は、役者も演出
も、台本に力負けしていることが否めないが、それでも心のこもっ
た、本当にいい舞台だった。とくに舞台に敷かれたシートに4人が
座っている場面の、その空間の濃密な密度は、ラストの幸福を暗示
するものであり、忘れがたい。
 他、照明効果や音響効果など、スタッフワークも印象に残るもの
だった。
 今回は、私には、これで充分だ。できれば次回もどこかで今回の
スタッフ・役者による公演がみたい。
 本当に、そう思う。
(7月2日 午後7時 シアターent.)

[246] 音庵 2005/07/04(月) 02:02 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] 新潟大学演劇研究部
普通に考えれば、いい台本だと思う。しかし、鴻上が「トランス」
の続編として書いたものとなると、食い足りなさが残る事は否めな
い。ここ数年、鴻上は過去の自作品に対するセルフオマージュを幾
つか上梓しているが、かつてあれだけ勢いがあった作家が、かつて
の自分(たち)の姿を眩しそうに見ながら縮小再生産をしているよ
うで、寂しさを覚えたりもする。紅谷の名が出てくることでしみじ
みするが、あの「トランス」の澄んだ絶望感に対して、こんなに安
易な「ハッピーエンド」にしてしまっていいのだろうか?
さて、新大劇研を見てきて20年過ぎたが、当然入れ替わりたちか
わり新陳代謝が行われて来ているのだから、過去と比べても意味が
ないし、比べられても現役の人たちは困るだろう。パンフを見ると
人数もさほどではないし、経験者も少ないのだろうと思う。このと
ころの劇研の公演の中では、よくやった部類に入るだろう。ただ定
期公演をent.で行うというのは、少し引っ掛かりがあった。以前に
も番外編的に有志公演でent.その他のアトリエ公演があった。今回
は作品がアトリエ向きだし、りゅーとぴあスタジオに比べれば好意
的な劇場側の対応や大学に近いことなどメリットはたくさんあるし、
問題はないと言えるかもしれない。しかし、劇研にはホールでしっ
かりした舞台を作ることや、逆に大学会館や教室など身近なところ
でのワイルドな活動など、大学生ならではのことも期待してしまう
のだ。ent.はひとつのオプショナルな選択として考えるべきだろう。
アマだから、学生だから、素人だから?前売り500円、これは20
年前くらいからの料金だ。しかし、問題はコストではなく、また公
演としての相対的価値でもない。堂々と1000円なら1000円取れる
公演を打てばいい。2時間半、500円は安いと思うか?安いからこ
れでいいと思うのか?そうではないだろう。少なくとも自分にとっ
ては、金より時間の方がずっと大切で、それを裂いて見に行く公演
に、時間に見合ったものを期待する。おりしも夏のバーゲンが始ま
り、街は若者で溢れている週末、それでも芝居を見に来た友人・家
族・そして心ある人々の、その貴重な時間を、2時間で終わるもの
を2時間半かけてやっただけの価値をあなた方は主張できるのか?
これはぜひ問いたい。なぜ30分伸びるのか。伸びた分面白くなっ
ているのか、それとも間延びして縮めるべきところができていなか
ったのか。自分は初回を見たのだが、後者に思える。2・3回目はよ
りよくなっていたのだろうと信じたい。
経師張りした白い壁とコロのシンプルな舞台装置は、悪くはないが、
作り方の精度をもう少し考えてほしい。一発屋はじめ、そういうと
ころをきっちりやっている劇団に学ぶところは多い。またタッパ(高
さ)や窓の処理、出入り口の場所なども。役者は、袖に入るところ
でスピードが落ち、その先に劇の世界が広がっていない。演技の仕
方でカバーできる問題だが、装置の置き方が工夫してあれば避けら
れた。腕時計の文字盤の反射を抑える処理なども初歩的なことだと
思う。(続く)



[247] 音庵 2005/07/04(月) 02:08 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] 新潟大学演劇研究部
続き。ネタバレ。
男と、女と、オカマ。この基本構造はトランスと同じ。某自殺系サ
イトで知り合ったこの3人は、やはりそれぞれに「病んで」いる普
通の社会人たちである。原田雅之は、そもそも初めに書き込みをし
た時の記憶がなく、しかし自殺をすることが自分にとって精神の安
定をもたらすことに気づいて書き込みを続け他の2人と出会った。
彼は何でも自分が悪いのだという強迫観念があり、9・11WTCにい
て友人の代わりに助かったという妄想を持つ。これは突然エスカレ
ートする。橋本哲造は同性愛者だが、自らを社会に適応させるため
妻子を持ちサラリーマンとして普通に暮らしていたが、その抑圧か
らパチスロにはまり闇金に手を出して借金取りに追われ、生命保険
のために死のうとしている。谷川和美は大学の保健管理センターの
カウンセラーで、相談に来た学生の話を失恋のショックで上の空で
聞き、その学生に自殺されてしまった経験を持つため、このサイト
にアクセスして自殺者を止めようと画策している。彼女には死んだ
学生・平山が自ら作り出した幻ながら意思を持つ人格として付きま
とう。出会った3人(+1)は自殺の相談をするうち、雅之の妄想
が暴走して、空爆の可能性ある有事の戦闘地域で、「人間の盾」とし
て志願して来たという設定を他の2人にも要求する。そして近くの
保育園に「慰問」のため訪れ、「泣いた赤鬼」を演じるための稽古を
始める。楽しいことの頂点で死にたい哲造は賛同し、和美は別の意
図を持ちながらも参加する。和美に付きまとう平山は、彼女が自殺
に導かれるような方向へ誘う。
「トランス」では3人の間に恋愛感情が絡み合うのだが、今回それ
は希薄。哲造の雅之に対する好意は表現されるが、それもあまり濃
いものではない。その分色気が欠けている。役者は、人物造形が薄
い。鴻上作品は、その人物の舞台上以外での生活感を敢えて描こう
としないのだが、しかしそれでも上演するサイドでそれなりのやり
方があってよい。雅之・田村準紀は、そのぬぼっとしたひょろっと
した立ち方がいかにも素人ぽくはあるが、雅之の不安定なキャラを
描くのにははまっており、説得力がある。哲造・阿部健太郎は、役
どころが美味しい分得をしているが、下ネタも含め笑いの部分の多
くを担い、また外面としての男言葉とオカマらしい仕草・言葉の演
じ分けがいい。ミスをミスらしく見せないうまさもあるが、これは
周りがついていかないとうまくない。和美・安達志保は、唯一正気
を保つ人物として自負しながら、幻を背負い潜在意識的に死を願う
精神の闇を持っている。年齢不詳というか、多少おばさんぽい。3
人とも、設定ではいい年なのだろうが、どうも学生っぽくて幼い面
がある。その分爽やかではあるが。死者であり和美のメフィストで
ある平山・大滝兼次は、そのルックスが役によく合う。またうまい
役者だと思う。できれば演出と役者どちらかを切り離してやるとよ
りよいだろう。焼肉シーンで台詞のミスからか芝居がもたつき、役
者に素の笑いが出ている。意図的にアドリブを入れていく演出であ
るように思うが、成功していない。中途半端。また、後半の多くは
「泣いた赤鬼」の稽古シーンだが、この芝居を選んで演じることに
はかなりの意味があるにも関わらず、演じる3人(+1)がとても
いい加減にやっていることはネック。慰問のための稽古であり、主
題そのものにも意味があるのに、雅之ですら真面目に稽古している
ように見えない。アドリブを入れて楽しむこととは別に、この劇中
劇への姿勢そのものが、本公演全体についてのスタンスのように感
じられる。客に芝居を見せることを、そんな感覚でやっていると、
たとえそうでなくても感じさせてしまうのはマイナスでしかない。
演出方法に難あり。ギャグ的な芝居を、力いっぱいがんばってやっ
ていてその点否定的な評価もあった先日のわるだくみに対して、実
は重い芝居を、変に手を抜いたようにやってしまっている今回の新
大劇研。どちらも考えるべきところはあるが、自分は前者の方がま
だ支持できる。この辺りをもっと絞って余計な間をなくしたら、90
分、長くても120分で十分な芝居になるのだが。「人間の盾」をマ
スコミに連絡して、取り合ってもらえない雅之は自爆により注目を
集めようとする。死を必要とする哲造も同意する。和美は必死に食
い止めようとするが、彼女の中の平山がカタストロフを求めて包丁
を振りかざさせる…。結果としては、「生きる」方向性に向かう彼ら
と、消えていく平山。この辺りが台本に不満の残るところだが、芝
居としては照明の使い方など、きれいにまとまっている。
今どき楽しいことが溢れている世の中で演劇をやろうという若者、
見ようとする若者。自分はあなた方に敬意を覚えている。だからこ
そ。


[248] 本間 弘行 2005/07/04(月) 07:07 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 今回の公演は、上演毎にできがちがっていたのではないかと、
勝手に考えています。

[249] 中ニ 2005/07/05(火) 01:34 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 本間さん・音庵さんに触発されて一筆。
 僕も14:00〜の回(1ST)を観ました。音庵さんの言う通り、
鴻上さんの大佳作である「トランス」のセルフオマージュである「ハ
ルシオン・デイズ」。3人の一人称で語られる(独白の多い)トラン
スに比べて、きっちり会話で物語を紡いでいく「ハルシオン・デイ
ズ」は登場人物の「切実さ」を表すのに苦労するはず。内面描写の
大チャンスが少ないからねぇ。その意味で、今回のキャストは健闘
しながらも、理解した事、感じたことを観客と共有するに至らなか
った用に感じました。「周りに基地外がいないのかなあ?」なんて、
単純に思ったりして。「大学生活、ぬるくて平和なんだろうなあ」な
んて思ったりして。
 意地悪だけど、1箇所声を出して笑ってしまったところがあって、
それは、「青鬼は自殺する前に、良いことをしたかった」って言うく
だり。おおおぉ!余裕あるじゃん!!じゃ、死ぬなや・・って思っ
てしまってねぇ・・・。結局、青鬼がどうして赤鬼を助けたのかに
ついての、鴻上さんなりの結論は闇の中なはずなんだけど、今回の
上演では「ああ、自殺する前には良いことをしよう!」っていうメ
ッセージだけが残ってしまった様に思えて残念。(ゴメン言い過ぎ
か?)
 「生ハムに焼肉のタレを付けて食べたらそりゃ、むせますよ」・と
か、「立ち回りで眼鏡が外れたけど、気にしないで。人の命の方が大
事じゃね?」とか「親友のオカマに抱きつかれて、なんで体がこわ
ばるの?」とかツッコミドコロが多くなってしまっていて、自分な
りに楽しんだんだけど。意地悪なお客さんだけがそこ(役者の生理)
を見ているわけでなく、半数がそこを観てると言うことを認識する
と、変わってきそう。事実、アドリブっぽい笑い声に、僕は幸福な
瞬間を観たし。
 ああ、でも焼き肉のシーンは、ホント無事食べ終えれるのか?と
心配だった。
 「死に方」の王様である「自殺」には当然魅力があるだろうけど、
その魅力を超えた「生き方」をもう少し見せて欲しかった。2ST・
3STはそれが見えたのかも知れないですね。
 乱文失礼しました。それでも「また観に行こうかな」と思わせる
のが大学生の芝居。不満もあるけど、憎めないんだよねぇ。強みだ
ねえ。

[251] 本間 弘行 2005/07/10(日) 06:33 [削除]
[公演名] colorful kiss and my pink pacemaker is beating fast
[劇団名] 劇団気まぐれ☆コンセント
 唾を吐き、水鉄砲を撃っても、“柔らかな耳たぶの穴から、晴れ
た春の草原が見えます”という台詞など、ところどころ挿まれる言
葉が印象的な劇団気まぐれ☆コンセントの最終公演だという
「colorful kiss and my pink pacemaker is beating fast.」は、た
だ一つのことを問いかけることに終始しているようなところがあっ
て、それならそれで、なぜそれを問いかけたいと思うのか、あの感
覚のままもう少し掘り下げてくれればいいのに、あるいはあともう
少しでいいから自分たちの言葉の世界を広げてくれればいいのに、
そこまで手を伸ばしていないから、本当にもったいなかった。
 それでもはっきり言っておきたいが、私は観ていて舞台からこの
世界に対する不安や、哀しみのようなものを感じて、その表現のさ
れ方はややデリケートであったり、ナイーブであったりしたかも知
れないが、劇中にでてくる少女からは、あるはっきりしたポジティ
ブな姿勢を感じた。
 それはたとえば、私の解釈でさらに誇張して言ってしまえば「私
はこの世界の中で生きて行くんです」と宣言しているような。
この世界はもうどうしようもないと否定的に言ってしまうのは簡単
で、それを受け入れて、信じてしまえば、演劇は必要ではなくなる
だろう。だが赤山(脚本・演出・舞台監督)たちは、ネガティブな
方向には流れず、そちらに船が向かってしまっても、またしっかり、
多少おぼつかなくとも、再び自分たちの日常の世界にかえってくる。
 あのラストには、人間の日常がある。
 
 もちろん今の時点でであるが、新潟でいちばんおもしろい劇団
は?と問われたら、私は「それは劇団気まぐれ☆コンセントです」
と答えるだろう。
 (7月9日 午後7時 シアターent.)


[252] 本間 弘行 2005/07/11(月) 08:24 [削除]
[公演名] ベビーフードの日々 [劇団名] 劇団どくんご
 会場に着くと、テントのそばで役者がアップをしている。テン
トは想像の中のバラック小屋(もっとも私はそれをずっと以前に見
たことがあるのだけれど)のようで、開場時間になって中に入ると、
蚊帳のようなものが吊られた舞台には役者がいて、顔を作っている。
 この2時間15分程の芝居は、役者による生演奏から始まって、
とくに1時間を過ぎる頃までは、別にどうということもない。この
芝居は最後まで足し算ばかりで、引き算がない。だからどれほど役
者が、たとえばその中の一人が江頭2:50みたいな演技をしようと、
単調といえば単調で、長くてくどくて、ときどき役者全員でひとつ
の動きをするところなど、おもしろいのだが、だからといって、別
にどうということもない。
 ただ芝居が、テントの中だけでなく、そのテントがある空間もど
んどん利用するようになると、少し雰囲気が変わって、たとえば後
半の、舞台奥にあった布の壁が無くなって、役者が舞台から飛び出
して、そのまま西海岸公園の、あのお城の塔にまで走って(もちろ
ん照明も走る役者の身体を追いかけて)、塔の頂上から顔を出して台
詞を叫んだりするのは、やはりおもしろくて笑ってしまう。これは、
できればそのあと、さりげなく通行人のようにテントに帰ってくる
のではなくて、行くときと同じように走って舞台にまで戻ってきて
欲しかったが。
 またラスト30分くらい前から始まる、一発芸大会(?)は優勝
者が決まるまでが面白かったし、そのあとのヒトノオモサと書かれ
た人形を埋葬する場面や、最初と最後の役者による生演奏などには、
野性的な情感があった。そしてこの生演奏、当たり前すぎるかも知
れないが、ボーカルにだけはマイクを使わせてみても、おもしろか
ったのではないかと思う。
 他、劇中ときどき舞台がおそらくは人の重さで上手に傾いたり下
手に傾いたりして、役者はその傾きを利用した演技などしないし、
観客席は水平のままだから、視界に微妙なゆがみが生じて、これは
おもしろかった。この舞台が傾くこと、これは舞台の構造を見ると
意図的なようで、そういえばこの芝居の舞台の板は船の甲板のよう
であったが、劇の最初と最後の台詞に1912年4月14日という
日付がでてきて、何かあった日だろうかと後で調べてみると、タイ
タニック号が氷山に衝突した日であった。
(7月10日 午後7時30分 西海岸公園自由広場 特設テント
劇場) 

[253] 音庵 2005/07/11(月) 16:06 [削除]
[公演名] ベビーフードの日々 [劇団名] 劇団どくんご
チラシでは内容もコンセプトもわからないまま、ただテントに惹
かれて足を運んだ(そういう人が多いのでは?)わけだが、紅やら
黒やら先般の紫龍(新宿梁山泊)とは比べ物にならないチープなテ
ントらしきものが風に揺れている様は、しかしなぜか高揚させるも
のがあって、これはかつて新潟でも大学生やその周辺にあった猥雑
で少しどきどきする、あの芝居の雰囲気なのだった。チラシやサイ
トの存在などは21世紀のそれだが、しかし客入れから劇終まで展
開されるそれは確かにアングラのにほひ漂う典型的なもので、ステ
レオタイプと言えないこともないのだがそれでもほんわか懐かしい
ものだ。こちら側に侵食してくる迫力や怖さは(年を取ったせい
か?)あまり感じない。それでもテント初体験という若い方々(確
かあいえ嬢かな、そんなことを言っておられた)にはやはりそれな
りのインパクトがあったかと思う。テント芝居の真髄はこんなもの
ではないと思うが、そのエキスらしきものは確かにあった。
テントは、ある意味その被膜を剥ぎ取られ外界への広がりを現出さ
せることを期待させるという逆説的な存在だが、今回もそれは叶え
られる。蚊帳の撤去から、周辺の幕(と言っていいのか)のずるず
るした撤収、特に終盤は舞台周辺は素通しとなる。それが大掛かり
な仕掛けやスぺクタルにならないところが、この劇団の持ち味なの
だろうか。生演奏にしても、挿入される流行歌にしても、終盤のダ
ンス(Larger than lifeが出てくるあたりはイマっぽいのか?)に
しても、やはりとことんチープな感じで、それはまたアットホーム
的でもある。
物語には筋らしきものはない。冒頭からタイタニック(チラシにも
それは表れている)に纏わる言説が散りばめられ、「あれは〜」、と
いうフレーズで千数百何十何名(覚えてない)の溺死、映画、陰謀、
さまざまな言葉で表現されこれは終りにも繰り返される。「ひとのお
もさ」と書かれた土左衛門のような人形が奈落の水たまりから引き
上げられ、再び戻されるまでの間、この人形(ひとがた)を中心に
繰り広げられる狂騒には、絡む各自の物語(「ぼくのぱんつ〜」の太
った少年(?)、「ぼくかわいい」のバニー男、帰らぬ男を待つ九州女、
など)があって、しかしそれぞれは微妙に絡むようでいてモノローグ
として独立している。ゆえにとっ散らかった印象が残る。みんな揃
っての「あたしのアソコの〜」大会も面白いのだが、結論として何
が言いたいのかというと特になさそうだ。それらを包み込む壮大な
ストーリーやサーガがあって、けりがつくようなカタルシスがあっ
て、というかつてのテント芝居のような展開にならないのが物足り
ないとも思う。が、これが(少なくとも現在の)どくんごの世界な
のだろう。これらは人形を彼岸へ帰し奉るまでの間、それに捧げら
れた祭りのようでもある。
こうしたアングラ系の芝居では、役者の所作や台詞回しに(不適切
な言葉があればご容赦)、障害者(特に精神障害)や痴呆性老人、あ
るいは未発達児を思わせるものが多い。理性で普段我々が抑えてい
る、抑圧されている感情の発露を希求するものなのかもしれないし、
実際にこういう表現方法でのみ現わせるものもあるとは思うが、や
はり視覚と聴覚に苦しく、かつ後ろめたい気分になるのは否定しが
たい。どこまで笑ってよいものかという「常識」の歯止めがかかる。
ただ、あっけらかんと繰り広げられた今回のそれには、あまり暗さ
を感じなかった。その瞬間瞬間を楽しめばよいのだろう。伯爵の顔
芸には感銘を受けたし、ブリニ?が食べてみたいと思った。キャス
ト6人、スタッフ2人。これだけの人数でテント芝居ができ、旅興
行を続けるというのもある意味すごいことだ。これだけの力量のあ
る役者なのだから、もう少し構築された芝居も見てみたいという感
想を持った。


[255] 本間 弘行 2005/07/16(土) 10:31 [削除]
[公演名] Noism05 Triple Bill
 まず一番目の「DOOR INDOOR」(構成・演出・振付:
アレッシオ・シルヴェストリン)は、世界の果てのような薄暗い広
間の中で繰り広げられる終末論的な世界であり、拡大された、ある
室内の風景である。
 作品はダンサーの踊りも、言葉だとか、バルトークの音楽だとか、
美術だとか照明だとか、衣装だとかと同質で同次元にあるように感
じられて建築的であり、それが比較的人間を、人間の身体だけをみ
せたかのような他のふたり(黒田育世・近藤良平)とくらべて特徴
的であるが、それだけ何か物足りなくもあった。
 この作品の終わりの方で、舞台を観客席と遮断するものが取り払
われて、ダンサーが何かを背負いながらゆっくりと観客席の方に向
かってきても、そこにあるのはある静的な世界であり、誇張してし
まえば、この作品は突然不幸な出来事で死んでしまうかも知れない
この社会に生きるある繊細な人が、人間であること、死んでしまう
存在であること、誰かを殺してしまえる存在になれることへの不安
を、感覚を遮断することで感じまいとするかのような、内的イメー
ジだけで構築された透明な宮殿のような作品である。
 次の「ラストパイ」(構成・演出・振付:黒田育世)は、これは何
よりもまず黒田の振付家としての才能と、やはり金森穣のダンサー
としての身体能力の高さが印象的であったが、驚きという点では、
倒れて気を失うところまで踊りかねない黒田が金森に振り付ければ、
こうなってしまうのだろうなと納得してしまえるものである。
 そして何度も何度も、執拗に繰り返される平原慎太郎の動きから
どうしても印象に残ったのが、この作品における金森と他のダンサ
ーとの関係であり、ここからこの作品から受けた印象、感じを物語
に置き換えられる余地が生まれるかも知れないが、「ラストパイ」は
振付家としての金森穣を破壊して、ダンサーに呼び戻した作品だと
考えるのがたとえば私には妥当であり、アレッシオと後の近藤良平
の作品でもどうしても感じてしまう他のダンサーとの身体的能力あ
るいは身体による表現の力の差は、Noism05の幸福な不幸で
ある。もちろん、ではこの作品は金森穣の40分に及ぶソロだけで
もよいかといえばそんなことはなく、これはやはり、他のダンサー
との関係もあって初めて成立する舞台である。またステージで生演
奏をする、初めて聴く松本じろの音楽も印象に残るものであった。
 最後の「犬的人生」(構成・演出・振付:近藤良平)は、悪く言っ
てしまえばコンドルズをNoism05でおこなえばどうなるかと
いう作品であり、ダンサーたちは台所の隅からあらわれた小さな妖
精のようであり、黒田が破壊した振付家としての金森穣は、ここで
は少し怖い、でもなぜだかときどきからかいたくなってしまうよう
な兄である。
 この作品から形式を離れたものを感じることは容易であるが、近
藤の作品には郷愁があり、それはたとえば、子どもが暗くなってボ
ールが見えなくなるまで野球をしているような、あるいは眠くなる
まで、あるいはお腹が空いて家に帰りたくなるまで遊んでいられる
ような、楽園のような世界である。
 そしてこのボールが見えなくなるまで野球を続けようとすること
が、身体の限界を見ようとする行為であるなら、近藤も地下ではし
っかり、他のふたりとつながっている。ただ強いて言えば、そろそ
ろ近藤良平らしくない近藤良平をのぞむところである。
 (7月15日 午後7時 りゅーとぴあ 劇場)

[256] 音庵 2005/07/17(日) 17:22 [削除]
[公演名] Noism05 Triple Bill [劇団名]
Noism05
○DOOR INDOOR/アレッシオ・シルヴェストリン・振

幕が上がるとそこは靄に覆われたようなグレイの世界。実は4面を
紗幕に囲まれており、観客はこの皮膜を通して舞台を覗く。下手に
はグレイの布が垂れ舞台面に伸びており、これが波のように、シー
ツのようにダンサーに絡んで表情を持つ。「青ひげ〜」をベースとし
たと思われるアレッシオのテキストは日本語として音声化され(井
関佐和子がヘッドマイクを通して語る)、その物語世界を仄かに感じ
させながらも「ストーリー」が展開されるのではなく、閉ざされた
場所と開かれた世界への扉をめぐって繰り広げられる人間の邂逅や
反発や癒着や愛憎のイメージが感じられる。マイクを通したリアル
タイムの声に加えダンサーの時折上げる叫び、そして吸気と呼気(時
に性的)、リノの床や布を叩く音など、生の音が印象に残る。終盤、
前面の紗幕が取り払われ男と女の2人だけになった舞台がクリアに
視界に入る。我々はDOORの内側に入ることができたのか?しか
しここには結末がない。内側にはまた内側があり、それは無限循環
するように思える。アレッシオの手法は、Noismの作品群とそう遠
い地平にはない。しかし、求められている精度が非常に高いように
感じる。コンテンポラリーダンスの本場?欧州の美意識が土台にあ
る、構築的なダンスの典型のようだ。
○ラストパイ/黒田育世・振付
響く音の中、下手前方に現れた金森穣の肉体は、次第に輝きを増す
光の中で執拗に光に向かって捧げ続けられる、奉納舞というか宗教
的な畏怖を感じさせるような鬼気迫るものとなっていく。トランス
状態の司祭のように。この舞は汗を迸らせる旋回が特徴的で、イス
ラームやヒンドゥーのようなアジア的なにおいがあり、金森がこれ
を踊る姿は特に新鮮である。松本じろ(上座部仏教僧のような橙の
衣)が上手奥のタワー上から奏で唱(頌)する生のLast Pieは、ボ
レロのように旋回しながら高揚する。荘厳な宗教楽にすら聞こえる。
ダンサーたちは踊り続ける金森の後ろに現れるが、何度も突進して
は倒れて引き戻される平原をはじめ、それを引き戻す人々の、当初
はコミカルですらある狂騒の所作は、しかし繰り返される中恐ろし
さも感じさせる。モブダンスが、しかし各人の個性も現していると
ころ(疾摩ですら)は振付なのかインプロヴィゼーションなのか、
いずれにしても感銘を受ける。金森の後ろで繰り広げられるダンサ
ーたちの姿はどうしても「金森穣」に対して、と見えたりするが、
むしろ「踊り続けることへのDevotion」に対する、恐れや
憧れや諦めや躊躇いや動揺や希みや、そういったものを表現してい
るように個人的には解釈した。客席で見つめる黒田氏に、この作品
への深い思い入れを感じた。
○犬的人生/近藤良平・振付
アナウンスから始まって、ダンサーにしゃべらせるわ映写もあるわ、
しかも「屈辱的ポーズ(笑)」にカラフルでおまぬけな衣装。いかに
も近藤良平、ずる〜い、って感じ。圧倒的な黒田作品の後で、しか
し絶妙なバランスではないか。非常にシアトリカルで、寓話的であ
ることは、ダンスとしては邪道なのだろうが、コンテンポラリーダ
ンスが眉間に皺寄せ考え込むだけのものではなくて、ダンサーの躍
動する肉体とそれによって表現されるものを楽しむこともまた醍醐
味であることを改めて感じることができる。近年近藤が人気を犬的
生活ではなく、犬的「人生」というのが見て頷けた。ダンサーが楽
しそうで、見ていて和んだ。そしてダンサー各人への思い入れが強
くなった。しかし、単にコミカルなだけでなく、ダンサーには「殻
を破る」ことが求められており、それがかなりのレベルで達成され
ていることは、今後の展開にとって大きな意味を持つだろう。
本公演でのダンサーたちの思いと、発案した金森氏の思いは必ずし
も同じではないはずだが、カンパニー、そしてダンサーたちの今後
を見つめる金森の思いはかなり具現化しただろうし、一方で同じ
Noismの一員として金森と舞台を共にしたダンサーたちが得たもの
は、有形無形ともに大きいと思う。


[257] 音庵 2005/07/17(日) 17:32 [削除]
[公演名] Noism05 Triple Bill
失礼、前項少し抜けました。

〜醍醐味であることを改めて感じることができる。近年近藤が人気
を博しているのは、こうした一般の人にも親しみやすくとっつき易
いアプローチで、しかもその中身にはかなり濃いものがあるという、
敷居を高く感じさせないところにあるように思う。
犬的生活ではなく〜


[258] 本間 弘行 2005/07/21(木) 07:02 [削除]
[公演名] シーチキンパラダイス◎ [劇団名] WANDELUNG
 WANDELUNGという劇団があって、タイトルからはどんな物
語なのかさっぱりわからない『シーチキンパラダイス◎』というお
芝居、3話構成のオムニバスである。その第1話「さざ波」は、小
さな島の港町を去ろうとする中学の女教師に告白しようとする民宿
主人を助けようとする帰省中の女の大学生とその高校生の弟に、弟
の先輩で大学生とも顔なじみの寿司屋の息子が絡んでくるというス
トーリー。助けようとする展開にはいろいろと波乱があり、なぜか
大学生が民宿主人のことを好きだということになったりして、これ
からどうなるのだろうと思うところで寿司屋の息子が突然消えてし
まう。それもどこかに行ったのではなく、中学教師も民宿主人も最
初から彼はここにいなかったと主張するのだ。
 これは、いわゆる怪談などではなくて、本当に大学生だけの夢の
ように彼はいなくなってしまうのだけれど、遠くの町で寿司職人の
修行をしているという息子の、故郷や故郷の人々への想いだけが町
に帰ってきたのだと思わせるような物語であり、寿司屋の息子とは
っきり会話しているはずの弟が、最後になって彼がいなくなったこ
とに少しも触れないのが物語の構成としてはやや弱いが、その彼の
想いを感知した大学生の、夢が覚めたあとの舞台に漂うほのかな哀
しみが印象的な舞台であった。 
 第2話「蜃気楼」は、町を去ろうとする海洋調査の女の研究者が、
去る前に人々に挨拶をしていこうとするときに、暑いからこれをか
ぶれと漁師から渡された帽子から始まる少し悪夢のような込み入っ
た物語。その帽子は私のだと、若い女性1人とその女性について争
う2人の若い男性があらわれて、男性の1人は先ほどの漁師なのだ
が、これがその女の研究者のことを知らないと言う。だけれど研究
者の話すことは、その3人の7年後の未来とそれにつながる現在
(!)のことで、3人組はどうして知っているのかと驚きつつも研
究者を脇に自分たちの物語を進めようとする。しかし何とか3人と
関わろうとする女研究者の行動に振り回されて、あげくに男の1人
が土地を売って手に入れた大金が海に落ち、それを掬おうと泳げな
い漁師も含めて皆が海に入って、どうなるのかというところで研究
者だけ最初の帽子を渡した漁師に助けられる。漁師はもちろん女の
体験したことはわからないから、全ては自分の夢だったということ
で、彼女は助けられるまでに体験したことを自分の中におさめてし
まう。これは少し第1話の骨組みだけを発展させた構築的な物語。
 最後の第3話「潮騒」は、結婚式を挙げずに結婚をして、すぐに
遭難で漁師の夫を亡くした25歳の未亡人の7回忌の日の朝の物語。
朝の霧の中で出会うのは、娘を里子に出した34歳の国語の女の教
師と、漫画を描いているという若い男。物語は男が亡くなった夫に
そっくりで、未亡人はまるで里子に出された教師の娘のような錯覚
を与えるのだけれど、最後に女の教師の悪のりのようなしかし大真
面目な情熱で、未亡人に結婚式をさせてあげようと、男が新郎と父
親の役、女が牧師の役になって結婚式がおこなわれて、何と誓いの
キスまでしてしまって、その後このカップルは光の射す方向に向か
って歩んでいく。この第三話は、いなくなる人はあらわれず、それ
ほどはっきりとはしていないが、登場人物達の会いたい人への狂お
しい想いや挫折といったものを、ややあっさりとポジティブな方向
に昇華させて、美しい。
 全体的に幸福な夢の物語というか、都会というものが侵入する人
間的な神話的世界であるが、何かもう少し、人間の生あるいは死と
いったものがあとほんの少しでいいから登場人物達の言葉の中に浮
かび上がってきて欲しいところである。
 (7月19日 午後2時30分 シアター風姿花伝)

[259] 音庵 2005/07/28(木) 13:11 [削除]
[公演名] 一日だけの恋人・ここだけの話 [劇団名] パラグラフ
遅ればせながら。
パラグラフは特別経験があるわけでもない芝居好きの若者たちが集
まって芝居を楽しんでいることが魅力の集団で、それが年輪を重ね
ながら、例えば前回第二黎明期で中村照美が見せたように、かなり
役者が練られて来ている。何期かの段階を経て、当初から牽引して
いるメンバーに加えて新陳代謝が行われ、去っていった惜しいメン
バーも含めて印象に残る芝居を数々作ってきた。自分はHPなどで
公になっている部分しか各劇団の事情については詳しくないのだが、
しかし様々紆余曲折の中でこうして続けていることは評価できる。
今回の2人芝居バージョン違い含めて3本連続公演は、ある意味劇
団のメンバー事情によるものだろうと推察される。高橋いさをの、
ちょっと洒落た小品で、1時間足らずの時間を感じさせないもので
はあったが、3本続けると流石にきついところはあって、思ったよ
りも客の方がチョイスして見ているようで、出入りが結構あった。
年間MVPの投票、つい買ってしまったTシャツなど相変わらず企
画も盛り沢山。サービス精神には敬服する。
で肝心の芝居である。ネタバレ。
「1日だけの恋人」は、適齢期(死語か?)ぎりぎりくらいの若い
女性が、ホテルの一室で、実家から出てくる兄を説得するために役
者をやっている初対面の男を「恋人役」として雇うのだが、その設
定はどうやら彼女自身の実情を反映しており、それが落ち着くまで
の一時凌ぎであることがわかってくる。
同じ設定ながらキャラクターを変えてあるヒロインは、山形理奈と
池上亜矢というパラを初期から引っ張ってきた2大女優で、流石に
自分の見せ方をよく知っている。山形は30女として、不倫の関係
にしがみつきながら年下の男にほのかな好意を見せる機微を演じ、
池上は少し年上ながらそうは見えない男を姉さん的にあしらう。破
壊ランナーのパロディもあって楽しい。不倫を続けながら関係の清
算を受身的に待つ女の姿に共感は持てないのだが、女優が役柄とほ
ぼ同年代でもあり説得力がある。男は、石山匠が心身ともに?少し
たくましくなって、過去の作品のパロディなどを交えながら不安定
な生活を自ら選んだ役者の心の揺れを描く。小林将志は、エキセン
トリックな彼独特のキャラクターを演じながら、その動きの過剰さ
において演出の田邉義和を思い出させるところがある。
この芝居はコミカルさが全面に出て、しっとり見せる部分が引き立
つのだと思うが、そのさじ加減が難しいのではないか。個人的に思
うのは、いつものモブ的な、多人数が出てくる芝居の中でこそ成立
する各キャラクターのアピール、その露出の度合いが、そのまま2
人芝居に持ち込まれているところがしっくりこない気がする。2人
で場をもたせようとする意図なのかも知れないが、少し過剰すぎて、
役者の男がただ変な男に見えてしまう。心の襞をもっと見せること
ができれば、大人の男女の微妙な関わりをより描き出せたのではな
いか。静かになり過ぎない、しかしリアリティのある会話劇にでき
ると思う。
「ここだけの話」は、思い出の一室を取って妻(別れる予定)を待
つ男と、式直前にマザコンの新郎に怒って逃げて来た新婦の2人が
繰り広げるどたばた。松本章嗣は、ちょっと武田真治に見えないこ
ともないが2枚目半的な役柄にうまくはまり、器用ではないけれど
いろんなタイプの男性を演じてそれなりに見せられる役者で、場数
をこなしている分細かいアドリブなどに余裕があって面白く演じる
ことができる。同時に、シリアスな心情の吐露にも彼一流の上手さ
がある。媚山美智は、このところ出番が多く、自分のキャラクター
を把握して上手く使っている。そして時折見せる女の子のかよわさ、
かわいさが効いている。そっちの、かわいさを磨くことで、よりコ
ミカルさを生かせると思う。過去に対する男の晦渋と、妻への思い、
指輪を外しておこうとする妻への強がりというか思いやりというか
がよく描かれ、感情移入できる(これは自分が男だからだろうが)。
ベルボーイとして登場する新人・五十嵐忠春、なかなか期待できそ
う。短い出番だが、もっと自己アピールしてよいと思った。
セットは少し物足りないが、「ここだけ〜」の十字架、木の葉のエフ
ェクトなど、凝った照明が魅せる。
さて、劇団も役者も年輪を重ねてくると、変化があって当然。それ
を後退でなく前進にしていくことが必要。セルフパロディが成立す
るのは、パラをずっと好意的に見ている客層を想定しているからだ
と思うが、その雰囲気のよさは生かしながらももう一つ脱皮して行
くこともまた考えて行くべきだろう。今のパラグラフができるこ
と・やらなければならないことは何か、どういう答えが用意されて
いるのかを見たいと思う。

[260] 本間 弘行 2005/08/01(月) 08:51 [削除]
[公演名] 真夏の夜の夢
 堀川久子はいつも何かを身にまとって踊っているようで、ある
いは何かと共に踊っているようで、とりあえずその身にまとってい
るものを、私は異界の旅人が身に纏う、蓑や笠だと感じる。
 今回サトウケイコの「群生」というインスタレーションで使われ
た作品だと思うのだが、メタル色の段ボールのピースを身に纏って
あらわれた堀川は、何かが違った。それはわかりやすいと表現して
しまえるような、そのようなものであった。
 たとえば最初、舞台中央の金属装置の向こうから堀川があらわれ
るのは、予想ができた。それは別にいいと言えばいいことだが、そ
の後の吊された長方形のメタルのような板に頭をあてる動きなど、
また中央の金属装置を打楽器のように扱う動きなど、陳腐であった。
 他にも舞台中央のいくつか穴があいた金属装置の中に堀川が入り
込んでしまう動きがあって、その後その中で自分の身体で音を出し
て、穴からは中の堀川の様子が少し見えて、それはうまくいけばひ
とつの緊張感を伴った密度の濃い空間になっただろうが、それが成
功しているとは思えなかった。
 また世界を変容させてしまう伊藤裕一の照明も今回は苦戦したよ
うであり、何か総合演出というか、そのようなものは今度の舞台で
はどうしたのかよくわからないが、まとめに欠けていると思わざる
を得なかった。
 さらに堀川に関して言えば、たくさんの舞台装置をまるで美術作
品だと捉えているようであり、それに対してのリスペクトのような
ものが身体の動きから感じられて意外であった。
 それで、このリスペクトのようなものがあるために、篠笛(金子
政子)や打楽器(本間美恵子)とは共演になっていて、ひとつの関
係性が成立していたが、美術との関係は明らかにそれとは異なるも
のになってしまっていたように感じられた。そのうえ、その人間以
外のものとの関係の違いを補うもの、そのことをたとえばおもしろ
いと感じさせる力のようなものを、舞台から感じることはなかった。
 その意味では小西奈雅子の音楽も、実際に楽器のように音を出す
わけにはいかない生身の人間を包み込めるほどの、大きな力のある
ものではなかったと思う。
 ただ今回そのような中でも、堀川に纏われたサトウケイコのメタ
ル色の段ボールのピースは、今度の舞台の他のどれからも自立して
いるように感じられておもしろかった。きっとこの人に舞台美術を
作らせたら、おもしろいものを作るだろう。
 最後に、今度の舞台では今までの堀川の踊りから感じられた、時
にそのまま踊りから言葉になってしまいかねないほどの強い政治性
のようなもの、社会性のようなものの存在が感じられず、そこが私
には堀川のひとつの発展に感じられた。
 このことに関しては、今後も注目していこうと思う。
 (7月31日 午後7時 西新潟市民会館ホール)

[261] 本間 弘行 2005/08/03(水) 19:44 [削除]
[公演名] 王女メデイア [劇団名] ク・ナウカ
 開場しても、公演がおこなわれる特別室につながる東京国立博
物館の本館ロビーにいて、視線をあげると、同じように開演を待つ
俳優が大階段をのぼりきった先からロビーを見下ろしている。そう、
女の俳優たちはこの時間であれば既に舞台で待機しているはずだか
ら、階段をのぼった先にいる男の俳優たちは開演になったらこの大
階段を下りて、客席の脇を通って舞台にあがるのだ。
 そうして開演すると、舞台の上では布のような素材の四角い袋を
かぶった着物姿の女性たちが、自分の黒白の顔写真が入った額を手
に持って立っている。ほとんどの人が右に左に揺れる中で、揺れな
い人がひとり、写真を見なくともこの人は美加理ではないかと思っ
ていたら、阿部一徳に袋を取られて、美加理である。
 この美加理、誰よりも汗をかいて、劇中あやつり人形のように踊
るときは途中小さく鋭く息を吐き、カーテンコールでは後ろの方に
下がっているから、若手に手を引かれて舞台の前に出る。背は低い。
 ク・ナウカの「王女メデイア」は、言葉では観たときの感じをな
かなかうまく表現できない。劇の構造や演出の特徴を説明するのは、
これはもう容易である。またこのメデイアの問題点も、無いわけで
はなく、これも言葉で説明することは容易である。が、実際に観て
身体に受けた感じを言葉にすることが容易ではない。
 たとえば、舞台奥で生演奏をしていた女の俳優たちがラストにな
って表に出て、自分たちを品定めした男の俳優たちを殺害していく。
それもク・ナウカの今回の公演は二人一役であり、男の俳優はみな
語りを担当し、女の俳優は動きを担当する。つまり自分の言葉を担
当した存在(スピーカー)をムーバーが自分の手で殺めてしまう。
このことに込められた意味は語られているが、単純に考えて、そん
なことク・ナウカの「王女メデイア」についての予備知識のない人
や、だいたい初めてク・ナウカを観るという人はいったい予想でき
るだろうか。誰が舞台上に最初から最後までいる老婆を、ひょっと
したら2500年生き続けたメデイアではないかと思うだろうか。
だが実際はそうなのだ。人は、もしかしたら何時だって男は、ギリ
シアのポリスの市民になりかねないのだ。21世紀など、この世の
何処にもないのだ。それはただ人間、もしかしたら男の頭の中にあ
るだけなのだ。
 終盤、舞台下手に屹立する塔にさし込まれたたくさんの本が落下
してくる。それも塔自体は揺れずに。その時の男たちの驚きの表現。
塔を見上げた状態で身体が固まっているところなど黒沢明の「影武
者」で、自分の軍隊の滅亡を目撃する武田勝頼たちの場面みたいで
浅いと言えば浅いのだけれど、そのちょっと前、自分たちの背後で
仲間の男が殺されたことに気づかずに語りを進めるあたりはもう異
様なムードである。
 そして、その少し前の、メデイアによる子殺しの場面での、メデ
イアの正に身も凍るようなとしか言いようのない殺意と、殺される
子どもの、母親を信じて疑わない心の対比。
そしてその一方の死。子どもを肩に担いで立ち去るメデイアのまわ
りは言葉の死んだ荒野である。だから、その後のムーバーによるス
ピーカーの虐殺は、私には、付け足しに思えるのだ。それであれば
子殺しのメデイアに虐殺後自分の言葉でもう一度自分の心を語らせ
た方が、メデイアが2500年生き続けていることにつながったの
ではないかと思うのだ。 美加理の声は2500年生き続ける声を
してはいないか? 
 (7月19日と8月1日 午後7時30分 東京国立博物館本館
特別5室)

[263] 音庵 2005/08/22(月) 01:37 [削除]
[公演名] トーキョーあたり [劇団名] 劇団健康
下北沢本多劇場にて、12年ぶりとなる健康の再結成公演。KERA
ときけば有頂天・ナゴム・音楽の人というイメージであった世代と
して、健康時代はリアルタイムでありながらあまり注目していなか
ったのだが、NYLON100℃がどんどん自分にとってしっくりしてく
る中で改めて見る健康に興味が高まった。おなじみの顔、懐かしい
顔の役者たちは入れ替わり立ち代り同じ役を様々な人間が演じるの
だが、きちんと役柄が把握できるところは流石。
ネタバレ。
のっけから、映写によるくすぐりがつかみOKなのだが、この映写
の後半、KERAが書店で平積みされている野田の本や大人計画「キ
レイ」、工藤官九郎「鈍獣」などを持ち去り、自作を置くあたりはま
あ愛嬌として、見咎められ逃げる(NYLON100℃Tシャツで)途中、
さまざまな自身への悪評を街のあちこちに見て追い詰められていく
様は強迫観念のあまりにストレートな吐露である。もちろんそれを
客観視して笑いにしてしまうのが彼の手法なのだが。これは劇中実
際に出てくるKERAが手塚とおると筋から離れて繰り広げるトーク
タイム?においても、ここでは書けない内情話や他作品の話など過
激にぶっちゃけていく中でも見られる。でまあ客は大喜びなのだが、
こうしたアナーキーさの中にも現在のケラリーノ・サンドロヴィッ
チの問題意識は垣間見えるようである。
話は、おおまかにいえば映画のシナリオの締切りが迫る中、ネタに
行き詰りながら無理矢理捻り出そうとする劇作家、プロデューサー
らしき男2人と秘書が紡ぎ出す物語世界の話である。冒頭少し惚け
た感じの老夫婦・周吉、とめが奇矯な末娘に送られて「東京」にい
る息子たちのところへ出かけるストーリー(仮にA)は、作家たち
によりいじくられて奇妙なものになっていくが基本的に小津安二郎
の「東京物語」の設定である。また並行して描かれる、役場の「す
ぐやる課」の公務員渡辺勘吉が胃癌を宣告されるが息子夫婦はそれ
に気がつかず、最後には児童公園を作ってブランコに座り「ゴンド
ラの唄」を口ずさむ、といえばこれは黒澤明の「生きる」そのもの
である(仮にB)。という、若い世代には今ひとつわかりにくいかも
知れないがメジャーな設定は、もちろんパロディかつオマージュな
のであり、パンフレットでも丁寧に説明されているわけだが、KERA
のねらいはそういう皮層の部分だけでなく重層的であり、形は違う
が家族という構造をもう一度問い直させるシリアスさ、元の物語を
脱構築してさらに現代的な視野から新たな問題意識をもって構成す
ることが導入されている。倒れたとめの葬儀に駆けつけた息子・娘
たちは、実はその役を頼まれて演じていた人々であり、次男は「死
刑になった」ことになっている。末娘は不倫をしている。そもそも
出かけた先は東京ではなく、すぐそこの「トーキョーあたり」なの
である。渡辺は病に絶望して息子夫婦(普段は父を罵倒しながら、
裏では彼を大好きであると話している)をバラバラ殺人、そして世
界征服をもくろんで様々な発明をし、その中には「どうでもいい」
気分にさせてしまうスプレーがあり、これはAの世界にも影響する。
あたかも「ええじゃないか」のように、チャンカチャンカ…とみな
が踊りだすシーンはナンセンスコメディの王道である。このスプレ
ーは次男の嫁紀子の家が散らかっている原因となり、そこで何かに
感染したためかとめは死ぬのだが、擬似家族の中で気づかない振り
をしながらも失意の老夫婦と絶望した初老の公務員は出会い交錯す
る。原作にないこうした毒を混ぜ込みながら、さらに物語は劇作者
たちの世界にも侵入する。実は著名な物語の世界が(劇中の)現実
世界にも浸透してくるという手法は、今回劇中で一方的コラボ?し
ていた、20周年キャ○メルボックスがよく使うものでもある。意外
なことだが、正反対の両集団が同様の手法を用い、しかし上がって
くるものは当然違っている。
全体にナンセンスコメディそのものである本作品だが、しかしどこ
か真摯な印象を受ける。NYLONでやってきて今いるところについ
て、KERAが真直ぐに自分の立ち位置を見つめながら作っているか
らではないかと思う。スピーディーな展開、ほぼ全ての役を複数の
役者が演じることで、役と役者が1対1対応でなく、むしろキャラ
クタの本質が浮かび上がる。移動式の台による場面転換など、細部
にわたって計算された動き、それでいてアドリブを含めた自在な演
技は、各役者の充実を感じさせる。本公演に期待されていたものは、
もしかするともっともっと破壊的で出鱈目なアナーキーさなのかも
しれないが、しかし見終わって残るものがあったのは悪いことでは
ないはずだ。個人的には特に三宅弘城の充実に拍手。手塚の、元を
たどればモンティパイソンの、懐かしいシリーウォークがうれしい。

[265] 音庵 2005/08/24(水) 17:03 [削除]
[公演名] エドモンド [劇団名] シス・カンパニー
デイヴィッド・マメット作のこの戯曲は、いかにもアメリカ人ら
しい話でありまた芝居である。すなわち、日本人がすんなり受け入
れにくい要素がいくつかあって、日本人の相貌で生活様式やメンタ
リティの違うアメリカ人を演じるいわゆる翻訳ものにつきものの違
和感もあるし、扱われている内容についても、セクシュアリティの
ことについては今の日本もそれなりに近くなっているように思うが、
ユダヤ人や黒人との人種間の問題などあまり実感を持たないであろ
うことが多い。さらにいえば、主演の八嶋智人をはじめ、小泉今日
子、中村まこと(猫のホテル)、明星真由美(元・双数姉妹、氣志團
マネージャー)、小松和重(サモ・アリナンズ)、平岩紙(大人計画)
など、若手小劇場系を中心とした役者陣を見に来る客が予期・期待
するものはこういう一種ストレートな社会派の芝居ではあり得ない
だろう。このようにはなから不利な土俵で、しかし非常にしっかり
した、きちんとした芝居が作られていた。いくらでもアドリブを入
れて笑いを織り込める面子が、しかし長塚圭史演出の元でストイッ
クにコントロールされた表現をしており、八嶋以外7人は何役も早
変りしつつ演じ分ける。ほぼ素舞台の青山円形劇場のステージをよ
く使いこなした場転もスムーズにこなされている。全面を赤の布で
覆い、舞台と折り畳みイスは黒地に赤が散らされる。ステージは奈
落や隠し扉が仕込まれる。好き嫌いはともかくよくできた芝居であ
り、内容はどろどろだが、「きれいな」芝居だ。
あえてエンタテイメント性を排除し、感動的な場面を作ろうとしな
い演出意図が十分に具現化された舞台であり、不評であるとしても
それはあくまでも「想定された範囲内」なのだろう。
ある意味限定された白人男性の問題を描いているので、感情移入す
ることが難しい面はある。しかし運命の波に弄ばれるような経験を
誰しも持つとすれば、これは一種の鏡として我々に迫るものでもあ
る。(続く)


[266] 音庵 2005/08/24(水) 17:09 [削除]
[公演名] エドモンド   [劇団名] シス・カンパニー
続き、ネタバレ。(9月13日までなのですよ)
ごく普通の白人サラリーマン、エドモンドは、何かしら現在の生活
に物足りなさを感じている。ひとつは妻との関係に倦怠感を覚えて
いることだが、他にも常識人として抑圧している潜在的なプライド
や差別意識(特に黒人に対する畏怖と裏返しの蔑視)を抱えている。
冒頭、占い師に「今いるべき所にいない」と告げられる。この得体
の知れない疎外感・違和感は我々も往々にして経験するものだろう。
彼は妻に対して、もうしばらく前から性的にも人間的にも興味を失
っており、その旨を告げて家を出る。
ここから彼のジェットコースターのような転落が始まる。妻を演じ
るのが小泉今日子であるだけに、何らかの不満があるということに
説得力が今ひとつなのだが、夫婦とは(あるいは人生とは)そうい
うものかもしれない。何となく、物足りなくなる。あるでしょ?
バーで教えられた風俗?の店やピープショー、売春宿など、今まで
足を向けた事のなかったところへエドモンドの性的冒険が始まるが、
彼は金に非常にうるさく、なかなか欲望の充足に辿り着けない。性
欲はあるのにケチでなのに気位だけは高いのだ。地下鉄で女性に話
し掛けて無視されると怒り出し、イカサマ賭博に巻き込まれ、それ
を指摘してボコられ身包み剥がされ、質屋で結婚指輪を質入れして
金を作る。そこで目にしたサバイバルナイフを入手する。日常から
ほんの少し逸脱する事が、やがて彼の中に沈殿していた野性を揺り
起こしていく。黒人のポン引きに騙された事がわかると、逆上して
そいつを半殺しにする。興奮した彼の口からは黒人への差別意識が
溢れ出る。その高ぶりのまま、ダイナーでウエイトレスの女グレナ
(小泉)と出会った彼は彼女に性的欲望を告げ、その部屋に行く。
情事の後で自分の経験について話しながら、彼はお互いに隠し事な
しで理解し合おうと言い、女優だというグレナに現実を認めるよう
しつこく迫る。この言い争いは彼にしてみれば率直な触れ合いを求
めてのことだが、それが(それまでの彼の言動すべてが)独り善が
りの論理であることに気付いていない。やがて怯えたグレナが出て
行けと叫び始めると、エドモンドは思わずナイフで彼女を刺殺して
しまう。
救いを求めて教会へと向かう彼を、しかし先日の地下鉄の女性が見
つけて警察を呼び、彼は捕えられ、そして殺人の容疑で留置される。
獄中でなお自分の立場を訴え続ける彼を、同じ房の黒人囚は性欲の
捌け口とする。いかにもアメリカ、しかし日本でも獄中ではよくあ
ることらしい。レイプされかつての何もかもを打ち砕かれていく彼
は、教戒師(ということは死刑囚となったのか?)に神への不満を
ぶちまける。運命は、しかし自分の選んだ行動で決まるものであっ
て、誰に責任を求める事もできないのだ。
彼は獄中で人間と動物との関わりについて、それが神と人間との擬
似関係であると考えるに至る。そして動物の中にも自分の中にも神
性が宿ることを考える。妄想であるといってもいいし、夜中の思い
つきが素晴らしい思想のように思えるあの感覚に近いかもしれない
が、いびつながら彼の中で整合性が生まれている。例の黒人囚との
間には、お互いすれ違ったものでありながら奇妙な意志の疎通が生
まれ、ほのかな感情の芽生えもある。最後に黒人にキスをして眠り
につくエドモンドの姿に、何らかの救いがあるわけではなく、圧倒
的な感動があるわけでもない。淡々とした終幕。状況が好転する事
はないだろう。しかし、黒人への差別意識、同性愛への嫌悪、強い
自尊心、そういったかつての彼の姿が変容しつつあることが示唆さ
れ、そこにはそこはかとないぼんやりした光があるといえる。

[268] 本間 弘行 2005/08/27(土) 09:58 [削除]
[公演名] あの、大鴉さえも [劇団名] チーム一汁
 マルセル・デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされ
た花嫁、さえも』(いわゆる『大ガラス』と呼ばれる作品)のレプリ
カを実際に観たことはあるけれど、竹内銃一郎はそれにインスパイ
アされて『あの、大鴉さえも』を作ったらしいということは、どう
でもよいこととまでは言わないが、あまり重要ではないことだ。
 大事なことは、名作ではあるが、もはや、たとえば“衝撃”など
という言葉では形容できない過去の戯曲がそれでも寺尾の劇場で上
演されて、なかなかおもしろかったということだ。
 そうはいっても、もちろん難点が無いわけでもなくて、だから難
点ばかり言うけれど、それはなぜチーム一汁は竹内銃一郎の作品を
大真面目に取り上げたのだろう?というところから始まって、それ
はそのまま私たちが生きている社会と今目の前で上演されているこ
の作品はどこでどうつながるのだろう?という問いかけに私の中で
はなるのだけれど、なぜなら、それがなければ単に“おもしろい”
“圧倒される”などの言葉を自分が観た舞台に対して費やせばよい
ことになってしまい、それならそれでよいのだが、そのような覚悟
がある作品だとも、観ていて思えなかったからだ。
 演劇なんて、人を感動させたっていいし、感動させなくったって
いいと思っているけれど、自分が観る場合はやはり心が揺さぶられ
たい。心が揺さぶられる舞台が観たい。だからどうせなら、歓びの
方向に揺さぶられたい。また揺さぶって欲しい。
 少なくとも大きな声で台詞を喋って、役者が汗をたくさんかく舞
台なんて、そればかりある芝居なんて、擬客から受けた感動だけを
伝えようとしているかのような個人的な芝居なんて、今までにだっ
ていっぱいあったじゃないか? そういうことをしたいのなら、そ
ういうことをしたっていいけれど、チーム一汁は、まだ芽だけれど、
それ以外のこともしたそうだ。だから自分たちが上演することで、
作品からどういう面が引き出せると思うか、どういう世界を観客に
示すことができると思うか、観客をどうしてしまえるか、次はそう
いった意味での真剣勝負を期待したい。私は次の舞台もあると思っ
ています。そして最後に、この舞台の、ときどき発生する一瞬の静
寂、一瞬の無音、それは偶然かも知れないが、それがとても印象に
残った。
  (8月26日 午後8時 シアターent.)


[269] 本間 弘行 2005/08/27(土) 12:01 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも [劇団名] チーム一汁
 すみません。どういうわけかタイトルを間違えてしまいました。
本当に申し訳ありませんでした。

[270] 本間 弘行 2005/08/28(日) 06:58 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも [劇団名] チーム一汁
 再び訂正です。268の文中に“擬客”とありますが、“戯曲”
の間違いです。今回は2回も訂正の書き込みをして、失礼致しまし
た。

[271] 音庵 2005/08/31(水) 12:53 [削除]
[公演名] 連脈
能楽堂の客席には新潟の演劇界・美術界など文化人が多数、また
マスコミ関係者も見受けられ、9割方席が埋まっていたし、開演後
も(望ましくないことだが)さらに客は入った。「文化的」事業とし
て意識されているのだなと感じたが、それがりゅーとぴあ能楽堂の
功績であろうし、また地道に県内各所での公演を重ねてきた堀川久
子に寄せられた信頼と期待の顕れだと思う。演出がナシモトタオで
あるのだから、映像をさらに加えるという方法もあっただろうが、
それはあえて?封じられ、文弥人形・舞踏・チェロそれぞれのソロ
を中心に、3者の様々な関わり方を組み合わせての約1時間半の舞
台であった。
3者とも、それぞれの道で名をなしているわけだが、いずれも恐ら
くは本道ではなく我道を行く人たちだと思う。枠組みに囚われない
表現者が異種格闘技を繰り広げる、のだが、私感ではあるが、ぶつ
かりあいというよりは互いに対するリスペクトと配慮があり抑制さ
れた舞台であったように思う。また、3者ともにこの能楽堂という
場は本来のテリトリーではない。場に対して違和感を抱えながら、
しかし場に対する敬意のようなものが感じられる。
橋掛かりからゆるりと登場する堀川久子は、和の衣をゆったりと身
につけ、その着こなしには性差を感じさせるものがない。その所作
は、明らかに人形の動きをかたどったもので、意志を持たない木偶
の動きに思わず生命を感じてしまうあの感覚を、ひとが演じること
の転倒が(わかりやす過ぎるという意見もあろうが)興をさそう。
トリスタン・ホンジンガーは、前衛的なノイズを紡ぎ出し堀川の舞
に音を添わせる。そのチェロ使いは、人間の声に近い音を出すこの
楽器の特性を把握した上で自らの声も用いながら純粋に発せられた
音を愉しむ姿勢を示している。一方で文弥人形が登場したシーンで
は一転軽やかで牧歌的なメロディを奏でる。オーソドックスからア
バンギャルドまでチェロの様々な可能性を表現していた。
チェロ演奏中に背景の竹林に出没していた赤い衣の堀川が、客席に
現れ童女(狂女)のように声を発しながら動くシーンは、この空間
がある意味まとった空気を剥ぎ取られる可能性の垣間見えた瞬(と
き)であった。能楽堂の静謐さ、厳粛さを破ることをどこかで期待
していた自分としては、しかしここで大きな破綻を導くことなく収
束していったことには少しく念が残る。
文弥人形という、一人で操る特殊な技術を要する表現を、西橋健は
二種の人形によって無邪気な童女、凛とした女の情念を描き分ける
ことで魅せた。何がしかの違和感を覚えたのは人形の浮遊感で、こ
れは通常、手摺りや舟底、幕などによって覆われている人形と遣い
手の足元が剥き出しとなっていることによるものと思う。しかし逆
に、童女が空を舞うシーンなど、従来の枠を超えた表現が見られた
り、額縁から解き放たれた人形の表現の可能性を感じさせたりして
くれた。扇を用いた所作や顔の角度など、血の通ったひとの表情を
描き出すことのできる人形の表情の雄弁さは支える遣い手の熟練に
よるものである。
人形と舞の共演において、人形はひとを模し、堀川はむしろ人形よ
りも人形らしい、自らを空洞化、ヨリマシにした無機性を醸し出し、
その表現の差が、ユニゾンでありながらハモる感じで面白かった。
全体に、きれいにまとまった感があって、それは成功なのではある
が、場の雰囲気を破壊するアナーキーな表現もまた期待してしまう
のは、まあ欲張りなのかもしれない。

[273] 音庵 2005/08/31(水) 13:42 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも [劇団名] Team一汁
最初にこのユニットのチラシを見たのは、もう随分前のような気
がする。非常に思いがけない取り合わせで、だからこそぜひ見たい
と思っていた。思えばこういう県内劇団のクロスオーバーな企画が
見られるようになってきたことは、ここ数年のことであり、喜ばし
いことである。そして、1行レビューの賛否合わせて多かったこと
も嬉しいことだ。
実際、様々な汁が舞台上で飛び、したたっていた。それだけである
意味この企画は狙い通りなのだ。恐らくは役者のためが大きい強め
の冷房をものともせず、舞台上にはその痕跡が散る。これをみてい
るだけでかなり楽しい。のだが、期待と予想を満たされ、しかしそ
れを上回るものではなかったこともまた事実。たろ、佐藤正志、渡
辺健から連想されるものが十分に表現されていたし、それぞれがい
つもながらのキャラクタを演じ得ていたのだが、さらに一段何かが
欲しい気はする。化学変化のようなものが。人物描写について、そ
の役柄の台本に描かれていない生活まで踏みこんで考察している役
者と、あくまでも台本上の表現に徹する役者、それぞれは自劇団の
影響を受けているように思うが、そこらへんがそのまま出されてい
るようで、演出によってこれらの温度差を合わせる作業があっても
いいかとは思う。
こういう、時代を感じさせる不条理劇を、台詞に多少配慮を加えな
がらも基本的にストレートに演じることは、なぜ今、という問題提
起をされると難しいのだが、自分に言わせれば、でもほぼ初見の人
が多い客層であるから成り立つのだと思う。扇田昭彦が見ているわ
けじゃないんだから…。さまざまなパロディや本歌取りを踏まえて
見れば味わいの増す戯曲であるが、知らなければ知らないでそれで
も楽しめるものだ。
個人的な印象からは、不条理劇に付き纏う一種の暗さが、この若い
演者たちには希薄で、ありもしないガラスを運ぶことに労苦を費や
し、諍いを起こしながらも「山田家」を探し「入り口」を探す3人
の姿はどうしても人生の徒労感や悲壮感を描き出してしまうはずだ
が、そうした哲学的な思わせぶりがあまりなく、むしろ(不適切な
言い方かもしれないが)爽やかにすっと終わっていく。
時代背景もあると思うのだが、肉体労働者の抱える不満や鬱屈した
思いが、生活の苦境を暗黙のベースとしていた時代のそれとは違い、
この3人は大汗をかいて唾を飛ばしてはいてもやはり現代の若者で、
せいぜいバイトかフリーターのようで生活の重さを感じさせないの
だ。これはプラスにもマイナスにも評価できるのだろうが。妄想を
抱えて三条るみ(はるみ)の名を呼ぶ彼らの声には深みはあまりな
くストレートに「独身者」のリビドーが漲っており、しかるにそれ
は21世紀の(精子の弱くなった)オトコのそれである。もう一度
「入り口」を探して立ち上がり、去っていく彼らの姿と掛け声には、
だから軽味ゆえの爽快さがある。他の表現方法もあることを認めな
がら、今回の舞台もそれはそれで楽しめたことを書き添えておく。


[274] せんた あきひこ 2005/09/01(木) 06:26 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも
 じゃあ扇田昭彦が観ていたらどうするのか?なんてことは言い
ませんが。
 おもしろいことはおもしろいのですよ。ただもっとおもしろくで
きたのではって、思っちゃうんですよ。

[275] 音庵 2005/09/01(木) 11:29 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも [劇団名] Team一汁
>274
おお、突っ込みが。ご指摘はごもっともです。多分、こういう論議
をするために多目的掲示板があるのですが(ゆえに削除されるかも
だけど)、ついでなので一言。
まず前半のことですが、今回の公演が成り立つ要因について考える
と、古典的なものや前衛的なアレンジなど舞台に触れる機会が多く
シビアな批評の目が多い中央であったらなかなか難しいであろうと
いうこと、地方(新潟)にも本間氏をはじめ目の肥えたお客さんも
いらっしゃるけれど、自分も含めて実際にこの芝居を生で見るのは
初めてとか題や設定・台詞に込められた意味などを十分前提として
捉えていないとかこれから開拓されていく娘のような客層が割合と
して多いと勝手ながら想像するので、こうした作品へのアプローチ
もありかなと思う、ということです。今ここでこれをやる意味、と
いうのは、その場所ごとに異なってくると思うのです。
もちろん、いつでも誰が見ていても(扇田さんがいても)通用する
芝居を打つことは目指すべきことです。どういう評が返ってくるか
はまた別のことで、芝居をやる側は常にそういう覚悟でやっている
ものと信じます。この点自分の書き方が不適切であったかと思いま
す。失礼しました。
後半に関連することでもありますが、しかし一番大事なのはその目
の前の客が見て面白いかどうかということであって、もちろんこれ
で十分だったということではなく、改善改良の余地はあったし、あ
ると思います。

[276] をと 2005/09/01(木) 15:57 [削除]
[公演名] あの大鴉、さえも  連/脈
新潟大学齋藤陽一研究室・芸能時評に
No.150 あの大鴉、さえも
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/largeglass.html
No.149 連/脈
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/ren-myaku.html
アップされています

[278] 本間 弘行 2005/09/03(土) 22:27 [削除]
[公演名] ニビイロノソラ [劇団名] 勇駒ビッキーズ
 脚本はいろいろ盛り込みすぎで、観る者を納得させるには不十
分なところがあり、結果として深みに欠けるが、大部分はしっかり
している。それは確かだ。ただ、大部分はしっかりしていても、た
とえばオオバやカミヤの台詞など、言っている方は気持ちがよいか
も知れないが、それを聴いている私は、まぁ、どうってことはない。
別に少しも、少なくとも男の登場人物たちからは、たとえば凄みの
ようなものは少しも感じられない。それも確かだ。
 今回の勇駒ビッキーズ第一回公演『ニビイロノソラ 鈍色の空』
は、戦場や工作員、劣化ウラン弾といった言葉が出てくるわりには、
登場人物たちの若々しさばかりが印象に残り、物足りなさが残った。
とくにオオバなど、受けた印象をらんぼうに言えば北条司のシティ
ハンターに出てくる冴羽のコミカルなところをニビイロノソラ風に
つなぎ合わせただけのようであり、たとえば哀しみや哀感といった
ようなものは台詞を私の方から積極的に、また好意的に読みとった
場合には感じられたが、そうしなくては感じられなかった。もちろ
んこれは極端で、それのようなうっすらとしたものはあったけれど。
 別に工作員だからといって人間くさくある必要も無いのかも知れ
ないが、であれば、私は人間だから、人間が表現されない芝居をお
もしろいと思ったり、そういう芝居に感動したりなどはしない。
 舞台や照明がよく作ってあるだけに、観ていて哀しくなるほどに、
残念な芝居であった。
 それと、これはどうでもよいことだが、正面を向いた相手が自分
の爪先から1メートルちょっとのところにいたなら、プロの工作員
であれば拳銃は構えないんじゃないか。カミヤがきちんと両腕を使
って拳銃を構えていたのには好感が持てたが。
(9月3日 午後7時 シアターent.)

[279] 遠野公崇 2005/09/04(日) 11:04 [削除]
[公演名] ニビイロノソラ [劇団名] 勇駒ビッキーズ
ひとことでいって退屈な芝居だった。
脚本はやりたいことがすべて中途半端というか、作者の力量不足に
よって頓挫させられているという印象。
台詞に魅力がなく、安っぽいテレビドラマや漫画で見るような紋切
り型の陳腐さが横溢している。
独創性がなく、また物語の運びもぎこちない。物語そのものの魅力
にも乏しい。
設定に凝っているのかもしれないが、意味のない晦渋さを生んでい
るだけで、さほどの効果も得られていず、どちらかといえば独善的
な設定倒れに堕している。
私がこの脚本を評価しない所以である。

演出には照明のおだやかな変化や、音楽のさりげない使用に、神経
のこまやかな美点を見出せた。
しかし銃器の扱いに関しては『???』が頻発。
さらに舞台装置にも不満で、この場合いっそのこと、ヴィーラント
様式を取り入れて舞台を極端に簡素化したほうがよかったように思
われるし、また役者の動きにも、どうしても狭い部屋の中でうごめ
いている印象がつきまとった。この舞台空間への意識の欠如は役者
にも見られた。
問題は、舞台全体に意識を配って演技をしている役者がひとりもい
なかった点である。

カミヤ(永井)はまだ、そうした努力が見られたが、彼女にしても
万全とは程遠かった。自分自身の演技に余裕がなくなると、すぐに
窮してしまうのである。これは彼女の悪癖であって、今後の改善が
望まれる。
彼女の美点は脚本にたいする深い理解と、奥行きのある感情を表現
できる演技にあるが(もっとも、その表現意欲に比して、表現力に
限界のあるところが瑕ではある)、今回の場合、役柄にあまり魅力が
なく、なにか女性工作員という記号を演じているだけに見える空疎
さが常に感じられた。ぜんたいとして、彼女のよい部分が発揮しに
くい作品であり役柄であった。しかしそれを克服するのが彼女の今
後の成長には必要でもある。

オオバ(小池)は魅力的な美声で、瞬発力のある演技を披露し、楽
しませてくれた。
しかしこの瞬発力が、多用されるにしたがってワンパターンに陥り
やすいのは今後の課題ではないだろうか。くわえて、会話での間の
取り方には、まだ工夫すべき点がある。相手が話しているあいだ、
次の台詞のことを考えている時間が多すぎるように感じられた(こ
れは私の印象に過ぎないが)。それでも、ときおり見せてくれた笑顔
は実に素晴らしく、また台詞まわしがもっとも優れていたのも事実
で、私としてはもっとよい台詞を彼の演技として聞いてみたくなっ
た。

ユキオ(平石)はいい役者だと思う。シルエットが美しい立ち姿を
持っている。
台詞にも緩急があってよいし、独特の品格のある演技で、役にたい
する安易なイメージを退けるだけのものがあった。彼が演じたおか
げでこの役が活きたといってもいいと思う。
不満なのは、感情の表現が巧みで、ときおりハッとさせられもする
が、それがどうにも『用意していた感情』である感がぬぐえない点
にある。ある意味では即興性の欠如ともいえ、またよくいえば周到
な芝居なのであるが、その周到さを感じさせないこともまた、次の
段階へのステップであると思える。
(注射のシーンはよかった)

付言すると、役者に疲労感があったように思われた。
もうすこしフレッシュな状態での演技が見たかったというのも、私
の本音である。
なんにせよ、みなさんお疲れ様でした。

[280] 中ニ 2005/09/05(月) 01:01 [削除]
[公演名] ニビイロノソラ [劇団名] 勇駒ビッキーズ
 個人的に、平石一仁の「シリアス的」な演技を久々に観に行く
つもりでいた。 彼の持ち味は即興的(に見える)演技であるが、
今回は演出の意図を丁寧に汲みとってやっている様に感じた。その、
平石始め、役者全体にもう少し適度な「野蛮さ」が欲しかった。チ
ーム一汁にも感じたことだが、やはり最近の所謂「新潟骨太作品」
は、生命力が弱い気がする。
 ではあるが、ニビイロノソラを観て「既成作品」と「オリジナル
作品」どちらが魅力的?と聞かれれば、「オリジナル作品だ」と言っ
てしまえるほどのオモシロサはあった。ナルシスト的な予定調和の
物語ではあったが、80分間退屈はしなかった。
 作劇は経験を積めば「ソツなく」なって行くもの(望むと望まな
いに関わらず、やればウマクなるのだろう)。同作家の前作を振りか
えって、観やすくなったのは確かだが、失ってしまった「ソツ」が
勿体無くてしょうがない。演出面でも同様。まだまだヤッチャッテ
欲しい。


[281] 音庵 2005/09/05(月) 12:24 [削除]
[公演名] ニビイロノソラ [劇団名] 勇駒ビッキーズ
自分も含めてなのだが、決して手放しで評価できず突込みどころ
が多いけれど何かコメントしたくなる、という意味では「見所のあ
る」芝居だったのかも知れない。レビューが多くて嬉しいです。
あんかー・わーくすの、演劇「制作」集団というスタンスは新潟で
は貴重で、有り難い存在だと思う。スタッフワークもこなれている
し、制作は配慮が行き届いている。しかしこの集団があえて演劇「創
造」「創作」集団として成り立っていないことは、ある意味示唆的だ。
今回は勇駒ビッキーズというユニットであるが、あんかー・わーく
すにとっても意味の大きい公演であったのではないか。
幕開きで平石一仁が座っている姿は様になっているが、台詞がいき
なり説明的なことに一抹の不安を覚えると、いきなり3人が入れ替
わり立ち代わり舞台に登場して、ポーズをキメながら台詞を速射砲
のようにカメラ(じゃない客席)目線で放つ。うわあ学生エンゲキ
みたい。で、そこからのストーリー展開も、芝居のつけ方も、大体
は予想通り。
台本について自分も触れざるを得ないのだが、要はリアリティの匙
加減が非常にビミョー。近未来あるいは微妙に現実とずれた並行世
界を描くのは手法としてよくあるし、そこに現代の社会情勢を投影
させている事もわかる。東の、党に支配された物資のない日本、西
の、物はあるが軍事的な日本、ここには朝鮮半島情勢の捩れた投影
があるだろうし、中間にある壁に囲まれた特区、周辺の統一朝鮮や
ロシアや中国なども含めてフィクショナルではあるが「現実味」の
ある設定。それはそれでいい。がこの設定というか発想がほぼすべ
てで、世界観を説明することで終始している。それをモノローグや
ダイアローグの台詞で言わせてしまう。台本から状況の説明台詞を
抜いたら、半分以上は消えてしまうのではないか。3人芝居で80
分なら、そういう状況におかれた人間の心理の綾をかなり濃密に織
り出せるはずだが、そういう方向に行かない。これなら小説で書け
ばよいではないか、芝居にする必然性がないではないか。せっかく
生身の人間が、しかもポテンシャルのある役者がいるのだから、3
人芝居ならではのアプローチがあったはず。描こうとしている世界
が大きいのに、実際には3人の「周囲3メートル」の世界になって
しまっている。だったらむしろそういうコンパクトな芝居を作るか、
あるいは今回の設定を前提にしても一切説明せず、淡々と展開して
いく方がリアル。状況や心情を語らない事で逆に浮かび上がるもの
があるはず。
エージェントである記号としてのオオバ(小池匡)・カミヤ(永井美
紀)のカーゴパンツや銃だが、四六時中それを見せていることは逆
に不自然。市井の中に潜伏するため演出された平凡さ、機関の一員
としての非人間的冷酷さ、その中に垣間見える個人の心情を描き分
けるべきところが、抑えるべき感情がまず前面に出てしまうので、
置かれている状況の深刻さが伝わらない。オオバとカミヤの間の感
情などは、それこそ「シュリ」などで描かれたものに相応するはず
だが、抑えている結果としての感情の強い噴出がない。永井は、あ
まり感情の伝わらない表現が結果としてよい方向に働いているよう
だが、鍛えられた非情な女エージェントというよりはかわいい女に
見える。小池がコミカルさと渋い声を生かしたかっこよさを使い分
けようとしているのはわかるが、サムズアップしてにやりとウイン
クなんて、たとえば「変身戦隊ゴメンバー」で見せたパロディとし
ての「かっちょよさ」としてでなければ、ストレートには通用しな
い。この両者はまず非情な機械としての姿を描いてこそその綻びが
ドラマになる訳で、そこが不十分なまま最後のカミヤの行動のみ非
情なので唐突な感じ。ユキオの平石は、状況に左右される情けない
感じがちょうどはまって、表現しやすかったのではないかと思うが、
例えばカミヤに対する感情を少し見せれば深みが増すし、オオバへ
の感情は兄への思いと重なるのだが、その描き込みももう少しあっ
ていい。
舞台美術は手が込んでいるが、舞台面の世界観を示す図は不要だし、
背後の幕には最初から仕掛けを期待してしまうが、結局ラストのバ
ックライトで使うのみ。それならもっと奥行きを生かした芝居も出
来たのではないか。…などなど、改善策を考えてしまうほど潜在的
魅力もあるのだな。次回はどうなりますか。


[282] をと 2005/09/06(火) 14:09 [削除]
[公演名] 三銃士は眠らない  ニビイロノソラ
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評
No.151 三銃士はねむらない
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/troismousquetaire.html

No.152 ニビイロノソラ
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/darkgray.html

アップされています。この1週間、特に精力的な執筆に敬礼。

[284] 本間 弘行 2005/09/09(金) 07:25 [削除]
[公演名] りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズ 「冬物
語」
 能楽堂の、特に開演前の質感あるいは触感のある生き物のよう
な沈黙が好きで、それが効果的だったと思うのがたとえばこの前の
「連/脈」(ナシモト タオ演出)での堀川久子が橋がかりにあらわ
れて最初に立ち止まるまでだけれど、今回は沈黙のあと、何よりも
先にスピーカーから風の音が流れはじめて、最初から失望を感じな
いでもなかった。
 今回の栗田芳宏の能楽堂シェイクスピアシリーズ、実はこれまで
音楽を担当した宮川彬良が参加していないことで、どうなるかと思
っていたのだけれど、その結果がたとえば音ではまさに効果音でし
かない風の音や、聞き慣れたチャイコフスキーであり、同じチャイ
コフスキーでもク・ナウカが「エレクトラ」でおこなった使い方と
比べることができるなら遙かに安易である。これはこれで多分いわ
ゆる通常の劇場であればそれほど苦にはならなかっただろうが、能
楽堂ではやはり他でもよいと思わせる音であり、また他にもあると
思わせる使い方だ。
 そして演出も、とくに読みかえといったことはおこなわず、その
ままシェイクスピアはシェイクスピアだと言わんばかりに台詞を役
者に怒鳴らせて落ち着きがなく、そのためか神託を聴いてからのシ
チリア王の変化がもう一つ単調であるし、休憩後の親子の再会の場
面など、銅像が動くことなどあいまいにされてしまって、これもも
う一つ盛り上がらない。また言霊の演出も、たとえば昨年のマクベ
スの魔女に比べればはるかに平凡であり、悪く言ってしまえばお習
い事の発表会のようである。ただ先の神託を聴くところ、五色の揚
げ幕があがって笛座(?)かな、そこに何かが来るまでの雰囲気は
なかなか怪談じみていて、これは印象に残った。それに目付柱を外
したところなど、能楽堂で公演を続けてきたことのひとつの成果で
あろう。
 演技では、やはり羊飼いを演じる栗田芳宏が印象に残った。感情
の型をなぞるというか、ある形式を表現しているだけのようにも感
じるのだけれど、これはこれで、安定していて安心して観ることが
できる演技であり、演劇における演技のひとつのタイプであり、私
は実は、終演後の挨拶にこそ出ては来なかったが、今回の公演、こ
れは栗田芳宏一座によるシェイクスピアだと思うのである。もっと
極端に言ってしまえば、これは西洋風味の情話、ある日本の家族の
話。
 他に役者では、谷田歩や中井出健などは、私はどうしても、蜷川
幸雄のハムレットに出た時の渡辺謙はすっきりしていたななどと思
ってしまって、どうしようもないのだけれど、比較的演じやすい役
なのかも知れないが、それでも山賀晴代が印象に残った。ただ、山
賀晴代もまだ若いと言ってしまえばそれまでで、できれば正面を向
いたときなどもう少し迫力が出るようになって欲しいが、それはそ
れこそ神にまかせて、ぜひ役者に必要なのは、特にシェイクスピア
を演じる俳優に必要なのは狂気だなどと思わないで欲しい。
 それは結局、錯誤ではないのか?
(9月8日 午後7時  りゅーとぴあ 能楽堂)


[285] 音庵 2005/09/09(金) 13:17 [削除]
[公演名] りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズ「冬物語」
シェイクスピアシリーズ前2作のようなメジャー作品ではなく、
沙翁晩年の、話としてもいささか凡庸な、ギリシア悲劇や自作品の
要素をあれこれ散りばめて、通俗的(昼メロのよう)で話に突込み
どころ(破綻)がいくつもあるような、言ってしまえばご都合主義
的で現代の作家が書いたらバッシング必至(だよね)の筋書きの、
そんな「冬物語」。それが、自分にとっては期待以上で、これまでの
3作で一番楽しめた。原作の味を生かしながら、シンプルな形での
テキストレジュームが上手くいっていたのではないか。最も比較す
る指標をあまり持たぬので、Ignorance is bliss,であるのかも知れ
ないが。
能楽堂でやることについて、ただ芝居を上演するということではな
く、この場にそぐう、あるいは場の力に拮抗するだけの枠組みが必
要であるという栗田芳宏の直感は恐らく正しいが能・狂言などの形
のみなぞったり真似たりすることでは得られない。この場で数百年
間練り上げられ定まってきた空間処理のノウハウを取り入れつつ、
現代人の劇的表現として成り立つものとして新たな創造をしていく
ことが求められている。そのアプローチの、ある形式を栗田氏は見
出しつつあり、そしてそれは定着させるべきものではなく一回一回
更新されていくものであるはずだ。もし固まってしまったら、この
シリーズの魅力は早晩消えていくだろう。
音については、宮川彬良の生音がないという点だが、自分はむしろ
なくてよかったと思う。コロスとしての言霊が呟き囁く細い声、例
えば後半の「かごめかごめ」。レオンティーズ谷田歩が詠ずる般若心
経の低音。人間の声の音響的美しさが印象的で、むしろこれだけで
十分、とさえ感じる。音響がSE,音楽とも入るのだが、いれるなら
生音にはかなわない。少々雑音もあって残念。
制限のある空間を、正面・脇正面とも意識しながら様式的に美しく
構成するための計算された配置と動きは流石。また例えば一枚の白
布が、目隠しとして、また幕として壁として波として、早代わりの
場として、そしてハーマイオニの衣、パーディタの衣として、自在
に使い分けられる。そしてコロスである言霊たちとマミリアス(と
その霊)そして同じ横山道子演じるパーディタの兄妹が捧げもつ発
光球体。こうした抽象表現は綺麗すぎるというきらいさえあるがこ
れが能楽堂シリーズの魅力と言える。
今回は、それに加えて非常に演劇的な印象を受けた。それは役者、
特に男優陣の、抽象的な枠の中での具象的な芝居である。熱すぎる
くらいの谷田の演技は、しかし愛するゆえの狂気に走る男の姿とし
て説得力がある。ポリクシニーズの中井出健は、見せ場の少ない役
柄ながらその人となりをよく表現しており、ハーマイオニとの仲良
しぶりは夫もそりゃやだよな、と思わせる。荒井和真の軽妙ながら
ツボを心得た芝居はカミローの人柄を浮かび上がらせる。そして弱
腰の忠臣アンティゴナスと、野卑な羊飼いを演じ分ける栗田芳宏。
役者としての魅力を改めて感じさせる。彼らの芝居には、確かに演
劇的なコミカルさのくすぐりがあって、劇場演劇としては何という
ことはないが能楽堂シリーズなので最初笑っていいのかとまどうの
だが、やたらと面白いというか新鮮だった。
女優陣は言霊を含め凛としており、ハーマイオニの激情が吐露され
る裁きの場などもあるのだが、全体に静謐で様式化された印象。そ
の意味で男性たちと対照的。山賀晴代、横山道子、田島真弓、横山
愛ら、台詞の通りがよく、シズル音も鼻につかず美しい。
レオンティーズとポリクシニーズ、そしてレオンティーズとカミロ
ー、終盤での男同士の抱擁に、思わず胸を熱くしたのは久しぶりだ。
ここでは、アンティゴナスの手紙による解き明かしからの場を、一
時的に台詞なしでくどくど説明せずすっきり見せたことが効果的だ
った。余計な饒舌はこの際いらない。という意味では沙翁的ではな
い部分であり、日本的情緒・浪花節的民族性が刺激されるのかも知
れない。
子どもの語る寓話としての形をとることで、最初と最後は円環を成
す。単なるハッピーエンドではなくむしろこれは何度も繰り返され
るであろう人間の愚かしさであることが感じられる。
あれ、結構誉めちゃったかなあ。不満もあるんだけど。

[286] 受験生 2005/09/11(日) 22:18 [削除]
[公演名] 冬物語
今日の冬物語千秋楽、チケット予約したのに用事ができて観に行
けませんでした
もともと行けるか分からない状況の中で、3日前にチケットを取る
ことができたのですが‥。栗田さんの作品や役者さんがとても好き
ですごく楽しみにしていたのです‥。皆さんの投稿を見ながら、今
日の公演を待っていたので今かなりの打撃です……………


観に行った方、どんな些細な所でも印象に残った所でも役者につい
てでもなんでもいいので、沢山教えてください!お願いします!

‥これはこの掲示板に書いても大丈夫でしょうか?
どうかよろしくお願いします


再演してほしいです(泣)

[289] 本間 弘行 2005/09/19(月) 11:25 [削除]
[公演名] 「二宮家の季節 九月の空」
 堀川久子の舞踏は、たとえれば“私が感じているものを私のよ
うに感じて”“私が見ているものを私のように見て”といったもので
あり、“感じている私を見て”“あるものを見ている私を見て”とい
ったものではない。もちろんそのままでは堀川という“私”が残っ
てしまって、観客は堀川ではないから“私が感じているものを私の
ように感じて”の“私”を消し去るというか、どのようにうやむや
なものにしてしまえるかに堀川の舞踏の醍醐味があると思うのだが、
これはつまり踊る自分に同化させる方向で、観客を自他の未分化な
ものに変容させようとするのが私にとっての堀川の踊りであると言
いかえてもよい。
 そういう堀川の踊りの特徴は情熱というよりは冷静さであり、そ
れはときに“堀川”というものの処理が弱いと、演出という言葉で
表現できるようなものであらわれてしまって観ている私をはっきり
と“私”に引き戻してしまうし、今回の「二宮家の季節 九月の空」
でも、始まってから米蔵に入るまでが何か意図的に思えて、そこに
私は堀川というダンサーが抱える問題点あるいは現時点での限界の
ようなものがあるとどうしても感じてしまう。堀川久子の舞踏その
ものは、全体的には今年になって、特にこの夏ぐらいからかなりは
っきりと変わってきていると思うけれど。
 ・・・少し戻って、今のところ即興演奏をする音楽家達の中で踊
っているときに堀川のよさがいちばんはっきりとあらわれると思う
けれど、これも音楽家達が多ければ多いほど観客は音楽と同化する
方向に傾くから彼女の舞踏のよさがなかなか見えてこないという問
題が起こる。これはもちろん音楽の中に堀川が埋没するということ
ではなくて、観客を自他の未分化なものに変容させようとする堀川
自身が結果として観客にとっては音楽になってしまうということで
あり、踊る身体という視覚的なものが犠牲になってしまうためとい
うことだ。
 だから堀川の場合、彼女の舞踏に重要な役割を果たすのが言うま
でもなく踊りがおこなわれる場であって、今回の公演では、踊りは
明治時代からある米蔵を中心に、音楽家はトリスタン・ホンジンガ
ーと絵屋楽団とだけでおこなわれて、サービス精神といってもいい
ようなものもやや過剰にあり、また“堀川”というものののうやむ
やのされ方が弱い部分もあって、いろいろと問題がないわけではな
かったが、とくに米蔵の中での部分は、ところどころ何かその土地
に蓄積されたたくさんの人の体験した時間あるいはカオスが出現し
たような、堀川にしろトリスタン・ホンジンガーにしろ照明の伊藤
裕一にしろ、そういう異界への誘い人としての集中力の凄味の出た、
一つの奇跡であった。
 いったい、まるで言葉で表現できるかのような個性を堀川の踊り
に求めたなら、それはやや強さに欠けるものであったということが
可能だが、はたしてカオスというものは言葉にできるだろうか。堀
川のような踊りというよりは身体の動きも、他の人々と共に、この
世界にはあるのだ。
(9月18日 午後6時 二宮家 門前米蔵)


[291] 音庵 2005/09/20(火) 15:48 [削除]
[公演名] ラーメンズプレゼンツ・GOLDEN BALLS LIVE
つい1ページに書き始めてしまったが、実際はそんなに書く事が
ないんだなあこれが。でもネタバレ。

コント集、でありながら全体にそこはかとない関連性があるのはラ
ーメンズのライブと同様。で、KKP(小林賢太郎プロデュース)ほ
どは芝居っぽくない。多少欲求不満なところはあるが、基本的な水
準が高く、また一回性の危うさと強みがよく出た公演だった。
ラーメンズプレゼンツ、ってことで、小林のネタはもちろん、舞台
美術はいつものシンプルさとは逆に片桐仁カラー全開。ネタは2人
でやる時とそう変わらず、特にオープニングとエンディングの5人
集合ネタ(擬音祭)はラーメンズらしさが強い。しかし2人ではで
きないネタができるのがこうした公演の強みで、KKP常連の西田征
史、映像のみだが室岡、音声のみだが犬飼など嬉しい出演者に、元
サモ・アリナンズ久ケ沢徹、「親族代表」ほかの野間口徹と、それぞ
れ独特のキャラを持ちながらツボをはずさない達者な面々が繰り広
げるオトコの世界。タイトルから予測されるほどの下ネタはなかっ
たように思うが、それでもそっち系のくすぐりもあり、若い客層が
はじけていた。
どうやら本人たちにしかわからないすべりやミスもあったようだが
(「いいのに団」とか)、期せずしてそのやっている側の反応がかえ
って面白さを生んだりもしていた。まあライブならではか。長岡に
続いての新潟で、客も飢えているためかやたら反応がよく、おいお
いちょっと甘くないか、とは思うのだが、こういう反応がまた舞台に
もフィードバックされ増殖するのだ。
カーテンコールも繰り返され、アンケートから「言って欲しい台詞」
大会が盛り上がる。そして千秋楽ゆえに使用されたGOLDENBALL
やチャンスやピンチや(内輪ネタで失礼)もろもろが客席に投じら
れる。大サービス、だった。
で、集団だからこそだろうが、中心である小林・片桐がラーメンズ
公演に比べれば肩の力を抜いていて、それはそれでいい味であった
ように思う。その分鋭さや深さでは劣るが。あくまでも余技、そし
て祭り、かな。小林の個人技(姉さん、バイト君、貞子など)がは
じけ気味だったのも、ゆとりがあればこそかもしれない。
ジンティラーヨーガの音(PPMの田中知之が全編を担当)と映像の
コラボなど、無駄に力の入ったばかばかしさがよい。
個人的にはラスト前の「ちょっといいか」がいかにも王道で、笑え
た。そして「就職浪人」は、展開の意外さ、作りの巧みさが印象的。
お笑いとも芝居ともカテゴライズできないし、逆にどちらにもでき
るのかもしれないが、こういう笑いが新潟でもっと見られるといい
なー。ねえ?

[293] 本間 弘行 2005/09/26(月) 10:01 [削除]
[公演名] ここに聴こえるものたちと
 ちょうど一週間前に公演(「二宮家の季節 九月の空」)がおこ
なわれた二宮家の米蔵が、何か堀川のアニミズムに適した場であっ
たとするなら、今回の砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)は、け
っしてそのような場ではなかった。なんというか、砂丘館は現在も
そこで暮らせるかのようなのに、けっして現代に生きる人の、毎日
の生活の場としてはイメージできない。それは確かに二宮家の米蔵
も同じなのだけれど、二宮家が、その建物が、その建物がある空間
が、どうしたってそこに集まる人々の社会的な違いを乗りこえてく
るものを持っていたのに対し、砂丘館は、やはりある特定の人々が
かつて生きた場でしかなく、たとえば今もそこにある、最初の、堀
川が玄関を出て、振り返って建物を見上げるまでがよかった今回の
公演「ここに聴こえるものたちと」の主な踊りの場となった小さな
庭は、やはりある特定の人々の記憶だけが残されているような場、
遺産であって、今そこに観客として生きている人間を溶け込ませる
には、力のない、スケールの小さな空間であったと思わざるを得な
い。
 ややサービス精神と呼べるものが過剰な堀川の踊りの特徴は、意
識的に展開されるアニミズムであり、だから、堀川の身体が堀川の
意識よりも優位に立ったときにその頂点が来て、それが成功したの
が、最近ではこの前の二宮家だと思うのだけれど、今回はどうして、
少し迷宮のような建物の中に戻ることがなかったのだろう。結局庭
にあるモニュメントのような坂爪勝幸の作品と共演するかのような
動きも、いやあれは共演と呼べるようなものではなくて、ただ動い
ているだけのものとはっきりとそこに実体を伴ってあるものとの差
が浮き立つ、少し惨めなものであったし、庭の木々の中を動いて、
ときに声をあげるのも、別にどうということもない、退屈なもので
あった(ところで堀川に勝ったといえる坂爪勝幸の作品は、触れて
みたり、ひっくり返してみたり、またその上に乗っかってみたり、
腰を下ろしてみたり、足で踏んづけてみたりした方がよい作品だ)。
 一週間前と、今回との踊りの質の不安定さは、堀川のアニミズム
が今回は凡庸な方向に流れたからだと思うけれど、たとえばあの建
物の中を中心に公演がおこなわれていたらと、私はどうしても思わ
ざるを得ない。室内では踊りを観ることができない人々が出てしま
うことを、堀川は受け入れることができないのだろうが、であれば、
今のところあそこは会場に選ぶべきではなかったのではないか? 
 
 他、体温を感じさせるというよりは少し霊的な音を出す、パーカ
ッションの本間美恵子が印象に残った。これもまだ音に“どう響か
せればよいのだろう”と演奏家自身が悩んでいるような、そういう
人間くさい迷いのようなものが伴うときがあるけれど、7月のこれ
も堀川と共演した「真夏の夜の夢」のときよりも明らかによく、仮
に今回の音が即興によるものであるなら、即興演奏家としてこれか
らますます成長していくだろう。
 (9月25日 午後5時30分頃 砂丘館) 



[295] 音庵 2005/10/02(日) 02:30 [削除]
[公演名] 機械 〜鏡面仕上げ〜 [劇団名] 新潟大学齋藤研究室
公演
新大人文学部齋藤研究室公演、ということで、講義(授業)の一
環として行われたということのようだが、ent.というしっかりした
小屋を使って、しかも有料(500円)公演だけに、入ってみれば予
想以上にちゃんとした舞台ができていた。ある意味緞帳代わりでも
ある幕に映写(そのため客席中央でオペ)、幕の後ろでの声の演技か
ら始まり、スタッフが幕を脇へ寄せていくのはご愛嬌。
ネタばれを含むが、設定は地下世界ということで、パネルに茶の岩
面加工、両脇にはオブジェ状の石柱がそれぞれ入口らしきものを成
し、上手奥に地上への登り道がある。閉塞感を出すには6尺のタッ
パでは少し寸足らずで、上から同色の布でも垂らしておけば洞穴っ
ぽいかなとも思うし、いっそent.の内装にあわせて黒系で作ればこ
の空間のアンダグラウンド的な雰囲気を利用できたとも思うが、ペ
ンキのてかりがぬめっとした岩らしくてよかった。台車の車輪に比
べて木材がちょっと足りないか。中央部には廃材を掻き集めたと思
しき「機械」。仕掛けがいろいろあって、部分的に動いたりするし、
カーステやらキーボード基盤やらくっついたチープな感じが、昔の
学生演劇(新大劇研など)を髣髴とさせ懐かしい感触。ただ、昔と
違うのは「熱さ」、温度の違いである。
若手?注目株のペンギンプルペイルパイルズ、倉持裕の戯曲、生で
見たことがなかったので(ご覧になった方々にぜひレビューを願い
たい)、興味を持って見た。2年がかりで「機械」を作り、上に持っ
て行って審査に出し報奨を得ようとする男・八巻、消えたBFタク
ミを探して地下へやってきて八巻のもとに留まって助手をしている
女・椿。台車が壊れて立ち往生している2人の前に現れる女・虹子
は夫と映画に行く予定だったが身支度に手間取って夫に先に行かれ
てしまう。そこへ夫妻の知り合いらしい男・益子が出てくる。彼は
5年前に同様の「機械」を審査に出し、結果を待ち続けている。
地上と地下に世界がそれぞれあるシュールな設定、そこには貧富の
差が存在し、「希望」の種類が異なるのだという。「機械」を作る者
はみな地上に出たがっているという益子の言葉通り八巻もタクミも
益子自身もその傾向を持つ。そして夫といつも実現せぬ地上行きの
予定を立ててはつぶしてしまう虹子もまたそうなのだ。この地下と
地上の関係に、プラトンの言う「イデア界への憧れ」を想起させら
れる。
結果として、4人それぞれにある決着を見るのだが、地下に留まる
ことを決めた八巻、八巻と生きることを決めた椿、夫と再会する虹
子など、ハッピーエンドのようでありながら実は根源の問題は宙ぶ
らりのまま投げ出され、なんとも不安定な、圧倒的カタルシスを迎
えないラストとなっている。これは戯曲そのものの世界観であり、
不条理で謎の多い、しかし一応着地してみせるこの作劇は、同じ不
条理劇でも一昔前のものとは感覚が違う。先に、「熱さ」について触
れた。役者の個性かもしれないが、いくら叫んでも彼らはどうもク
ールなのだ。感情表現の貧しさという見方もあろうが、これが2000
年代のリアルなのであり台本の世界観と通じるのだと捕らえるのは
うがちすぎた見方だろうか。盛り上がりに欠けるという点には、こ
うした背景もある。ただ全体に、初日のためか台本をきちんと演じ
ることに意識が行っているようで、大きなミスはないが役への入り
込み方が浅かったように思う。笑いに関して言えば、これは不条理
な「コメディア」としての「喜劇」であって、ナンセンスでもない
しギャグでもない。笑わせようと何かネタをふったり、おかしな言
動を無理にやるのではなくて、真剣にその役柄の中に生きることで
醸し出されて来るおかしさが表現されるべきであろう。実際我々の
生きる葛藤が真剣であればあるほどどこか滑稽なように。未見であ
るが、もしPPPPの芝居で笑いが大きく起こっているとすれば、そ
れは役者のキャラクターによるのであってとってつけたギャグによ
るのではないはず。今回、例えば八巻の渡邊博史は、その長い腕の
仕草をはじめ恐らく意識されていないなよっぽさ、カマっぽさが巧
まぬキャラとして面白く、そこをもっと強調してもよいと思う。そ
れが椿に思いを寄せられる転倒した面白さともなる。益子の本田元
治は、その謎めいたクールな佇まいが等身大でうまく投影されてい
て、これまた自然に立ってるだけで面白い。後半の、虹子に感情を
ぶつける辺りからはもっと激しくほとばしっていいのに、と思う自
分はオールドタイマーなのかな。どうやら演出者はもっともっとで
きると思っているようだから、楽日は開き直って化けてみるか?


[296] ケムマキ 2005/10/02(日) 22:21 [削除]
[公演名] 機械 〜鏡面仕上げ〜 [劇団名] 新潟大学齋藤研究
室公演
呼ばれたみたいに出てきた〜♪
というわけで、音庵さんの書き込みに釣られて出てまいりました。
ペンギンプルペイルパイルズの〜メッキ仕上げ〜の方を名まで見て
きたものです。このレビューを書き込むにあたって、過去の自分の
感想めいた物を読み返してみたのですが、もう、全然参考になって
ないのね。ははっ。今度からきちんと感想残しておこうっと(=_=;)
あまり役に立たない感想ですけど、よろしければコチラで→
http://app.blog.livedoor.jp/genpagiga/tb.cgi/14972346
で、今回の新潟大学齋藤研究室公演に話を戻して。
セットはとても丁寧に作られていて、つってある電球とかとてもうまく
その場の雰囲気をかもし出している。
目に見える部分はダメなところが分かりやすいから、修正し易いし、
何処まで追及すれば平均点以上は取れるかってことはわかる。
難しいのは目に見えない部分。役の心裏とか、複雑なものだから納
得いく仕上がりになっているかどうかすら、怪しくなってくる。「こ
れでいい」と判断するのは結局演出になるから、演出の存在って大
変ね.何処まで見せたいのか、客にどうイメージを与えられたら成
功なのか。作り手の中にはある種の目標のような指針のようなもの
は必要だろう。
この芝居のキーポイントは「切実さ」なのではないかと思う.
この芝居に限ったことではないが,私が近頃注目しているのは役者
の「切実さ」であったりする。台本に書かれた“その”行動に移る
為に使う役者の切実さが本当に役者そのものが感じる切実さである
時、本物に見える。
またしても、話が逸れた?かな。
この「機械」という台本に書かれた人の切実さは、台本通りによめ
ば、今回entで公演を打った学生さん達には到底分からないことか
もしれない。私だって、おそらくわからない。地下・貧困・機械・
絶望・・・体験したことのない未知の世界だ。じゃぁどうやって、
やるか。単純に置き換えてみてはどうだろう?ご飯を食べたい切実
さ。彼氏に会いたい切実さ。朝起きれない切実さ。台本に書かれた
切実さと天秤に掛けたりしてはいけない。その人が感じる切実さは
その人にしか分からない。今日の授業出ないと単位が足りなくるの
は分かっているのに、髪の毛が決まらない。人に死ぬほど会いたく
ない.この“死ぬほど“はこの人にとっては、本当に”死ぬほど“な
のかもしれない。同じく”切実“な気持になれるかどうか。
もし、大学生の彼らがやった「機械」がペンギンプルペイルパイルズのやっ
た「機械」よりもずいぶん軽いタッチになったとしても、事実切実
であったとすれば、その世界に生きていることにウソはなくなるわ
けだし。その方が彼らやった価値が十分あって、見ていたこっちも
ラッキーって感じになったんだけど。新大生の彼が八巻をやるとカ
マっぽくなるなら、そのカマっぽい八巻をすきな椿だってペンギンプ
ルペイルパイルズの人がやった椿とは全く違う個性になるだろうし。
音庵さんが言われたとおり、笑わせようとする意図的なギャグは最
初の映写以外(新大生がやったのとは少し異なりますけど)なかっ
たですよ。私が思うにですけど。「生きる葛藤が真剣であればあるほ
ど滑稽」といわれたとおり、そういうタイプの滑稽さでした.
上手くまとまりませんが、ご勘弁(゚∀゚)>

[297] ヨハン 2005/10/03(月) 01:06 [削除]
[公演名] 機械〜鏡面仕上げ〜 [劇団名] 新潟大学斎藤研究室
実は初めて行きましたent.というくらいなのであまり大きい事は
言えないんですが、素直な感想を書きたい…戯曲について…一番の
不満は結末の緩さ。ここで終わったのか?!これで終わってしまうの
かー?!という後味の悪さすら感じさせてくれない、すごくしりきれ
トンボ的結末だったこと。圧倒的カタルシスのなさとはこのことか
って思いました。後は、冒頭のシーンが長すぎる気がします。彼ら
が(八巻と椿)がどの状況に置かれているか理解するのに、かなりか
かった。私の理解力のなさ?かどうかは別にしても、なんか戯曲引
き込まれる感じがなかった。希望の種類についても、今ひとつ前面
に押し出されていなくて、結局何が言いたかったの?という感じで
す。役者について…一人一人のキャラ設定は凄く見えた。というか
素なのかなとも思いましたが。キャラクターという意味では四人と
も良く見えたのだけれども、彼ら自身が抱える背景、想いみたいな
ものがあまり感じられなかった。八巻は、地上に行きたいのか?行
きたくないのか?という迷いとかが見えなかったし、椿のたくみに
対する思いが全くわからなくて、最後たくみから通信があったとこ
ろもたくみに対する思いが分からない分中途半端だった。虹子に関
して

[298] ヨハン 2005/10/03(月) 03:41 [削除]
[公演名] 機械〜鏡面仕上げ〜 [劇団名] 新潟大学斎藤研究室
続き

虹子に関しては夫に対する気持ちと地上での生活に対する気持ちが
あまり伝わってこなくて、ただの夫婦喧嘩?に見えてしまった。そ
んな中、益子は地上へのあこがれとあきらめの揺れが見えてきて、
唯一気持ちと演技がリンクしている印象を受けた。ただやはり気に
なったのが、四人とも姿勢の悪さ(地下だからか?)や、立ってる時
に無駄に動くので落ち着かないこと。そしてなんとなく落ち着かな
いままに終わってしまったのが残念。

[299] 本間 弘行 2005/10/03(月) 08:26 [削除]
[公演名] 機械〜鏡面仕上げ〜
 斎藤陽一氏の影響はどうしたってあると思います。ただ、それ
は当然のことだし、舞台も、益子が整理番号が書かれた紙(だった
かな?)をさがしにさらに下へと潜って行ってしまった後の舞台の
雰囲気、虹子が益子に呼びかけているところなど、わりとおもしろ
かったですね。なんだか本当に、舞台の下にさらにまた舞台がある
ような。地の底の世界があるような。
 (10月2日 午後2時 シアターent.

[301] 本間 弘行 2005/10/08(土) 08:17 [削除]
[公演名] 「競演・楽屋」Bバージョン
 単純に「楽屋」は、幽霊が見えるようになったのは頭を殴られ
て死んでしまったからだということをもっとはっきりさせた方がお
もしろいのではないかと思うこともあって、だから、私の好みとし
ては、高野多希が幽霊が見えるようになるあたり、頭を殴られてし
まうあたりの雰囲気にもう一つ人間というよりは女優の業だとか、
狂気だとか、死だとか、そういったものを漂わせて欲しかった。そ
の意味では、高野多希の頭を殴るまでの山崎真波も、あともう一つ、
それは薄いと思うのだが、壁を突き抜けることを期待している。
 高橋景子は何か新しい面、というよりは、今までみせてこなかっ
た面を表現するようになってきたと感じて、それは演出の荒井和真
が成し遂げた成果でもあるが、ただ、今のところそれは私にはまだ
ささやかな試みの段階に思えて、それであればもう少し雰囲気に静
けさのようなものがあっても構わなかったのではないかと思った。
今のところは、まだもっと変容させる余地が残っているだろう。
 舞台は、4人のアンサンブルがもう一つ調和していないように感
じられたが、初日であり、これも公演が進めばよくなるだろう。ま
た照明(長麻佐美)と舞台美術(駒野直)も印象に残った。
 特に美術は、構造上問題がないとは言えない(但し、死角がある
ということではない)シアター西堀DOMOをよく活かしている。
(10月7日 午後8時15分 シアター西堀DOMO)


[302] わさび 2005/10/08(土) 11:27 [削除]
[公演名] 「競演・楽屋」Bバージョン
本間さん、下の感想ネタバレぽ!
まだの方は観てからにしたほうがよいです。

[303] 本間 弘行 2005/10/10(月) 10:21 [削除]
[公演名] アオバガングテン元禄318パッケージ『1/47(よん
じゅうななぶんのいち)』 [劇団名] 青葉玩具店
 新潟の観客へのサービスも劇中にあったような青葉玩具店の舞
台は、劇の後半、“覚悟”と役者が書いた頃からおもしろくなるが、
それと同時に暗転も多めとなり、それがこの劇の印象というか、統
一感を弱めている。暗転をして、どんどん登場人物の舞台での位置
を変えて、その位置が変わる過程は暗闇の中で、だから芝居から動
きが消えて、それはつまり、この劇の台本の弱点でもあると思う。
 またあの長さの刀をまさに傘のように扱うことなどは、劇の冒頭
であの名曲をあれだけの迫力で流したのなら、もう少し丁寧に処理
して欲しかった。最後の方で、抜いてみたら刃が短かったという場
面があるが、そのことで、あそこにあった刀の全部が、実は刀身が
短かったということにはならないだろう。時代考証等に力を入れな
ければならない舞台ではないことはわかるが、だからといって、粗
末に扱ってよいことではあるまい。
 また開演までの演出も私にはやや冗長であり、どうせなら、舞台
に人を出して、あるいは登場人物、たとえば根木ふみのりにディス
クジョッキーをやってもらっても面白かったのではないかと思う。
 他、坂下竜尾が印象に残った。
 とにかく、大きなテーマ(と私には感じられた)を扱っている芝
居ではある。それが今のところはいわゆる青春ドラマであり、それ
ならそれでおもしろいところもあったし、笑えるところもあったし、
それでいいのだけれど、青春ドラマであればなぜ元禄だとか、赤穂
浪士である必要があるのか、そんなことも思ってしまうのである。
死を絡めれば生が浮き立つのは当然のことで、今のところは、ほん
の少しだけれど、その浮き上がらせるやり方に、安易さも感じるの
だ。
(10月9日 午後2時 シアターent.)

[304] 音庵 2005/10/10(月) 23:34 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」B Side [劇団名] 劇団第二黎明期プロデ
ュース公演
個人的にショックな出来事(「砂場」閉店のお知らせ)もあって遅
くなってしまった。
初日から連日満席らしい今回の公演は、A/B合わせて新潟の演劇
状況のある意味スタンダード的で、その精華として花開いている才
能をよく示していると思う。そしてまた現状での限界、壁のような
ものも。以下含ネタバレ。
B Sideの荒井演出は、真摯にストレートに戯曲に取り組んだ感が
ある。狭いDOMOの階段を生かしたドレッサー、エチレン板のパネ
ル・ドアなど楽屋をちゃんと作ってみせた。また2人の女優(霊)に
は指定を踏まえて「傷」の記号、そして裸足という設定を与えるな
ど丁寧だ。ツリーチャイムの音、キャンドルの炎。静謐な切なさの
残る、印象としては「青」の舞台。
山崎真波の「女優」は、「ああ見えて40」という台詞が何とか見え
なくもない、大女優というよりは必死に役にしがみついてようやく
名が売れてきた中堅どころという感じで、原作とはまた別種の趣が
ある。強さに欠けるが、その弱さに感じるものもある。
戦前の「永遠のプロンプター」女優・高橋景子は、戯曲と役柄につ
いての読み込み・考察がどれほど深いか想像を絶する。古(△今)
東西の様々な戯曲の台詞を諳んじながらも決して上手くあってはな
らない、老いたる女優のペーソス。女優たちの会話を聞きながら浮
かべる笑み(ここで笑顔ということに到達する人はそういない)に
込められた幾重にも折り重なる感情。
戦後の「プロンプター」女優・岡田光恵は、10代には荷の重い役を、
りゅーとぴあ仕込みっぽい?流暢な台詞回しでチェーホフを吟じ、
FULLMOONでも垣間見えた豊かな表情で魅せる。男のために死ぬ
という女の業を演じるにはまだ若いか。
高野多希は台詞など決して上手くはない。その舌足らずの言葉、こ
ぼれんばかりに見開かれた目は、女優に役を返せとすがる精神を病
んだ若手女優を、悪意もなくただひたすら役を欲する姿で、結果的
に実にリアルに現出させている。
最初意外な配役だったが、よく考えればこのメンバーではこれが最
適かもしれない。個々に力の差があるのは百も承知の上での公演だ
が、やはり各々が見ていること感じていることが違う、ということ
を見ていて思う。しかし、それは我々の現実もしかり、であろう。
で、こうした役者の質の混在が新潟の現状である。そして、こうい
う機会を重ねることで若い役者は磨かれていくものであるとも思う。


[304] 音庵 2005/10/10(月) 23:34 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」B Side [劇団名] 劇団第二黎明期プロデ
ュース公演
個人的にショックな出来事(「砂場」閉店のお知らせ)もあって遅
くなってしまった。
初日から連日満席らしい今回の公演は、A/B合わせて新潟の演劇
状況のある意味スタンダード的で、その精華として花開いている才
能をよく示していると思う。そしてまた現状での限界、壁のような
ものも。以下含ネタバレ。
B Sideの荒井演出は、真摯にストレートに戯曲に取り組んだ感が
ある。狭いDOMOの階段を生かしたドレッサー、エチレン板のパネ
ル・ドアなど楽屋をちゃんと作ってみせた。また2人の女優(霊)に
は指定を踏まえて「傷」の記号、そして裸足という設定を与えるな
ど丁寧だ。ツリーチャイムの音、キャンドルの炎。静謐な切なさの
残る、印象としては「青」の舞台。
山崎真波の「女優」は、「ああ見えて40」という台詞が何とか見え
なくもない、大女優というよりは必死に役にしがみついてようやく
名が売れてきた中堅どころという感じで、原作とはまた別種の趣が
ある。強さに欠けるが、その弱さに感じるものもある。
戦前の「永遠のプロンプター」女優・高橋景子は、戯曲と役柄につ
いての読み込み・考察がどれほど深いか想像を絶する。古(△今)
東西の様々な戯曲の台詞を諳んじながらも決して上手くあってはな
らない、老いたる女優のペーソス。女優たちの会話を聞きながら浮
かべる笑み(ここで笑顔ということに到達する人はそういない)に
込められた幾重にも折り重なる感情。
戦後の「プロンプター」女優・岡田光恵は、10代には荷の重い役を、
りゅーとぴあ仕込みっぽい?流暢な台詞回しでチェーホフを吟じ、
FULLMOONでも垣間見えた豊かな表情で魅せる。男のために死ぬ
という女の業を演じるにはまだ若いか。
高野多希は台詞など決して上手くはない。その舌足らずの言葉、こ
ぼれんばかりに見開かれた目は、女優に役を返せとすがる精神を病
んだ若手女優を、悪意もなくただひたすら役を欲する姿で、結果的
に実にリアルに現出させている。
最初意外な配役だったが、よく考えればこのメンバーではこれが最
適かもしれない。個々に力の差があるのは百も承知の上での公演だ
が、やはり各々が見ていること感じていることが違う、ということ
を見ていて思う。しかし、それは我々の現実もしかり、であろう。
で、こうした役者の質の混在が新潟の現状である。そして、こうい
う機会を重ねることで若い役者は磨かれていくものであるとも思う。

[305] 音庵 2005/10/11(火) 00:36 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」A Side [劇団名] 劇団第二黎明期プロ
デュース公演
例によってネタバレ。
A Sideのシダ演出は、客入れから(客出しまで!)人形然と4人
が既に板ツキ、そしてよしず状の吊物で囲われた四角の舞台から出
ハケはなく、退場する役者は広報で背を向けるのみである。この狭
いDOMOの空間を熟知し、ここでしか成り立たない表現を作り得る
のがシダジュンの真骨頂だと思い知った。此処はあたかも鳥かごの
ようであり、この楽屋から、そして女優としての業から、逃れるこ
とはできないということを暗示しているかのように思える。
のっけからYOKOTA演ずる女優がド迫力で台詞を回し、謡の所作
などを絡めて観客の笑いをつかむ。図々しいおばさん的な、有無を
言わさない、若手に揶揄されるであろう「大」女優らしさがよく出
ている。(衣装についての指摘は「ゲンパギガ」ブログの記述に敬意
を表し譲る。)終盤、枕で(!)キー子を殴った後、怒鳴り散らした後
で洩らす呟きに、それゆえの真実味が生まれる。
戦前の女優・岡本ちくわは、高橋景子の表現とは別の角度で、闊達
で軽やかなべらんめえ調の女優像を作り出し、大衆演劇や宝塚的
な?おとこ芝居で自身の持ち味を巧く生かしている。
戦後の女優・谷藤幹枝、不気味な可愛らしさと時折覗かせる思いつ
めた表情の凄みを、コミカルさの味付けとして巧く用いている。
三者ともに一人芝居(的なもの)を経験しており、数々の「蓄積」
が自在な表現力を生んで、台詞のない時の表現など細やかになされ
ているところは流石。ある程度自分で作っている表現と思う。デフ
ォルメされ笑いを取りながら、要所でしんと底冷えするようなエッ
ジの切れを見せている。
梅田麻子は、役への執着の一途さだけでなく、そのためには攻撃も
厭わない強さを見せ、ちらっと見せる毒入りの笑顔が素直なだけで
ないキー子を造形している。
このような各種素材を、一見自由にやらせながら適材適所で使いこ
なすシダの料理の腕前は、素材の味を前面に出し、それだからこそ
また一流であることを感じる。おそらくAサイドを見て最も衝撃を
受けるのは、第二黎明期の女優たちだろう。
DOMOでカテコ、というのも新鮮だったが、また面白くもあった。
人形(マリオネット)のように役者ががくっとなるので、すべては
何者かの掌中にあるようにも見える。ただ個人的にはこのマリオネ
ット風の所作はなくても十分なように思う。
同じ戯曲でもまさに表と裏のように、いろいろなアプローチができ
ること、改めて思わされるよい企画。比較ではなく合わせ見ること
で浮かび上がってくる戯曲の深さが感じられる。同時に、「いい芝居」
である以上に「圧倒的な凄い芝居」を作っていくためには、恐らく
今回以上に膨大な「時間」をかけること、立ち現れてきた様々な要
素を精選し磨いていくことが必要なのだろうと思う。

[306] 音庵 2005/10/11(火) 00:39 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」A Side
前項4行目、×広報 ○後方 です。
ずびばぜん(涙)。

[308] 音庵 2005/10/11(火) 17:43 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」 [劇団名] 劇団第二黎明期プロデュース
公演
連続で失礼。
A・Bとも、戯曲の台詞や設定をそのままに用いているのだが、そ
こに少し引っかかりを覚えたりする。
チェーホフなどが一般的に説明抜きで知られており、かろうじて戦
争の記憶を引きずりながらそのパスティーシュというかカウンター
としてこうした芝居が書かれた70年代の温度が、現在ではどの程
度伝わるものだろうか。もちろん今回の女優たちもリアルタイムに
知らない世界であるし、客の多く(てか自分)もしかり。時代性が
強いわけではないが、70年代を意識してやっているわけではなさそ
うだし、さりとて現代(現在)的かと言われると微妙。ゆえに台詞に
アレンジがあってもよいかと思った。
女優が、最近の若い者(きーこ)について図体ばかりでかくて、と
いう台詞があるが、どちらのVER.も実は女優の方が大きいのであ
って、まあびん底のように大きな目というのはよいとして、テキス
トそのままでなくてもよいのに、と思ってしまったものであること
よ。


[309] 黒肉 2005/10/11(火) 23:30 [削除]
[公演名] 1/47 [劇団名] 青葉玩具店
どうやらこの劇団について書こうという方は本間さん以外には居
ないようで・・また、本間さんも現時点では「衝劇祭」という視点
でお書きになるつもりではないようですので・・
書いとこうっかな〜♪

初日の夜に観たんですけどね、まあそんなもんだろうな〜という客
席の入り具合でして・・こういう状況の中で、前セツの影アナが言
うように「ただひたすらおもしろがって」という主義主張は苦戦す
るのだろうなあ・・と思いつつ。
その前セツ影アナ(DJ調)自体、一発屋が今年エントでやっちゃっ
てることで、それを知っている観客(、今回観てる人はだいたい観
てる人でしょ?)は、ふ〜んってなもんで。。
おまけにオープニングは恐らく一発屋協力によるプロジェクターの
タイトル投影ときたもんだ!
てなわけで、この時点でこの公演の「分析的」だいご味は、一発屋
と青葉が共有する「同時性」に一点集約!
けどねえ、面白かったんですよ。ホントに!少ないお客さんの心が
「楽しむ」という立場を無理無く共有していたように思います。い
い公演でした。

で、ここから本題に向かうのですが^^;
アプローチの手法や笑いを組み立てるタイミングの作り方等にほぼ
共通の「ルール」を持ちながら、実際の芝居としてこれほど印象の
違う結果を導く一発屋と青葉玩具店。世代としてもほぼ同じ彼等を
見比べて、「仙台と新潟の違い」を痛切に感じてしまうわけです。
仮説として仙台は・・例えば高校演劇の王道である「新劇」、あるい
はひと世代前の演劇の力であった「アングラ」「テント」への憧れを、
ほぼ純正培養で輸入・消化してきた「伊達正宗的」演劇観を持って
いるものと思われます。
これに対して新潟は、むしろ否定、変化球、「高度成長日本的」加工
を由しとする土壌があるように思われます。
どちらが上でとか得でとかいう話では無く、そういう風に感じてし
まう質の違いが確かにある!そう思えたのです。

今後も続々と仙台、そして新潟の劇団が公演を続けるこの秋。
ちょっと、目が離せないな・・と思っているわけです。



[310] 本間 弘行 2005/10/16(日) 10:11 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」Aside
 台詞をよくあるように語ること、またよくあるように演じるこ
との良さ、あるいは目的は、一つには、よく言われるように、それ
を観ている人に自分のことを客観視させて、カタルシスに至らせる
ことだけれど、今回の「楽屋」Asideは、女優というよりは平凡な
女性というものを前面に押し出した舞台のように私には感じられて、
女優の“楽屋”というよりは、日常生活の中に無数にある表舞台に
出演する女性たちの“楽屋”のようであり、何か罪のない通俗心理
学のようで、サティのような音楽が流れるクライマックスにも不思
議な清潔さがあって、おもしろかった。
 そういうことでは、役者が観客の入場の時から舞台にいることそ
のこと自体は、何かイメージが先行したようで、特に驚くほどのも
のでもなく、そこにいる役者の存在感、役者の身体の質感といった
ようなものも弱かったけれど、今回の公演も、出演した役者こそ違
え今までの第二黎明期の公演のように演出のシダ ジュンが作るや
わらかな繭に包まれた毒が隠された世界であり、谷藤幹枝と岡本ち
くわの絡み合いなど、まるで公園や道ばたで立ち話をする昼下がり
の主婦の世間話のようで、YOKOTAなど、でたらめに言ってしまえ
ば古い映画に出てくるすけばんのようだ。また梅田麻子が枕で殴ら
れて結果として幽霊と同じ世界に行ってしまうことなど、「豆腐の角
に頭をぶつけて死ぬ」といった言葉と同次元の感覚が漂っているよ
うに思えて、そういうところに私はシダ ジュンの言語観、あるい
は世界観のようなものが感じられた。
 また檻のような舞台美術が効果的で、女性というものを閉じこめ
ておく壁という捉え方もできなくはなく、だから観客は安心して笑
うことができるのだとも思えたが、その檻から誰も観客席に向かっ
て出てこなかったところに、ただの箱庭の形式美へと落ちて行きか
ねないシダの危うさのようなものも感じるのである。
 他、役者では梅田麻子が印象に残った。ただもう少し、自分の身
体というものの隅々にまで意識を向けて欲しいと思う。今のところ、
首から下は抜け殻のようで、ぜひ爪先にまで生命がみなぎっている
ようにそこに立って欲しい。
 
 さて、Bsideと今回と観て、登場人物を全て男性が演じる演出も、
一度はあってよいのではと思うようになったのだが、どうなのだろ
うか。たとえば一発屋で、「楽屋」を男だけで演じてみても、おもし
ろいのではないかと、思うのだけれど。
 (10月15日 午後8時15分 シアター西堀DOMO)



[312] トックメイ 2005/10/22(土) 02:02 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」 [劇団名] 劇団第二黎明期
齋藤陽一研究室HPにて劇評が更新されてます。取り急ぎお知ら
せまで。

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/gakuyaab.html

さすが、ロシア文学研究者。圧巻。

[314] 轟 2005/10/22(土) 10:52 [削除]
[公演名] 競演「楽屋」 [劇団名] 劇団第二黎明期
ここに書き込むのが適切かどうかはかりかねるのですが、一応。
斉藤さんの劇評を読んで。
私も、梅田麻子嬢の演技をみて、どこかで見たことがあるような・・・
と思い返したところ、あれは劇団一発屋の「アロワナ・イン・ドラ
ゴンパリス」で演じた少女ではなかったかと。
彼女のはまり役というか、一瞬目に凶器の光が宿る、アレがたまら
ないと私も感じました。


[315] 本間 弘行 2005/10/24(月) 09:36 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー
 今回の一発屋の「恋するキャタピラー」は、私としては前回の
「よく喋るロンリーウルフ」よりも、さらに一歩進んだおもしろい
舞台であったと思う。ただ好みとしては、やはり男の役者の台詞の、
その語尾が、そこだけコントというよりは不良少年、というよりは
一時代前の突っ張った中学生みたいで、そういうところが一発屋ら
しいところなのかもしれないが、その少し過敏な姿勢とあわせて、
どうにかならないものかとも思う。
 役者では渡辺建が小柄で小粒であるが、私は印象に残る。ただ、
物騒なことを言うのかも知れないが、今後も一発屋に所属したとし
ても、中嶋かねまさから独立できるかどうかだろう。
 さてそろそろ、私は以前のダイサンノボンサイのようなものが観
たい。それが昨年のティッシュニモウヒツだと言われたらそれまで
だけれど。
(10月23日 午後2時 シアターent.)


[317] 音庵(?) 2005/10/31(月) 13:00 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー 〜コントライブvol.2〜 [劇団
名] 一発屋番外公演
えっと、オトアンnanoっていいます。この前、一発屋見てきま
した。かわいい女の子と(てへっ)。で、その子もけっこー笑ってて
いい感じだったんすけど、あとで「どうだった」って聞いたら「下
ネタ多かった」って(爆)。これって、パンフの流れでいうと失敗デ
ートのパターンすかね!おれもけっこーシモ系で爆笑してたからな
あ。んー、「たび〇しんぼ」、じゃない「くいし〇ぼ」、じゃない「美
〇しんぼ」で、下品だから人に言うのは恥ずかしいけどうまいもの
大会ってのがあった気がするけど、どーゆーネタで笑うかって、人
間性が暴露されるのかなあ。おれもスカトロ系はちょい引くけど、
ことば系とかソフト〇M系なら…ってなに言ってんだーハァハァ、
じゃネタばれで〜す。

「ロンリーウルフ」の流れで、巻ダンボールのパネル、クラフト紙
系の装置・小道具の統一感、モノクロでカフスにポイントのある衣
装、五指靴下とトータルこーディネイト。映写、音及びDJ、サービ
スは盛り沢山。喫煙問題もそれなりの配慮。後半での尻ほぐし(あり
がたや)&撮影タイムなど、でもそういう仕掛けよりもネタと役者の
力量で十分見せることができている。
役者の実名を用いたキャラクターは、彼らの現前する肉体と伴うイ
メージで表現されながら、あくまでも別人格であることは暗黙の了
解(なの?)。拙文冒頭部のオトアンは音庵なのか(ミステリの地の文
の問題に繋がるのだが)と似て、「実」を取り込んだ「虚」が構築さ
れる。例えば、Hで「異性と付き合ったことがないもの」にナカジ
マとワタナベが行くのはどうなの?
コント@:全員でのネタは一発屋公演の冒頭でよく見られるいわば
「仲間外れ」モチーフのアレンジで、一発屋らしいナンセンスさ。
もどった昆布の湯気や飛び散るガムなどの実物が効果を持つ。これ
以外は基本的にシュールでナンセンスなネタ(例:シーマン)という
よりシチュエーションで見せるコメディで、ウェルメイドな傾向性
があるのは前回同様。普遍的に笑えるネタの力と、役者のインプロ
ビゼーションが四つに組んでいる。
A:女子ってオトナだという事実。オトナぶっている女子の可愛さ。
おばかな男子のトホホな中に時折覗くオトコ気。ワタル兄ちゃんて
いるいる。イインチョというと750ライダーを思い出すわたしって
…。
B:これはちょい異質。ヒライシ着替えの間を、というエクスキュ
ーズが入るが、楽屋オチ的に見えて実は台本通り。しかし風船に怯
え驚くナカジマの表情はリアル。枠としての台本はあるがそこに役
者のナマを注入していくという、以前にも話題になった手法なのだ
が、意図せぬ即興的反応を引き出すという魅力と、それをただの役
者の素にしないであくまで劇中で見せようとする理知的規制とのジ
レンマ。そこが少し微妙。
C:ヒライシとワタナベのイメージを上手く取り入れたネタ。ここ
での「早川みなみ」さんも、Eと共通して見えないだけに実に魅力
的。Gの「じゅんこ」も含め、出てこない女性の清純だったり小悪
魔的だったり様々な魅力にKO。OK。
D:で出てくる女性はつおい。屁理屈で論理が飛躍していくおかし
さは定番的だがヤマカワの見せ場となっている。ナカジマが少し理
性的過ぎるかな?
E:オトコ3人ネタは実にナチュラルで、テンションが高かった。
ヒライシはどの役でも基本一緒だが、器用ないい役者だ。2・5の線
がはまる。オチはともかく、いい女のいい夢見せてもらったよ。あ
ばよ!
F:ダンセイとダンスイがかかっているのだが、よくできたシチュ
エーションもの。かっこよさを気取るワタナベの過剰な仕草がツボ。
G:〇井兄弟を一瞬思うが、メール・着信チェックがメインのネタ
で、ナカジマのキャラクターが出色。
H:再び全員、レザボアドッグスを髣髴とさせる(あるいはそのパロ
ディでスマスマでやってたやつね)ピカレスクもの。循環していくや
り取りも王道といえば王道。しかし人が多いと引出しも多いので単
純に楽しい。
こうしてみると思ったよりシモネタばかりではないような。まあ人
によって感じ方は違うが。でも小学生がAであっけらかんと笑えて
いたのはすごいなあ。英才教育じゃ(拍手)。やっぱいい役者たちだ
よね。

ふうー、がんばってs感想書いてみました。音庵風ってやっぱ「無
駄に長い」なあ、ごかーんべん。




[318] ばんび 2005/10/31(月) 15:58 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー 〜コントライブvol.2〜
↓317
音庵さんなわけないでしょう!?
最低。
あ、こういう人かまっちゃいけないんだとは思うけど、ひどすぎる。
ってかあきれる、どういう教育受けたら
こういう人間としてレベル低いことできるの?
あの。
途中とラストで説明入れなくても
冒頭ちょっと読んだだけで違うって誰でも分かるよ、
あまり利口じゃない人なんだな、って思われるだけだからやめたほ
うがいいですよ、こういうの。

誹謗中傷ですよね、って、ある意味このレスもそうだと思いますが、
管理人さん、このレスとともに下の人のレスも早急に削除してくだ
さい!

どうして書かれた人の立場に立てないの?

↓がんばって書いたみたいだけど
そんな人の書いた感想まともに読むきになりません。



[319] 音庵 2005/10/31(月) 17:42 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー 〜コントライブvol.2〜 [劇団
名] 一発屋番外公演
>318 ばんび様
すみませんー、本人です。
というかそれを証明するすべがないのがネットの陥穽ですね。匿名
性の危うさでもあり。
で、文体で印象はかくも変わるし変えうるということなんですが、
なんかばらしちゃ意味がなかったか。松尾スズキの日記ギリギリデ
イズで、ウェブ上の偽マツオ事件があったけど、ちょっと似たよう
な混乱を招いてしまいまして申し訳なし。


[320] ばんび 2005/11/01(火) 00:53 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー 〜コントライブvol.2〜
>317&319 音庵様
こちらこそすみませんでした!
すさまじい勘違い。
感想をきちんと読んでいたら気づいていたような気がします。
自分の浅はかさに目から涙、
顔からは火の出る思いです。
大変失礼致しました!
こちらこそ非礼の言葉の数々、どうかお許しください。



[322] 音庵 2005/11/01(火) 08:21 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー 〜コントライブvol.2〜
コントについて、笑いをとるための計算というものをどのように
扱うべきかということが上演する側の難しさと思います。自分をネ
タにして、一種自虐的に見えるネタをやることで、その中に描かれ
ている自分が必ずしも実像そのものではないけれどそういうイメー
ジを持たれてしまうリスクを敢えて強行するという意味でいわゆる
お笑いの人たちは頑張っているわけですが、今回の公演でもそれが
あったと思います。
自分の書き込みはそれを言いたかったもので、特に偽者ぶるつもり
は全然なかったのです(ここで、本人がいやあれは別人だと名乗る
と松尾氏の事件のようになるのですが)。
ただ、個人的にはばんび様に大変申し訳なく思っています。知人に
も指摘されました。ばんびさんの書き込みは大変嬉しいもので、恐
らく某所でのやりとりなどをご存知であったのでしょう、「音庵」を
信頼あるいは擁護してくださっていることはとてもありがたく、そ
の意味でも謝意を表します。品性のよろしくない部分も確かに自分
の中にはあるので、汗顔の至りです。また皆さんにもいろいろご心
配をおかけしましてすみません。

[323] 本間 弘行 2005/11/03(木) 07:44 [削除]
[公演名] BLEUE-夢の香り [劇団名] Gin's Bar
 たとえばジム・ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ』に、
タバコのにおいとコーヒーの香りがついたらどうなるだろう。あれ
なんて、全部とまではいわないが、一部はそのまま演劇にしてもい
いような映画だと思うけれど、本当にいろいろなにおいが客席に向
かって漂ってきたら、それらのにおいや香りといったものが、物語
に向かって集中する観客の視覚や聴覚、想像される嗅覚のじゃまを
するといったことは起こらないだろうか。
 またプルーストのマドレーヌが台詞の中にもでてきて、あれは実
際はにおいや香りというよりも紅茶に浸したマドレーヌの味から、
嗅覚よりも味覚から物語が始まっていくのではなかったかと思うけ
れど、『失われた時を求めて』にはたくさんの花もでてきて、その花
は、というよりはその花をあらわす文字が、読む人の花についての
記憶や、花にまつわる記憶や、その花が持ついろいろな意味や、そ
の他の具体化されない部分を刺激してくるのではないかと思う。で
もそれは目の前にある花が持つ物語というよりは、花に集まる人々
の物語と言うべきだろう。ひとつの花に、物語があるのではなく、
物語が、ひとつの花に集約されるのだ。
 Gin's Bar第5回公演 色彩シリーズAct.4 「BLEUE-夢の香り」
は、テレビドラマみたいで、また役者が実際にコーヒーをいれてそ
の香りが客席に漂ってきたわけだけれど、私がその香りをかいで思
ったのは、まず役者のコーヒーの入れ方の技量であり、申し訳ない
が、それほどではないなと思ってしまった。つまり、私の場合はコ
ーヒーの香りからじっさいに人にいれてもらったコーヒーの記憶が
最初に思い出されてしまったわけだけれど。
 そんなことはともかくとして、今回の芝居に劇的なものがあると
したら、それはなんだったのだろう。実際に私の身体にダイレクト
に訴えかけてきたのは、コーヒーの香りであるけれど、それはコー
ヒーというモノが持つ力であり、それは極端に言ってしまえば小道
具であり、よく輝くダイヤモンドと同じ働きをするものでしかない。
台詞は台詞だけに注目すればたしかにおもしろかったが、しかしそ
れは私には言葉遊びのおもしろさを思い出させるおもしろさでしか
なく、演技も、まったりしているという感じ方もできるようだが、
私は民俗的なものを井伏銀太郎から感じて仕方がなかった。だから
何かもっと民話的なもの、あるいは民俗学的なものを取りあげた方
が井伏の力がよく発揮されるのではないのかと思うのだが、どうだ
ろうか。
 (11月2日 午後8時 シアターent.)


[324] 中ニ 2005/11/05(土) 00:01 [削除]
[公演名] 残されたモノ達をめぐるハーモニー [劇団名] 長岡戯
曲研究会プロデュース
 作&主演の田中みゆき初のコメディ。中だるみはあるものの、
しっかりコメディ。客席を何度も沸かせていた。
 葵のキャラクターが超人的ではあったが、「座長みゆき」が照れも
無く堂々と演じ好印象。
 難を言えば、途中に独り語りされる、葵の身の上話の語り口調に、
モロ野田秀樹的な重さを感じた(しかも上手いし)。全体のタッチが
軽快なだけに、そこだけ妙に浮いた感があって、逆にしらけてしま
ったのは、僕が意地悪だから?
 根底に流れるのは熱い情熱。これは田中作品全てに通じる。1年
に一度の公演・・・ということで入れ込み過ぎるのだろうか?など
と邪推してしまうが、新潟市ではなかなか観れない種類の、よく練
りこまれたコメディ。ストーリーを追って行くだけでも十分楽しめ
た。その点、普通にコメディ。

 碧役の引場裕子が控えめな印象を受けるが、クセのあるキャラク
ターを好演。
 久保田、佐竹の男優二人も、情けない男達をいやみなく演じてい
た。

 終演後の挨拶で、座長田中の「恐れ入りますが、バラシ手伝って
くれませんか?!」との呼びかけに、大勢の観客が応じていた。か
く言う僕も。姐さんに言われたら、そりゃ手伝わないわけにいかん
でしょう?!と、即座に納得。姐さんの人徳かも知れないが、何よ
り、観客が舞台を楽しめたからだと思う。

[326] えいと 2005/11/05(土) 18:00 [削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート [劇団名] 劇団わるだくみ
はっきり言っておもしろくなかった。全体の狙いとして何を捉え
ているのかもわからなかったし、中途半端というか統一感の無い感
じだった。どういうコンセプトであったのだろうか。
たぶんミスキャストなんじゃないかと思った。役者人の力量に差が
大きく、主役の2人は[クレヨンしんちゃんの真似をしている小さい
おばちゃん]と[宝塚かぶれのナルシスト]と言うような印象を受け
た。痛快ではなく、ただ“痛い”劇だったように思いました。

[328] もん 2005/11/05(土) 21:16 [削除]
[公演名] 鉄コン
稚拙だなあ。一ページレビューなんだからもう少し知的に頼む。

[329] 329 2005/11/05(土) 21:45 [削除]
[公演名] 鉄コン
>もん
200字以上の長いレビューだったら1ページに書き込むのが普通
じゃないかな?1ページレビューは必ずしも事細かな分析とか必要
とは限らないのではと思います。
えいとみたいな素直な感想は大事なんじゃないかと思います。

[330] 本間 弘行 2005/11/05(土) 22:54 [削除]
[公演名] 純愛裁判〜ロミオとジュリエットより〜 [劇団名] 玉

 明日も公演があるそうなので、はっきりとは書かないが、玉座
公演「純愛裁判」はとにかくおもしろかった。ただ後半の30分、
あのように一気に芝居の流れを検事と弁護士の二人の物語に戻して
いくのなら、前半の30分が過ぎた頃から少し中だるみというか、
構成の密度が崩れてくるので、スタートからもう少し筋が見えるよ
うにわかりやすい構成をしてもよいのではと思うが、どうだろうか。
もちろん最初のまるでショーのような感じは華やかで鮮やかで全く
そのままでもよいと思うが、脚本もしているという演出のヘンリー
三世は鋭く空間と格闘ができる力があると思うので、これからはぜ
ひ慎重さも身につけて欲しい。公務員をネタにするところや、いく
つかの言い回しや音楽の使い方に、やや安易に流れる癖のようなも
のが見える。たとえばショパンの演奏など、たくさんの演奏がある
が、本番で使った演奏は自分たちなりにきちんとセレクトした結果
であろうか。
 とにかく標的にしやすいもの、飛びつきやすいものには、落とし
穴があるものだ。
 役者は、玉木雅志が昨年の「坊ちゃん」の頃と比べて明らかに成
長しており、若いだけではない何者かになりつつある。もちろん他
の役者達も印象に残ったが、その中からあえて一人だけをあげると
すれば、それはやはり吉田聖子であり、この人が外に向かって放出
するエネルギーには、あるはっきりした美しさがある。
(11月5日 午後3時 ゐ座稽古場)


[331] スズキ 2005/11/05(土) 23:11 [削除]
[公演名] 『鉄コン筋クリート』の件で
 328でもんさんが、「稚拙だなあ」と書かれていますが、1ペー
ジレビューに「知的であれ」という制限はありません。また、「初め
ての方へ」のところには「思うさまご感想を書き連ねてください。
感想内容は自由です。」とあります。
 また329さんが述べられているように、200字を超えればこちら
に書き込むのが一応ルールとなっておりますので何の問題もありま
せん。
 もっとも、327が削除されているらしいのは気になります。えい
とさんの発言が稚拙とも思えませんし。他の方の発言にコメントす
る場合は、番号を書かないとおかしな事になる場合もあります。

[332] 匿名なので偉そうな村井孝昭 2005/11/05(土) 23:13
[削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート [劇団名] 劇団わるだくみ
しょっぱなに「地球」とか「平和」とか言ってしまって幻滅。SF
と劇中劇はヒクんだよねぇ。これは個人的なアレルギー。でも今回
は漫画を芝居に起こしたところもあるから、しょうがないか。
映像効果が気になって行ったようなものだが、撮影編集とも、比較
的、オッケーな完成度。あからさまに赤十字病院が映りこんでいた
のが残念。地元っぽさを出したければ、長岡なら殿町を推奨。素人
っぽさを出したければ画質を落として徹底的にしたい。ただしあれ
だけ大スクリーンで煽ったら、音量も爆音で行きたい。あのトロい
スクリーンを使ったのは、間が持たず失敗。劇中に使われる映像効
果は、狙ったほどの効果が出なかったのでは?投影された映像の「異
物感」が気になる。
座席が良く、その後の展開に徐々に飲まれていった。好みに合わな
い重い内容だったが、「いつ終わるんだ」という感情にはならず。岡
田さん演じる「クロ」の前半の男っぽさはよくできた。感情が出る
と「女だったか!」となってしまったが。
アクションクラブのアクションがいい。素人目の俺には、少なくと
もカタチになって見えた。
矢島さん演じる太田は、なかなか他では観れない風格と雰囲気があ
った。せりふをカムとガラガラーッて崩れるが、いい演技。

[333] ないん 2005/11/06(日) 00:34 [削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート
ていうか えいと さんて2chで思いきり自作自演ばれてるし。

[334] 334 2005/11/06(日) 01:25 [削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート
>333
あおんな。

[335] 本間 弘行 2005/11/06(日) 07:20 [削除]
[公演名] 浮人形 [劇団名] I.Q150
 盆踊りの場面で、広朗と美代子が面をつけて、最後に面をとっ
て顔を出すけれど、あれは最初から面をつけないで欲しかった。あ
れはそこまでの展開や台詞を思うと、過剰な演出である。
 それと、劇中何度か、大勢の少女達があらわれるけれど、その存
在というか役割が不明瞭であり、この少女達の曖昧さがこの演劇の
いちばんの残念なところであった。いったいあの少女達は美代子の
分身のようでそうではないし、あえて考えれば生者と死者を結ぶそ
の土地の霊のようなものとでも呼べばいいのだろうか。あれだけの
人数をそろえれば当然視覚的には迫力がでてくるので、もう少し丁
寧に処理して欲しい。またあの少女達に説明のような効果音のよう
な台詞を語らせることがあるが、それはこの劇の言葉を、その言葉
の力を軽いものに、弱いものに変えていってしまってはいないか。
 他、いろいろ本物のタバコやビール、お菓子や漬け物、西瓜など、
そういったところでリアルさを大事にしているようで、それ以外の
設定にはやや粗雑なところがある。たとえば無農薬の農業について
語る青年がいる一方で、“家督”という言葉がでてきて、東北では今
も日常の中にある言葉なのかも知れないが、東北に住んでいるわけ
ではない私にはその言葉は違和感を生むものでしかない。また劇中
に美代子が妹にかなり強い調子で拒絶を示すが、あの思いの強さと
ラストは私の中ではあまりすっきりとは結びつかない。とても少女
らしいあることで今もあの場所で男が来るのを待っていて、それが
果たされてしまえば満足できてしまうのなら、どうしてあれだけの
強い思いを妹に対して示す必要があるのだろう。結果として、ある
ことが果たされるまでは駄目なのだということだったようだけれど。
 また最後に母親の病が治ってしまったようになるのも、いささか
強引ではないか。それだけの強いものが生きている人々の中にあっ
たのだと納得させるには、いろいろと足りないところがあるだろう。
 最後に、この舞台を支えているのは、と言うよりは、いろいろな
ことが不自然にならないようにがんばっているのが只野展也の音楽
であり、悪くはないのだが、これもむかし豊川悦司が主演したテレ
ビドラマのBGMのようだ。
 細部が破綻していて、それが決定的にならないのは、この劇団の
力の為なのだろうが、それにしても、もったいない。こんなに一生
懸命な作品なのだから、あともう少し、全体が底上げされて欲しい。
 (11月5日 午後7時 シアターent.)

[337] 一発次郎 2005/11/07(月) 02:08 [削除]
[公演名] 新潟市高校演劇発表会 [劇団名] 新潟江南、敬和学園、
新潟南高校、他
 11月6日(日)に新潟市音楽文化会館で行われた新潟市高校
演劇発表会PLAYを午後から見てきた。
 感想を少しばかり書きたい。

 見た作品は新潟江南高校の「雪人魚」。戦中のアメリカ潜水艦の攻
撃を受け海に沈ん学童疎開船「対馬丸」と20年後の、生き残った
人々のお話。
 扱うテーマが題材だけに丁寧な作りや会話が目立った。テンポも
慎重だったし。もう少しメリハリがあってもよさそう。なかなか好
感のもてる生徒さん達であった。

 敬和学園高校「妙作・金閣寺」。
 ステージの中央に生徒達の製作した金閣寺が配置されており、丁
寧ではあるが、平面的(絵画的)な金閣寺だと当初思った。
 物語が進み、照明や音楽などが変化してゆく。薄暗い青い照明に
なった時あの金閣寺が立体的に浮かびあがってきて本物に見えまし
た。火災のシーンも照明の角度や煙や炎がすばらしかった。おもい
作品だと思うが、創作作品と言うことを考えると良く出来ていたと
思う。

 新潟南高校「夏の終わりに」
 ここのメンバー達はちょっとすごかった。作品的には普通の作品
だと思うんです。既成作品だし。しかし、演出面でかなり、ウケを
狙ったネタがところどころ仕込んであった。その仕込まれたネタが
ことごとく受けるんです。
 ネタ的には劇団n.e.cの「サロメ ザ ミステリー」的な会
場をも巻き込んだ意外性を狙ったものが多かった気がした。
 女生徒二人とも活舌がいい。遠距離だったが、しっかりものの美
人みたいだし。安心してみていられる。
 男子生徒の一人はリーダー的な存在。派手な衣装でも着こなす。
度胸の良さ。
 もう一人の生徒は間が絶妙で、ちょっとした動きでもなぜか?ウ
ケてしまう。一発屋の渡辺建さんもしくは杉村太蔵議員のようなお
かしさがあったといったら大げさかもしれないが。
 このメンバー達に関しては笑いのセンスや筋の良さ、演劇に対す
るポテンシャルの高さを感じた。笑いを確実に取る器用さはたいし
たものだ。
 出来れば別の作品でもう一度見てみたいものだ。進学校の生徒さ
ん達なのでおそらく、そんなチャンスも多分ないんだと思う。残念
だ!

 高校演劇について思う事は見所が一つは欲しい。ここを見て欲し
いというものが明確なら観客も飽きない。



[338] 本間 弘行 2005/11/07(月) 08:10 [削除]
[公演名] わたしのビートルズ 2005 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
 登場人物が全員揃ってから、最初の裁判までの部分、それほど
長い部分ではないのだけれど、交響楽の一部分を聴くようで、五十
嵐劇場による演劇の、一つの極みを観る思いがする。
 その五十嵐劇場の演劇を作り出す、今井麻衣子の言葉は、イメー
ジを言葉で空間に彫り出すようなところがあって、そのイメージの
連続性というところに、弱点がないとは言えないが、実際の上演で
それが問題とならないのは、演出の伊藤裕一の力である。
 役者では松田健央の復帰が嬉しいことであるし、國田珠世の演技
者としての幅の広さも印象に残るが、安達修子が抜群と素晴らしく
なった。
安達修子は、帰ってきたのだ。
(11月6日 午後7時 劇団五十嵐劇場アトリエ )


[339] 音庵 2005/11/07(月) 11:55 [削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート [劇団名] 劇団わるだくみ
わるだくみ初のシアター、集客もまずまずだが、それ以上にわる
だくみには人を引き込む求心力があるのか、野外劇からのメンバー
や高校演劇部出身者、そしてジョイントアクションクラブなど長岡
の演劇状況をある意味象徴する構成に、あんかーわーくすや一発屋
からの参加もあり、今まで関わってきた人に対する集団の姿勢や暖
かさが表れているように思う。必ずしもそうでない場合もあるだろ
うが、誠実であることは確かだろう。新潟県人らしさでもあろうが。
中身(ネタバレ)。
「鉄コン」の「ストーリー」がほぼ十分に語られていた。かなり細
かいところまで。逆に鉄コンの「世界観」は、十分描かれたとは言
えない。原作へのリスペクトが感じられる丁寧に説明しようとする
姿勢は(原作ファンには評価できるのだが)話の筋を辿っていくス
トレートな展開になりがち。そして場面の変化を暗転でつなぐ。人
物は台詞を喋るために登場しまた去っていく。高校演劇でよく批判
される典型だ。物語を再構成してエッセンスを伝えるような芝居作
りをして、展開をスタイリッシュに、テンポアップすれば70分く
らいで仕上がるし、テーマもより鮮明になるはず。
舞台はシンプルながら上手・下手の打ちっ放しコンクリ風パネルが
美しい。その前に上手は取調室のセット、下手はクロ・シロのねぐ
らである廃車のセット。
きれいだが、すさんだ雰囲気があまり出なかった。センターの立方
体はビル屋上など様々な場として活用されるが、上下手は作り込ん
でしまった分場が固定され、街中の場面でも残ってしまう。せっか
くのシアターの広さが十分に生かされない。セットプランがスタジ
オの感覚から抜けていなかった。もっと抽象的にする、また奥行き
を活用するべき。中割を使って背景に「こどもの城」を出したり、
スクリーン映写もあったが、努力の割に効果が薄い。例えば「城」
を映写にしてもいいはず。紗幕を使って前後で別の場を作ることも
できる。シアターをもっと使い尽くしたい。
宝町で暴力を術として生きる少年クロ、岡田麻衣子の立ち回りは見
事。見た目も男らしさが出ている。後半、彼の心の虚無とそれゆえ
の凶暴さがもっとほしい。苦悩する少年(思春期的)ではなく、人
間として壊れているのだ。これは「イタチ」が彼の写し身であるこ
との説得力に繋がる。相棒シロ、陶山悠子は、年齢を超え無垢なシ
ロを演じえていた。わるだくみの枠を超えてもシロ・クロをこれだ
け表現できる役者はそういないだろう。ただシロについては、原作
的な立場から言えば、クロの弟的というより対等のパートナーであ
る。そしてネジがもっと外れている。幼さではなく、欠落による無
垢(古典「白痴」のように)。松本大洋のあの感情をあまり伝えない
表情が頭にあるので、そういう感じが個人的には欲しかった。少し
感情が見えすぎ。そしてふたりともきれいなのだ。顔も、心も。こ
んな生活をしていたらもっと汚れているのではないか?特に心が。
オープニングでのシロの「交信」は不要。猥語はいやらしさや偽悪
的にではなく、幼児から出るただの言葉として感情なく吐かれるは
ず。
刑事藤村の疲れたおっさんぽさ(矢島篤は随分上手くなった)、沢田
のちょい鼻につく若いやな奴っぽさと後半の優しさ、組長の貫禄と
俗物っぽさ、脇の男性たちはよくやっていた。チョコラやバニラ、
酔っ払いもなかなかはまっている。
やくざ鈴木・木村も悪くないのだが、町を自分なりに愛して巨大な
資本により変わっていくことを好まず消されていく鈴木の屈折した
深みはむしろ佐藤正徒に、若手で野心家で、金のために転んで破滅
していく木村は須藤悠で、と逆でもよかったように思う。JACの龍・
虎はアクションが見事。できればもっと圧倒的な怖さがほしい。イ
タチは力強く衣装もよい。そして木村の女のあの冷静さ、蛇の少し
コミカルな邪悪さ。役者たちの頑張りは認める(台詞の入りなど難
はあるが)。あとは、演技の質のばらつきを方向付ける、テーマを絞
るなど演出的な問題になる。
イタチの姿で示されるクロの中の「純粋」な悪はクロを強くするキ
ーであるが、シロがいることで行動が制限される事がむしろ彼の壊
れた部分にとっての補完であること、それをシロは本能的に知って
おり、様々な経験を通してクロがそれを知る過程がこの話の本筋。
しかしイタチの残した傷は彼の腕にしっかり刻まれ、その傷跡があ
ることでまたクロは深遠を抱える自分の本質を見失わないはずなの
だ。一度切り離され(意図的に離し)その結果自覚することで再び
戻ってくる、これは松本の「ピンポン」におけるぺコとスマイルに
通じる。そういえばあれも、映画は原作とはまた違うもので、それ
はそれで表現され評価されていたと思う。
残念なところが上がるのは、期待値だと考えていいだろう。ただ、
いつもいつまでもそうであってはいけない。ぜひ。

[340] トワ 2005/11/07(月) 16:39 [削除]
[公演名] 恋するキャタピラー [劇団名] 劇団一発屋
コントではなく芝居でしたね。面白かった。けど、何かフマン。
さすがナカジマさんは面白い。感情線がキレタ人間のキレ方がうま
いなぁ。個人的に芝居を観て一番面白いと思うのは、役者さんがエ
チュードじゃなく積み重ねた演技で、色んな方向にキレタ人間を演
じた時。一瞬の極感情が好きです。エチュードでの極感情は芝居の
流れを切る事多いし、積み重ねの過不足な演技は極感情、とまで行
かず、寂しいし。最近の一発屋さんを観ていると、目指すのはそこ
なのかなぁ、なんて個人的には思っています。これからも頑張って
下さい。次回作も楽しみにしています。

[341] キッド 2005/11/07(月) 18:41 [削除]
[公演名] 鉄コン筋クリート [劇団名] 劇団わるだくみ
なんだかんだで、ここの劇団員ってすごいと思う。主役の二人に
びっくりした!

シロ・陶山悠子さんのキャラクターって、誰も真似出来ないと思う。
彼女にとってあのキャラは武器だよね。
でも彼女自身や周りの団員がそれに満足していたら、きっと成長し
ないし、そのうち客は飽きるよ。

クロ・岡田麻衣子さんみたいにさ、プロを相手に負けないくらいの
カッコイイアクションが出来て、演技も出来る若手の女優さんって、
新潟県内に彼女以外いないよ。
新潟初のアクション女優になるんじゃないかな?ずば抜けて上手か
った!!他の団員さんのアクションが貧相に見えた。
時々見えた「品の良さ」。演技っていうか、雰囲気なんだよね。こい
つが邪魔して「女」に見えた。クロ役良かったけど、「キャットウー
マン」「ジャンヌダルク」「くノ一」みたいなのを演じてもらいたい。

周りを固める脇役も素晴らしかった。

蛇・矢島亜矢子さんは「さすが」の一言。申し分ないです。

演技はそれほど上手くはなかったけど、イタチ・相木隆行さんは良
いオーラを出していたと思うな〜。
クロとの呼吸がピッタリ合っていた!ぶっちゃけ、イタチ&クロの
ペアが、どのペアよりも息が合っていたように見えた。

総合的に見るとまだまだだと思うけど、結成してまだ2年なんでし
ょ?それでいてこれだけ良い人材が集まるって何なの、わるだくみ
って?!

[342] トックメイ 2005/11/08(火) 02:38 [削除]
[公演名] 10月後半〜11月前半の劇評
 齋藤陽一研究室HPで

・芸能時評No160「2005年のシアターゴーイング」

・芸能時評No159「Gin' Bar 色彩シリーズ Act.4 BLEUE −
夢の香り−」

・芸能時評No158「イッセー尾形との午後」

・芸能時評No157「一発屋番外公演第3弾 〜コントライブvol.2
〜 恋するキャタピラー」

UPだよ!一挙大放出!チェックチェック!

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/critique.html

 いつもながら、ヨク観ていらっしゃる。自虐的(?)な文体もキ
ュート!

[344] 音庵 2005/11/08(火) 14:49 [削除]
[公演名] 大海原区の空 [劇団名] 劇団110SHOW
見るまでどんなのをやるかわからない、という意味で他県の劇団
は特にどきどきする。衝劇祭もその点嬉しい(けどかぶってて悲し
い)。
20年続いている劇団は新潟でもいくつかあって、やはり初期メンバ
ーの力は大きいけれど、当然ながら新陳代謝もあり若いメンバーが
加わっているからこそ20年続くわけだ。金沢で20年というこの劇
団も、結構若い顔ぶれで、しかし重鎮?高田伸一が締めるところを
締めている感じ。
スタジオという限られた空間で、役者はほぼ統一された黒いノース
リーブTシャツと黒シャカパン、メイン以外はほとんど役を兼ね、
入れ替わり立ち代わり出入りする。無対象演技が基本で、そこに言
葉での説明がつく辺りは惑星ピスタチオを髣髴とさせる(ほーふつ
という表現がスキね、アタシも)。
上手側のブースに陣取る高田伸一が、タオル鉢巻を締め劇中「語り」
として言葉を綴る。その言葉と役者の台詞・所作のコラボレーショ
ン(台詞がなければク・ナウカ的なのだけど)。これ、意外に新鮮で
した。まあ途中たるくなるとこもあるのだが(やっぱ2時間近く木
の腰掛けはきついなあ。普通のイスもあるし、せめて座布団…リリ
ックさ〜ん)、よく「聴かせる」語りではあった。いつもこういう形
式ではないのだと思うが、役者もよくこなれていていいコンビネー
ション。
話は、それほどどうということもないのだが(失礼)、それを大真面
目に懸命にやってる姿が決して悪い方向には働かず、むしろ爽やか。
(ネタバレ)
プーでフリーターの「若造」が可愛がっている「猫」が、やがて恩
返しのため妖術を学びネコマタになる。その町では区長と業者が癒
着して伝統ある小学校校舎を立て替える計画が進行しているが、工
事は不気味な物の怪たちにより阻まれている。この工事に関わる事
になった若造と彼を守ろうとする猫が、立ち塞がる妖怪たち(木、
軍隊蟻、ホワットスネーク、化学室ら)と対決していく一夜の物語。
妖怪たちは欲にかられ大事なものを失っていく人間の醜さ・愚かさ
を糾弾する。物語は彼らの主張に同情的であり、しかし結局は夜の
明けていく中でラスボス(なのか?)「非科学的化学室」は、若造に
代表される人間たちにやれるだけやってみろと言い残して消えてい
く。
妖怪たちの最終目的は建設の中止ではなく、もう一度考えてみろと
いう警鐘であったということだろうか。どうもそこらへんの言いた
いことが不明確なままあっさり終わってしまった感があり、それま
で何人か死なせている割に執着が薄いように思う。一方で若造は特
に理念もなく、ただ生き延びるために闘うのだが、途中小学校時代
に亡くなった友・上田君の姿をしたホワットスネークとの対峙の中
で、自らを振り返る事になる。これが一つのヤマであったと思う。
心の中に閉ざしてきたチクチクする思い出、罪悪感。それと向き合
ってさらに乗り越えていかなければならない、というしかしそれが
この話のテーマではないので、軽く流れてしまって残念。
ただ、こういう「演劇的」表現は、わるだくみがきちんと真面目に
具象化しようとしたのと逆のベクトルであり、演劇の可能性を一つ
また見る思いがした。圧倒的感動を呼ぶような大作ではないが、ち
ょっといい小品(にしては長いが)。
若造・岡本泰彦は、パンフで見るのとは違ってボンバヘッドのちょ
っといい男、鍛えられた肉体で真摯な表現力が光る。客演・久村秀
夫の迫力ある演技、若い女優陣の、しかしブサイクになることを厭
わないダイナミックな表現にも感心。


[345] 音庵 2005/11/08(火) 16:17 [削除]
[公演名] ハルシオン・デイズ [劇団名] Teamサッカリンズ
これまたシアターゴーイング2005より。
第三舞台時代に比べれば今の鴻上尚史は確かに全盛期とは言い難い
だろう。しかしいまだに惹かれるところはあって、この作品も改め
て見るとフツーに(普通じゃなくて、ワカモノ的に言うところの)
いい作品。フツーに美味しい。
山形の演劇状況なんてやっぱりなじみがないわけで、未知数。しか
も複数劇団から集まったユニットであるという。自分結構ミーハー
だし、役者の見た目に左右されてしまうところがある。多少下手で
も可愛いからいっか、みたいな。いや、いつもぢゃないけどさ。登
場人物4人、美男美女というわけではないが(ホント失礼だよなー
鏡見てから言えってカンジー)、それでも4人ともにそれぞれ役柄に
合ったルックスで、ちょうどよかったのではないかと。
原田(菊地俊輔)の、一見真面目なサラリーマンだが垣間見える神
経質そうな線の細さ、晴子(佐藤実穂子)の精神的に弱さを抱えな
がらカウンセラーとしての使命感を空回りしながら主張する姿、鉄
三(槇田友樹)の大きな顔とそれゆえのゲイっぽい台詞とのマッチ
ング、平山(齋藤光)の学生っぽい若さ、など説得力がある。で、
第一回公演ゆえか、男女が出ていながらこうなんかもうちょっと色
気があってもいいのになという感はあった。一方で、各地で公演を
行った後であることから、お互いの息が合っていることも事実。役
者の人間関係がすべて反映されるものでは決してないけれど、関わ
りが深まるとこの集団はまた変化していくのだろう。先日の新大劇
研に比べて場転などがスムーズな分、テンポよく話に集中できた。
で、この戯曲のタイムリー性とそれゆえの限界、そしてその中にも
普遍性を持つ人間心理の綾について改めて考えさせられた。
話の落とし所にやはり弱さはあって、だからこそハッピーなカンジ
で終われるのだけど、鴻上さんあなたそんなもんじゃないでしょっ
て言いたくなるのも確か。
でも、自分たちの身の丈にあった芝居を、丁寧に演じ上げた事には
好感を持つ。STONE ROSESが流れてそれでもう感無量というのも
あったけどね。今後の展開はどうなるのか興味がわく。

[346] 音庵 2005/11/08(火) 17:39 [削除]
[公演名] NINPU [劇団名] 劇団危婦人
シアゴー2005ゲスト公演、1998年からという比較的新しい劇
団だが、この作品はすでに何度か再演を重ねている代表作というこ
とで、オープニングからすでにチラシ通りの個性溢れるカラフルな
衣装に身を包んだ女優たちが現れるモブシーンは、母体でありなが
らひとりの女である女性たちの心情を描き、その中でも作品の柱で
ある、代理母として他人の胎児を自らの子宮で育む女性・ツキコと
依頼者マナミの心象風景として表現されている。一連の所作やスム
ーズな転換(白い曲線状の台―上開きの箱でもある―の移動)は、
とてもこなれた感じがする。流石に首都東京は層が厚い、いろんな
劇団があるものだと思う。劇団員に加え客演も多いが、いずれもこ
の芝居にはよく馴染んでいるようで安心して見れた。
ネタバレ
ナンザン(南山勝子)産婦人科の母親学級が主舞台。様々な年齢(16
歳のヤンママ、サトリから40歳初産八つ子妊娠のアユコまで)の、
様々な事情を抱える、様々な性格の女性たちが繰り広げる、マタニ
ティ・ドラマ。女性ならではの視点で、大変勉強になったわけだが、
しかしあまりフェミニズム臭はない。カラフルで美しいがそれだけ
ではない、しっかり根性据えて生きている女性・母親の逞しさと素
晴らしさを自然に感じさせる。
いつも明るいムードメイカー、アユコ(「看板女優」と自分で言って
たザン ヨウコ)にも、高齢初産の不安や親戚との軋轢もある。出
産経験がありながら、精神的不安から虐待をしその繰り返しに怯え
るミサキ(キキ コロモ)。あっけらかんと、父親は夫でないかも知
れないと言うリンコ(加藤良子)。若いサトリ(中村貴子)やカオル
(甲斐沙織)は上の女たちと話が合わない。マタニティビクス(い
や、つい先日ウーマンリブVOL.9七人の恋人に出てきたマタニティ
ビクスを思い出しツボった)インストラクター、スミレ(中澤美江)
もシングルマザーで喫茶店でバイトしている。その中で、代理出産
のため妊娠しているツキコ(マジ ナオコ)、そして依頼者である不
妊のマナミ(中村早千水)の特殊な事情が集団の中で浮き上がる。
自分の子宮にいながら、自分の子にならないことの不自然さの中で
ツキコの思いは揺れる。それ以上に、実は自分の夫が花屋のバイト
だったツキコに感情を寄せ、ツキコもそうであったことを知ったマ
ナミの言動は次第にエスカレートする。
結構ディープな内容ながら、アユコと昔ヤンキ−仲間だったという
ノダ(ロリータ男爵・丹野晶子)の絡みなどコミカルさが重さを相
殺している。また女性たちを見守る院長カツコの、年配ならではの
優しさ、謎の巨乳秘書ミホコの若い傍若無人さと色気など、各キャ
ラクターの「色」が上手く配分されて品のよい作品となっている。
衣装やアクセサリーには特に力を入れている劇団で、物販もTシャ
ツやトートバッグ、マフラー、DVDといろいろあってそれも楽しい。
すごい!っていう作品ではないが、また見てみたい劇団。

[348] 本間 弘行 2005/11/13(日) 08:40 [削除]
[公演名] わたしのビートルズ 2005 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
 『わたしのビートルズ 2005』は、全体としては、ある女の幸
福を守る物語であり、幸福の讃歌だ。やや多幸的であるが、最後の、
かつての屋台崩しを思い出させる、安達修子の台詞で始まる場面は、
体温のある幸福にあふれた、せつない美の結晶である。
 この静かな、山の中のような、みどりのにおいのする唄も、新潟
では今日の公演で終わりだ。つぎはまたしばらく先のことになるの
だろう。
 (11月12日 午後7時 劇団五十嵐劇場アトリエ)


[349] 村井孝昭32歳独身 2005/11/14(月) 03:26 [削除]
[公演名] カタコンベ・五十嵐劇場
ブログに、感想載せましたよ。
一発屋HP内にある、村井の日記です。
個人のブログに書く程度の内容ですあしからず。読みたい人だけ、
どぞう。

http://188.3w.to

[350] 音庵 2005/11/14(月) 13:42 [削除]
[公演名] わたしのビートルズ 2005 [劇団名] 劇団五十嵐劇場
10月に新大教育人間学部の企画でうちのDEアートというイベ
ントがあった。そんなバヤイではないのに、何度か足を運んで全部
の作品を見たのだが、改めて内野という「まち」は幹線から一本中
に入ると別の時間が流れているような不思議な町だと感じた。新川
沿いの民家や神社に実際入ったりできたので、学生の時にはそれほ
ど感じていなかった感慨を覚えた。その新川沿いのローカルな話で、
だからこその説得力もあるのだが、仙台に持っていった時はまた別
の見え方があるのだろうとは思う。そうなればまた場を離れた話そ
のものの普遍性がクローズアップされる。でも、とりあえずこの「劇
場」で、我々が見たこの芝居はここでしか成り立たないものだと思
っている。
さて、自分は揺るぎない批評軸を持つ人間ではないので個人的な感
想になる。見方を押し付ける気もないし異論を持たれて当然と思う。
自分は五十嵐劇場が好きだ。ひとつは場として。寒さ暑さがダイレ
クトに感じられるのがいいというわけではないが、何でもアリの小
屋として、かつての住吉会館やカタコンベアトリエ、今でいえば遊
劇地帯NEOSなどの一種アングラ的な場所の魅力がある。今回で
言えば水を撒いたり鍋が煮えてたり。もうひとつは役者。役者とし
ての華がある。懸命にそして賢明に自分たちのスタンスで芝居を続
けている。芝居を離れても多分人間として「いい人たち」なのだろ
うと思う。で志向する方向性も自分たちならではの道を行く。必ず
しも一般的ではない道を。
自分は如何わしい人間である(胸を張って言うこともないが)。そし
て初期五十嵐劇場には「いかがわしさ」がぷんぷんしていた。大掛
かりな屋台崩しもそうだが、むせかえるようなエロスの匂いが立ち
込めていた。直接的な開示はなくても、絡みつく視線や仕草の端々
にそれがあった。たとえ若気の稚拙な舞台であったとしても。
現在それはずいぶん洗練された。作者も変化し、役者も年輪を重ね
てきた。好みはともかく、その変化の必然を受け止めたいとは思う。
しかし、どこかひきずっているものが確かにあって、それとこのと
ころの(今井さんの)作品とが絡むバランスが微妙な齟齬を生んで
いるようにも感じる。そのいびつさが現五十嵐劇場の魅力にもなっ
ているのだろうが。
五十嵐劇場の役者は正面芝居が多い。場所の制約もあると思うが、
その客席に向かい見栄を切るような佇まいは、美しいのだが過剰な
ところがある。つまり、芝居芝居してしまう。それがはまる芝居、
ケレンミ溢れる芝居の場合違和感はないのだが、この作品のような
場合はどうなのだろう。設定はともかく、近年の作品群と共通して
寓話としての表現になっていることは確かだが、個人的には前半の
部分は特に(平田オリザ的とまではいかないが)リアリティを出し
てもよいのではと思う。具体的な地名が出るからなのだろうけど。
実際そこら(ここら)であり得る話として見えるといい。安達さん
のような「美人女優」は、軽くボケるのはいいのだが無理にコミカ
ルな言動をしているように見える部分があって、それはもったいな
い。新川べりで草木をいじる女性と立ち寄った役所の男がそこで繰
り広げるであろう会話が当初ナチュラルに感じられると、そこから
の世界の転換がよりダイナミックになる。
「ご近所さん」3人は、過剰に過剰を足し算するような形で現れる。
それでよいのだが、ここで特に「いかがわしい」のは松浦武利の視
線。国田珠世のイケイケ(死語)風衣装の女には無邪気さこそあれ
妖艶さが薄い。松田健央の健気さは彼一流のキャラだが、幼い頃の
「きいろ」(安達)ちゃんへの淡い思いを今も持ち続ける彼にはしか
しぎらぎらした欲望がない。
木原きいろなる謎の女性・安達と、公務員高橋・平手克典の間にも
あまり色恋のニュアンスはない。かつて訪れたカガワなる公務員と
女性との交情を背景に、ここにもそこはかとない感情があってよい。
今井作品は、女性ならではの優しい視点で、品がよいのだろうか、
自分の中のいかがわしさにひっかかるような色気がもっとほしいの
だが、これは先に言っておいたように個人的な思いである。
屋台崩しとその後の幻想的な安達の一人がたりの世界は実に美しく、
下世話な言い方をすれば「キターーー!」ってとこなのだ。ここを
際立たせるために、前半別の演出もできるのではないか。
内情を知らずに勝手なことを言えば、五十嵐劇場で各役者の芝居に
細かく注文がつけられたり演出で抑えられたりというイメージはな
い。各自のインスピレーションが尊重されているように思う(違っ
てたら失礼)。シダジュンの演出を受けるなどあったが、外部の違っ
た視線が入ってくるともう一つ化けるような気がする。まあそれが
いい方に行く場合と逆の場合とがあるだろうけど。ちょっと見てみ
たい。


[351] 本間 弘行 2005/11/14(月) 13:53 [削除]
[公演名] ク・ナウカで夢幻能な『オセロー』 [劇団名] ク・ナ
ウカ
 会場がある東京国立博物館の敷地に入ると、正面の本館がライ
トアップされて、太平洋戦争中の新聞だとか、絵のような花火だと
か、三島由紀夫の歪んだ顔が写っている。「三島由紀夫全戯曲上演プ
ロジェクト」というのが始まっていて、その一番最初として「サド
侯爵夫人」を本館で上演しているというのだが、ライトアップの後
半、BGMに菅原洋一の「風の盆」が流れて、これは少し、違うん
じゃないか。うまくは言えないけれど。
 三島由紀夫は、その作品は別として、その行動というか言動は、
滑稽が似合う人である。私はそう思うが、それにしたって、滑稽の
行き着く先が「風の盆」なのか。それはあまりにも、安易じゃない
か。「風の盆」は、滑稽というよりは哀愁が似合う。だから三島より
はコントに似合うと思う唄だ。そうじゃないのか。どうせならオペ
ラ調の曲に、三島の遺体か、直後の部屋の写真でも写せばいいじゃ
ないか。
 さてク・ナウカの今回の公演、“ク・ナウカで夢幻能な『オセロー』”
は、ひらたく言ってしまえば平川祐弘の翻案による夢幻能の形式に
よる「オセロー」であるが、どちらかというと「オセロー」という
よりは「デズデモーナ」というタイトルの方が似合うようにも思え
る。その成果は、全体としては“デズデモーナ的なるもの、結局の
ところすべてを許してオセローを愛した、デズデモーナ的なるもの
(ク・ナウカのブログより)”というものがよくあらわれていたと思
うが、やはりその分、デズデモーナを殺すオセローの造形が弱いと
いう感は否めず、この舞台だけを観ていると、とてもこの男が、最
後には自殺するようには思えない。そうはいっても、まさに舞台に
存在するのが幽霊であるデズデモーナだけであり、あとはすべてデ
ズデモーナというものが現出させている生きていた頃の彼女の記憶
であるとするなら、その弱さも問題とはなるまい。
 この公演、舞台は本館の裏にある日本庭園に仮設された能舞台に
擬したもので、じっと観ていると鏡板のかわりだという遠くの小堀
遠州の茶室よりも、その背後、舞台全体の背景を取り巻く遠景のみ
どりが強く、みどりのむこうに東京の町並みがあるとはとても思え
ない。そういう、密度の濃いものであったけれど、やはり音楽的な
ものが重視され過ぎているような感はあって、能の持っている優れ
た点を抽出しようとしたというが、この舞台の最後の方など、なん
だかカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」、とくにその終曲に近
いあたりを聴いているような気がしてくる。このあたりのことは演
出家が能の謡のことを日本語を聴かせるための音楽的な手法と捉え
ていることと関係してくるのだろうが、私など、能の謡とは音楽と
いうよりも言葉の力を自ずから立ち上がらせるための儀式に近いと
思うが、どうであろうか。言葉というものがあまりにも音楽的にな
りすぎていて、逆にシテの存在を弱めることになってはいなかった
だろうか。
 役者は、とくにオセロー(阿部一徳)とイアーゴ(大高浩一)の
やりとりのそばに立つ美加理が、円山応挙の幽霊のようで、この役
者は動いてこそよいと思われているところがあるようだが、決して
そんなことはない。そういうことがよくわかった。
 またこのク・ナウカにも、全体としてみれば失敗作だろうと思う
公演があるが、どの公演にもだいたい、宮城聡の妙なユーモアとで
も呼べるものがあって、今回のそれは、オセローのこれまでなどが
語られる、間狂言の仮面劇、その部分での仮面をつけた役者達の動
きになど、あらわれていた。
 (11月1日と13日 午後7時 東京国立博物館 日本庭園 
特設能舞台)

[353] 本間 弘行 2005/11/19(土) 07:02 [削除]
[公演名] そう言うだろうと思った、とか、おそらくそんな感じ
[劇団名] 劇団カタコンベ
 大雑把に言ってしまえば台詞は時々一つの句点までの間に名詞
が多いというか、漢字で表現する言葉が多いと私には思えて、記号
が多くてわかりやすい。 ただ、それを役者の声を通して聴くと、ひ
らがなの柔らかさがいきなり無くなって耳にごつごつと固いものが
当たるような感じがあって、ただ、そのアンバランスなところをあ
るいはおもしろいと感じることもできよう。
 物語というか、構成などは、ああしてしまうのなら無理につなげ
ない方がよいのでは、とも思うが、どうだろうか。
 また沈黙の、それこそ“感じ”から青年団を思い出すこともでき
るが、カタコンベの作り出した世界は当然それとはまた別のもので
ある。
 役者では、とくに小山由美子が印象に残った。今回はまだ、世界
と自分との関係というか、自分と自分の身体との関係が調和してい
ないようで、すこしかたいが、この人には何かオーラがある。それ
はまだ十全には発揮されていないと思うが、いつかこの人が主演を
つとめる、違う舞台を観てみたい。
(11月18日 午後8時 シアターent.)

[354] 音庵 2005/11/20(日) 23:30 [削除]
[公演名] そう言うだろうと思った、とか、おそらくそんな感じ
[劇団名] 劇団カタコンベ
ここ数作のカタコンベ作品は、非常にりきみのないナチュラルな、
それでいて深みのある芝居が多く、平田オリザ的ですらある会話の
「劇的でなさ加減」が印象的である。がしかし平田の、日常のある
時間を切り取り客と共有体験をするような作品群とは異なり、暗転
によって区切られたストーリーはある種映像的に切り替わる(カタ
コンベ王道)。そして時間的な跳躍がある。この芝居のフレーム(枠)
の存在は物語をあらしめる作者の意図を意識させる。
いわゆるセミパブリックな、ある程度自然に人が出入りする空間を
舞台とする点もここ数作見受けられる。公園もそのひとつで、今作
は常緑針葉樹らしき枝が見えるあまり人の多くない地方都市(新潟
でもあり、でなくともよい)の片隅にある公園。実際には五月蠅い
お子様どもやら何やらいるのだろうが、登場人物6人しか出てこな
くても違和感はない。そういう空間。
ちょいネタバレ。
仕事をさぼって時間を潰す浅野憲二(五十嵐幸司)の姿、袖から女
性たちの声が聞こえてくる、が絡むことなく浅野は去る。この不在
の空間の感覚もやはりここ数作(「ぁや、これは〜」「…そこにそれ
は〜」など)に共通する。で、こういう時の一見静かで何もなさそ
うな無言の表情が、後になって人物関係などがわかると新たに意味
を持って思い返され、もう一度見たくなるのだろう。
おじの葬儀帰りの三姉妹が現れ繰り広げる他愛のなさそうな会話、
しかしそこから家族の姿が浮かび上がる。父の長年に亘る浮気がも
とで別れそうな両親、母親の「男」気。嫁いだ長女真紀子(小山由
美子)は母がまず自分にではなく次女に打ち明けたことにわだかま
りを覚え、同居の次女真弓(近藤聡実)は能天気に見えて余計な心
配をしなければいけない立場であり、父親っ子の三女沙美(小出佳
代子)は当たり前に存在していた家族が分離することに動揺する。
大人になっても両親の離婚は影響の大きいものだということには説
得力がある。一発屋女優陣が見せる芝居は、こういうコミカルさも
また普通に日常の一部であることを納得させるもので、改めて一発
屋屋員のアビリティを再認識させる。静か過ぎずエキセントリック
過ぎず、自分の実年齢と重ねながら人物造形がなされている。演出
の料理の仕方もまた素材を生かして上手い。
浅野と同様、さぼり仲間の女子高生・川村涼子(萩野みどり)は見
るからに女子高生そのままの、感情の起伏が少なくたるい日常に違
和感を覚えながらもとりあえず普通に学校に行こうと思えば行ける、
そんな少女を等身大に演じナチュラル。しかしこの自然さを舞台上
で出すのはなかなか難しいことで、変に芝居ぐせがついていないと
ころに好感が持てる。
浅野と再会するかつてのダブルスの相棒で仲のよくなかった霜鳥和
幸(佐藤正志)は、都会の会社をやめてふらっと帰って来た、実は
その重い理由を抱えながら、思い出話を重ねるうちに二人の間のわ
だかまりが解けていく様、そして彼独特のどこか痛々しい笑顔のペ
ーソスが役柄にはまる。終幕近く、その不在ゆえにこそまた不意に
思い起こされ、存在が浮かび上がる。30を超えた若オヤジたちの
ささいなことに揺れる、オトナになりきれない心情がよく表現され、
五十嵐と佐藤のキャラクターが上手く出されていた。他のキャラク
ターも含めて、世代感がしっかり身についているのはキャスティン
グの絶妙さによる。確かにカタコンベメンバーとは違う人間がここ
に立つことに必然性があったと納得する。また戯曲の普遍性という
点も認めたい。
入れ替わりながらこの公園で繰り広げられるシーンは一見関連なく
拡散していくようで、実際は最後の場で収斂していき、すべての話
が繋がっていくのは見事だ。もちろんここまできっちりすべての話
にけりをつけなくてもよいとは思うが。そして霜鳥の死を画期とし
て、再び仕事に向き直る浅野、連動して(というかできなくて)学
校に向く川村、隠していた浅野との関係をお披露目しょうとする真
弓。姉妹たちは手巻き寿司パーティを企画し、そこに母は父も呼ぶ
ようにいう。たとえ形として壊れても、ただそこにいて卓を囲む、
許しや解決ではなく、そこにこそ家族の家族たる所以がある、とい
うことを感じさせられる。こうして、残された者たちの言ってみれ
ばハッピーエンディングへと向かうのは、作劇として甘いとかゆる
いとか言えば言えるかも知れない。このところの戸中井作品は(特
にシリーズと銘打たなくても共通性があり)結末が優しい。しかし
もちろんそこには前提としての虚無感、あるいは絶望すらあって、
その上でのことだ。少なくとも心も体も寒い初冬の夜、この芝居に
心温められて帰ることができたことは事実。

[355] トックメイ 2005/11/24(木) 01:30 [削除]
[公演名] そう言うだろうと思った、とか、おそらくそんな感じ
[劇団名] 劇団カタコンベ
 毎度!齋藤陽一センセの劇評UPだよーん!

http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/so.html

ちぇっくちぇっく!

[356] 本間 弘行 2005/11/26(土) 08:07 [削除]
[公演名] NINAー物質化する生け贄
 今回のNoism05の新作『NINAー物質化する生け贄』
は、観ているとなんとなく東京公演に照準を合わせているなという
気がしてこなくもない。もちろん東京公演に照準を合わせていたっ
て、それはそれでよいのだ。いろいろとやってみることが許される
からホームなのだと、私はそう思う。ただどうせなら、今は無理で
も、ツアーの最後はもう一度新潟でおこなって欲しい。だって「b
lack garden」など、最後は変わってしまったではない
か。もちろん現実に観ている舞台だって、全てを観ることはできな
いわけだけれど。神じゃないんだし。
 今回の新作は、たとえば暗くなって音楽が流れて幕がアップし始
める、そのスピードが生きもののようであり、その幕がアップした
瞬間に発生する光の水平線が、尋常ではない。
 そういうことだらけのようで、ダンサーの動きは、信じられない
動きをしているようにも思えるけれど、私には古典的と感じられて、
いいやそれよりは古典の蓄積の中から派生した“今”だと思えて、
だから当然古典の美も感じられた気がするのだけれど、それと共に、
作品中、スカートをつけた4人の女性が横に並んであらわれるとこ
ろからなどは、鬼気迫るものが少し、迫ってくる。もちろんあの部
分、楽しくて微笑むこともできる。
 この美しい作品、最初から最後まで観ていて落ち着かない気がし
なくもない。それは目の中に残った動くものの像が落ちつくまでに、
次の像が飛び込んでくる、流れ込んでくる、あるいは、さっき観た
像は、自分の身体を、自分の心を確かに揺さぶったのに、それはも
う何処にもない。目の前にはない。そういうところはまるでモーツ
ァルトのようで、音楽的だ。
 次から次へと流れ込んでくる、そのようなことがこの作品のほと
んどを占めるということで、観客ももしかしたらダンサーに乗り移
られて踊らされている、あるいは踊っているということになるわけ
だけれど、ただ、最後、物質化した身体とまるで人間に戻ったよう
な黒い服の男、あそこは、少し、違った意味で私は落ち着かない。
それはまるでそこだけ音楽から文学になってしまったような。 
  
 やさしい金森穣は、フィナーレなど、ロマンティックなペシミス
トだ。もう少し、あの真っ暗な中での音楽は、音を大きくしてもよ
いのではないのかと思うぐらい。
 なにはともあれ今回の美しい作品、前回の『Triple Bi
ll』、とくに「ラストパイ」で感じられなかったダンサー全体で醸
しだすにおいのようなもの、芳香のようなものが感じられるように
なった。金森穣にはっきりとしたビジョンがあるとしたら、それは
確実に、この社会の中に、物質化する方向に進んでいる。
(11月25日 午後7時 りゅーとぴあ 劇場)


[357] 本間 弘行 2005/11/27(日) 06:54 [削除]
[公演名] 天狗の杜 天女の橋 [劇団名] 新潟大学演劇研究部
 「天狗の杜 天女の橋」は、神話的世界を創造しているという
ところなのだろうが、私にはエコロジーやビオトープにつながるも
のが感じられて、正直なところ、そういうものを表現しているよう
にも思える作品は、プロパガンダの芸術と、何がどう違うのだろう、
と思ってしまう。仮に、そのような作品と、本質的なところは同じ、
あるいは、似ているとしたら、現代の作品の方が、より複雑で巧妙
になっていると思うが、やはり、すこし幼稚ではないか。なぜなら、
この私たちが生きる社会にだって、町の景観を守ろうという考え方
があるが、今あるものを今あるままの姿で保とうとする考えと、ち
ょっと強引だけれど、いわゆる自己組織化という考えは、同じ人間
の中で、どう折り合いがつけられるだろうか。
 さて舞台は、空間の静けさや人間の言葉、音としての声、その声
のひびき等を大事にしているかのようで、いろいろやっていく中で
結果としてそうなったとしても、このことには好感が持てて、これ
がそのまま演出の村木明日香が意図して作り出した世界であるなら、
私は、次回はもっと等身大の人物が出てくる等身大の物語を演出し
て欲しいと思う。たぶん、ひやっとする世界を作り出してくれるだ
ろう。
 ほか役者は、阿部里美と田村隼紀がとくに印象に残った。阿部は、
できることなら、山の冷気のようなものが醸し出せるようになって
欲しい。
(11月26日 午後7時 りゅーとぴあ スタジオB)


[358] 音庵 2005/11/30(水) 09:25 [削除]
[公演名] NINA-物質化する生け贄 [劇団名] Noism05
金森穣はロジカルだ。そして言葉では伝え切れないことがあると
いうことも含めて、観客に思いを伝えようとする。公演のたびにア
フタートークが行われるという、ある意味破格のサーヴィス。Web
上でのMonologue、プログラム、雑誌(Pas magazineの特集など)
その他での対談やインタヴュー、そしてゲネプロの公開など、意欲
的に手の内を明かしてきた。そこには、実際に見ることでしか伝わ
らないものについての絶対的な自信があり、その前段階として劇場
に足を運ぶことを求める思いの強さがある。実際に、公演ごとに新
たな観客が増えて来ていることは喜ばしい。玄人にも評価される質
と、難しいことはわからなくても素人目にもすごいと思える技と美
しさを兼ね備えた作品が生まれている。
Noism05は、no・mad・ic project、中越地震チャリティー公演ワ
ークショップ、そしてTripleBillと、比較的細切れの作品群が多か
った。今回のNINAは、1部40分2部50分、休憩を挟むが同じひ
とつの塊として成り立っている作品。身体表現に目が釘付けとなり、
同時に繰り広げられるダンスの物語性に頭が意味を追ってしまうの
で、見終わってどっと疲れるが、それは何とも心地よい疲労感だ。
TripleBillで外部振付家とコラボを経験した後に、金森穣とNoism
メンバーが改めて向き合い、これぞNoismというものになったが、
これはメンバーの入れ替えこそあれずっと繋がった流れの中にある
と言える。さまざまなものを通ったからこそ今ここに在るもの。
 幕開きから、客席側以外の三面を黒い幕に囲われた空間が出現す
る。恐らく裾にチェーン状のものが仕込まれているのであろう、幕
を上げて出入りする際には音を伴い世界が遮断される。1部・2部
とも幕切れはもう一方の、すなわち客席側からどさっと落ちる幕に
よりなされる。こうして方形の黒箱が成る。Box filled with…
皮膚の色に近いむしろ裸身にすら見えるコスチュームに身を包みマ
ヌカン(マネキン)のように固まった女性たちが佇む。その動きは
あたかもマリオネットのようで、続いて登場する黒服の男性たちに
よって操られ、あるいは翻弄されるかのように見える。しかし次第
に女性たちの動きはそれに抗うかのような素振りも示し、ゆるやか
にしなやかに動き出す(井関佐和子の美しさ)。無表情な、人形のよ
うな固定した姿の女性たちは、その制限された動きの中で凄まじい
身体コントロール能力を見せる。男性たちによるリフトなど、身を
預ける所作の中にもそれは伺える(特に激しく扱われる高橋聡子が
素晴らしい)。しかしダンサーは特別にキメのポーズで見栄を切るこ
ともなく、特定の誰かがクローズアップされるのでもなく、全体で
ひとつの大きな作品を作り上げていく。その意味でダンサーは自ら
を捧げていると言える。
見ていて、人間とは、そして人間の身体とは、人間の身体の動きと
は、こんなにも可能性のあるものなのか、こんなことができるのか
という感銘を受ける。思いもしない角度と方向への四肢の伸展・捻
転・飛翔。コレオグラファーとしての金森穣の才能を思い知らされ
ると同時に、それに応え得るダンサーたちの充実にも感動する。理
念がダンサーたちの身体を通して血肉化して行く。ソロやツインで
のダンサーの選択、モブシーンにおける配列など、ダンサーの身体
性や性質を金森がよく把握した上で最適のチョイスをしていること
が、改めて意識すると感じられる(それくらい自然)。
 ベーシックとして西欧のクラシック&コンテンポラリーなダンス
のテクニークがあり、そして今回は情念的な部分として日本的・ア
ジア的なものがクローズアップされているようで、この両面性は
TonThatAnの音楽にも言えることのように思う。また、今回の動き、
特に重心の低い歩きの所作などには地面への意識と親和がある。こ
れも金森穣がトークで触れていたことだが、期せずして辿り着いた
表現であろう。たびたび氏の関心の中で言及される鈴木忠志の
SCOTにおけるあの独特の歩き方と、もちろん別物ではあるがどこ
か共通性を感じる。(いわゆる暗黒系)舞踏やアングラ演劇とは別の
地平にあるようなコンテンポラリーダンスだが、金森の問題意識は
地球をぐるっと回ってこのドメスティックな世界にも及んできた。
そこに、単なるダンスを超えて心魅かれるものがある。(続)



[359] 音庵 2005/11/30(水) 09:28 [削除]
[公演名] NINA−物質化する生け贄 [劇団名] Noism05
(承前)
 女性たちを追い、倒して、抑えようとする男性たちに抗して、手
足を跳ね上げる女性たちの動きはどこかコミカルながら、やがて覆
い被さられていく様は痛々しくもある。性差やマッチョイズム的な
ものを感じるというアフタートークでの観客の指摘もあったが、確
かにあからさまなセクシャリティの表現もあり、見ていて自らの男
性であることに羞恥を覚えるような、内なる男性性の告発を受けて
いるような感覚を持った。これは男性である金森穣により描かれる
ことで実にいさぎよい自己告発となっているように思われる。ただ、
それは直接肯定・否定ということを語らず、そこにただ在るものと
して表現されている。上着を脱いで女性たちに覆い被さる男性たち
の群像で幕となる第1部、明けて第2部はほぼ同じポジションから、
中央には発光体のオブジェの中に蠢く姿があり、胚胎のイメージを
喚起する。そして中から女性(中野綾子)が「誕生」する。男性(青
木尚哉)によって、やがて彼女も繰り返される男女の物語(悲劇?)
の中に飲み込まれていく。あるいは重なり合う男女を窃視するかの
如き男(山田勇気)の姿。全体はセクシャルなトーン(エロティシ
ズムではなく)に貫かれているようだが、まずジェンダーとセクシ
ャリティに目が行くものの、そのことがテーマとされているという
わけではなく、メタレベルではさらに敷衍的に人間存在Human 
beingの在り方なども考えさせられる。男女の二項対立として区分
するのみでなく、いろいろな捉え方ができるだろう。
 自らの意思とは別に、翻弄され時に祀り上げられて行く女性の姿
は、原初的な宗教的聖性の発生を見るようでもある。折りしも旧十
一月の二三日は新嘗祭、「にひなへ」を想起させると言ったら穿ち過
ぎだろうか。NINA。聖なるものは多くの場合集団の中で特別視・
蔑視され犠牲となる。逆に言えば犠牲とされ生命を奪われることで
聖なるものとされていく。生け贄となること、大いなるものに自ら
を捧げることは、同時に選ばれたということでもある。それは宗教
的なものに限定されない。先に触れた身体表現の可能性について考
えると、舞台表現者として自らを供することは−金森穣自身が語る
ように−、それも生け贄である。選ばれし贄。それはまた殉教(殉
死)者でもあるだろう。特権的身体とは賜物であるが、ただ与えら
れただけでは維持し得ないものであり、与えられた身体を磨き上げ
鍛え上げていく不断の切磋が必要である。見世物として自らを捧げ
ることにおいて持つ誇りと自負。さまざまな表現方法がある中で身
体表現による道を選び、あるいは選ばれて此処に在ることに自覚的
である金森穣は、そのためにあるいは自らを犠牲にすることをも厭
わない。そしてダンサーたちにもその自覚を求めている。自分・自
我が消え去る無我の境地で表現のために自らを捧げる、その中でこ
そ自分は最も自分たりえること。大いなる逆説。それは「自分のい
のちを失う者はそれを見いだす」という、聖書の言葉にも通じるか
もしれない。

P.S チラシを見てたら来年NINA(Pt2)だって!更にヴァージョ
ンアップか?


[360] 本間 弘行 2005/12/04(日) 06:50 [削除]
[公演名] 大阪物語 [劇団名] 未知座小劇場
 シャコンヌがギターでムード歌謡曲のように流れて、女が能の
シテのような動きであらわれて口上を述べるまでと、タップダンス
を二人で舞う、その踊りの一回目と、突然女が「国家とは」と投げ
かけてG線上のアリアが流れるところ等がとくに印象に残るが、他
はややというか、かなり中途半端だ。
 豆腐が壊れないように豆腐の角に頭をぶつけるなど、この芝居全
体の随所にあるアイデアは悪くはないように思えるが、では本当に
豆腐の角に頭をぶつけて死ねるかどうか、そういったことを真剣に
考えられるのが、そこまで無駄が徹底できるのが、人間の想像力な
のだ。
 部分的にはおもしろいところがあるのだけれど、全体的には何も
立ち上がってこない。
たとえば自分たちがしたいことを自分たちがしたいように作ったっ
ていいけれど、2時間30分のほとんどは、一つのパターンを、内
容を変えて繰り返して使っているだけであり、どれだけ努力しよう
が、どれだけ情熱を押しつけられようが、どれだけメッセージを送
り込まれようが、それだけでは、これも演劇の一つだと言うことは
可能であるが、少なくとも私は別に、どうってことない。ただ私に
はバーナムの森は未知座小劇場に向かって進んできているように見
えるだけである。
 極端だけれど、「無駄が演劇営為たりうるか?」だなんて、あまり
にも時代錯誤だ。それで良かった時代もあったのだろうが、今その
ようなことを言われても、美術館で忘れられた過去の誰かの作品を
観ているような思いだ。
(12月3日 午後7時 シアターent.)


[361] さとこ 2005/12/04(日) 17:44 [削除]
[公演名] 大阪物語 [劇団名] 未知座小劇場
「美しい沈黙」は役者二人が声高に呼ばわるも降臨の兆し無し。
その切なさが、全編賑々しいこの芝居の通奏低音。笑いの底にある
淋しさが胸に迫る。
昔よく見たような芝居だなとも思うが、古臭さは感じさせない。「大
阪」の迫力が確固たる伝統(スタンダード)であることに寄りかか
らない、というか、それは大前提なのであった。「大阪」てんこもり
だからオールOK!伝統文化はすべからく古臭いものだけど、古臭
いのひとことで退けられるほどヤワなものではないのと同じことで
しょう。
玉に瑕はエレクトーンの生演奏。タップと歌唱と手話と英詩の朗読
ほどに、いま少し演奏の腕が上がればもう完璧。それだけが惜しい。
とは言え、そこかしこに見られる余裕ともいうべきものは即ちこの
劇団の奥の深さを伺わせるに充分。
また見たい。もう一度見たい。

[363] 黒肉 2005/12/05(月) 21:53 [削除]
[公演名] 大阪物語 [劇団名] 未知座小劇場
故鹿狩道三氏の舞台を記憶している僕にとって、「CQ〜CQ〜、こ
ちら出力・・」の台詞(故人が未知座出演の際に冒頭を飾った印象
的なモノローグ)は、もういきなり涙ものなのでした(T^T)/~

物語の構造はいたってシンプルで、ようするに「セロ弾きのゴーシ
ュ」なのやね^^;
「大阪語」にこだわるラ−メン屋の出前、マクベスをオールドイン
グリッシュでかけあう郵便配達婦、元近鉄ファンゆえに「半身」阪
神タイガースファンのたぶちさん、そして枕のなんたるかを指南す
る落語のお師匠さん。
曼珠沙華演じる4つのキャラ(しかし、同一人物?)は混信をくり
かえす打上花火演ずる電波系?キャラに「軽やかにジャンプ」し、
リアルな着地点を提供し続ける。
とにかく、くどく。ひたすらべたに(^^*)
さすがに「もういいんじゃないの〜?」という頃合に来ても、追撃
の手は緩まない。
そしてとどめの「マクラ落ち」^^;
鍛え抜かれた役者とこだわり抜いた演出・・こういう芝居を古いと
感じるほど、現在流行の(それって別に素人がやってもいい味やん
か?)みたいな芝居には魅力を感じていない自分に気がついてしま
いました。

故人の愛したニジンスキーのボレロを彷佛とさせる円卓に落ちたマ
クラは、果たして未知座小劇場と闇黒光という作家を「軽やかにジ
ャンプ」させることが出来たのか?
来年以降の「テント公演復活」を高らかに宣言したマクラ。
故人もそんな未知座のやり方、ここまでベタにしないと宣言出来な
い「スーパーシャイ」な部分を、微笑ましく見守っているだろうか・・
いい芝居でした(^^)/


[364] 音庵 2005/12/07(水) 14:42 [削除]
[公演名] 大阪物語 [劇団名] 未知座小劇場
未整理ながら。
溢れかえる言葉の洪水に触れると、ついそのテキストを読みたくな
ってしまう習性が自分にはあって(それは個人の問題なのだが)、今
回は芝居を見る前に台本をダウンロードしてチラ見してしまった。
おかげであの展開を大体把握して見れたが、その分衝撃度が下がっ
てしまったとも思う。それを考慮しつつ。まずは自分が中途半端な
年齢にいることを実感した。必ずしも否定的にではない。若い世代
はリアルタイムでこういう世界を知らないだろう。一方、往年のこ
の熱い空気の中にいた方々には、もう懐かしくてたまらない感覚で
あるはず。自分はかろうじてその雰囲気のようなものは知っている。
entロビーの鹿狩道三氏他の写真を見て、ああこういう濃いぃメイ
クの感じあったなあ、あの頃芝居を見に行くのは結構怖かったし、
役者もおっかなく見えたし(シダさんとかもね)、でも非日常を覗く
事のできる不思議な興奮があったなあ、としみじみした。今回はそ
のドキドキ感、何が出て来るのか怖いなあ感がそれほど満たされず、
普通にああ、濃い芝居見たなあという感じだったのは、重ねた年月
のためか前述の予備知識のためか?こうした情念という言葉の似合
うアングラ的な芝居や舞踏は好き嫌いもあって、それはもう食べ物
の好みのように何といってみようもないが、好きではなくても(例
えば暗黒舞踏など)見ていてその肉体的表現の凄まじさは認識でき
る、ということもある。馴染みのない層にも響くその凄さのような
ものが、どれだけあったのかという点で物足りなさを感じる。
打上花火と曼珠沙華は、もはや若いとは言えないのに(失礼)あの
テンションと台詞の血肉化と器用さが素晴らしいと思った。けどお
っかなくない。いい人たちっぽい(それが悪いわけじゃないが)。能
的歩行、タップ、歌唱、演奏、古英語、落語…、いずれもそこそこ
こなしているだけに、逆に突き抜けた感が薄い。個々に見れば専門
家には敵わないわけだしその必要もないのだろうが。言葉遊びの脱
線の繰返しに時折にやりわははと反応しながら、「論理的整合性で立
ち上がっていかないドラマ」ではなく瞬々に立ち表れる劇的表現・
瞬間のドラマに陶然となる。その濃厚な台詞に酔う。この感覚はや
はり懐かしい。往年のファンも、キターって感じなんだろう。しか
し「待ってました」は予定調和に陥る危険もある。ネット、ヘッド
マイク、キーボードなど小道具や台詞のネタは21世紀的でも、方
法論は変わっていない。ただ昭和の芝居を今も営々と続けているの
ではないというエクスキューズのようにも見えるので、いっそ古臭
い仕立てでもいいじゃないかと自分は思うのだが、時代と切り結ぼ
うという思いなのだろうか。この中途半端さが、現在に生活しなが
らこういう芝居をやるリアルさなのかもしれない。しかし新しさと
は小手先の何かではないだろう。
大阪的・関西的感覚は自然コミカルさを醸し出す。どろどろ感はこ
れで緩和されている気もするが、これを関西でやれば客の反応も大
分違うと思う。六甲おろしでは合唱になるかも知れない。ただ完全
には把握できない関西弁のニュアンスや地名の意味喚起性、また速
射砲のような地口の面白さなどは、他所では十全に伝わらない事を
前提にしているのだろう。阪神神戸の震災に言及し、中央政府との
精神的訣別・自立を謳い「関西語」国語化と国歌制定を、というテ
ーゼは、実際の関西独立云々ではなくすべからく心は縛られないも
のであり解き放たれるべきだという主張であり、十全に孤立し気楽
にジャンプ、個人個人が独立できるというシンプルなメッセージで
ある(ただうがった見方だが、東京に対する関西という図式は関西
人独特の自意識が背景にあると思う。関西は日本の中心足りうるし、
他地方でも関西弁ならそこそこ意味は通じるという普遍性の意識が
あるのではないか?同じことを他の方言でやれるかというと、大分
違うニュアンスが生じるはず)。テーマの一つといえる異言語間の交
通について言えば、字幕を使った古英語(OE)もハングルも手話も、
また(あえて)坪内逍遥翁の翻訳使用も、伝える意思と同時に100%
のニュアンスは伝わらないという諦観が同居している。伝わらない
事をそれでも伝えようとするもどかしさは、インターネットラジオ
に混線するハム無線のノイズにも見られる。時空を超えて、呼びか
けられる言葉、そこに込められた思いは、要はアモーレ・ミオ、テ
ィ・アーモではあるが、それは誰に向けられたものであるのかが問
題なのではなく、伝えたいと迸るその思いの強さこそが観る者に伝
わる。それはまた芝居・演劇的営為の本質でもあろうか。


[368] 本間 弘行 2005/12/11(日) 09:55 [削除]
[公演名] 踊りに行くぜ!! vol.6
 「踊りに行くぜ!!」のいちばんがっかりするところは、主催
者は昔でいう啓蒙が主のようで、またダンスはダイジェスト版のよ
うで、まったく物足りないところだけれど、今年は全体的には尹明
希がいちばん印象に残った。ただどうしても、振付が尹明希で、踊
っているのが堀川久子だったらという思いがして、少女のような外
側と、その奥の女とのあいだに生まれるギャップ、そのようなもの
があそこで表現されていたとしたなら、それはやはり、情念がたと
えばにおいのように、緊張感だとか葛藤だとかが質感だとか密度を
もって、軟体の流体のように押し寄せてくる、そういったものがあ
ってもいいはずだと思うのだが、それはなくて、あんなに動いてい
るのに、なんだか無機質の、作られた都会の喧噪の、体温のないサ
イボーグのようで、だからこれがもちろん身体の調子の良いときの、
堀川久子だったらと思ってしまって、やむを得ないのだ。
 いったいダンサーの身体はもう少し体温があってもいいと思うの
だが、そういうことであれば、その前の花嵐の、愛のロマンスが流
れているところ、あの辺りは限りなくモノになりながら、それでも
動いて、これは会場が違って、あともう少し長い時間だったなら、
名場面だ。
 今回の巡回公演、昨年のような派手さあるいは強烈さはなかった
と言い切ってしまいたいところだけれど、今年はダンスというより
も、舞踏のようで、単純に言ってしまえば、尹明希はときどき下か
ら上に向かって別だけれど、上から下に向かう重力に抗わない動き
が多いように思えて、花嵐には実際、舞踏をしている人がいるよう
だ。あと、少し異質な白井剛などは、踊りを手段にした、演劇のよ
うな、おもしろいパフォーマンスでもある。
 最後に、尹明希のところで松本じろが演奏をしていたけれど、こ
の人は、大きな音、強い音を出すけれど、出しゃばらず、ダンサー
とコラボレーションするという類の、たとえばトリスタン・ホンジ
ンガーみたいな演奏家というよりは、大げさに言えば、昔の、クラ
シックの世界での、たとえばカザルスと組むホルショスフキーみた
いな人だ。
(12月10日 午後7時 りゅーとぴあ スタジオB)
 
 

[369] 本間 弘行 2005/12/12(月) 09:44 [削除]
[公演名] 静かに、そして船が [劇団名] 演劇集団Lada Trosso
 ライヒみたいな音楽や、マイケル・ナイマンみたいな音楽が使
われたり、ビョークが使われたり、太鼓を使って演奏がおこなわれ
たりしても、まず音楽との格闘がない。その場面で表現したい感じ
と、たとえばビョークの音楽から受ける感じが多分混同されてしま
っていて、逆転してしまっていて、乗り移られてしまっていて、だ
から結局、芝居が壊れて、音楽の方が勝ってしまっている。
 「この国は生きにくい。しかし、私は生きている。」のだそうだけ
れど、ではこの国は生きにくいと言い切ってしまって、登場人物に
そう語らせてしまって、事前資料にもそう書いてしまって、本当に
それでいいのだろうか。
 「しかし、私は生きている。」のだそうだけれど、だから、なんな
のだろう。
 私は生きていると言われたところで、そのまま船に乗ってどこか
に行かれてしまれては、なんのことだかさっぱり。
 取りあえず何をしてもいいから、生きているその中身を、もうち
ょっとでいいから表現して欲しいのだけれど。
 最後に、照明は奥行きがあって、これはすっきりしていて、とて
もよかった。劇の最初の方で、太鼓を持って役者が勢揃いをして、
よせばいいのに演奏を続けて台詞を喋ってダランダランと身体を動
かしてリズムをとったりしたときは、途中退場しようかと、初めて
思ったけれど。
(12月11日 午後1時30分 シアターent.)

[370] 音庵 2005/12/12(月) 12:00 [削除]
[公演名] その鉄塔に男たちはいるという [劇団名] 創造集団
Area-Zero
まず戯曲としてなかなかタイムリーで面白かった。イデオロギー
は結構はっきりしているが、その反戦的なメッセージが強いものの
さほど気にならないのは、リアリティがあるからだ。この点、(今度
ミネルヴァの梟でもやるらしい、奇しくもお笑いコンビが登場する)
「WINDS OF GOD」のように前大戦時の若者たちに感情移入するフ
ィクショナルなアプローチよりずっといい。
ネタバレ。
どこか亜熱帯ぽい場所で、自衛隊かすでに自衛「軍」なのか(恐ら
く後者)が派兵されている。日本は「この1年くらい」急速に雰囲
気が変わり、ついに参戦している。この辺りが非常にリアルな設定。
近いうちにこうなって不自然ではない。まあ今も日本は既に「参戦」
しているのだ(しかし1999年の作品というのはすごい)。そこに慰
問のため日本からやって来たコントグループ「コミックメン」だが、
団長の迎合的・戦意高揚的ネタに嫌気がさし、メンバー4人で駐屯
地から逃げてとある鉄塔に辿り着き、総攻撃の終わるまで1週間だ
け隠れようとしている、そういう状況の夜の場面から始まる。リー
ダーシップを取って規律を守ろうと緊張する上岡、むしろ束縛され
ない自由を大事にしようとする笹倉、真面目で一本気な木暮、マイ
ペースでグループではあまり重要なポジションにいない吉村。彼ら
は追われている状況の中で、微妙な意見の食い違いをしていく。吉
村は帰国したらやりたいネタでショウを、と稽古をはじめる。そこ
に現れた軍服姿の城之内に皆緊張するが、彼は反戦的な兵が味方に
闇討ちされたり戦闘中の殺戮を嬉々として語るような異様な雰囲気
の駐屯地から、「人を殺したくない」と脱走してきたのだった。状況
を聞きながら不安の増す彼らだが、そんな中メンバーの対立が深ま
る。それは付近の見取図を作ったり、見張りを立てたり、水汲みの
当番制だったりといった些細なことがきっかけなのだが。ピリピリ
している上岡・木暮と、のんびり、せめてポーズだけでも、したい
笹岡、吉村。間に挟まれる城之内は、あまり物を知らないのだが彼
らのネタに感動したことを伝え、一緒に稽古をしたりして絆を深め
ていく。こういう小さな集団でも、状況によってはなかったはずの
対立が深刻化すること、例えば当初から話題になっていた、上岡が
来ているTシャツは木暮が吉村にあげたものか、笹岡が置いていた
ものを吉村が勝手に着たのか、というような言い争いは、要はその
ものに価値があるのではなく自分の主張を認めさせたいだけなのだ、
ということが自戒を込めて語られる(そこまで言っちゃうか、とも
思うが)。人の対立なんてそんなものだ。それを超える英知を人間は
持たないのか。というのがテーマ。
やがて夜間始まる戦闘の音に緊張する5人。戦闘終了後、鉄塔に兵
たちが近づく。城之内は、仲間を「処分」したグループであること
に気づき、自分を殺しに来たのだからと出て行こうとする。しかし、
背後に捕われた団長の姿を見て、4人も一緒に殺されることを確信
する。そして、開き直った彼らの最後のショウが始まる・・・。
一貫して、彼らの敵は日本の敵国ではなく、むしろ日本軍でありそ
ういう日本の群集心理なのだ。これまた現在の状況と重なる。テー
マや主張は言わせてもらえばナイーブ。そしてストレート(過ぎる
かな)。しかしやる意義のある芝居だったと思う。「コミックメン」
オープニングのテーマソング、繰り返されるがそれほど上手くない。
まあネタがあまり受けない?集団らしいので、それもまたアリかな
とは思う。セットもスタジオなりに力が入っていたが、もう少しジ
ャングルぽくできそう。それは100均ぽい蔦やラティスより、ドロ
ップさせた布でもよいし、要するに少し綺麗過ぎる。また細かいこ
とを言えば城之内の軍服・メットなどももう少し汚してほしい。演
技は上手いというよりは丁寧で、各自のキャラクターがよく立って
おりストーリーがわかりやすいのは美点。せっかくの男芝居だけに、
もうちょっとワイルドさがあってもいい。みんなどこか行儀がいい
のだ。品があるというか。作品としてはあっているかも知れないが、
剥き出しの感情がほとばしるともっとリアルになるだろう。でも長
岡でこういうことをやってもらうと非常に嬉しい。

[372] 音庵 2005/12/19(月) 13:05 [削除]
[公演名] 今度は愛妻家 [劇団名] パラグラフ
サードステージ関連の戯曲というのは後で知ったのだが、ほほう、
という感じで、なかなかビタースウィートな戯曲をチョイスしたも
のだ。ある意味役者の年齢感に合った、少しオトナの芝居で、その
点は前回の連続上演にも重なり、パラも10年前には出来なかった
芝居だよなあと思う。当初台詞の際どさやシチュエーションに、こ
れってちょっと後期MAMEカラットぽい、と的外れなことを感じて
しまったが、三十路にかかる、でもオリジナルよりは少し若目の「愛
妻家」となっていた。当初の印象は新境地アダルト路線、しかし着
地点はパラらしいハートウォーミングで少し切ない感じ。多目的掲
示板でも話題になる「〇ャラメル〇ックス的な芝居」の是非につい
てはまた別の問題になるが、これは別物ではあるが、パラグラフが
ある意味〇ャラメルぽい部分は、役者のキャラクターがある程度固
まってきて、この役者ならこの役柄というのがはたから見てもある
程度予想がつき、そのピースを上手くはめ込んで芝居を作れるとい
う安定感がある(内情はそんな楽なものじゃないと承知で言う)。そ
れが長短両面を持つ。しかし時にその予想を超えて殻を破る役者が
出てくることでパラは「生きて」いく。多少ミスが目についたこと
は事実。稽古期間その他の事情は上演する上ではあまり酌量されな
い。自分は17日の方を観たのだが、ダブルキャストは両日全く違
う感じの役者なので、これは見てみたいなあと残念に思った。
以下ネタバレ。[かつて様々な人の顔を写した初写真集で話題となっ
た気鋭の]写真家だが今はグータラと仕事をしていない北見俊介(松
本章嗣)、物忘れの激しい[という設定で度々はけてはまた登場する]
妻さくら(山形理奈)は某TVの影響を受け人参茶など健康に気を
使い、また結婚してからとんと「営み」に精を出さない(きゃっ)
くせに浮気心を出す俊介に不満のさくらは沖縄への「子作り旅行」
に連れ出す。ここでダンスが入り(なくてもいいんだが…)、明けて
1年後の相変わらずだらだらした感じの俊介の姿。ここには1年後
も変わらない日常が続いているんだなと客に思わせる台本の巧みな
ミスリーディングがある。近所のスーパーなど大したことのない仕
事ばかり助手の誠(田邉義和/18日石山匠)にやらせて、自分はカ
メラを手にしない。飲み屋で知り合った女優志望の蘭子(中村照美
/18日鷲尾希)が身体を張って俊介に迫り、宣材写真を撮ってもら
おうとする(中村のまさに一皮むけた脱ぎっぷりとその後のずるさ
や懸命さの混在した微妙な感情表現に拍手)。俊介はすけべ心を起こ
しながらもコトに及ばず誠に任せる。結果ふたりは接近する(誠は
すでに蘭子を見初めていたという説明もある)。一方足繁く出入りす
る初老のオカマ文太は(小林将志は相変わらずのくねりを見せるが
あまり違和感なく自然)それとなく俊介を暖かく見ている。さくら
は働こうとせず浮気心を動かしてばかりの俊介に、当てつけるよう
に旅行に出たり、曰くありげなマッサージ師サトル(五十嵐忠春/
18日小林素秋、五十嵐の妙な間と変な台詞回しが実に面白かった)
を呼んでみたり、俊介の好みに合わせたメイド姿のヒトミ(媚山美
智/18日池上亜矢、媚山のメイドがはまっていた)に誘惑させたり、
弁護士の大山(池上亜矢/18日媚山美智)に離婚請求の脅しをさせ
たりする[これらは潤色してある部分か?面白いが少し長いかな]。6
年ほどの交際期間を経て、ごく自然に結婚し、その後6年ほど空気
のように一緒にいて、子作り旅行に行って。いつまでも続くと思っ
ていたこうした日々は、実はフラジャイルであった。久し振りに手
にした使い切りカメラでさくらを撮った後、現像された写真を見て
俊介は部屋をうろつきながら画像を確かめて呟く。「おまえどうして
死んじゃったんだ」。ここがある意味クライマックス。ざっと遡って
思えば、さくらの登場シーンは全て回想か、あるいは誠・文太・蘭
子とかぶらないシーンで、俊介にしか見えていないことが想起され
る。1年前沖縄旅行の最後に事故で亡くなったさくら、その後写真
を撮れなくなった俊介。写真を撮る事は対象に向ける愛情の象徴。
しばらく魂の抜けたような俊介を案じて文太[さくらの父親]が誠に
給料を払って俊介を見守らせていたこと。現在のクリスマスシーン
で説明されるこうしたことは言わばエピローグで、あまりくどくど
説明しなくていいと自分は思うのだが、これって台本の問題なのか、
女性的な視点と言うと語弊があるか。すっきりさせてもっと短縮で
きそう。最後に2人きりの場面でさくらと俊介の思いが交わる。不
在ゆえにこそ深く感じる絆を、持ち続けたい俊介に、そこから歩き
出すことを促すさくら。美味いと思うようになっていた人参茶が改
めてまずく感じたことが、俊介の呪縛が解けた暗示なのだろう。し
てみるとカーテンコールで2人が再び語らうサーヴィスは、気持ち
はわかるが無い方がよいな。


[373] 本間 弘行 2005/12/19(月) 15:48 [削除]
[公演名] パペット・マシーン  私のビートルズ2005 [劇
団名] TheatreGroup“OCT/PASS”  劇団五十嵐劇場
 まずハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」みたいな
タイトルだなと思ったけれど、照明や衣装などの色彩はそれほど追
求されたものではなく、土に色を塗ったようで、たくさんの色はあ
るが、それらは少なくともぱっと見てあざやかなものではない。ま
た仮に、今回の構成された物語に、諷刺だとか諧謔だとか、呪詛だ
とか反逆だとかがあったとして、ではその中の諷刺の部分は、これ
は簡単すぎるほどであったが、他は、どうだろう。
 演技は、暗殺される王が、その動きだけは少しク・ナウカの「ト
リスタンとイゾルデ」でのマルケ王みたいであったが、他は、やは
り人間である。マシーンではない。
 (12月17日 午後7時 シアターent.)

 劇団五十嵐劇場の「私のビートルズ2005」は、仙台での公演
を観たが、会場であるせんだい演劇工房10‐BOXのbox1は、演
劇をする会場として考えるなら、残響がそのままではやや長い。そ
れによって、新潟での公演と印象が異なるものになっていたが、そ
れにしても本番中の舞台に立つ役者は仲間の声が、どのようにきこ
えていただろう。
(12月18日 午後3時  せんだい演劇工房10‐BOX  
box1)


[374] アレクセイ 2005/12/20(火) 03:09 [削除]
[公演名] パペット・マシーン   [劇団名] TheatreGroup
“OCT/PASS” 
まずは、走りきるよう舞台に拍手なのであろう。
タイトルの響きにつられ、新津のシュヴァンクマイエル展とセット
のつもりが突然の寒波で観劇のみ。舞台上のセットは日比野克彦的
な段ボールの舞台。東京や新潟駅の段ボールハウスを世界観に意識
したのか?チラシによると仙台の劇団らしく仙台にも段ボールハウ
スの城はあるのだろうか?パペットと銘打つも出てくる役者はみじ
んも人形ではない。悲しい位、人間そのものの存在の浅さを笑うが
ごとく人間臭い。終始緩い笑いで物語を進行させる事は自覚的であ
るのは判るのだがもう少し整理するべきではないか。混沌とした今
の世の中をそんなにまじめにはもう語れないってことか。だが、最
近なのに古い出来事を台詞の中に入れる事がメディアから流れるも
のより薄くなっているのはその対となる虚構の側からの今の人間に
対する諷刺を強烈に示せてない事で成立できていない。記号的に死
やお金が扱われ、洪水のように発される言葉の先を次は観せて欲し
いと思う。

[376] 本間 弘行 2005/12/24(土) 07:46 [削除]
[公演名] 中心犬物語 [劇団名] 劇団マジカルラボラトリー
 たとえば少し前からパッヘルベルのカノンが流れて、そのまま
暗くなって、また明るくなって舞台が始まるのだけれど、どうせな
ら明るいまま、役者に登場して欲しかった。また劇中、停電になる
場面があるけれど、あそこはもう少し、長くしてもいいように思う。
それと、会場は演劇に向いた建物ではないけれど、そんなことを感
じさせない公演をした団体が過去になかったわけではない。だから
もう少し、役者の声は、あともう少し、なんとかなって欲しい。た
だあともう少しだけ、大きい声が楽に出せるとか、強い声が出せる
ようになるとか、多分そういう技術的なことと、身体についての、
メンタルなことだ。そういったことが、とても弱い。
 それでも、今回の芝居は、私はおもしろかった。おとなしく滅茶
苦茶なんだけれど、観ていて疲れない。
 なんというか、妄想のような想像力で世界を作っていって、それ
も言葉で、物語で作っていって、おおよそ調和している。だけれど、
それをどのように見せているかということになると、物語を産み出
したエネルギーほどには力が感じられないというか、密度の弱いと
ころがあって、残念なのだけれど。
 役者は、先川史織と渋谷卓明がとくに印象に残った。また照明も、
犬小屋(?)の中から床を照らすところなど、美しくて、なかなか
よかった。他にも犬小屋の使い方や、台車に乗って役者が登場して
くるところなど、細部はとてもがんばっている。
 この劇団は、既存の台本も試みて欲しいと思う。きっと、なかな
か意欲的な舞台を作ってくれるのではないか。
(12月23日 午後7時 万代市民会館6Fホール)


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