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例の掲示板「1ページレビュー」2006年記録
[377] 音庵 2006/01/01(日) 00:13 [削除]
[公演名] 小林賢太郎ソロコントライブ・ポツネン
小林賢太郎がラーメンズを、ということは片桐仁との関わり合い
の中で生まれてくる笑いを、大切にしながら、同時に多方面の活動
にも才気を見せているのは周知のこと。今回は、そのエッセンスが
より濃く出た形でのソロコントライブで、本人もコントの可能性と
力を信じていることが各所で語られている。そして、コントのあり
方について、その手法も含めて境界線を広げていこうという意図が
見える。
物販でラーメンズのピンバッヂがガチャガチャであったが、これも
またひとつの仕掛けとして楽しめた。
今回は、ビデオカメラを使った、クローズアップマジックをもじっ
たクローズアップでカードを使った「アナグラムの穴」や、CG画
像とコラボレーションしたものや、ラストの幾何学的パネルを使っ
たものなど手法に凝っているものが印象に残るし、客席との掛け合
いも含めた話術や、自分のキャラクターをうまく使ったネタなどが
ソロとしてできることをできるだけ盛り込もうという意図として伝
わってくる。自分にできないことはしない。アナグラムもそうだが、
言葉への、ロジックへのこだわりが小林の問題意識でありまた資質
でもあることがわかる。片桐やエレキコミック、バナナマンといっ
た仲間たちの資質であるキャラクター一発勝負的なそれとは少し方
向性の異なる、ある意味知性の勝った、そしてそれゆえの自負とコ
ンプレックスが彼にはあるのだろう。ひとりで十分、というのでは
なく、あえてポツネンという表現を用いるところに小林の自己認識
とつつましさを見る。ネタとして意外なところで関連性があり、ト
ータルで魅せていく、そしてしっかりラストで話をまとめていくあ
たりは流石。爆笑系のネタではない知的くすぐりのものが多いのだ
が、新潟の会場はどうも笑いの沸点が低いというか暖かい客であっ
たが、それは今回決してマイナスではなくよい方向に働いていたと
思う。批評するために来ているわけではない、楽しみに来てるんだ
からね。よいわさ。
[378] 音庵 2006/01/06(金) 17:00 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
あくまで個人的にだが、これは2005年度高校演劇県大会のどの
発表より質が高かったと思う。もはや「中高生にしては」とか抜き
で語るべきクオリティである。昨年entや万代市民会館で上演され
たものでもこのレベルに達していないものがどれだけあっただろう
か。才能だけではなく、与えられた環境の中でぬくぬくやっている
甘さとは異質の、自分たちで会場を借り公演を打つ大変さを引き受
ける覚悟が(制作面には不備もあるが)緊張感のある舞台を生んで
いる。戦慄せよ高校演劇部(及びアマ劇団)諸君。
よって自分も遠慮なく批評的視点で語ろう。まずはよいところ。昨
年のFullmoon同様、ほぼ無対象演技のシンプルな舞台。今回あえ
てダンスは封じ、しかし抽象化された身の所作が美しく印象的。こ
れが精神世界の表現として、また場面を繋ぎ切り替える役割を果た
す。全体にセンスのよいスタイリッシュさはどこか能楽堂公演を思
わせ、発声のシズル音などもりゅーとぴあ仕込み。非常に鍛えられ
ているし役者の気構えがよい。またプロローグからエピローグまで
を場面を上手く構成して配列し、その上でラストに向けてストーリ
ーを織り上げていく作劇の巧みさ。狂言回しとしての「砂」の存在、
人物と「アスター」の演じ分けなど演出が冴えている。衣装として
は「砂」濃鼠色のフードマントや、灰色のジャージ布が覆いとなっ
たりボタンを留めて「アスター」としてのマントになったり、工夫
されており美しい。砂音であり水音でもある通奏音、「砂」を中心に
発せられる無声音や息音。終盤での「子守唄」については、多少疑
問もあるが劇を損なってはいない。トータルで優れた舞台表現。何
人かの役者の目に光るものがあり、話に感情移入していることはよ
くわかる。役者の涙については各論あるが、感情に溺れていないの
であれば、今回のそれは素直に受けとめられた。ああ純粋だなあと
ちょっと自分がドス黒く思えたことよ。
一方、表現される内容は、実は結構浅い(と自分は思う)。テーマと
しては50字くらいで表現できそう。Fullmoonと同様、身近な問題
を中心にして生と死を考える点は現在の素直な問題意識なのだろう。
そしてあくまでもポジティブな方向性に、絶望に陥らず希望を持た
せる終り方もまた、自分たちの思いなのだろう。これを否定するこ
とは意味がない。しかしまた浅薄さは否めない。もっと突き詰めて
考えられるテーマなのだ。表現する手法に対し、表現される内容が
少し軽い。今後この点を追求して欲しいが、だからといって無理に
背伸びをすることはない。自ら熟するだろう。それが楽しみ。(続く)
[379] 音庵 2006/01/06(金) 17:02 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
では少し細かく。ネタバレ。見てない方は後でお読みください。
冒頭、舞台後方に吊られた布を渡されて上手から下手へ移動する
人々は、いわゆる「アスター」であるらしく、その所作から(リス
トカットによる)自殺者であるようだ。彼らのいる世界は深い森と
して表現され、現実世界のすぐ隣に存在する。生前の記憶を失い自
然の一部としてそれを保つ「働き」をしているらしい。列に続いて
現れる真央(黎明期でも魅せた岡田光恵が好演)の姿が回想として
クローズアップされる。真央はルックスも成績も性格もよく、出来
は悪いが優しい恋人・太一(能楽堂「冬物語」で活躍した南拓哉)、
姉を慕う素直な弟・潤(上田駿)、友人まゆ(今井美沙子)里奈(末
永優)に囲まれ、一見幸せそのもの。しかし友人や先生に「頑張れ」
と言われることの見えない重圧や父と弟の面倒を見るため気を張っ
ていることに加え、「頑張りすぎて自分を必要としていない」と太一
から別れを告げられて、真央のこころは崩れ自ら手首を切る。この
事情がべったり語られず断片的に事実がわかっていくのは上手い。
そして真央の死に対し、太一も、潤も、まゆと里奈も、ショックと
彼女を追い詰めた自責の念にかられる。
死んでアスターの世界に来た真央は自分を忘れ、映し身である影(町
屋美咲、素晴らしい)に伴われ夢として生前の追想をする。アスタ
ーたちの中にも人間の(生前の)世界に強い思いを残し自分を問い
直そうとする者が現れる(傳川光留)。そして自分が自殺したことに
思い当たり、悔恨とともに傷口を見つめその存在は変化する(どう
なるのか?昇華?)。やがて真央も目覚めて行く。そして自分が弱か
ったことを認めて悔いる。一方残された者たちは悩みながらも、し
かし生きていくことの尊さを考える。
えーそれで死ぬのー?と自分などには思える些細なことで死に走る、
というのは若い人には実感的なことなのだろうか。もちろんそれに
Noと言うための話なのだが、どうも死があっけない感じがする。一
般に若い人の芝居では「死」の扱われ方があまりに軽いことをよく
感じる。もっと考える余地がある。
そして、「頑張れ」と言われることの辛さを描きながら、結局それに
耐え切れなかったのは弱いからだ、ということになるのはどういう
ものだろう。
頑張って生きなきゃというのは当たり前だが、自殺者はみな一様で
はない。確かに真央のケースは耐え得る程度のものに思えるし、だ
からアスターとはそういう「弱い」自殺者の群れという設定なのか
もしれないが、しかしもっと深い苦悩、生きる事が苦痛でしかない
極限状況の絶望に対して、「頑張れ」という言葉は無力だ。そういう
人に対してこの芝居は届くだろうか?(いぢわるな見方かな、ごめ
んね)。
「砂」は当初この世界を操るかのような超越者に見える。しかし次
第に、人々の営みを見つめ、人の在り方に興味を抱き、見届けよう
とする。その設定が少しわかりにくい。別に説明する必要はないが、
前半と後半で性格がずれるように思う。人外の存在として性別はな
いのかと思うが「僕」「私」の使い分けがあるなど、多少気になる。
役者は基本的に上手い。岡田さんは流石に感情豊か。真央と並ぶと
まゆ、里奈は(実際そうなのだろうが)やはり少し幼い。それぞれ
キャラが出ていたのはよかった。末永さんは立っている時の手の扱
いに気をつけるといい。
男性陣がそれぞれ役に合ってよかった。南君の立ち姿は堂々として
凛々しい(太一が真央に言ってることは情けないが)。傳川君は脳ま
で筋肉の市村先生とアスターをよく演じ分けた。上田君はひょろっ
とした頼りなさと真直ぐなひたむきさが潤として説得力あり。
ちょっとフェティッシュなことを言えば町屋さんの足拇指の開きが
いい。表情豊かで、このまま大女優となってほしい(白石加代子の
ような)。
遠藤さん大山さんは出ずっぱりで難しいまた大切なロールをよく演
じ、存在感がありかつ芝居を妨げない。どこか感情を殺しながらも
終盤それを見せていく。一歩引くことで舞台を作る要となる。
まだ慣れていないとは思うが、受付やアナウンス、会場案内(特に
始まってからの誘導)などはもう少し頑張って、観客の立場でもの
を考えましょうね。これから続く公演の益々の成功を祈ります。
[381] 本間 弘行 2006/01/07(土) 09:24 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
やはり気になるのはその言葉の弱さだ。劇の雰囲気は、最初は
まるで魔法が出てくるエンターテインメントな外国の映画みたいで、
よく練習されているし、典型的に視覚的で、まぁ、よいのだけれど、
後の方になるにつれて、なんだか教育の手段としての演劇みたいだ。
もちろんそういう演劇もあったっていいのだけれど、ただ、もう
少し、いろいろと考えて欲しいし、感じて欲しい。
たとえば、役者は実際に練習をしていて、自分の言葉や動きに、
これは変だと、違和感を覚えたことはないのだろうか?
「せんかんやまと」だなんて、大山真絵子は教師に簡単に言わせ
ているけれど、これはけっこう、怖ろしいことだよ。
(1月5日 午後7時 シアターent.)
[382] 中ニ 2006/01/08(日) 00:33 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
新年早々、1行レビューでコテンパン系かましたんで、もうち
ょっと詳しく感想を書いてみまする。
基本的に自殺を巡る話って、「自殺」が手に届く距離にない人が書
いてもイマイチ力が無いんだろうね。この作品に関しては「極限状
態な人」は誰一人いないし。人工的に極限状態なヒロインを設定し
てるだけで、自殺臭くないんだ。舞台なんだから、匂いがしないと
説得力が無い。
ヒロインは「いろんなことを頑張って責任を自ら背負い込む人」
だけど、彼氏に振られるまでは超明るい。だから、ボクは自殺の原
因が、直感的に「彼氏に振られたのが原因である」と理解しちゃう。
んなワケ無いから、つまり自殺の原因がわからない。
もう一つ、決定的に受け付けないのは、ヒロインの死を、周りの
友人・彼氏・弟は「理詰め」で乗り越えちゃってること。「ヒロイン
は弱かった。」「だから自殺した」「自殺は絶対に良くない」「ヒロイ
ンの分まで強く生きよう!」ええ辻褄はあってますけど・・・そん
なに辻褄が大事?辻褄で事態に収集をつけようとするのは大人のや
り口だぜ。
高校生の考える「死」とは?等身大の「死」とは?「・・・そん
なのわかんねーよ」から始まって欲しい。「わかってるつもり」から
スタートするから予定調和の大人の台詞になるのかもしれない。ア
レが高校生の考える等身大の「死」とは到底思えないし、共感も出
来ない。だって、登場人物のいってること全部どこかで聞いたこと
があるような台詞だったもの。
演出の技量とか、役者の技量とか、そんなくだらない話の前に、
本当の声が聞きたいと思ったのでした。
[383] 音庵 2006/01/10(火) 00:36 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
全日程終了したので、しつこいようだが蛇足を。連日満席だった
ようで、しかもシビアな評もいくつか頂くというとても恵まれた状
況は喜ぶべきだろう。本間さんも中二さんも、1行レビューの皆さ
んも、ちゃんと遠慮せずひとつの芝居として評しておられるわけで、
その批評には耳を傾けるべきところが多い。まあ自分など、脚本の
ことを突っ込んでも公演中にはどうしようもないと思ってしまうの
で、そこら辺が甘いのかもしれないが。恐らく、自分たちの仲間や
知り合いの間では「よかったよ」「感動した」というたぐいの言葉が
多く寄せられるだろう。で、それもまたひとつの財産だと思うが、
わかってくれない人の意見はとりあえずシャットアウトして好評だ
けに目を向けていると、それ以上の進歩は望めない。もちろん、ダ
メだしや批判にめげて落ち込んでいたっていけないのであり、両方
どんな意見にも耳は傾けながら、どんな意見にも支配はされるべき
ではない。あくまでも自分たちで答えを見つけるしかない。そのた
めになるべく客観的になるため、自分たち以外の人の言葉を「利用」
すればいい。
一般論としてこの年代で話を書くと、身近なところに題材を求める
しかないし、だからといってそのテーマそのもの(いじめや自殺)
を訴えたいから書くというよりはまず表現したいという欲求があっ
て、そのために少し手垢のついたようなものを取り込んでとりあえ
ず話をまとめていく。で、いわゆる正論のようなもの(とオトナに
は見えること)にある程度自分も納得してしまうし、それ以外のは
っきりした答えは持っていないので、話としてけりをつけようとす
るとそういう方向に自然流れていく、というようなことを知人と話
していたのだが、本作もどうしてもそのことが訴えたいからそのた
めに芝居を作ったということではないのだろう(逆に、当事者があ
る事実を訴えたいからと「生の声」で綴った芝居があっても、それ
が必ずしもいいとは限らないとは思うよ、それは単なる「青年の主
張」だ)。だけど、自分たちの世界観で無理に割り切ってしまうと、
世界がとても卑小なものになってしまうことは確か。よくあるドラ
マみたいな、チープな「感動」は作り出せるのだけれど、人生はそ
んな単純じゃないとわかってきている人にはその「作り事」がどう
しても鼻につく。そんならもっと実感が込められるものをやれるは
ずじゃないか、あるいは自分以外の誰かのことなんて究極的には誰
もわからない(実は自分のことだってわからない)んだし、世界は
不可解なのだということをそのままぶっちゃければいいじゃないか。
ここらへんは中二さんの言っていることと多少重なる。ただ、自分
は最近の中高生の考える「死」ってのは結構浅いし、実際にこうい
うレベルで思考が止まっているのが実情だと感じている。中には深
く考える人はいると思うが、全般的に。そういう意味では正直な作
品なのではないか。でも、もっとすごいものが出てくると思う。も
っと書けるし創れると信じる。
自分たちの中で、達成感と、反省点とが出てきていると思う。それ
を次回に生かしてもらいたい。決して弱気にならず退かずに。
この書き込みも含めて、何が「正解」なんてことはない。でも他人
からフィードバックされる声の中から、自分自身の声が聞こえてく
るはず。
[384] ご注進 2006/01/10(火) 00:57 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
論議が沸騰してる?Sand*glasS、
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評でもアップ!
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/sandglass.html
[385] Ruu 2006/01/10(火) 22:44 [削除]
[公演名] Sand*glasS [劇団名] ORiGiNAL COLOR
私は女ですが、主人公、真央の自殺に至るまでの経緯というか、
よく分かると思います。
大好きな人から別れを告げられて、ごちゃごちゃになって、死にた
くなる理由は十分、自ら命を経ったとしても、理由は十分だと思う
けど、ここら辺って男の人・・・っていうか、年配の方との考え方
って違うんだろうな、って思う。「命を失う」って事は、そんなにほ
ど遠い場所にあるとは思わないけど。
周りの人たちが真央の死を受け入れる、理詰めっていうか、受け入
れるために、自分に暗示かけるみたいに言葉に出さないと、受け入
れられないんじゃないか、って思ったり。
っていうか、その課程がアリだろうとなしだろうと、その辺って、
どうでもいいんじゃないの?
それ言ったらもっと訳わかんない理由でどんどん話が進んでいく演
劇なんかごまんとあるし、それが演劇でもあると思うし、少なくと
も私の見た日は、役者さんがちゃんと自分の言葉でしゃべってて、
見ていてとても引き込まれた。前回も見ましたが、10代、20代前
半の子達だけでこれだけ作っちゃうなんてほんと拍手!
しかし、彼女、彼らには、もちろんここで満足してほしくないし、
どんどん上を目指してほしいと思う。
心配なのは、同じ女として、「大人(?)」な方々に書かれた批評
が、痛い。叩かれたってこういう事?みたいな。私が子供なせいも
あるかもしれないし、今回の役者も演出も私より大人かもしれない
けど。
「厳しく批評されてる」事に関しては「年齢に関係なく評価」され
てるって事、っていうのに異論はないけど、なんだか読んでて「弱
い物には強い」とか、「出る杭は打つ」みたいな、あるいは「若い才
能を認めたくない」とした感じを受けてしまうのです。
いいじゃん、りゅうとぴあ的な雰囲気があったって、これだけの影
響を与える「面白い」芝居作ったんだもの!私は全然接点ないです
が、これからも指示したい、応援したいと思う、とてもすてきなチ
ーム?劇団?だと思う。少なくとも、マイナスに捉えすぎてダメにな
らないで、是非今後もがんばって欲しいと思います!
「ここ」が、才能をつぶす場には是非ともなってほしくないのです。
[386] うーん 2006/01/11(水) 21:48 [削除]
[公演名]
公演についてではないですが、RUUさんの書き込みについて、
私はこう思うのですが…
出る杭は…っていうより、むしろ応援したいからあんなに長く細か
く講評してくれているのではないでしょうか。そして、いい所も悪
い所も知ることができてこそ、次にもっと良い物ができていくんだ
と思います。
何でもそうだけど、悪い所って自分では見つかりにくいものだと思
います。近くにいる人達も言いにくいと思う。うまくかけないけど。
これは多目的の方に書くべきでしたか?
[388] うん 2006/01/15(日) 03:36 [削除]
[公演名] >>386
>>386
陰ながら一票
こんな風になるだろうから、高校生相手だとどうもにぇ、正直書き
にくいのかも
[389] 音庵 2006/01/16(月) 16:25 [削除]
[公演名] 贋作・罪と罰 [劇団名] NODA・MAP
場つなぎで中央での芝居でも。
再演となるとどうしても初演と比較されてしまうのが宿命で、それ
も(日本)演劇界の未成熟さの表れかもしれないが、記憶の中の前
作がどうしてもよく見えてしまい新バージョンへの風当たりは強く
なる。まして三条英(はなぶさ)役でかの異能女優・大竹しのぶと
比べられては松たか子も大変だ。もろもろのオモワクを取っ払って、
素直に見たらいい作品だしいい役者たちだと思う。まあ初演を生で
見ていない自分が言っても説得力に欠けるだろうが。周知のように、
ドストエフスキー「罪と罰」をベースに、善き目的(と自らが判断
するもの)のためには悪事も許容されるのか、というテーマを、幕
末維新時を舞台に、青臭い理想論を語りながら動こうとしない「志
士」たち、民衆の「ええじゃないか」に結実していくパワー、それ
を利用して時代を動かそうとする者(ここでは溜水石右衛門)、無血
での将軍による大政奉還を目指し(そのために金も使い)奔走する
才谷梅太郎こと坂本龍馬など、虚構を織り交ぜ、というよりは史実
を振りかけながらフィクションの世界を構築する野田の手法は(野
田地図以降顕著な傾向だが)、非常にストレートである。贋作という
のは、ドスト氏の原作に対する言葉というより偽日本史という意味
に取れる。むしろ原作のエッセンスをよく抽出した芝居ではないか。
台本を読んで見ると、初演での演出との違いはやはり結構ある。シ
アターコクーンに両面から見られる舞台をしつらえ、舞台面は梱包
用材(いわゆるプチプチ)に覆われ、これは(血の流された)地面
を白く包む(贖罪の)雪に見立てられる。時にふわりと役者に被せ
られ、終盤には龍馬暗殺シーンを覆いつつ垣間見せる。舞台上では
可動式のポールが建物の骨組みや扉として使われる。そして椅子が
効果的に家具やバリケード、手押し車その他に活用される。着替え
以外の役者ははけずにそれぞれが様々な形の椅子に座って無台周り
にいる。そして効果音等を役者が発する(打撃音、戸の開閉音など)。
役者にとって大いに緊張を強いられる舞台だろう。そのことが、チ
ームとしてみなで作り上げていく芝居という空気を生み出している。
非常に細かい動きの指示が伺えるが、同時に散りばめられたアドリ
ブがカンパニーとしてのまとまりを示し楽しい。野田に加え元・夢
の遊眠社の段田安則(取調官・都司之助)、大忙しの新感線古田新太
(才谷梅太郎)、宇梶剛士あたりがまあベテランだが、右近健一、マ
ギー、サモ・アリナンズの小松和重、NYLON100℃の村岡希美、猫
のホテルの中村まこと、無名塾の進藤健太郎ら若手(の実力派)を
起用、松や美波といったきれいどころもなんだかんだ言われつつよ
くわたりあっていると思う。ストーリーの史実との離れ方、それっ
ぽいが現代風アレンジ(男はナイキ、女はアディダスの黒スニーカ
ー)の衣装など、一種のファンタジーになっており、単なる歴史物
でなく普遍的な問題を投げかけるように思う。
高利貸しの老婆を、衝動ではなく冷静な決意により殺し、同時に行
きがかり上無垢なるその妹をも殺してしまう。関係のない左官屋が
捕まり、(原作ではロシア正教分離派の)信仰ゆえやっていないこと
を自白して罪に定められる。このような状況で、英は自ら罪を認め
うるのか。そこに、家柄にこだわる母・清、縁談の持ち上がる妹・
智、遁走して志士の群れに紛れ込んでいる父・聞太左衛門ら家族と
の問題も絡む。揺れる時代、揺れる価値観の中で、信念に基づいて
行動しながらも理詰めでは割り切れない良心の声に悩む英。その罪
は、法に対してお上に対して体制に対してではなく、この大地に流
された血に対するものであり、そして自分自身に対して犯されたも
のであること。それを自覚して、才谷の言葉に従い英は四辻にひざ
まずき大地に口づけする。この間の英の揺れが、抑えようにも抑え
られないものとして表現される点は多少弱さがあり、ラストの台詞
の重みと色気はそこにかかってくるのだが、しかし戯曲を再評価で
きまた若々しいキャストによる新鮮な舞台として楽しめた。コクー
ン高いけどねー、野田ですら金の工面が難しいらしいからまあ仕方
ないのだが。
[391] 音庵 2006/01/29(日) 17:08 [削除]
[公演名] JAM声優アクターズ科卒業制作公演
りゅーとぴあスタジオBにて。
第1幕@アフレコLIVE「パタリロ西遊記」「シンデレラボーイ」
演劇に関わる学生(高校生)とアニメ・マンガ層がかなり重なるこ
とは周知の(?)ことで、声優志望の演劇部員も珍しくはない。た
だこの場合アニメ層の方がはるかにパイが大きく(いやそういう意
味では…)、そのうち一部が演劇にも関心を持つというのが現状だろ
う。JAMのねらいどころは結構ニーズがあり、それなりの賑わい
を見せている。ただ、その中から淘汰されていくのはやむを得ない
ことであり、実際明らかに個性の抜きん出た「声優」も見受けられ
るが、それとて職が保証されているわけではない。そうした現実を
踏まえながら、学生はよく頑張ってると感じた。画面を見ながら、
ちゃんとアニメの内容に集中できたのは、ある程度の安定感があっ
たからだ。ただどうしても上手い人は、先達の誰かを思わせるよう
なところもあり、キャラに違和感があるかないかは既成のイメージ
に合うかどうかが大きいわけで、目立たなかった人にもそれなりの
力があったはず。自らのキャラを立て、自分にしかない味を出すこ
とと、同時に様々な役を演じ分けること、この2つのアンビバレン
トな課題をこなすことは並大抵のことではない。自分の見た回では
吉田聖子、吉田香、池浦謙太郎、池田守隆、森下真樹男らが即戦力
として印象に残った。
A朗読LIVE「花宵」山本周五郎
朗読とリーディングドラマの境界は曖昧だが、特に所作がなくただ
立ち位置の変化や衣装などで雰囲気を出していた点が演出といえる。
十代前半の武士の子を描くわけで、それは女声でも確かによいのだ
が、当時の精神年齢の高さから思えば少し幼いか。しかし、兄が優
遇されていると感じて継子ではないかと悩む弟、実は自分が継子だ
と知っていて弟に少し当たっていた兄、やがて家を継ぐ兄と外に出
て行く弟の両方を気遣う母、それぞれの心情が細かく描かれた、時
代物でも特に人情物を得意とする山本周五郎の筆の冴えについ込み
上げるものがあった。美しき良き日本の心。
実はこの日は可児フラウエヴァで月末恒例の「聞く名作劇場」があ
った。今回は黎明期・高橋景子とフリーの梅田麻子の顔合わせで角
田光代の朗読であったが、恋人と喧嘩して一人温泉に泊まりに来た
35の女性が、部屋に置かれたブローティガンの本に挟まれた手紙を
読み、その主と自分を重ね合わせる「手紙」、そして死期を間近にし
た祖母の求めである本を探す少女の、祖母への思い、本への思いと
その後を描く「さがしもの」、どちらも大きなドラマではないがしっ
とり心に染み入る感じがした。朗読の持つ力を再認識した一日だっ
た。
第2幕アクターズLIVE「聖夢工場」
かつて世界の子供たちのために家族すら犠牲にしてプレゼントを配
っていたサンタが、ある時玩具を作る工場の鍵を手にしてそれを封
鎖、ブラックサンタとして悪の帝王と化し、世界を闇へと追いやっ
た。レジスタンス運動が、その玩具であった者たちによって行われ
ている、そんな中に追われて来た少女エリザベスは黄金の鍵を持っ
ていた。実はサンタの娘。母ハーマイオニは夫の所業に悲しみ石化
している。さて両者の戦いの行末は、という、まあどうでもいい(失
礼)ストーリー。ヒーローもヒロインもどこか欠落していて必ずボ
ケが入る。アドリブ的な楽屋落ちネタや単発的なギャグが多く、そ
こそこ受けていたのだが、せっかく卒業公演ならばしっかりした設
定の本でやれば引き立つ役者は沢山いたように思う。サンタの玉木
雅志は、前回の「咎箱」と似たようなキャラではあったが、やはり
華があり、しかも自分を戯画化できるのは上手い。佐藤恭介も舞台
映えするし、特異なキャラの高橋慶一も面白い。葛綿知生は、べら
んめえ調のはじけ方がよい(がもう少し可憐なところも見せておい
た方が役が深まるか)。ほか、どちらかといえばかっこ悪い作りのキ
ャラクターが多いのだが、しかしそれを忌避せず思い切り自分をぶ
つけている姿は好感が持てた。芝居としてはあまり評価できないが、
個人差・能力差を超えて一つのものを作るということは、恐らくこ
れが最後の機会なのだ。楽しい2年であったことだろう、こうした
場があることは羨ましくもある。ここからまた新しい才能が羽ばた
いて行くことを期待したい。
[392] すて 2006/02/01(水) 13:19 [削除]
[公演名] マクベス [劇団名] 能楽堂シェイクスピアシリーズ
俳優達の存在感が充満しきりの二時間。主役の三人は言わずもが
な、市川組とAUN組とも熱い演技を見せた。魔女も演出と、おそ
らくたゆまない努力によって、そうそうたるキャストと対等であっ
た。マクベスは賛否分かれそうだが、個人的には能楽堂に対し型が
美しくよかった。マクベス夫人は終始その美しさと感情の変化のと
りこにしてくれた。のだが…ピアノなしのコーラスはかなりきつか
ったし、歌舞伎俳優とストレートプレイ俳優の台詞と所作の違いに
よる不調和に時折私は混乱してしまった。
[393] さと 2006/02/01(水) 19:09 [削除]
[公演名] 能楽堂シェイクスピアシリーズ「マクベス」
(ネタばれかも)
マクベスを演じた市川右近がイマイチ。
歌舞伎の「型」で演じてはいるのだが、その感情表現には中身が
ない。気持ちが伝わってこないし、台詞自体も伝わらず、退屈な朗
読を聞かされているよう。初日とはいえ、プロなのだから、それな
りのものを提示して欲しい。単に調子が悪かっただけなのか?
(同じように「型」で演じていた市川笑也のマクベス夫人には感情
が存在していた。だから、「型」が問題なのではないと思われる。)
自然な感情の発露を何より大事にする栗田演出で育った女の子た
ちと、同じく栗田組のAUNのメンバーたちの演技。それと、歌舞
伎そのままの「型」を用いた演技とは全く相容れない。相容れない
まま一緒くたにされて、いかにも収まりも悪い。
マクベスの右近の存在感が、それとも魔女たちの(いつもなら強
烈なインパクトを与える)イメージが、それぞれに鮮烈であったな
ら、あるいはバランスが取れていた?
見た目の派手さ、大仰さというわけではないそういう充溢感が今
回は欠けていたように思われた。
藤間紫のヘカテを迎えての新しい魔女たちは一体どんなものか。
期待していただけに点数が辛くなってしまうのは致し方なし。
ピアニシモの細く美しい歌声は「童女」・「人形」に相応しい。け
れど、6人全員のフォルテシモでのハモりは如何なものか。今回の
芝居のトーンに似つかわしいのは囁くような小さな輪唱か、さもな
くば、一本調子で無機質な詠唱ではないだろうか。ヘカテの詠唱の
木霊のようにして魔女たちには詠って欲しかった。
6人全員が舞台に出ずっぱりで人形振りを続けるのも、うるさく
感じられた。観客はマクベスの退屈な台詞から意識が逸らされて、
「人形たち」に見入ってしまう。そして余計に集中を欠くことに。
ストップモーションであっても同じこと。舞台上が常にギューギ
ューなのは目にも耳にもうるさい。
音楽を一切排除して、鳴り物も最小限に絞ってあったにも係わら
ず、まだまだ削ぎ落とし足りない気がしてしまうのは、魔女たちの
動きが(出番が?)過剰なせいではないだろうか。
ヘカテの出番が少なすぎるように思われるのもまた、魔女たちの
出番が多すぎるせい?
ラストは非常に美しい。
昇り詰めようが地に落ちようが結局は同じ地獄。血気意に逸って
猛々しく、陰謀渦巻いて血生臭く、平穏これなき「地獄の苦しみ」。
ましてや夫婦は罪の重荷に押しつぶされて息も絶え絶え。そういう、
苦しみばかりの現世から解き放たれたマクベスとマクベス夫人の表
情の安らかなこと。
「無」であることの穏やかさ。安らかさ。いっそ崇高なる面持ち
でもってあの世へと下ってゆく二人の道行きは「救い」と表現した
くなるような美しさで、実に日本的なラストシーンとなった。能楽
堂シェイクスピアシリーズの面目躍如。
[394] haha 2006/02/02(木) 17:08 [削除]
[公演名] りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズ「マクベ
ス」
※ネタバレかも
1回では情報が把握仕切れない。
何回も観たい。でも新潟は完売!
難しい/わかりやすい、とかじゃなくて、
観たことないものを受けとめる時間が足りないんです。
(ハウルのDVDを2連続で観る現象に似ている)
イマジネーションのものすごさ。
とにかくすごいデカいものを観てしまったという実感。
シリーズがどんどん大きくなってゆく。。。!
右近さん、なんであんな言い回し?
でも膨大なマクベスの台詞が膨大に感じられなかったのは「うまさ」
なの?
芝居にしろ演出にしろ、歌舞伎っぽさの入れ具合は加減が難しそう。
ネジの音が効果的。衣裳きれい。
音楽はもっと欲しかったな−。
アカペラじゃない、地唄パワーも欲しかった。
新潟の追加公演してほしい(祈)
だめ?東京行かなきゃだめ?
[396] 音庵 2006/02/07(火) 18:36 [削除]
[公演名] 第97回長岡市高校演劇発表会 @
夏冬各1回で97回を数える発表会。この数年、夏はリリックホ
ールのシアターを使うという恵まれた環境だったが、全県的な流れ
で今後は高文連関係でも使用料の減免が打ち切られるということで、
開催が危ぶまれる。
文化行政の貧困。それはともかく、高校生が手売りで知り合いを招
く事に賛否はあるが、自分たちの作ったものを胸を張って見せられ
るようにという意識を持つのは大事だと常々思う。集客は自分たち
で伸ばすしかない。
さて、いつもは5・6校参加だが今回は4校。既成脚本(恐らくネ
ット)2本、生徒創作2本。ネット台本は、そこそこまとまってお
り高校生受けするようなネタが使われているが、深みに欠ける傾向
があり、不特定多数に発信されているものにつきものの、投げっ放
しのゆるさがある。一方創作物には自分たちの身の丈に合ったもの
を作れるメリットがあるが、必ずしも自分たちに合ったものを作る
わけではないという現実がある。一般に言いたい事があって何かを
主張しようという芝居の場合、それがあまりに前面に出ることで説
教臭が強かったり趣味的過ぎて辟易したりするし、逆に言いたい事
は特にないが表現意欲はあるという場合は、中身の無さを補って余
りあるエンタテイメント性(要はぶっちゃけ楽しいかどうか)が問
題となる。そこら辺はバランス感覚を持ってやってほしいのだが。
@長岡高校「幽霊と嘘とアルコール」(最・S・キング作)
題名で全てなのだが。アパートに越してきた男子学生・米山と先住
の先輩・山崎が酒盛りしていると、その部屋の前の住人・矢島恵美
が現れ、米山は酔うとそれが見える。話をするうち、彼女がストー
カー殺人の被害者で、その時奪われた母の大切な指輪を取り戻して
ほしいという。米山の「通訳」で聞いた山崎は、それは自分たちに
は手に余ると断るが、米山は単独で下の部屋の犯人・娑婆村の部屋
に侵入、帰ってきた娑婆村と言い争い拘束されるが駆けつけた山崎
に助けられ、娑婆村は逃走、2人は留置場へ、そして49日の来た
矢島は成仏、という説明すればそれだけのストーリーを、コミカル
な掛け合いで見せる。米山のボケ具合がいい塩梅だし、山崎の特殊
なキャラクター作りも面白いが、2人とも女子が演じるデメリット
は痛い。オトコのだらしなくて汚くてかっこ悪くて、でもそこにち
ょびっと覗く男気は、上手くてもやはり女の子からは出てこない。
矢島の清楚な女性らしさと少しとぼけた突っ込み、娑婆村のシャバ
さ(?)は面白い。せっかくだからもっといい台本でやればなあ。
キャストのうち3人が1年生、今後も期待できそう。
A見附高校「鬼の間」(小坂井美幸・創作)
草薙家の豪邸には、どこかに開けてはならない「鬼の間」が潜むと
いう。老舗旅館を相続することについて、ずっと家にいる長女・乃
梨子、都会で何人もの男を手玉に取っているらしい次女・乙葉、調
理の勉強をして継ぐ気満々の三女・檀、そして末っ子・新菜の姉妹
が顔を揃えるが、誰が継ぐかで言い争う内、部屋を離れた檀を追っ
た新菜がその死体を発見、3人は「鬼の間」の存在に怯える。雷と
ともに停電となり、暗闇の中で乃梨子が乙葉を殺す姿が見える。2
人切りになり、新菜は実は檀を殺したことを告白、母親の違う自分
が2人の姉に持っていた感情を語り乃梨子に相続を任せると告げる。
しかし乃梨子は(恋人を奪われた恨みなどから)乙葉を殺したこと、
自分こそ母親が違うのであって新菜に後継ぎになってほしいことを
告げ、使用人・小柳に新菜を連れ出させ油を撒いて火をつける。し
かし最後の小柳の独白で真相が明かされる。こういう2時間サスペ
ンスドラマっぽい話を作るという取り組みは珍しいし、パロディと
しての作りようもあると思う(実際最初はそう見てた)が、意外に
ストレートな話。であるなら、あまりに殺人があっけないし、動機
が弱い。いわゆる「人間が描けていない」というミステリ常套の批
評がはまる。もし真面目に「悲劇」をやりたいのなら、人の死の取
り扱いには重さが必要だし、感情の襞を丁寧に描くべき。乙葉の男
を虜にするらしい魅力はもっと強調しないとリアリティがない。こ
の場合、書きたいことのために身の丈に合うという点がオミットさ
れてしまった。セットは豪邸ならむしろゴザなどしかずに舞台面の
みでもよい。田舎の家のようにならない見せ方をすべき。また、個
人的には小柳がすべてのフィクサーであったことが明かされるだけ
でなく、してやったりとほくそ笑む小柳もまた何らかの力によって
翻弄されるというもうひとひねりがあるとよいと思った。しかし、
人数も含めて今この地区では一番盛んな部かも。
(続く)
[397] 音庵 2006/02/07(火) 18:37 [削除]
[公演名] 第97回長岡市高校演劇発表会 A
B長岡向陵高校「ハイ・ホー」(加藤のりや作)
見知らぬ「森」に迷い込んだ女性は、テレビの(自分でくだらない
と思っている)バラエティやクイズ番組を制作しているが報道やド
キュメンタリーをやりたいと思っている。出てきた小人3人とシカ
に戸惑いながら、彼らをネタに感動のストーリーをでっちあげて業
績にしようと、芸能界を目指して都会に出てオーディションに落ち
て帰ってきたもの、一緒について行って合格し成功を収めたもの、
森に残っていたもののドラマをドキュメントとして作り上げる(小
人たちはゲームとして結構のる)が、それがいつも作っているTV
局の文脈・文法であることに気付き、もう一度戻ってやり直そうと
する。取り上げられている社会の中での自分の存在価値探しという
20代女性的なテーマがやはり高校生には実感がないもので、悩みが
切実なものにならない。あえて寓話的に、7人の小人(の3人版)
というパロディであるわけだが、そういうネット台本特有の臭みも
多分やり方によっては面白くできるのだろう。しかし真面目に、頑
張って、つまらない(失礼)台本をやっているのはもったいないし有
効ではない。思い切り台本を自分たちなりにアレンジして楽しんで
しまうか、あるいは自分たちに合ったもっときっちりした台本にト
ライする方がよりよい結果になると思う。衣装や小道具などに凝っ
て、力を入れているのはよいことだが、その分余計にそう思う。エ
ネルギーをかけるに値する本を。
C長岡大手高校「St.xxx?」(演劇部・創作)
演劇部作という表記はよく見かけるが、あまりいい印象がない。責
任の回避、芯の弱さを感じることが多い。逆に作・演出・主演など
を1人で引っ張る場合も、独り善がりになる傾向がある。その両極
を避けていいバランスのものができると、生徒創作はおとなの作品
を超える。演劇部員らしい2人の1年生、A(ノン)はきっちりし
たタイプでB(トモ)は結構ルーズ、という、役者の実名を使いな
がらも作られたキャラクタでの掛け合い。世間のらぶらぶムードに
怨念のある先輩たちがバレンタインにクリスマスパーティーの召集
をかけ、仕方なく出向く。そこに得体の知れない、一見ヲタク的な
装いの少女C、問われて妖精と自称する。彼女の誘導で、AとBが
今まで溜め込んでいた互いに対する鬱屈が吹出し、険悪な空気とな
る。それを「妖精さん」はむしろ喜んでいる様子。いわば小悪魔的
に。しかし思いをぶつけ合う事でむしろわだかまりが溶解して、「妖
精さん」の狙いは外れる。彼女がしきりに「アレ」を探している、
というそれが何かということは結局語られない。2人が衝突する事
で得られそうだった「アレ」。夢は想像で、想像は妄想で、妄想は夢
で、というレトリックは少し曖昧(言葉の定義が厳密でない)。結局
曖昧なまま妖精さんは去るし、観客は取り残される。2人が和解し
たことで何となくカタルシスがあるような気にさせられるだけ。意
図的なのだろうが、もう少し台本の練りこみというか、フィニッシ
ュの持って行き方に工夫がほしい。あえて大きな自分たちにとって
リアリティのない悲劇を持ち込まず(誰も死なず)、ファンタジック
な仕掛けをせず、基本的に会話劇でそれなりにまとめて見せたこと
は評価できる。妖精が出てくるだけでちょっとなあと思ってしまう
のだが、人間なのか人外の存在かもはっきりさせないのは賢いやり
方だと思う。
総じて、自分(たち)の資質と能力を見極めることと、それを何ら
かの形で超えていこうと見当外れでない方向で努力すること、その
2つが大切だと感じる。もちろんそれは高校演劇だけのことではな
いのだが。
[400] 音庵 2006/02/20(月) 12:29 [削除]
[公演名] Noism06能楽堂公演
能楽堂公演ということで予期されるような和的な装いは意外なほ
ど抑制され、音楽はクラシックやミニマルなノイズミュージック、
衣装はミハラヤスヒロの洒落た既成服、多用される面も西洋風のも
の、外された目付柱の代わりに紅薔薇を封じ込めた氷柱が出てくる
など、あえて異種のものをもってくることで新しいものを生み出そ
うとする金森穣。NINAから続いて登退場に地を摺るような足裁き
が見られること、切戸口からの出入りや橋掛かりへのはけと舞台と
の切り替えがはっきりしていること、所々に見られる様式的な所作
など、能楽堂の空間に合わせて作品をアジャストしてきていること
が伺え、そして旧作4本に新作1本を合わせて全体が一つの有機的
なまとまりを見せていることから、やはり新作としての捉え方が妥
当だろう。
@side in/side out-1st part:のっけから金森穣が出るサプライズ。
井関佐和子・青木直哉と実力者同士の顔合わせ、とはいえ、アフタ
ートークで青木が語っていた、「頭ではわかっていたけど穣さんが一
緒に踊らない理由が実感できた」という、(我々素人にはわからない)
レベルの問題があるらしい。しかし金森氏自身、「ダンサーとしてま
だまだだと実感した」という、能楽堂の特殊な空間構成とサイズの
中で、それぞれ皆が果敢な「挑戦」であったということができる。
「牧神の午後〜」に乗って、3者それぞれ陰となり陽となりせめぎ
合う。一種コミカルなエロスすら感じる。
Auntitled:佐藤菜美・高橋聡子・平原慎太郎・山田勇気・高原伸
子、その中でペアやトリオが形成され入れ替わる。ダンサー個々の
スキルが向上していることが如実に伺える。白面をつける者が暗転
により入れ替わり、立場は常に変わり続ける。ひとの営みの無常。
BLento e Largo:中野綾子のソロから平原慎太郎のデュオへの移行。
悲劇的な結末へ向かうことを予感させながら美しい悲歌が奏でられ
る。この2人ならではの深い感情と、このところ著しい進境とが感
じられる。
CCantus:白面をつけた群像が暗闇に浮かび蠢く、不気味な始まり
から、集団の中でのイレギュラーな逸脱と再吸収、その繰返しの中
で、自分を含め人間存在についてすら思いを飛躍させられる。
Dplay4:38:続いてそのまま唯一の新作に移行。タイトル通り、踊
ることの楽しさが満ち溢れ、面を取ったダンサーの表情にもそれが
現れる見ていて嬉しくなるような作品。列の中からソロやペアでの
ダンスが次々に登場し、金森氏を含めそれを見守る全員の表情にカ
ンパニーとしての絆が見える。今回新潟のみ、2日間のみ、そして
能楽堂という席数の限られた中で、目撃できたということは実に貴
重な経験であり、今後のNoism06の方向性を考える上でも重要な公
演であったと思う。
[401] 音庵 2006/02/20(月) 15:42 [削除]
[公演名] 路地裏の花火 [劇団名] 劇団 共振劇場
劇団・共振劇場は比較的新しい劇団ということになるが、女優・
大作綾を中心に少数の役者が日常的な光景をベースにした叙情的な
舞台を作っている。その時々でメンバーの入れ替わりもあり、パー
マネントな集団と呼びにくいところがあるが、ユニットとも異なる。
主宰・田村和也の心象風景を手掛かりとして、地方都市の一見あり
ふれた名もない市井の生活を描きながら、その向こうに誰しもが(と
言っても世代にもよるが)「共振」できる、個人的ながら何か普遍的
なものが見えるような不思議な世界が現出されようとする。ナチュ
ラルな会話劇であり、演劇的な仕掛けがあまりなく淡々と進むとい
う点では確かに「静かな演劇」の流れを汲むように見えるが、実は
田村氏の、結構アングラでえぐい世界を通った上での劇作には、ど
こかしら毒のようなものが含まれており、それが隠し味のようにな
っている(河豚かよ)。チラシなどには大体作家のモノローグのよう
なエッセイが載せられ、それは作品世界を解説するものではないに
も関わらず、しかし作品の世界観と同一の地平を示し、観劇後に再
読すると改めて感じるものがある。役者は、衒わない(素人っぽい)
素朴な演技が味と言えるし、これが変に上手すぎると逆に興をそぐ
気がするのだが、この世界に馴染むかどうかは客によっても差があ
るだろう。
自分が見た見附市文化ホールアルカディアでの公演は、地元の様々
な(特に中高齢の)客層が、恐らくあまり見たことのない形の芝居
にも関わらず、90分の長丁場をそれでもしっかり見ていたことが印
象的で、これは中身としての家族のあり方や、地方で継承されてい
る祭儀の問題、後継の問題、そして精神的障碍を抱えた肉親の問題
など、いろいろ共感できる点があったからではないかと思う。ハプ
ニングもあって、役者にとってやりやすかったとは必ずしも言えな
いとは思うが、アルカディアの懇切で力の入ったバックアップは素
晴らしかったし、今後もコラボレーションが期待される。
新潟大学齋藤陽一教授の芸能時評で柏崎公演のレビューがあり、全
く付け加えるところがないのでそちらをお読み頂くことをお勧めし
ておく。以下は蛇足。
35歳という微妙な年齢設定、そして公務員(教員?)としてのスト
レス、そしてひとりで老いた両親を世話し相次いだ他界を看取る中
で、精神のバランスを崩し、しかもそれを自覚している清水和恵(大
作綾)。その造形は的確。執拗な独白がやがて異様にエスカレートし
ていく様はリアリティがある。ずっと続くと聞いていて息苦しいの
だが、恐らくそれも意図されているのだろう。皆川茂信は常連とな
ってきているが、整った顔立ちですらっとしていて、しかして立ち
姿の何とも言えない所在無さには微笑ましくも共感が持てる。長兄
ながら家を離れ仕事に没頭することで家族に対する責任を逃れてき
たこと、それは少年の頃新しい風景を求めて自然に妹たちとは違う
世界で遊ぶようになったことと通じている。それは同年代として理
解できる。しかし和恵の変調によりもう一度実家とそれを取り巻く
世界を見つめ直すことになる。その姿には誠意がある。妹(江口愛
子)は東京での疲れる生活から離れ、姉の世話のために地元に戻る。
来るはずもない「初日」に向けた稽古に嫌気を覚えながらも、家事
を請け負う。30歳という設定にしては若い気もするが、いずれにし
てもこの3兄妹は、ある程度人生の酸いも甘いも経験し、親を失っ
た上でもう一度家族として向き合っている。また煩わしい神社の氏
子代表の責務も、頑張って果たそうとする誠実さがある。この兄妹
の姿が見ていて好ましい。それぞれに醜い部分を抱えながら、人と
してのしがらみの中でそれでも懸命に生きている。会話(や独白)
の中で語られる懐かしい情景にもどこか既視感があって、しみじみ
とさせられる。そして、安易なハッピーエンドではないもののどこ
か再生を匂わせる終わり方もよい。ラストの花火のように、共振劇
場ではそれまでの日常の描写と違う時空の印象的なシーンがどこか
で出てくるのだが、あえてそれが禁欲的に抑えられ多用されない。
欲を言えば、こういうシーンをもう少し織り交ぜてくれるとよりポ
ピュラリティが出るのだろうが、これは好みの問題なのでねー。今
後はどうなっていくのか楽しみ。
[403] トックメイ 2006/02/23(木) 18:56 [削除]
[公演名] 共振劇場「路地裏の花火」 ・ 松之木天辺「Mono×
Poly Opera Theater」
HP齋藤陽一研究室にて劇評追加されてるよー
共振劇場 路地裏の花火
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/roji.html
松之木天辺 Mono×Poly Opera Theater 新潟公演
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/teppen.html
[404] clown 2006/02/26(日) 18:36 [削除]
[公演名] 蜻蛉 [劇団名] 劇団 THE風・FOU
話が難しいということも含めて微妙でした。
でも照明と客演は良かったです(笑)
4回ほどセリフのカブせが甘く気になりましたし、声に感情が乗っ
て無い人が多かったように思います。動きが少なすぎて退屈でした。
(当たり前ですが)声の大きさなど基礎的な部分はある程度出来てい
ると思うので、あとは「カブせ甘いよなぁ」とか「感情がこもって
ないなぁ」とか気になってる人が劇団内にも絶対いると思うので、
遠慮や妥協を除いて頑張ってもらいたいと思います。
俺に関して言えば、長岡からの交通費や飯代を含めれば3000円近
くかかっているので、次にもし見る機会があれば、その時は3000
円の価値はある演劇であって欲しいと思います。
とはいえ二時間という時間が結構あっという間に過ぎたので、展開
的には好きなのかな?ってことと、個人的に陶山さんが好きなので
まあ満足かな(笑)
[405] オシラセ 2006/02/27(月) 18:29 [削除]
[公演名] 桜飛沫 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイダース
新潟大学 齋藤陽一研究室「芸能時評」にアップ!
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/sakura.html
[406] 音庵 2006/02/27(月) 18:32 [削除]
[公演名] 桜飛沫 第一部「蟒蛇如」 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイ
ダースPresents
「みつばち」に続く阿佐スパ時代劇。封建的時代を舞台とするの
で現在の常識が通じない面がある一方で、登場人物のメンタリティ
は現代人と地続きであって平気でカタカナ言葉が飛び出すし、言葉
遣いも今のまま(もちろん言葉こそ精神性の大部分を規定するのだ)。
よって史的リアリズムからはかけ離れている。登場人物は「時代」
に縛られてはいるがあくまでも現在の視点との接点を失わない。あ
る特殊な時代・場所の「おはなし」ではなく現実世界に侵食してく
る構造は意図的なものだ。今回、問題になるのは一部と二部の兼ね
合い。登場人物の繋がりはあるが、むしろ別の話と言ってよい。そ
こをあえて二部続きにすることで、その関わりの微妙さが違和感を
生むのだが、これには賛否両論あろう。ある仮想世界の大きなサー
ガすら作れそうなのだが、こういう寸止め感は長塚の美意識なのだ
ろう。
長塚作品ではある閉塞的状況にあるコミュニティが描かれることが
多い。「みつばち」では汚染された洗剤工場の島という「現代的」設
定だったが、今回第一部「蟒蛇如」では太古からの蛇崇拝・蛇食の
村に外来の郷士である郷地三兄弟(ゴーチブラザーズ!)が専制支
配をしき「三人子政策」を強要している。蛇を食らう事で精力を得
て子宝に恵まれる村、しかし蛇を忌避する郷地家は子に恵まれずそ
の怨みもあって子を間引かせ逃亡は死罪という掟で村を縛る。理不
尽な暴力が繰り広げられるが、三兄弟は極悪人というより小悪党で
あり、コミカルな愛嬌すら漂わせるし、三男蚕之佑などは兄らの非
道に心痛めすらする。残虐な人間にもこうした性格付けをする、こ
うしたヒール(悪役)へのシンパシーと、裏返しにベビーフェイス
の善玉・一般人にもあるドス黒い部分を併せ描くのが長塚ワールド
だ。厳しい掟の中で産児制限をすることで村人を救おうと避妊を説
き蛇皮(どうなの?アリ?)のいわゆる衛生サック(品名言ってた
けどね)を作ろうとする医師・徳市は妻子・妹を殺された凄惨な過
去を持つ。彼を慕う産婆のタネ。徳市の仇討ちを煽りおこぼれで名
を挙げようとする新兵衛、彼に付き纏う女郎ヤマコ。避妊できない
夫シゲオと止められない妻サカエ。様々な男女の姿、また郷地に対
しついに立とうとする村人・虚兵衛なども描かれる。しかしそれぞ
れのエピソードにきちんとケリをつけてやることはしない。第二部
では徳市の復讐が絡むが、それのみ。これは確かに劇としての不完
全さではあるが、現実には全ての物事に辻褄が合うということはな
い。世界は不条理である。そしてひとりひとりの抱えているドラマ
は多くの場合表面に現れることなく泡沫のように空しく消えていく
のみ。その意味で、この投げっ放しの途切れ方(例えば「BGM」期
のYMO楽曲の終わり方のようだ)はリアルであるとも言える。新
兵衛のもくろみで郷地兄弟を手にかけることになる徳市はそれによ
って封印を解かれ、復讐のため旅立つ。復讐が復讐を生む事に自覚
的で敢えてそれを抑えてきた徳市の変貌。ある意味で最大の悲劇で
あり救いがない。普通の時代劇では拍手喝采の成敗シーンがカタル
シスにならないことは、しかし正しいことかも知れない。
[407] 音庵 2006/02/27(月) 18:33 [削除]
[公演名] 桜飛沫 第二部「桜飛沫」 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイ
ダースPresents
第二部「桜飛沫」では、徳市の元仲間で殺戮と強奪を繰り返した
佐久間が、落魄れ追手を避けながら寂れた宿場町に流れ着く。ここ
は市川左京、蛭間、蝮の蛾次郎が牛耳っているが、町人は彼らの盗
品のおこぼれで生活を支えているので、乱暴狼藉に不平を言いつつ
ここから出たり状況を変えようとしたりはしない。佐久間が出会っ
たグズという少しネジの外れた女は蛭間の妻で凄まじい暴力を受け
ており、妹マルセも売春を強要されている。佐久間は徳市が堅気に
なることを止めようと家族を惨殺したのだが、それを責めず悲しみ
を溜める徳市を前に斬ることが怖くなり、殺した人間の幻に悩むよ
うになっている。もはや彼はかつての殺戮者ではなく、ある意味復
讐され続けている。賞金首を狙う者たちが彼を襲うが、かつて家族
を惨殺された左京は仇敵佐久間に奇妙な憧れを抱き、彼を庇おうと
する。それは人生を変えた男を特別な存在にしておきたいという、
自らのアイデンティティ保護のためでもある。自分の生を全否定し
たくないのだ。しかしこのことが仲間の中に歪みを生む。そして蛾
次郎が死にやがて蛭間と左京も死ぬ。ヒールの意外にあっけない最
後も長塚らしい。そして、力を失った彼らを排除する町人たちのバ
イオレンスは、「デビルマン」で見られた民衆の集団ヒステリーにも
通じる。この宿場は一見オープンで、外からの出入りは自由なのだ
が、佐久間がいくら出ようとしても必ず戻ってきてしまうのは、町
人が意識していない見えない結界があることを暗示しているようだ。
そして無意識的に、佐久間は此処に留まることでやって来る徳市に
敢えて討たれることにより救済を得ようとしているのかも知れない。
左京一派は消え、町人も去った町にはグズ・マルセ姉妹と佐久間が
残る。束の間の平穏は徳市の来訪で終りを告げる。悪人の扱いも含
め、眼前の不条理な状況は外在の原因を排除することで取り除かれ
るのではないという、どうしようもないやるせなさ、無常観。これ
は長塚作品のベースにあるものではないか。結果として業を抱えた
男たちは皆滅びて行く。残るものは何か。桜飛沫に覆われる最後の
激突は結末を見せないのだが。ただ、グズがすっと告げる別れの言
葉が響く。
こうして第一部で得られないカタルシスは第二部でも得られはしな
い。この芝居を見て、なぜかシアターコクーンでのケラリーノ・サ
ンドロヴィッチ作「労働者M」のことを思った。パンフレットでケ
ラは、物語の意味性や論理的整合性などについて、もはやそれを追
求することにも否定することにも捕らわれない、拘らないというス
タンスを示している。実際に現在のとある事務所と近未来の収容所
の二元で語られる物語は、同じセットを侵犯しつつ同じ役者が兼ね
て演じるのに決して交わることがない。そして多くの複線的ストー
リーはケリをつけられることなく投げ放される。作風は異なるもの
のこの両者の間にある精神的共振性には注目すべきものがあるよう
に思う。これはまだ実験段階ではあるが、あるムーブメントの一角
を成すものとなるかも知れない。なんてね。
[410] 音庵 2006/03/06(月) 10:16 [削除]
[公演名] 人文フェスティバル
「日頃『何をやっているのかわからない』とも思われている大学」
の中でも特にわかりにくい人文学部を紹介するという企画で、自分
などもOBであるからしてちょこっと行ってみちゃったりしたわけ
で。シンポジウムは終りの方だけ見たが、みんなユーモアを交えな
がら真剣に話していた(客席年齢層高し)。映画では大学周辺の風景
が切り取られていて妙に郷愁を感じた。前日の大学院学生有志によ
る松江哲明監督「アンニョンキムチ」「Identity」上映会に引き続き
ナシモトタオ氏の顔があり、氏のよき影響もあるのか、粗はアラア
ラだがなかなかリリカルでくすっと笑えた。
さてお目当てのお芝居。齋藤陽一教授自らチェーホフの一人芝居
「煙草の害について」を演じる。りゅーとぴあスタジオBの黒い無
機的な空間に演台が置かれ、下手から登場しおもむろに「講演」を
始める恐妻家でインテリの端くれであるイワン・イワーノヴィチ・
ニューヒン。講演としての体裁を保ちながら表記の演題から外れて
長年の妻の専制に対する不満が次第にぶちまけられていく、恐らく
その壊れ具合がポイントなのだろう。例えばイッセー尾形ならば、
よりエキセントリックなキャラクター作りをし、右目をパチパチす
るという癖などを強迫的に強調するかも知れない。齋藤氏はどちら
かと言えば端正な、結構落ち着いた感じのキャラクターで、演台を
叩いたり燕尾服を投げつけたりする所作にも抑制があるというかバ
イオレントではない。小劇場的な見方で言えばもっと壊れていい感
じ。演台に立つことにそう怯えた様子もないのは、喋りなれている
感じがする。台詞で緊張している旨が告げられても、確かに授業や
こうした講演を繰り返し行っている男なので、やたらびびって見せ
ることもないのかな。妻の経営する学校のパンフを宣伝するところ
でさりげなく新大人文学部の案内を示すくすぐりもあったが、それ
以外は年代設定も19世紀末20世紀初頭のロシアそのまま演じられ
る、非常にストレートな作り(蝶ネクタイがいいかな)。劇中これと
いった仕掛けはないが、気持ちが高ぶってくる中で「魔笛」の「夜
の女王のアリア」が響く。これは見えざる女王たる妻を意識しての
ことか。取り乱していた彼が、袖に妻の姿を認め、そそくさと身な
りを整え話をまとめて下手にはけるのだが、この時手と脚が同時に
出る。一瞬、登場の時は普通で終わってこうなることに疑問を持っ
たが、講演よりも妻の元へ行く方が彼にとって恐ろしく緊張すると
いうことか。パンフレットのご挨拶も芝居の台詞を上手く使ってお
り、そこで開陳されている教授の最終講義計画が面白かった。そも
そもこういう企画をやることが自分の頃には考えられなかったのだ
が、こういう先生のもとで学べるというのはうらやましい。
もう一本が岡田利規・チェルフィッチュの「マリファナの害につ
いて」。この2つを並べてやることに面白さをまず感じた。どちらも
表記の内容にはほとんど触れない。そしてかたやクラッシックな、
かたや最新(?)のモードでの演劇。演じる西片麻理絵は、ボルヴ
ィック片手に上手客席後方から登場し、イスに不安定に腰掛けてお
もむろに喋り始める。渋谷辺りにいる普通の若い女性が、だらだら
と一見脈絡なく語り続ける。言葉遣いも内容もイマのワカモノその
もの。そして絶えず身体が揺れ手足が動き続け視線は定まらず客に
正面から向き合い何かを伝えようとしないその独り語りは会話体な
がらモノローグ以外の何ものでもなくスタバで友人を待ちながら行
き交う人ごみの中でチラシを配るバイトの金髪君に注目したりしな
がら語られる遅刻常習の友人の話、しかしいつの間にかその友人の
視点での語りに移行し、遅れて来た彼女の口からカドタさんという
ちょいヤバ目の浅野忠信風男がラブホでマリファナやらないかと言
って来たことにかなり衝撃を受けており待合せに向かう途中チラシ
配りの金髪君に話をするそのバイト君に今度は視点が移り彼の口か
らバイトのあれこれと共に少しヤバ目の浅野忠信風男がスタバに入
って行くことが語られ円環が閉じる。テキストで読んだ時、面白い
けどどうやって演じるのかと思ったが、わかりにくいホンをきちん
と消化している賢さ、不快なほど(まさに葉っぱでもやってるかの
ように)意図的に揺れ続け客の視線を外す所作、的確なキャラのス
イッチング、垣間見える感情の昂ぶりは(本人不満もあるようだが)
なかなか素晴らしかった。時にすっと視線がこちらに切り込んでく
る瞬間。合間に水を含む間。ファニーな笑顔で毒を吐くいつもの西
片がたまに見せる真直ぐな瞳の鋭さにどきっとする、その感触に似
る。ちぇーほふもちぇるふぃっちゅもよくは知らない自分だが、併
せて楽しませて頂いた。またやってね、お二人(及び周りの皆様)。
[413] ご注進 2006/03/12(日) 16:54 [削除]
[公演名] 劇団ミネルヴァの梟8 [劇団名] THE WINDS OF GOD
新潟大学齋藤陽一教授の芸能時評に
アップ。お忙しい中、精力的な観劇と的確な評に敬礼。
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/minerva-winds.html
[414] 音庵 2006/03/12(日) 18:12 [削除]
[公演名] THE WINDS OF GOD [劇団名] 劇団ミネルヴァの
梟
まず自分の立場を明らかにしておくべきだろう。自分はかねてこ
の作品について一定の留保というか、全面的には賛同できないもの
を感じている。それは作者・今井雅之氏の史観と自分のそれとの違
いでもあろうが、イデオロギーというほどのことはなくてもここで
訴えられ主張されようとしていることに対し、自分は全面賛成しな
いまでも理解することはできるしアプローチそのものは誠実な姿勢
であるとも思う。しかし今作が生まれた時よりもさらに新右翼的あ
るいはプチ右翼的な言説が勢力を増す昨今、充分な注意を払ってこ
の作品は扱われるべきだと感じている。この作品の価値は、死んで
いった兵隊たちの生身の姿を、人事よそ事としてでなく、今を生き
る自分たちに引き付けて考えるよう促すことに一つはあると思う。
ただかわいそうとか、偉いとか、愚かだとか、自分には考えられな
いとか言って済ませてはいけないということ。そして、当時の様々
な青年(少年と言ってもいい年齢の者も含め、何と大人だったこと
か)の姿を描きそれぞれに光を当てることで、いろんな価値観を提
示し押し付けがましい教訓臭さからギリギリ抜け出す微妙なバラン
スの上にある、それこそ自分がこの作品を否定しない要素でもある。
で、だからこそ、時間的物理的力量的様々な事情はあれ、テキスト
レジュームには細心の注意が必要だと思うのだ。ストーリー上必要
なエピソードを中心に話をつなげて行くと、どうしても説明的にな
り根底にある思想がより強くクローズアップされて「教育的」にな
ってしまう。実は散りばめられた微細な要素にこそ作品の良さがあ
る。だから、先日のTVドラマもぐっさんと森田クンの兄貴と金太
に絡む人々が細かく描かれることで説得力があったし、今井氏主演
の映画もまたそうなるだろうと思う。だが、演劇だからこそ描ける
こともあるはずだし、限られた時間の中での描き方もまだ検討の余
地はあるはず。いかにも軍人の寺川やキリスト者である松島や輪廻
を研究する山本の思い、部下を死地に送りやがて神父となる(のに
輪廻など語っていいのか?)山田分隊長。もっときめ細かく描いて
ほしい。「英霊」として賛美するのではなく、選択の余地がない状況
で、愛する者のためにと自分の命を張って飛んで行った特攻隊員の
姿を(個人的には彼らが死ぬことで愛する者たちが守られたわけで
はなくそれが正しい行為であったとは思わないし、祖国を守るため
に戦ったというのは侵略戦争としての面を無視していると思う。が
そういう自分のような見方もまた置いておき)、評価ではなくそのま
ま真っ直ぐに見つめることが大切と思う。ミネルヴァの梟が、どち
らかと言えば何かを訴えようとする作品に取り組んできたことは確
かだが、あくまでも自分たちがやりたいことをやるという点でそれ
はアリなのだ。もし何かを「教育」しようと思って演劇をやる集団
だったら(もちろん結果として客が得るものは別として)、それを自
分は見たいと思わない。その点、冒頭の今井氏の映像コメントに(お
ー!と感心したが)違和感を覚えたことを申し添える。
プラットフォーム状の台を使い、あるいはプロペラを使い、よくで
きた装置ではあるが、そのために空間が限定されいちいち場転での
移動が行われることはあまり有効ではない。特攻機を椅子一つで表
現できるのが芝居。もっとシンプルにしてよいし暗転以外の処理が
ほしい。音楽がドラマのように、台詞にかぶって感情的なシーンに
は必ず入る(その割りにフェードアウトが早く暗転中に無音になる)。
これも不要というか過多。台本と役者の力を信じよう。役者は軍隊
の厳しさや上官の怖さなど、真摯に頑張って表現していたが、本当
はもっと怖くピリピリしていたはず。「演ずる」のではなく、役を「生
きる」ことを今井氏も演出も語っていたが、それが一番求められる
と思う。しかし暖かく真剣な観客たちの多い、恵まれた公演だった。
今後に期待。
[415] 誤注進 2006/03/12(日) 18:16 [削除]
[公演名] THE WINDS OF GOD 零のかなたへ [劇団名] 劇団ミ
ネルヴァの梟8
>413の訂正です。
失礼しました。
[416] 発見しますた 2006/03/14(火) 01:30 [削除]
[公演名] サンキューモーター'06 [劇団名] 一発屋
<ネタバレ注意!>
新潟大学齋藤陽一教授のレビューがアップされました。
まだ見てない方でネタバレ困る方はクリック注意です。
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/thankyou06.html
[418] 音庵 2006/03/19(日) 01:20 [削除]
[公演名] サンキューモーター'06 [劇団名] 劇団一発屋
序。サンキューモーター’06は一発屋の集大成でもなんでもあり
ません。というキャプテンのご挨拶は、とても素直な自信の表明で
頼もしい。しばらくリハビリしていたかのような、活発なれど雌伏
の時を過ごしていたような、それは久々にナンセンスストーリーも
のの復活という事実もあるのだが、舞台から受ける印象が非常に真
っ直ぐなものに感じられ、迷いなく(もちろん個々には迷いつつ)
やるべきことにぶつかっていく感じが好ましかった。見ながら初演
を思い出しつつ、自分が普段「さまざま、さまざま」「おねいちやん」
「敬礼!敬礼!」などを口にしながら(マジっすよ)話をあまり覚
えていなかったことに驚きつつ、いやーだから「心に何も残さない」
んだよ一発屋さすが、何度見ても楽しめるぜなどと開き直る。’06
なのだから、今が旬のネタが持ち込まれること(例えば電車男にサ
ンボマスター、2ちゃんに例のネコなどなど)はまあ想定の範囲内
だが、ある意味この表記には’06現時点に至る、初演も含めた一発
屋の歩みが込められているし、その線上にある。その意味で先日魔
裂斗が対戦相手について言っていた「なんかオレのこと通過点とか
言ってるみたいだけど簡単には通過させませんから」という言葉を
サンキューモーター君が言っているようでもある(うそ)。20〜30
代の屋員たちが今まで経験してきた人生のあれこれ(ファーストガ
ンダム、カリオストロを経て今のあれこれ…)は、一部同世代には
もろ直撃だが観客の全てとかぶるわけではない。しかし、2006年を
生きる我々は(ついて行けない話題がある人でも)同じ空気の中に
いる。(続く)
[419] 音庵 2006/03/19(日) 01:22 [削除]
[公演名] サンキューモーター'06 [劇団名] 劇団一発屋
ではネタバレ。役者が豊富で、前回より兼役が減った分整理され
わかりやすい。初演を複数回見た時より(むしろ見たからこそ?)
今回は話が見える。その話は論理的整合性や起承転結を予め放棄し
たものではあるが、しかし基本構造、軸になる設定は変わらない。
そこに「カリオストロ」的なものを意識させるスパイスを掛けると、
風味そのものに変化が感じられる。そして役者が充実。近藤聡実は
どうもマインドコントロールされているらしい女王(今回はあまり
異常性なし)と人気キャラ?池の精姉のキレた演技が絶品。唯一無
比。山川裕賀子はスージーなる別人格との対話や人間の点数化、背
伸びした(ナボコフ的)ロリータの魔性などを見せる謎の少女カズ
ミ、姉よりは理性的な池の精妹、「副作用の」フクちゃんといった特
異なキャラを入れ替わり立ち代り熱演。かつての少し照れがあった
痛さは薄れ、堂々たる存在感。女王に付き添う謎の女レベッカ小出
佳代子(あの唇と眉毛は彼女のシムボル)、王女シズメを愛し守る家
臣ダンドーリ渡辺健(本人が反映されたヲタ的キャラを熱演)と養育
係でもあったプール五十嵐幸司(そういえば初演が初舞台?成長し
たというか馴染んだなあ)、謎のエージェント実は姫の許婚・アンダ
ーランドのドリル将軍の息子(とアキバ系「電車男」)平石一仁(相
変わらず器用に役をかぶってみせる軽さがいい)。王女の結婚話に動
揺し、相手に不安を覚え、また女王の様子がおかしいことに気づき
レベッカを疑うダンドーリとプール。王女を手塩にかけ育てたプー
ルの一種母性的ですらある愛情は、のちに出会うパンダ状の生物(今
回詳しく描かれないが翻訳機の?副作用で見える)フクちゃんに注
がれるインスタントなそれにも投影される。王女を慕いながら、失
踪した(実は国のため宝を探して城の地下から池に潜っている)王女
を探す途中利害と行動を共にするレベッカを意識、さらに少女カズ
ミの誘惑を受けるダンドーリ。プールからレベッカの監視・盗聴を
依頼されるエージェント・実は許婚のドリルは通訳の告白を振り、
フクちゃんを可愛がりながらさりげないエロさも見せ、そして倒れ
たフクちゃんの暗黒面たるフク之助・フク美に慕われ彼らに「先輩」
としての男気を見せる。ストーリーはさておき、これらはク○リス
に対するル○ンや伯爵の感情と似通った、男の妄想的スケベ心の表
現である。フクちゃんの笛で凍り始めた池は迷路と化し、やがてレ
ベッカは姫の身体の中に迷い込む。そして脱ぎ捨てる。同様に池の
精姉も。このナンセンスに、「脱皮」した王女は一皮向けた大人の女
になっているというおまけがつく。そして例の「電車男」的エンデ
ィングが付け加えられ、物語は脱構築されて行く。メインストーリ
ーを追おうとしてすかされることに腹を立てず、ディテールのくす
ぐりを楽しみましょう。山田好宏、最後の生き残りの百式のTシャ
ツとジーンズ丈の絶妙さ、カズミの父のヒゲとモミ、フク之助のパ
シリキャラ。「神を見たよ」という元の台詞にネ申という新たな読み
方を誘う。山本容子も漁師の妻・カズミの母、フク美として各キャ
ラ立てをしっかりしている。そして初々しく純であって痛々しい(か
つての山川や小出もそうだった)、それを逆手にキレたボケをかます
津野あゆみの清涼感。坂田久美のアニメ声に萌え〜(マジっすか)。
とりあえず100分、難しいこと言わずに楽しめや!というスタンス、
そのための影の努力に敬礼。
[420] アレクセイ 2006/03/19(日) 02:44 [削除]
[公演名] サンキューモーター'06 [劇団名] 劇団一発屋
良い意味で「バカ殿」。
非常にどん欲で、メロのラップまで・・・。
語るモノが見えない今、笑いと時代の共通体験から来る言語のやり
取りの寂しさは大きな穴を見せつけられる。
あの扉から発する光は、穴の持つ暗闇の裏返しか。
電車男の胴上げから来る寒さを全面から受けているのは観客以上に
演出中島氏だし、それは彼が今と対峙した時の体感している感覚だ。
ただ、もう少し各キャラクターのどこにもたどり着けないだろう言
葉の遊びが激しく有ったならと思うのは私の欲だろうか?
[421] サイトウ 2006/03/20(月) 22:11 [削除]
[公演名] サンキューモーター'06 [劇団名] 劇団一発屋
この前が2本のコント集、そして、その前が”やらかした”問
題作「ティッシュニモウヒツ’04」を経てのナンセンスコメディ
ということで、どうなったのかなと楽しみにしてました。
とりあえず、期待以上に楽しめました。
いつもは幕間の最中に時間が気になるのですが、それを気にしな
いくらい約100分、世界に没頭してました。
僕はいつも、この劇団の芝居の時は音楽的な”グルーヴ”を感じ
るということを言うのですが、それは今回はそれほど感じませんで
したが、その変わりに”間”の巧さを感じました。
コントライブを経たせいか、流れがお笑い的になっており、雰囲
気が寄席っぽくなってました。(客席の方で、今までにない大爆笑が
何度かあったものは、その影響かなと思いました)
もちろん「ティッシュニモウヒツ’04」も経ているため、”やら
かした”ところもあったのですが(悲鳴と失笑があがったあのシー
ン)それすらも、”演劇”でなく”笑い”として受け止められていた
ような感じがしましが(”ドリフ”とかでありそうです)
オチも奇麗にきまり、”新喜劇”でも見たような印象。
普通に”笑い”としては楽しめたのですが、”すげぇもん見たー”
という「ティッシュニモウヒツ’04」のような衝撃は無し。
おそらく、本当に面白いものは”衝撃”なんてものは二次的なも
のなのでしょう。
以下、ネタバレの覚え書き
・普段の芝居より竹流さんが恐ろしく活き活きしていた (”力がこ
もっている”ではなく”活き活き”)
・コント集を経たせいか、笑いという面から見ると山川さんが秀逸。
場の雰囲気を支配してました。
・津野さんのギクシャクした感はラストのためのものなのかしらん。
だとしたら、すげぇーな。
しかし「スーツ+眼鏡」は萌えスタイルなのにそれが十分にイカさ
れなかったのが残念(ツンデレは竹流さんでなく、津野さんの役所
でしょう)
・上演前のBGM、ココ最近のオープニングの曲が流れていたのだ
けど「ティッシュニモウヒツ」のOP曲が流れなかったのはなぜ?
・パロディーが多かったような気がしますが、パロディーよりも、
生理的な場面での笑いが多かったような気がしさすが、池の精はハ
マリ役でした。
なんか、もうあまりにもすごすぎたため
・近藤さんの池の精はまさにハマリ役
、歌舞伎だったら、登場の瞬間に「げんぱ!」とか
声が上がっていたと思います。
ます。
[423] 音庵 2006/03/22(水) 11:28 [削除]
[公演名] 赤鬼 [劇団名] サムライシンドローム
「赤鬼」という作品と野田秀樹の問題意識についてもう一度考え
る機会となった。ということはサムライシンドロームとしての個性
や特徴うんぬんよりも作品そのものが浮かび上がってきた点で素直
でストレートなよさがあり、同時にそこそこよくできている分爆発
力がもうひとつ、ということも言える。円形で演じられることが多
いと思うが、スタジオの中央部に平台を組んだステージを3つ、そ
してその周囲を使う。客席はほぼ対面式に左右となる。ほぼ無対象
で、場面転換はスムーズ。この空間がより狭くてもできることが「演
劇的」力量のバロメータでもある。が、若さ溢れ走り回る彼らには
ちょうど合った大きさだったと思う。客席へのいじりもあったが、
しかしまだ客席に「近い」感覚は薄い。それは単なる物理的距離の
問題ではないはず。
4人のメインキャスト、うち赤鬼(Angus)を除く3人はその他の人
物を複層的に演じる。いずれも、切り替えのキレという点ではまだ
余地というかもっと伸びしろがあると思うが、彼らの演劇経験から
して(詳しくは知らないのだが)なかなかどうして頑張っていた。「と
んび」の南拓哉は、りゅーとぴあで鍛えられただけあって少し頭の
足りない男とそれ以外の村人(女性含む)・長老・司直との演じ分け
が上手いし、時にキメて見せるところが凛々しい。どうも野田のイ
メージがあるので、とんびがもっと阿呆っぽくてもいい気はする(ま
だかっこいいもん)。物語を傍観し述べるしかできない中で、絶望を
あっけらかんと明るく語る(野田の)叫びの中で垣間見える悲痛さに
涙が絞られるところ、あ、そこもうちょっと…という感じ。「あの女
(フク)」の斉藤千晶は、長老・村人ほか、やはり見た目での差異化
に弱さがあるが、無理に作ろうとしていない部分にむしろ好感が持
て、それ以上にフク(やりたくなる女)としての魅力に説得力がある、
つーかかわいい。フクが見て来た、そして最終的に直面した絶望を
表現する点がまだもう少しだが、舞台映えのする楽しみな女優。「ミ
ズカネ」の江口雄介も段田安則をイメージしてしまうのだが、ある
意味一番キーとなる難しいキャラクタを、自分なりによく演じてい
たと思う。どちらかというと気のいい純な面が見える。もっとドス
黒い部分を後半見せた方が役が深まると思う。「赤鬼」の小林拓馬は、
恐らく一番経験がないのではと推測するが、肉体の存在感が役に合
っている。時に見ている側も恐怖を感じるところがあるといい。か
わいい感じだが少しウケをねらっているかに思える部分があって、
そこはいらないなと思った。朴訥に取り残された異邦人の絶望を生
きればよい。四者四様の「絶望」が描かれる話なのだ。
衣装はアジアン雑貨店ぽいエスニック風味で、日本と限定しなくて
もよい寓話的な色合い。上着を用いた赤ん坊の表現などが巧み。
Angusの言葉は、当初和蘭陀ぽかったり露西亜ぽかったりと門外漢
には聞こえたが、むしろアドリブ的な部分が大きいのだろう。フク
らが単語の意味を理解するようになって、獣の咆哮から人間の言葉
として聞こえるようになるが、同時にそのメンタリティが逆に理解
できなくなるという逆説は考えさせられる。名前からゲルマン系で
あろうと思われ、口にする英語(MLキングや独立宣言など亜米利加
の人権的なフレーズ)などから英語圏を思い浮かべるが、特定されな
いのは、水の飲み方や花を食うなどの特殊な文化的設定がされてい
るからで、これもまた歴史的限定を避けた作劇のためだろう。
海の向こうから来るものに対する感覚は、民俗学でも指摘されてい
るものだ。異文化に対する困惑・畏怖・聖化・蔑視・排除の精神的
仕組みは、もちろん日本人にとって直視すべき我々の内に深く根差
す業である。また程度の差はあれ他地域においても広く見られるも
のだろう。人として、獣と見なすものを摂食し生きて行くものとし
て、自らを省みる鏡がここにある。21世紀になりかつての言葉遊び
が減ってよりシンプルに物語のテーマ性を前面に出している野田秀
樹だが、あくまでも教条的にならないことがこの作品のライフライ
ンでもあると思う。今後、自分たちに合って自分たちにしか出来な
い芝居をやっていくことに期待。
[424] おほう 2006/03/23(木) 22:27 [削除]
[公演名] R-en、赤鬼 [劇団名] 舞台屋織田組、サムライシンドロ
ーム
新潟大学齋藤陽一研究室・芸能時評のページに
芸能時評No171「2006年万代演劇祭2 舞台屋織田組 R-eN」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/ren.html
芸能時評No172「サムライシンドローム 赤鬼」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/samuraidemon.html
それぞれアップ!!
[425] トックメイ 2006/04/03(月) 00:26 [削除]
[公演名] シューティングスター 総集編 [劇団名] 劇団マジカ
ルラボラトリー
新潟大学齋藤陽一研究室・芸能時評のページに
芸能時評No173「2006年万代演劇祭3 劇団マジカルラボラトリ
ー シューティングスター 総集編」がUPされてま〜す。
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/shootingstar.html
チェキラあ
[426] 音庵 2006/05/14(日) 21:39 [削除]
[公演名] りゅーとぴあ能楽堂シェークスピアシリーズ 「冬物語
−Barcarolle−」 ルーマニア・ツアー 凱旋公演
劇場版の「能楽堂シリーズ」、という語義矛盾はともかく、ルーマ
ニア凱旋公演である。行く前から予告されているのも何だかなあと
いう感じだが、しかし予想通り好評だったようで祝着至極。斜に構
えた見方をすれば、いかにも西洋人にアピールする東洋的エキゾチ
ックさと様式美、なのだろう。蜷川幸雄が、「やつら(西洋人)は和
的な要素がない日本の演劇は評価しない」という内容のことをこぼ
していたが、そういう傾向はあるだろう。そんなことを書きつつも、
実は見終わってみればかなり好感を覚えた。
能楽堂という特殊な空間では限られた狭いスペースで空間のイメー
ジを作り出すことに意識が置かれていたが、劇場では広い空間の処
理という別種の問題がある。メリットとデメリット。結果的に海外
公演としては(能楽堂に比べ)わかりやすくかつ西洋的でない空間
意識を提示できたのではないかと思う。今回舞台の後方には斜幕が
下ろされ、そこはルーマニア語字幕のスクリーンとなる。また絶え
間なく雪が降る空間となる。中央には恐らく和紙を使ったと思われ
るパネルに樹のイメージがengraveされている。鏡板に描かれた松
の代わりであり、ここには(西洋人から見れば)「生命の樹」、北欧
の「世界樹(ユグドラシル)」のようなイメージが重ねられるだろう。
舞台前面には、櫃を中心に丸い灯火が12個円状に並ぶ。わかりや
すい「時」のイメージ。四人の少女が(舞踏集団のように)白塗り
で現れ、本火を点けて行く。上演中ともり続ける火は、手持ちの灯
りと相まって幽玄な(薪能的)空間を演出する。4も12も時に関
連する象徴的数であり、これは洋の東西に関わらず共通性を持つ(四
季、十二時間など)。第二部では能面なども用いられるが、衣装も和
の要素を取り入れながら無国籍なものに仕上げられており、和のイ
メージにのみ寄りかかった上演ではないと言えるだろう。むしろ文
化的な違いとしては、無実を訴えるハーマイオニが凛としつつも自
らの義を主張して絶叫することはなく、非を悟り絶望するポリクシ
ニーズが喚き散らすのではなく搾り出すように呟く、そうしたメン
タリティであり、それが鮮烈に感じられ評価されたとしたら成果と
いえる。無言で演じられる、16年後のレオンティーズ・ポリクシ
ニーズ・カミローの赦しと抱擁、レオンティーズ・ハーマイオニ・
パーディタ親子の邂逅もしかり。
役者については、今回抜擢された(マクベス以来の)レオンティー
ズ河内大和が充実していた。初演の谷田歩に比べ若々しいが、疑念
の表情、苦悶の表情など細部の意識がきちんとなされている。(何で
こんなにキレるのか、と思えばシチリアはマフィア発祥地だなあ)。
彼本来の喜劇性は背後に押しやられ、緊張感のある人物造形だが、
少し遊びがあってもいいかも知れない。同じく今回マミリアス・パ
ーディタの町屋美咲は、年齢に関わらず実に堂々としていて素晴ら
しい。いろいろな経験値がプラスとなっている。初演の横山道子に
比べ少年マミリアスの悲劇性をアピールする機会があまりなかった
ように思うが、少女パーディタの可憐さはよく出ている。ポリクシ
ニーズ中井出健は、老人に身をやつしたシーンで笑いを取っていた
が、そこだけ突出していたようにも思う。前回アンティゴナスの栗
田氏が結構笑わせたが、間宮啓行は端正ながら少し固かったか。シ
リーズは悲劇に傾いているが、ぜひ喜劇(的なもの)にもトライし
てほしい。ハーマイオニ山賀晴代の美しさと凛々しさは実に貴重。
さらに大きく飛躍してほしいものだ。荒井和真、この人は飄々と演
じる味がよいので、今回少し真面目に緊張してしまっているような
気がした。上手いけど。田島真弓、しっかりしていてよいがもう少
し感情の襞が出ると深みが増すか。などなど。……で第4弾のチラ
シを見たが、また中央の俳優がメインのようだ。地元役者も名が挙
がっているが、方向性としては固まっている役者よりこれからの役
者をもっと使って行ってほしいものだと思う。
[427] 音庵 2006/05/14(日) 21:43 [削除]
[公演名] 「冬物語−Barcarolle−」 ルーマニア・ツアー 凱旋
公演
訂正
426>
27行目 ×ポリクシニーズ
○レオンティーズ
[428] 音庵 2006/05/15(月) 16:43 [削除]
[公演名] sense-datum [劇団名] Noism06
いろいろ物議を醸した例のりゅーとぴあスタジオ。普段Noismが
活動と研鑽の場としているスタジオでフロアを四方から客席が囲み、
様々な角度から見ることができる。公演期間から、客入りはどうか
と思ったが、キャパのこともあってか連日の満席。なかなか当日券
が取れない状況だった。開場すると既に板つきで白い衣装にサング
ラスの少年が身じろぎもせず座っている。新加入の石川勇太。「可愛
い」というお姉さま方の声が聞こえてくるようだ。演劇畑から来た
彼の個性がすぐに発揮される。彼の「台詞」から始まるのだ。テキ
ストはサルトルの「嘔吐」より。重要度に関らず出来事をもらさず
記録していこうということが語られる。するとベージュの
(SHIKAKUで使われた北村道子の)衣装をまとい頭にメッシュの
バンドを巻いたダンサーが現れる。その動きは奇妙にぎこちなく、
平衡感覚がずれているように見える(実は「異物=装置として使わ
れたプラスチック」を撒いたフロアで歩いてみた形の再現と言う)。
そして彼らは吸気とともに声を発する(水泳の息継ぎのように。ト
レーナーが「心筋に負担が掛かり危険だ」と言い、金森穣は「心筋
は鍛えられるから大丈夫」と言ったとか。ヲイヲイ)。そして疾摩す
る。異様な光景。やがて彼らは客のすぐ隣に腰掛けたり、また立ち
上がって動き始めたりを繰り返し、ゆるやかに時に激しく踊ってい
く。ダンサーの息遣い、汗がすぐそばに感じられるこの体験は特別
だ。これもSHIKAKUと同じ平本正宏のインダストリアルなノイズ
に乗って、あたかも頭の中で悪夢が暴れているような感じ。その中
で少年はやがて気が付かないほどゆっくりと動き始める。現実の主
体である自己の脳内で動き始めた仮想の存在が、やがてそこからは
み出して蠢いているような感覚の中で、それを見つめ続ける他ない
人間の姿のようだ。ダンサーはスタジオから出入りし、白金のウィ
ッグをつけてくる。これは男女問わない。そしてそれを剥ぎ取る者
(ゴリラってかわいそうだがわかる気がする宮河愛一郎)がいる。
佐藤菜美(故障した井関佐和子の代わりらしい)と中野綾子のツイ
ンの舞、そして入り乱れての群舞は圧巻。それぞれに動きながら時
に絡み合い、抑え切れない衝動のように弾けるダンサーたち。定め
られた振付に忠実ながら、それを今現在の生(ナマ)として生きる。
ダンサーたちがつけた動きの部分を「本編」とよび、それが半分く
らいを占めると説明された。そして全体を統括しまとめるのはもち
ろん金森穣「D」である。乱雑なようで統一感のある舞台がこうし
て作られて行く。
狂乱の極みとノイズの嵐の中で、悪夢のような美しい夢のような仮
想世界がついに現実世界を侵食し溢れ出す。ウィッグを吊り下げら
れ、まるで怪獣ウー(若い人にはわからない例えでごめんなさい)
のようになる石川。狂騒の果てに訪れる静寂。そこに一種の救いの
ようなものが感じられる。それは、何からの救済なのか?全ては精
神の内側で起こることに過ぎないのか?いやむしろ仮想と現実の皮
膜が無意味になる境地があるということではないか。全く同じ内容
でありながら、角度によって、そして見る度に、様々な印象と新し
い発見がある、スルメのような公演である。
今度は踊る勇太くんが見たいな。
[429] 音庵 2006/05/16(火) 11:48 [削除]
[公演名] sense-datum [劇団名] Noism06
懺悔。
訂正ばかりですみません。勢いで書いているところがあって、いつ
もながら精確さや深みに欠けます。各所でご批判頂くのは当然です
しまた有難いことなのだと自戒しています。嗚呼言い訳がましいっ
すね。
428>28行目
(故障した井関佐和子の代わりらしい)
は「佐藤菜美と中野綾子」のあとに入ります。
[432] 音庵 2006/05/17(水) 17:02 [削除]
[公演名] ライフ・イン・ザ・シアター
新潟でも何度かお目見えしている、ということは受けもよかった
のだと思われる市村正親と藤原竜也。やはり客席はいっぱいで、熱
い視線と拍手がおくられていた。噂には暗転が多いとのことだった
が、完全暗転でなく、紗を張ったパネルを巧みに使い、また劇場裏
方の仕事を上手く取り入れた「見せる」場転。様々な芝居が入れ替
わり立ち替わり上演されるのに合わせて、舞台奥を客席として裏側
から舞台を見る設定は楽しいし、へえっと思うことも多々ある。楽
屋、衣裳部屋、通路口など劇場の様々な場を切り取って見せるのも
よくできている。デヴィッド・マメットらしい(と言ってもそんな
に見てませんごめんなさい)細やかさで、シーンを積み重ねていく
中で微妙に変わっていく心情と人間関係を描き、客観的に見れば決
してハッピーエンディングでない苦さの中で、しかしどっぷり暗闇
ではなくどこかにほのかな明かりを感じさせる、上手い台本だと思
う。
決していやみないばりやではない、新進の後輩にも丁寧に接するけ
れどもやはりキャリアから来る自負、芝居への一家言を持ち、肉体
と精神(記憶力)の衰えが忍び寄る中であきらめとあせりのはざま
にあるベテラン俳優ロバート=市村。軽妙な彼の持ち味が発揮され、
おしゃべりでうざったいが憎めないおじさんを描く。デフォルメが
過ぎるきらいがあり、その台詞回しは浪花節的で、メンタリティが
アメリカの役者というより日本のそれであるのだが、翻訳物にはよ
くあることかも知れないし、あえてそういう演出もあるだろう。一
方、最初は無邪気にロバートへの憧れを示しながら、経験を積むに
つれて自信を持ち、先輩を立てつつもやがて煙たく感じ始める若手
俳優ジョン=藤原は、若さとそれゆえの無神経さで時に人を傷つけ
る。こちらも人物造形としてはただのいやな若造ではなく、十分共
感できる描き方がされている。藤原が上手い役者かどうか自分は評
価する立場にないが、自分の身の丈を知り求められている役柄を過
不足なく演じることのできる役者ではあると思うし、それは能力と
言えるだろう。劇場で生き、そこでしか生きられない役者。舞台上
で生きる人生も自分の人生の一部となるというロバートの言葉は深
い。逆に言えば舞台が実人生を消耗させ削ることもあるだろうし、
芝居が役者を使い果たして行くということもあろう。諸行無常とい
う言葉は、今登り坂のジョンの口からもやがては漏れるのかも知れ
ない。いくらでも深刻に辛辣にそして残酷に展開させられる話だが、
そこはソフトランディング。抜擢されて羽振りが良くなっていくジ
ョンに対し、舞台上で大失策をやらかすロバートは酒に溺れていく。
逆転したこの関係が元に戻ることは恐らくないのだし、ロバートの
末路に希望を見出すことは難しい。しかしそれは暗示に留まり、2
人の関係も完全に崩壊しているようには描かれない。ほどよいほろ
苦さの終幕。マメット作品は、静かに心に残る佳作というイメージ
で、大絶賛の大作という感はないが、新潟ではスタンディングオベ
ーション。作品というより有名俳優に対する地方の飢餓感と喜びが
素直に表現されるのはいいことだとは思う。ただ、マナーの問題と
して、携帯の電源を切らず観劇中一度ならず開いてディスプレイの
明かりを漏らす(ごく少数の)観客が、それでもスタンディングし
ている姿には非常に疑問を感じた。観劇中に注意できなかった自分
にも反省。
[434] 音庵 2006/05/24(水) 10:56 [削除]
[公演名] 春の演遊会 (シダさんに)こんなことがしたいってい
ってみました [劇団名] 劇団第二黎明期
今回はタイトルからしてちょっとびっくり、どんなんだろと思わ
せる公演だった。「えんゆうかい」という音の響きから、かのやんご
となきヒトがにこやかに功労者と会話するあのイベントを思い浮か
べたが、それは的外れながらぐるっと回って結構近かったかもしれ
ない。だって、あのシダさんが受付けから役者から場転や音響など
など(まあいつもそうだと言えばそうだが)大活躍で、(楽日のせい
かもしれないが)舞台挨拶まで。「若手」に胸を貸しながら、舞台に
立つその姿はやはり際立ってオーラを発している。下世話な言い方
をすれば「ご光臨」なのだ。スリムな身体に黒のスーツ、あのくる
ぶし丈のパンツまで、無比だなあと改めて思う。むひむひ。
今回はオムニバス的に3つのパートから成り、それぞれTが高野多
希、Uが佐藤正志、Vが山崎真波の原案、それをどの程度かわから
ないがシダジュンがまとめてアレンジ。基本的に若手のアイディア
を大事にしながら、会話作劇の巧みさにシダ色も伺える。ただ、各
自の(手慣れてないところを含めての)独自性と意外にまとまった
上手さが、何というかどっちにも振り切れないもどかしさにもなっ
ている。以下ネタバレ含む(例の如く)。
Tは、センチメンタルジャーニーに出ようとした若い女性と死神の
話。高野多希がやればわかりやすいのだがVと同じ山崎真波が、し
かしちゃんと演じ分けている。そして、シダジュン。自分の乏しい
観劇歴の中でもなぜか死神(あるいは死神的なモノ)をやることが
多く、クールでニヒルでとぼけた味がはまっている。話は実にスト
レートだが、全体のプロローグになっている。
Uは、自室で引き篭りの男がサイトを見ながら「真夜中のイルカ」
さんが会ったという「死神」の画像に興味を引かれる、それだけの
4ページの台本。しかし一番長い。それはヒッキーの生態ディテー
ルが執拗に繰り返されるからで、どこか佐藤の実生活を織り込んで
いるように見せる(実際は違うだろう)。顔芸を含め、佐藤の描写力
は確かだ。これは当初笑いを誘うものの、やがてはその現実を思う
と笑えなくなってくる。リアルさを追求する芝居の方向性に近いが、
要はその雰囲気が伝わればよいので、省略できる部分もあったと思
う。ただ内容はTとVをつなぐリンクになっている。
VはT同様山崎とシダの2人。しかし女性は赤ん坊をあやしながら
編物をし別な人物であることがわかる。死神は会話の中で女性の過
去をたどらせる。水族館でイルカのトレーナーだったということか
ら、Uとの関連を連想させる(が実際はミスリ−ディングと思われ
る)。そして、ついに真実に目を開かせる。このクライマックス、全
てを知った女性の「…よかった」という言葉は胸に迫る。短いなが
らよく練られた話で、役者の上手さが光る。
「演遊会」と言っても、おふざけ・お遊びという訳ではない。しか
し演劇playは確かに遊びplayである。エクスキューズとしてでは
なく、試みとしてあってよい企画だろう。
[435] すて 2006/05/25(木) 06:17 [削除]
[公演名] 春の演遊会 (シダさんに)こんなことがしたいってい
ってみました [劇団名] 劇団第二黎明期
自分のBlogに感想書いたよ! 見に来てねぇ〜♪ (5/21の
日記)
観劇した人限定かなぁ?
[436] すて 2006/05/25(木) 19:29 [削除]
[公演名] (シダさんに)こんなことがしたいっていってみました
435さんのURLがケータイ仕様だったため、パソコンからうまく
繋がらなかった。ので、以下のよう打ち直して読みました。
http://blog.livedoor.jp/anasutasia3/
あと、音庵さんのレビューより、「楽日は27日ですよ。」
[437] 音庵 2006/05/26(金) 14:48 [削除]
[公演名] 春の演遊会 [劇団名] 第二黎明期
436>
がちょーん!
そうですた、楽日ではないのです。ただの?日曜でした。
てことで皆様ぜひ週末は西堀DOMOへ!!
[438] すて 2006/06/05(月) 23:25 [削除]
[公演名] 楽屋 2006 流れ去るものはやがてなつかしき [劇
団名] 劇団新宿梁山泊
自分のBlogに感想書いたよ! 見に来てねぇ〜♪
(6/4の日記)
観劇した人限定かなぁ?
http://blog.livedoor.jp/anasutasia3/
[439] すて 2006/06/13(火) 18:50 [削除]
[公演名] 銀河旋律 [劇団名] 劇団上越ガテンボーイズ
自分のBlogに感想書いたよ! 見に来てねぇ〜♪ (6/12の日
記)
http://blog.livedoor.jp/anasutasia3/
[440] 音庵 2006/06/13(火) 23:27 [削除]
[公演名] タイタス・アンドロニカス
このご時世、定職があるだけでもありがたいと思うべきなのだろ
うが、薄給固定給の身で、観劇費用も安いものではない。まあ食え
ない程ではないしむしろ問題は時間の捻出なのだが。この時期幾つ
か大切な公演を見られなかった。さて「劇バカ」は名前の無神経さ
が嫌だが心騒がせる企画だった。しかし何とチケットの取れないこ
と。一番見たかった「カラフルメリィ〜」は結局取れず下北沢で見
た。何とか取れた「タイタス〜」は、2階最後方の端。それでも料
金は変わらず九千円。県内劇団なら4〜5回は見れる。APRICOT
なら何度?満足度から言えばこれらの県内団体がそれ程劣っている
わけでは決してない。その一方で、九千円に納得いかないかと言え
ばそうではなかった。値段はギャラ、小屋代その他コストと需要と
供給の問題があって決まるのだが、比較論ではなく確かにそれだけ
金がかかってるよなあとは思う。で、鍛えられた役者や練られた演
出、手の込んだセットや道具はよかった。時間も長かったが退屈は
しなかった。だから、スタンディングオベーションてそんなに軽く
するものなの?という疑問はあるが、熱い観客のスタンディングで
繰り返しカーテンコールがあるのも、まあ否定はしない。元を取る
意味でも何度も呼びたいのかな。そういう楽しみ方も大衆演劇的で
アリかも。ただ立たれると座ってる人間には見えないので仕方なく
立ったりする。能楽堂組の栗田氏・山賀嬢・町屋嬢・塚野嬢他見て
いたが、どう思われただろう。
開演前からホワイエに衣装や道具が置かれ、役者がアップしている。
場内でも発声やら打合せやらざわついた中で客入れ。これから展開
するあまりに陰惨な悲劇とのバランスを取りあくまでも芝居である
ことを示しているのだろう。おもむろに「じゃあ行きましょう」の
声で芝居が始まると空気は一変する。客はローマ市民に見立てられ、
芝居に参加させられる。通路階段やホワイエは演技空間に取り込ま
れ、後ろの席でも役者はすぐ間近に見られる。サーヴィスの一環の
ようで、実はこの血で血を洗う愚かで凄惨な報復劇は「ローマのた
め」という大義がもとであり、愚帝サターナイナスの横暴、ゴート
の女王タモーラの恨み、そしてそれらをもたらしたタイタスの、良
かれと思ってではあるが誤った選択と行動、神々に対する増上慢と
いった個人に帰せられる責任はもちろんあるが同時に責任はローマ
市民に、すなわち見ている我々にもあることを考えさせられる。ロ
ムルスとレムス、それを育てた雌狼の像が示すローマの歩みは血で
彩られている。仇の子を殺しそれを食わせることはギリシア・ロー
マ神話に元がある。強姦、殺人他R18な残忍さは極端であるがゆえ
に古代演劇(悲劇)では客が涙しカタルシス(魂の浄化)を経験す
るものであった。今日、芝居であることを前提にこれを見ている我々
はここから学び得ているのだろうか。復讐は復讐しか生まないこと
を承知で、なおタモーラと息子たちを殺さなければならないタイタ
スは、それゆえ娘ラヴィニアを手に掛け自らも滅びて行かざるを得
ない。生き残るための復讐ではなく、滅ぶための。そしてこの愚か
さの鎖を断ち切る可能性は、より若い世代、タイタスの孫でありル
ーシアスの息子がである少年が憎むべき敵エアロンの赤子を抱くこ
とに一抹の希望が寄せられている。悲劇は繰り返されるかも知れな
いし、終わらせることができるかも知れない。未来は未だ来ておら
ず未だ定まらず。古い世代にできなかったことが新しい世代に期待
されている。
[441] すて 2006/06/14(水) 01:52 [削除]
[公演名] めるしー劇場 [劇団名] あんかーそうる
無理して笑わせようとしなければ、随分、観易くなるものだな
と思った。無理して難解なものをしなければ、観やすくなるのと同
様に。その点、もう少し笑いの的を絞ったほうが良いように思えた。
また未熟で複雑な物語よりも、未熟でも(失礼)シンプルな物語
の方が観易い。観易い=素敵ではないけれど。ラストシーンで由紀
が過去の存在のまま?登場することが、物語的には破綻しているの
だろうけど印象に残った。シンプルな物語だからこそ浮き彫りにさ
れる意義ある破綻・・・の様に感じた。作者の思い入れが強すぎる
だけにも思えるが。
始めて肩の力を抜いたあんかーわーくすの姿が見えた様にも思え
る。
代表の石附女史はラスト舞台との噂。だとしたら勿体無い。彼女
の本領はこの歳からの様に思えてし方が無い。甘っちょろい物語を
堂々と描ける力量と器の広さに礼。
また、照明が今までかつて無く美しかった。
世代を越えてのコラボレーション企画のありかたの一つを見せて
もらった。
[442] すて 2006/06/15(木) 18:40 [削除]
[公演名] めるしー劇場 [劇団名] あんかーそうる
セットの美しさに感動。よくあそこまで造ったものだ。音響もい
いタイミングで入っていた、気がする。
最初のバタバタ感がもっと洗練されていれば、よりスムーズに世界
に入って行けたのに。
ダンスは悪くなかった。メルシーと比べたキャバレーのレベルの高
さが分かり易かったように思う。
ラスト前の本番の盛り上がり感はとてもよく出ており、観ていて何
となくワクワクした。
ゆきがデジカメを見ただけで理解した所でラスト、現在にもゆきが
出てくるんだろうなと読めたが、あれが無ければ突然すぎるし、良
かったのだろうと思う。
次回が楽しみだ。
[443] すて 2006/06/17(土) 09:59 [削除]
[公演名] メルシー劇場 [劇団名] 錨魂(あんかー・そうる)
自分のBlogに感想書いたよ! 見に来てねぇ〜♪ (6/17の日
記)
[444] 音庵 2006/06/19(月) 16:28 [削除]
[公演名] 裏切ればいいじゃん [劇団名] 劇団カタコンベ
お茶を、「美味しい」と思って喫するようになったのはいくつの時
だったろう。甘味や炭酸の効いた飲料だけでなく、苦味の中にある
甘味のよさ。芝居も同様で、こういう芝居の滋味がつくづく滲みる。
まあ劇中で出てくるのは「カルポン」だし、自分はネットカへでキ
ューピット(カルピス+コーラ)などを頂いているのだ。甘味飲料、
炭酸飲料(のような芝居)もあってよいだろう。
前作に続きこれもまた形は違うが「死」をめぐる生者の物語であり、
扱われてる内容はシリアスなもので短絡的な笑いを取る意味でのコ
メディではないが、ダンテ「神曲」がディヴィナコメディアである
ように、これは正しくコメディアであり、悲劇ではない。
例によってネタバレ含む。話の筋は、定職を持たずふらふらしてい
る春男がヤクザ絡みの使い込みをごまかすためにダミーで逃亡し豪
州旅行中の兄夫婦の家にやって来る。姪の京子の世話をしているの
は近所に住む義姉の妹和子。最近事故で男の友人を亡くした京子を
心配しながら、一緒にテスト勉強をする友人のケイ。春男を追うフ
リを命じられつい本人を捜し当てて来てしまった下っ端のヤクザ内
藤。春男と内藤が出て行くまでの数日、大きな事件が起こるでもな
い。例えば、終盤内藤と春男が下手袖に消える。かつてのカタコン
ベなら、ここから血塗れの春男が転がり出てきたりしても不思議で
はないのだが。ストーリーよりもそれぞれの思いが絡み繰り広げる
会話など、ディテールにこそこの作品のレゾンデートルがある。非
常にナチュラルで日常的なやり取り、しかし流れている時間はあく
までも日常のコピーではなくて劇的な時間。この(戸中井氏いわく)
「微熱」の感覚、日常をベースにしその上に薄く張られた皮膜がこ
の時空間である。例えば立体四目並べをする(ト書きでは1行だが)
長めのシーン。無言だが濃密な思いが満ちている。やっていること
は日常、しかしそこでの心の動きは日常のスピードと同じではない。
役者の生理を通し、繰り返された稽古と演出の指示を経て、しかし
舞台上で繰り広げられる一回性のそれを、役者は生きる。戯曲だけ
では再現し得ない生(なま)の芝居。リアルな高校生像を高校生が演
じ得る奇跡的な無為を成り立たせる萩野みどり。ほころびたソック
スすらリアル。Aヴァージョンで、その佇まいからして役柄の確か
な感触を紡ぎ出した赤塚すいか。自分の小手先の芝居を脇へ置き気
の弱いチンピラを等身大で表した五十嵐幸司。年齢はともかく制服
姿が結構はまり、優等生ながら好感の持てるキャラを創出した牧田
夏姫。そして戸中井三太は役者に望む表現のあり方を自ら体現し、
身体の細部まで冴えた神経を行き届かせながら弛緩し、台本の中に
生きながら瞬間瞬間に生じる感情を殺さない。春男の口を通して唯
物論的な世界観を語りながらも、京子の悲しみに対して「恥ずかし
い」こころの中での実在を否定しない(実はここだけ春男が違って見
える)。この優しさ。人の憂いと書いて「優」しい。
役者が変れば芝居は変わる。Bヴァージョンで新たな出発を迎えた
小山由美子、新人男優片岡広夢、(高校演劇出身だと思うが)木下鮎
子をぜひとも見たかった。無念。
[445] いぇい 2006/06/22(木) 08:53 [削除]
[公演名] 裏切ればいいじゃん/オーシャン・デプス [劇団名] カ
タコンベ マジラボ・ULT馬鹿企画
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評にアップ!!
・芸能時評No175「劇団カタコンベ第47回
公演 裏切ればいいじゃん」
・芸能時評No176「マジカルラボラトリー アルティメット馬鹿企
画 オーシャン・デプス」
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/jan.html
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/ultimate.html
[451] トックメイ 2006/07/08(土) 17:39 [削除]
[公演名] お勝手の姫 [劇団名] 新潟大学演劇研究部
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評更新!
新潟大学演劇研究部第106回定期公演 「お勝手の姫」
について
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/princess.html
デッス!
[452] すて 2006/07/17(月) 17:29 [削除]
[公演名] 恋愛科学研究所 [劇団名] 劇団御の字
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(7月17日の日記)
[456] すて 2006/08/02(水) 06:41 [削除]
[公演名] TRANS ー改訂版ー [劇団名] パラグラフ
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(7月27日の日記)
[457] すて 2006/08/02(水) 06:45 [削除]
[公演名] 羅生門 [劇団名] 中央ヤマモダン
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(7月29日の日記)
[458] トックメイ 2006/08/03(木) 01:24 [削除]
[公演名] トランス(改訂版) [劇団名] 劇団パラグラフ
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評更新デス!
劇団パラグラフ第29回公演 トランス(改訂版)について
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/paratrans.html
ご覧下さい。
[459] すて 2006/08/11(金) 06:38 [削除]
[公演名] イッセー尾形みたい! vol.3 ニューサマーサンセット
グラフィティ [劇団名] コマツ企画
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(8月9日の日記)
[461] すて 2006/08/12(土) 14:51 [削除]
[公演名] ボインたちの夏 〜フォーエバーラブ〜 [劇団名] 危
婦人
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(8月12日の日記)
[466] すて 2006/08/31(木) 15:13 [削除]
[公演名] グスコーブドリの伝記 [劇団名] 演劇スタジオ キッ
ズ・コース APRICOT
動きに関して言えば今までのAPRICOTとは全く違うものでイン
パクトがあった。
でも、芝居に上手く入り込めなかったのは芝居のできる子供が減っ
たからか?印象に残る役者が殆んどいなかった。しいて言えば、台
詞は少なかったが町屋美咲の芝居が素晴らしかった。中学生とは思
えない演技に脱帽した。
歌に関しては、磯野知世と町屋美咲のコーラスが素晴らしかった。
今回はオーケストラピットでの生演奏だったためか、楽曲に迫力を
かんじられた。
今後この劇団がどうなっていくか見守っていきたい。
[469] オトアン 2006/09/03(日) 01:42 [削除]
[公演名] あの時、βが勝ってれば… 〜儲過利電機の向かいのお
店〜 [劇団名] 新潟大学人文学部齋藤ゼミ
しばらく東京方面の芝居を続けて見に行っていた。そのため新潟
では「開放弦」を見た以外はコマツ企画と今回、久しぶりにアマテ
ュア(否定的な意味ではない。生活の糧でなく純粋に愛好する者、と
いう原義)演劇を見た。新大人文学部齋藤ゼミが昨年の「機械〜鏡面
仕上げ」に続いて今年は創作戯曲で公演。劇団のように同じ方向性
で目的を持って集まる集団とは異なり、恐らくは経験のない人が多
い中で期せずしてあるいはホンを書き/演出をし/役者となり/スタ
ッフとなり/ここに至る、スキルも志向性も異なる、そういう人たち
の公演。決められた期日までに仕上げることへのプレッシャーや焦
りの中で、衝突もありすれ違いもあり苦労や悩みがある、それも含
め製作から上演までの過程そのものが勉強であり、かつ一番楽しい
部分でもあろう。高校演劇の現場などで日々見られる光景が思い浮
かぶ。ただ、興行収入や評価ではなく、とにかく「演る」ことを目
的とする、のだとしても、「演る」ということはただ自分たちだけで
完結するものでなく人に「見てもらう」こととイコールである。だ
から、料金500円では(客がどう評価するかは別に)必要経費すら完
全に赤字であるとしても、場所を借りお金を貰って人に見せること
でこそ体得できるものがある。当然いい評もあればきつい評もある
はずで、でもそれを得ることに意義がある。正しい企画と思う。あ
る意味すごく厳しい「授業」だが、物理的・経済的そして舞台に立
つことで精神的にも自ら大きな出資(出費)をしている齋藤先生には
敬意を表する。
脚本、演技、スタッフワーク、もちろん難が無い訳ではない。ネタ
バレを避けて細かいことは機会があれば述べるとして、ただ予想し
ていたより楽しめた。セットも頑張っているし、PCを駆使した値
札や貼り紙、パンフのレイアウト、劇中歌の作成、衣装などの仕事
もよくできている。演じる人全てが役者を志向しまた適しているわ
けではないだろうが、しかし素人の集まりにしては昨年も今年も実
に味のあるキャラクタがなぜか集まっていることは興味深い(上手
いというより旨い)。これも齋藤ゼミの求心力なのだろう。あて書き
ではないはずだが、しかし各登場人物にはまった配役がされ、無理
なくその特徴が出ている。あまり力んで身の丈以上に背伸びをして
いないところ、しかし手を抜かず衒わず若者らしいテンションで精
一杯演じていることは評価したい。特に男性陣はそれぞれによいキ
ャラクタを作り得ている。女性陣は(「見た目が9割」などという言
葉もあるが)ある程度自分の枠の中で役ができているように思う。も
っと壊していける(中山舞は熱演)。「役者」齋藤陽一は、ライトコメ
ディを、照れずに体当たりで演じようとする「若さ」がある。しか
し、黙っていても顔と佇まいに染み込んだ豊かな滋味があるので、
ご本人の志向とは異なるかも知れないが、(平田オリザ的)静かな芝
居をやったらとてもはまるような気がする。
芝居を作り演じる立場になって初めて見えるものがある。自分のよ
うな外から見るだけの人間が味わえないそういうものを経験してい
るゼミ生の方々が羨ましい。
[470] オトアン 2006/09/03(日) 18:00 [削除]
[公演名] あの時、βが勝ってれば… 〜儲過利電機の向かいのお
店〜 [劇団名] 新潟大学人文学部齋藤ゼミ
ネタバレ。
タイトルから予想できる通り、話はかつてビデオのベータが質にお
いて勝りながらVHSに商業的に敗れたことをベースに、ベータに
賭けて大量に買い込んだがオクラ入りになったことを引きずってい
る雨冷内(うれない)陽一店長が経営する雨冷内電気が舞台。設定は
秋葉原らしき電気街(だが店の作りなど地方都市の電気店のようだ
しそれでもいけそう)。店・人物名がそのままキャラを示すまあよく
ある設定で、非常にストレートに話が作られる。何かにつけ「ベー
タが勝ってれば」と愚痴る店長(齋藤師:数十年経っても昨日のこと
のように嘆きうずくまるのだが、もはや日常のことなので自然に独
りごちる程度でよいのでは)。向かいの儲過利(もうかり)電機は8階
(以上)のビルでレストランやアイドルのイベントホールを持ち繁盛、
雨冷内電気は雑貨類販売や店長の趣味の仁侠映画コーナーなど工夫
はしても閑古鳥。従業員の常明類子(つねあかるいこ)は能天気なが
ら雑誌の占いに従って行動する(柴田睦:明るくかわいい役柄に合う。
本来メイン的なキャラだと思うが感情移入まで行かないのが惜し
い)。河合よねはちょっとピリピリしたクールビューティで不倫やら
元アイドルやらいろいろ秘密がある(安尻優:役作りなのだろうが、
いつもむすっとしているのでなく、不倫相手に対する態度、現アイ
ドルの実妹への態度など差をつけたい)。そこに急にバイトとして飯
尾宅也(いいおたくや)がやって来る。見るからにアキバ系で、実は
向かいのアイドルイベントを目指して間違って来たのだ(渡部敏
喜:いかにも素人なのだが、見るからにアキバ系を体現、ある意味
吹っ切れていて小気味よい。荒川良々的?)。類子は占いで眼鏡白シ
ャツの運命の男性として飯尾を意識する。店長の閉店宣言に驚いて
やって来た「幕下電気」営業・堅井真面目(かたいまじめ)は長年の
付き合いもあり店のヘルプをしているが類子に思いを寄せている
(渡邊博史:けれんみなく体当たりで実にいい。二役で飯尾のヲタ仲
間をやるがこれもそれっぽい)。ライバルの「SOMY」営業・池照裳
輝男(いけてるもてお)はよねと不倫関係で、彼女の秘密を知ってい
る(高橋優介:いかにも気障ながらどこか抜けてる色男を過不足なく
演じ頭の回転のよさを感じる)。よねは向かいにイベントで来ている
眼鏡っ娘アイドルデュオ・プリムローズの河合萌(かわいもえ)の姉
で女優を志しながらアイドルになり、それを辞めてこの店に入った
のだった。堅井は類子、池照はよねという個人的動機はある訳だが、
大企業の営業がこういう小さな店にそれほど力を入れるのかという
疑問はある。まあそれはそれとして、ベータ問題で幕下に遺恨のあ
る店長は何かとそれを口にするのだが、いわば勝った幕下と負けた
SOMYの代表としては、むしろ池照が幕下・堅井がSOMYだったら
わかりやすい気がする。たまたま店に来て池照にのぼせる主婦・宇
和佐(うわさ)すき子(中山舞:おばさんパワーを頑張って出してい
た)が、店長の後輩でいかにものヤクザ(本田元治:見た目も落ち着
きもそれらしく見える)や着替えた店長の姿などからあらぬ誤解を
して騒ぎを起こす。プリムローズの河合萌(伊藤加奈子)・花咲つぼ
み(南部恵美)は眼鏡に萌え系衣装で(歌も作って歌う)ファンが長蛇
の列、対抗して雨冷内電気では池照の発案でよねの復帰ライブイベ
ントを行い、そしてベータも…というベータな(失礼)展開で大団円
へ繋がる。「ハートフル」というかご都合主義的ストーリーの甘さや
クライマックスの盛り上げの弱さはあるが、斜に構えず正面から取
り組んでいるのは評価する。個人的好みでは、あまりセンターで正
面を向いての芝居は多用しない方がいい。その場でメインとなる人
がどうもそういう感じになる。また同時多発会話が避けられ、一方
で話が始まると急にもう一方が小声になるのだが、ちょっといかに
もだし、客の方を意識した位置取りなど、基本に忠実な感じを受け
るシーンが多い。いろいろな芝居を見て視野を広げていくと、ああ
こんなのもアリなのか、と表現に幅が出ると思う。また、セットで
作っている部分以外の想定される設定空間(向かいのビルとの距離
や角度、道の位置、裏の配置など)をイメージしておくとよいだろう。
蛇足ながら。
[474] すて 2006/09/05(火) 06:28 [削除]
[公演名] あの時、βが勝ってれば…〜儲過利電機の向かいのお店
〜 [劇団名] 新潟大学人文学部齋藤ゼミ
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(9月4日の日記)
[588] 中嶋かねまさ 2006/10/02(月) 01:20 [削除]
[公演名] ラモス類 [劇団名] 劇団カタコンベ
ハンニャーズHP上の日記に、つたない感想を書いてみました。
[597] オトアン 2006/10/04(水) 13:22 [削除]
[公演名] ラモス類一覧 [劇団名] 劇団カタコンベ
初日に行った。同席したN大S先生と、(若手の)訓練的な意味合
いもあるかなというお話をしたが、某○ャラメル○ックスの訓練で
思い切り恥ずかしいことをやって笑いをとる「クラウン」にも通じ
るか。シリアス・コミカル両極への振り幅が大きいほど役者のポテ
ンシャルは高くなる。以下ネタバレ。
『ごあいさつ』:初日の緊張感の中、流石の風格で飄々と展開される、
もはや恒例化した戸中井三太・ジャンボ佐々木の、王道的ボケ・突
っ込みの「漫才」。間のよさと絶妙な「引き」の感覚、力一杯やるだ
けが笑いを取る方法でないことの好例。
『Sweet Fairy』:続編の2も含め、牧田夏姫とやえこ(新人?)、若
いコンビの間抜けな会話に、七色(てか四色)のフットを浴びつつ登
場する笹団子の精・こばや☆スが絡む(てか絡まない)。何もしてく
れない精にキレるやえこだが、多少無理してる感が。しかしこれも
通るべき道。牧田の、両者の間で困っちゃう感は前回の芝居にも通
じ、自分は好み。
『ピンキーさんは・・・』:麦森あいえが、人と犬の区別がつかないほ
しのゆきえを連れて帰る。迎えるピンキー(戸中井)を、ほしのは
見たまま人間なのか犬なのか戸惑う。途中でオチは読めるが、どん
でん返しの鮮やかさがウェルメイドで、戸中井の雄弁な無言がどこ
か小林賢太郎っぽい作り。
『まくあい』:20歳差のジャンボ・萩野みどりのショートコント。
あえてのグダ感。人のよいジャンボの申し訳なさそうな佇まいと受
けようが受けまいが気にしてなさそうな萩野の掛け合いににやり。
『世にも奇妙な・・・もの』:ねえさん(「お」はつかない)2人。例の
音楽とともに、赤塚すいかの主婦が家事をする中、壁からN氏友恵
の視線を感じるサスペンス(笑)。こういうワンアイデアものはどこ
まで引っ張るかの感覚が肝。長さはいいけど、もうちょいイジメて
もよかったかな。
『将来』:萩野の女子高生はいつもながら「リヤル」。加齢臭ゆえ?
距離を置かれる父・戸中井、中を取り持つ母・ほしの。「世界征服」
という夢に向け、家族で語り合う心温まる(?)団欒のひととき。芝
居になっている。
『ダイヤモンドヘッドのヘッド』:こばや☆スが己を見出した記念碑
的作品の「青春残骸編」。初期あまりにイタイタしく失笑が起こった
ものだが、いまや吹っ切れたイタさ、イッちゃってる目つきは彼一
流。20歳(!笑)を迎えバイクを降りたヘッドの独白で、やはりこの
バイクは海を越え宇宙を飛んでいるビークルなのだと納得。初日恐
れ多くも高橋景子さんをイジるという暴挙に最も戦慄していたのは
こばや☆スだ。
『初めてのおつかい』:暗転中始まり、○ンチョーのCMのようなカ
ッパ姿のやえこが落としたズッキーニを携え現れる池の精ジャンボ。
金とはいえズッキーニはいらないんじゃ、というのはさておき、皿
水のオチは少し弱いかな。
『フォーラム「地球温暖化について」』:おバカな小学生コンビ、こ
ばや☆スの妙にナイスバディな不気味さと麦森のかわいらしさ。「お
んだんか」に立ち向かう彼らの行動に、失笑よりいとおしさを感じ
ちゃうのは年のせい?
『家政婦を見た』:全員集合!ネタ。顔見せ的な総花感はある分、ネ
タの強度は低い。ほしのの女っぽさが良。牧田のラモス、ここかあ。
気がつくと戸中井だけずっと同じ衣装。風格か。今までサニーサイ
ドでは、結構なりふり構わず下ネタも辞さずのところがあって、そ
れがはまると爆笑なのだが、ずれるとあららってとこもあった。女
性が増えた分、随分ソフィスティケイトされてる気がする。でも、
肩を震わせて笑ったネタもある。内緒だけど。うひ。
[601] トックメイ 2006/10/05(木) 02:03 [削除]
[公演名] フィーリングカップル [劇団名] 新潟大学演劇部OB
会
ひえーチェック忘れてた。久々に齋藤研究室の劇評がUPされて
ました。
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/feelingcouple.html
[607] オトアン 2006/10/08(日) 00:21 [削除]
[公演名] オーバーストリート君 [劇団名] 中央ヤマモダン
初めて見ました。今までを見てないのでアレですが、面白かった
でーす。あーこれは人によって好みが分かれるわなあ、ネタによっ
てもテイストが違うし。4人とも、器用なわけではないようだけど、
自分のキャラをわかっている。それぞれのコントに必要なだけの「演
技力」を使いこなしていて、決して各人物の造形に必要以上の力を
入れたりしない。こういうアプローチは、演劇人のそれとは違って、
お笑い系のものだ。結構ストーリーがちゃんとあるものが多いのに、
人物像が薄い。背景のない人物の軽さ、思い入れの薄さは、感情移
入させない分だけスピード感があってフットワークがいい。スキゾ
的に、瞬時にその人物の表情や感情や論理がひっくり返る一種暴力
的な感覚は気持ちがいい。まだ公演があるし、内容的にここで書く
ことが適切でないネタも多い(ライブだもんね、見てもらわなきゃ)。
映写が一部使われ(はああ、これで「オーバードライブ君」ねー)、
出来立ての映像ネタが本編の後で流されこれまた面白かった(また
ヤバさのあるものもあった)が、ネタそのものの展開にも映像的なも
のがあり、これは世代的なものかなと感じた。ただ、その見せ方の
ゆえに実際の場面転換に手間取ることもあって、確信犯的な部分も
あろうが、そこらが垢抜けない。個人的に、「ナイルの鼓動」(そし
て「大王送り」!)のナンセンスさが好き。映像のフォローも面白い
のだが、最初の、訳が分からないが何らかのルールがあるらしい奇
矯な行動のインパクトはそのままでも充分いける。また「MIMAI」
での屋上屋を重ねるどんでん返し連続のシュールさは、不条理演劇
にも似ているが、やはりネタであり、そして気づけばトータルコン
セプトというか、ループ状にネタがつながる。大分力を入れて、こ
の脱力感が生み出されたのだろうなと思う。これは期待をせずに出
かけて体験してみるのが正解でしょう。次も楽しみだ。
[612] オトアン 2006/10/09(月) 18:12 [削除]
[公演名] スケルトンU [劇団名] 劇団第二黎明期
「シダさんの頭って形いいなあ」「それに脚!きれいー」なんてこ
とを私が観劇中思っていたとしますやん。で、それが脳内でなく無
意識に口から垂れ流されていたとしたら、ひゃー穴を掘ってでも入
りたい!ってなりますやん。タイトルと、初めの方の会話で本音部
分が副音声的に吐露される場面で、そういうお話なのかしらって思
たんです(語尾上げ)。せやけど、なかなかどうして予想以上に遠い
とこまで持って行かれましたわー。ほなネタバレですけど。
波の遠鳴りが砂の音に重ねられ、これはラストまでの通奏低音でも
ある。可聴域を超えて常に鳴っているのだ。台詞以外のト書き部分、
その芝居がかなりの量あって、その濃密な時間が役者の力を如実に
顕らかにする。これは黎明期の特徴の一つかもしれない。サファリ?
スタイルで砂丘の観察をしている男・くぬぎ(シダジュン)のところ
に取材のため訪れた雑誌記者・大桃(YOKOTA)。仕事ではなくボラ
ンティアとしてひたすら砂丘を観察し記録するというくぬぎの生活
に大した興味もなくサクサクと取材を進めようとする大桃だが、彼
女にはいつものグルメ取材などの大衆迎合記事でなくいつかジャー
ナリストとして立ちたいという夢があり、その夢にきっかけを与え
た教育実習生「どんぐり先生」が実はくぬぎだったことがわかる。
くぬぎは砂漠化の進行によって失われて行く人類の記憶を、砂丘こ
そ記憶であるとして記録していこうとしている。そのために論文が
日の目を見ることを願っている。諧謔を織り交ぜた何気ないやり取
りの中で、これが近未来を舞台にしたものであることが見えてくる。
「すっぽん」や「全然」などの言葉の意味が(現在もねじれがあるこ
とをベースに)さらにねじれていくことなど、くすぐりが入れられて
いる。くぬぎを砂丘に惹きつけた「トレモレスク現象」(フィクショ
ンだろう、メイビー)など相変わらず細かい説明をしない作劇、軽妙
な会話の中で自然に浮かび上がってくる舞台設定。しかしこの台本
をポンと渡されて演じられるかといえば、そうではない。台詞をど
のように発するか、そして行間の芝居、文字上では表現され得ない
部分にこそ生命線がある。シダジュンはシダジュンにしか出せない
味わいを提示し、そしてYOKOTAは頑張って仕事しているがどこ
かで夢を追う豪快かつ繊細な女性の心の動きを見事に表現している。
きちんとやってるのにどこか余裕がある2人は流石。ラストの、言
葉とビジュアルの美しさは、曲と相まって心に残る。この感覚は、
どこか懐かしい。
[615] すて 2006/10/11(水) 20:27 [削除]
[公演名] オーバーストリート君 [劇団名] 中央ヤマモダン
自分のBlogに感想書いたよ!
見に来てねぇ〜♪
(10/11の日記)
[618] ぶな 2006/10/16(月) 02:33 [削除]
[公演名] ユニコン物語 溶ける角編 [劇団名] 劇団唐ゼミ
今回の公演はテント公演だった。テント公演を見るのは初めてだ
ったがなかなか良かった。テント公演はスタジオBやシアターen
tとは違い、一定の舞台が存在していない。そのため自由度が高く
なるのだが、だからといってなんでもかんでもやればいいわけでは
ない。
装置はなかなか作りこんであり、またステージから出て行くときに
は花道を使ったり多彩な演技が可能であった。また、演技に関して
は、早口でしゃべる場面でもよくセリフが聞こえた。また、3時間
でかなりテンションの高い芝居であるにもかかわらず、体力的に辛
そうな役者がいなかった。
[619] オトアン 2006/10/16(月) 15:00 [削除]
[公演名] ユニコン物語 溶ける角篇(台東区篇より) [劇団名]
劇団唐ゼミ★
アングラ系テント芝居が21世紀いかに生き残るのかを思った。
西海岸公演に立つ青テント、メイクした役者の案内に開演前からド
キドキ。中ではドラムと擬似?ホーミーの即興演奏。セットは小汚
い下町の片隅。客席に飛んで来る様々な液体。そして期待通り、テ
ントの開放。猥雑なお祭り的感覚、往年のファンにはたまらないテ
ントの雰囲気。さて今のワカモノたちにどれだけ伝わるか?70年代
衝撃的な「いま」を映していたこの作品は、いわば古典であり、ち
ょうど伝統芸能を見に行く新鮮さと同じ感覚で捉えられるのではな
いだろうか。実際、内容は唐世界そのもので、神話的物語をベース
に下層の庶民生活を重ね社会情勢も織り込む。小改訂があるとはい
え時代感覚が求められる。
内容に触れるが、台東区下谷で起こった嬰児取替え事件(ちょうど似
た報道があったな)で、13人の嬰児のうちオカマの春さん(帰還した
残留兵の二重人格)に育てられたテシオは、自転車に巨大ネジをつけ
たユニコーンに乗り出自を求めて12の家を回る。そして取替えら
れた女・アドネと出会う。奇しくもAB型Rh−の血を持つ2人。
ガラスのユニコーンと赤いセーターを取替え、その赤い糸がたぐら
れて行く。言うまでもなくクノッソス・ミノス王の迷宮(ラビリント
ス)へミノタウロス退治に向かうテーセウスと、彼を愛し道しるべに
糸玉を手渡すミノスの娘アリアドネがモチーフ。怪物退治後アリア
ドネが捨てられるアンハッピーエンドすら踏まえられ、話は迷宮の
ように変転していく。嬰児や胎盤、血液などの売買に関わるネンネ
コ社、専務の八房(文字通り4対の乳房を持つ性別不明の怪人物)と
幼馴染の下谷病院院長・正ちゃん。北区のリチャードを称するネン
ネコ社部長はリチャード三世ばりに権力の座を狙う。
時代を反映する取替え事件や帰還兵、売血、トルコ、犬印の安産帯
など、若者には馴染みのないことが多かろう。さらに一般的教養と
しての神話や古典について、今はそれほど認識されているとは言え
ない。まして唐十郎、普通に聞いていてもとてもついていけないほ
ど盛り込まれた(無駄にすら思える)情報量の多い台詞が速射砲のよ
うに繰り出される。これはもはや強迫観念的で、30~40%カットし
たら大分スッキリして分かりやすい話になると思うが、これが唐作
品なのだ。わけが分からなくても何ぼのもんじゃい!てか。そう、
細かい予備知識はあって妨げにはならないが、分からなくてOK。
理屈で納得する必要なし。恐らく改訂で入れたと思われる「ナルニ
ア国物語」「指輪物語」のネタは明らかに強度が落ちている。現代の
ある程度知られた物語も古い神話には及ばない。ヘタに時代を意識
しても意味がないと思う。もちろんノスタルジックな昔の話を再生
産していけばいいのではなく、今は今のアングラができるはずだ
(「坂下さん」、期待してます)。
パンフを見ると唐ゼミ★の面々は今風の若者たちだし、高学歴。か
つての、道を踏み外した的な(笑)近寄りがたいアングラ演劇の方々
の怖さはない。しかし、舞台に上がると若いエネルギーを存分に発
揮していた。2006年、堂々とこういう芝居をしてくれることは嬉し
い。これが続いていって、やがて(「一発屋」が「ハンニャーズ」に
改名したように)「唐ゼミ★」という名が変わっていくことも期待し
たい。客席にも若い人々がいた。伝わるものは伝わるはず。エッセ
ンスを吸い込んで行ってほしいなと願う。
[622] オトアン 2006/10/17(火) 15:51 [削除]
[公演名] オーバーストリート君 [劇団名] 中央ヤマモダン
はいじゃあ×手品○訂正しま〜す。
[607]13行目
×「オーバードライブ君」→○「オーバーストリート君」
です。ああ今さらジローですが申し訳ありません。やっぱ再読して
からアップせねば。
[624] オトアン 2006/10/21(土) 20:07 [削除]
[公演名] 即興のうねりV [劇団名] 堀川久子、アブ・バース、
イグ・ヘンネマン
初めてエスプレッソを飲んだ時は(むむ、どこかで似たようなフレ
ーズが)、うわあ濃いぃ、なんか粒子混じってるし…、と思いつつ我
慢して飲んでいるといつからか旨味がわかってきたものだが、舞踏
についての感想も似ているところがある。堀川久子の舞踏からは
様々な感情が喚起される。自分は心が動いても極力それを表に出さ
ないようにする性向がある。客観的に見たら滑稽なのでは、醜いの
ではと実は主観で思っているゆえに人に見せたくないナマのどろど
ろした感情などは特に。でも堀川氏は己のこころのゆらぎを包み隠
すことなく剥き出しにしてみせる。だから見ているとひりひり痛い。
その一方で、自分が抑圧しているものを解放している氏の姿に清々
しい感銘を受けたりする。こころの動きに従って(いや伴って)から
だが動く、そのさまを見ることによって、自分自身の心が見えてく
る。ときに幼児に、老人に、ある時は人を脱してけものに、風に、
そしていのちそのものになっていく舞い。重力に縛られた人体を持
つ点で、ダンサーも自分と同じなのだが、物理的には地球の引力の
中で、大地に結び付けられている私たちが、しかし内面の解放によ
り己の枠から解き放たれる可能性を垣間見る。
今回は前衛芸術でも名高いオランダから来た2人の音楽家の音に呼
応してのパフォーマンスゆえ、堀川氏単独公演とは多少趣が異なる。
内面のモメント、内面の「とき」に則って行われる舞踏に、また別の
感性がアプローチすることによって、異なる流れが浸入する。ある
意味不自由な、しかし複数の流れが重なることで新たなうねりが生
まれることが企図されている。パフォーマーにとってスリリングで
あり従って見る者も目が離せず、大変集中力を求められる(いやー疲
れた)。毎回、恐らく大枠のみの打ち合わせでそれぞれ異なるパフォ
ーマンスとなる一回性の高いもので、一般論として論ずることは難
しいし、断片的感想のみ述べる。
管楽器奏者アブ・バースは、人の声に近いというサックス、しかも
アルトより「強い」音のテナーを、強く激しく鳴らす。一見(一聴)
傍若無人のようで、相手をよく見ている。サックスやクラリネット
などの西洋楽器も、尺八や能管を吹く時と同様の短調音階や間の感
覚があって、日本的なものも感じさせる。ビオラ奏者イグ・ヘンネ
マンは穏やかながら年齢を感じさせないアヴァンギャルドさで撥弦、
胴打を含めビオラから様々な音を出す。ふとした折に響く美しい音
が印象的。前半は3人のそれぞれペア、後半は3人でのパフォーマ
ンスとなった。丁々発止のようでいて、互いに対するリスペクトが
伝わってきた。山下洋輔のような、格闘技的なものも面白いだろう。
芝居を見ている者の性か、つい物語性やロジックを追ってしまうの
だが、むしろ瞬間瞬間の展開に身を委ねるべきであろう。堀川氏は
前半アブとの絡みで英語を、イグとの時は日本語を断片的に口にし
ていたが、どうしてもこちらは言葉の意味を追ってしまう。後半の
言葉にならない声の方がよりそぐわしい。何となく、もう少しいく
のかな、と思っていたところで終わった感があるが、欲張りかな。
[625] オトアン 2006/10/21(土) 21:07 [削除]
[公演名] 音速キューピッド [劇団名] 劇団ハンニャーズ
ぶっちゃけ最近思うんだけど、わしのボウコウ。ちっちゃいのか
も。なんせ1時間我慢するのが結構大変。ハ○ンケアとか買っちゃ
おうかってマジ悩みますもん。映画とか、きついっすもん。見るけ
どさ。ドリンクのカップにしちゃおうかとか一瞬アタマよぎります
もん。さーて、ハンニャーズとしての第1回、本公演18弾は2時
間!うきゃー、アテ○トが要るか。…もちました。終わってみれば
結構早く感じたです。多分この回の出来が最高ではないと思います
が、面白かったということでしょう。コントもナマモノ、客や天気
や何やかやで変化するものです。
まだ公演があるので袋とじを開ける前の人のため内容は慎んでおき
ますが、9本のコント全体を通して、とても演劇的だと思いました。
ECOCOの諸団体中(NAMARAは見てないですが)多分一番演劇的。
短いものは短いけれど、長めのものが多い印象。説明的でなくさり
げなく設定を見せていくために、やはりそれだけ時間がかかってい
るようです。お笑い的なコントであれば、ズドンと落とせばそのコ
ント内人物のその後などまったく気にならないのだけれど、しっか
り「人物が描かれている」ので、舞台上の数分だけでなく、劇中(と
言っちゃうけど)人物の、それまでの人生や、その後の人生をトレー
スできちゃうししたくなる。これは、役者がキャラクター作りをよ
くやっていること、そして設定が突拍子もなかったり人物が異常だ
ったりしない、割とナチュラルにどこにでもありそうな話であるこ
ととも関係するかも。今までの芝居ではさんざん「池の精」や「フ
クちゃん」やら出てきたのに、この一連のコントではナンセンスを
控えている。カタコンベでもヤマモダンでもナンセンス系はあった
のに。そこら辺が興味深いです。結構しみじみさせる話もあって、
それぞれがちゃんと芝居として成り立ってる。意図とは違うのかも
知れないけど。やっぱ芝居寄りなんですよ、中嶋さん、てかハンニ
ャーズ。
一方、CやFなど(あー言いたい!うぐぐ)、ハプニング的なものを
取り入れたネタもあり、またナカジマ氏の出てくるアレやコレ(あー
言い…うぐ!)などのサーヴィスというか仕掛けもあって、そこら辺
はハンニャーズさんらしいですね。映写なんか新潟ではやっぱ先駆
けだし、センスありますもんね。
役者はやっぱりうまいなあ。そして真面目にテンションあげてる。
若干、むしろいい加減な、抜いてみせるところがもっとあってもい
いとは思います。そこらは平石さんがうまいんだけど。山川さんは
すごく頑張ってて、いつもの(失礼)異常さがあまりなく、紅一点と
いうこともあってかとても「かわいい女」でした。渡辺さん横山さ
んどちらも、真面目なテンションの高さなんですよね。素っぽく見
せるところもいい加減なのでなく、「ちゃんと」ボケてるような。ス
タッフワークも含め細部まで丁寧に作られてる感じがします。あく
までも自分の見た限りの印象ですよ。ご覧あれ。
[627] すて 2006/10/23(月) 01:59 [削除]
[公演名] 音速キューピッド [劇団名] 劇団ハンニャーズ
巧い役者である イコール 笑える、という図式は必ずしも成り
立たないんだなと思いました。
お笑いがやりたかったのか、演劇がやりたかったのか?見ていて気
になりました。
たぶんそんなことを考えるのは、今回がエントコントコレクション
という枠に入っていたからだと思います。
コントという言葉の定義としてはハンニャーズ(一発屋)のような
コントもすんなり了解できるはずなのですが、今回は無意識的に“お
笑いとしてのコント”を期待して観に行っていたのだということに
気づきました。
さらに言えば、ナンセンスコメディであれコントであれ笑いを目的
とした芝居をやっているのでしょうが、前者のほうがいわゆるコン
トっぽいというか笑える印象を受けました。後者は脚本をきれいに
まとめているようで、話は面白いけど感覚的な笑いに繋がりにくく
感じました。
ところでコント公演の時に出ている方がある程度固定されているよ
うに思いますが、他の役者さんの出演するコントも見てみたいと思
いました。
[629] すて 2006/10/24(火) 10:23 [削除]
[公演名] エントコントコレクションvol.1 [劇団名] 参加団体全
体
すごく楽しい企画でした。熱気を感じた。地方でこういう事をや
ってるのって他にないんじゃないでしょうか?残暑の暑い中始まっ
て、終わってみればもう肌寒い季節ですね。関係者の皆様、本当に
お疲れ様でした。
内容的には、こんな言い方されるとご本人達は嫌かもしれませんが、
作り手のそれぞれ20代、30代、40代(カタコンベさんは戸中井さ
んだけじゃなかったのかな?)の味が楽しめて面白かったです。総
じて世代が下になる程感性が鋭く、上になる程視野が広くなってい
たように感じます。あと世代によってその人達が受けてきた影響も
反映されているのかなとも思いました。
「コント」と一言で言っても様々だなぁと改めて感じました。第2
弾が開催されることを心より期待しています!
[648] オトアン 2006/11/03(金) 17:09 [削除]
[公演名] 電車男 [劇団名] わるだくみ
「電車男」のストーリーは、もはや「知る人ぞ知る」ではなく
「知らない人の(ほとんど)ない」、一種現代の伝説・神話と言ってい
いだろう。これは、えーマジっすか、でもあったらいいなあという
点でもそうだし、「実際その本体を詳しく知らなくても何となく粗筋
は知っている」という点でも共通する。実に様々な媒体で取り上げ
られているのだが、その特性によってアプローチが異なる。そもそ
もネット掲示板の特性を、特殊な用語や顔文字などの要素そのまま
に紙媒体にしてみせた原作本からしてメディアの性質を上手く使っ
ているのだが、ここで見られる匿名性や時間感覚は、見る人の自由
度がかなり高く、また想像の余地が大きい。映画やTVではそれは
難しく、だからこそ掲示板では知りえないはずの電車男、エルメス、
スレの住人たちのディテールを描くことでまた別のものになってい
た。演劇版では、むしろシンプルにひとり芝居を用いることで演劇
ならではのアプローチとなっていた(いや、見てないんだけど)。そ
してわるだくみの「電車男」。これもまたひとつ新しい形である。い
い意味で予想を裏切られた。
ネタバレ。
今回は「電車男」を固定した役者が演じないで「毒男」たち(そして
最後には進行役の女性)が交替で演じる。「エルメス」は顔も声もない。
ストーリー展開がわかっているからだろうが、意外ではあるが有効
な演出だった。リリック第一スタジオには、平台を使った4つの「毒
男の部屋」が板ツキ。それぞれのヲタ的嗜好が表現された1畳スペ
ース。ここまで作り込むと邪魔になるかなと思ったが、そうでもな
かった。この「部屋」から出てバーチャルにみんなが交わっても普
通に見れた。
映画・TVにも言えるが、不特定多数で顔が見えないスレ住人たち
を、見せてしまうことでキャラクターを固定してしまうこと、ネッ
トの広がりが矮小化されてしまうことがデメリットだが、その分見
る方は筋を追うのがわかりやすくはある。毒男1〜4がそれぞれ個
性を出しながらみな見事にヲタっぽい。飛び交う2ちゃん用語も上
手い具合に馴染んでいる。中央で電車男を演じる際にはそれなりに
演じ分け、四人四様だがそんなに違和感なく見せた。合間にそれぞ
れ(というか3と4だが)の独白も織り交ぜられる。電車男が特別で
はなくこうした毒男のひとりであること、毒男たちに勇気を与えら
れ、また彼らに希望を与えていたことが表現されていた。そして、
進行役の、最初は毒男たちを見下げつつロムっていた女性が、次第
に電車男の成り行きに興味を持ちスレに参加し、熱く語るまでにな
っていく展開はなかなか目の付け所がよかった。観客に一番近い視
点が語り手となっている。要所で映像がいい具合にスパイスとして
入ってきて、雰囲気が出ていた。食事場所の映像は長岡ローカルの
店で、わるだくみらしいし地元民にはうんうんと頷けるチョイスで
受けていたが、話が東京アキバ銀座青山など地名オンパレードの中
では多少無理があるかな。ネットアイドルSuちゃんのあんかーわ
ーくすによる労作PVやポスターなど、ビジュアル面にやたら力が
入っていてすごいなと思った。細かいことを言えば暗転はもうゼロ
でいける芝居だし、ラストは「キター!」で締めなのだろうがもう
ひとつ盛り上がりが欲しかった。
前回の「鉄コン筋クリート」に続き、あまりにメジャーな原作ものだ
からどうかなと多少危惧していた。しかしわるだくみなりのものを
作り出した点で評価したい。今度はオリヂナルものにもチャレンジ
してほしいけど。
[653] オトアン 2006/11/05(日) 22:34 [削除]
[公演名] シカクにメマイ〜その名は森川13号〜 [劇団名] 三+
七=十?屋本舗 プロデュース公演
近年ナチュラルな芝居がよく見受けられるし、実際自分もこのと
ころ印象に残っている芝居にはそういうものが多い。しかし、新宿
梁山泊や唐ゼミ、椿組などのテント芝居やアングラ芝居も見るし、
魅力も感じる。ケレン味たっぷりの芝居もよろし。戯曲研プロデュ
ースユニット・三+七=十?屋(みなとや)本舗の今回の公演は、モ
ロに後者。まず何より戯曲、その詩的で時代がかった言葉の紡ぎ方
と発し方、いきなり歌まで飛び出す展開。そして田中みゆきの見栄
を切る表情。井上きみ則が、昨年と正反対の作品であり過去の真似
事だけはしない、と挨拶に書いていた。確かにこのいかにものテイ
ストはなかったかも知れないが、かつての井上公則の演劇はむしろ
ナチュラルなものよりはこういう泥臭いものに近かったように思う。
田中みゆきが各種の演劇経験を経る中で培ってきた資質もまたこの
作品世界に合っている。
さて、で今回の公演。いろいろと名前が面倒だが、このユニット
はやはり田中みゆき座長公演なのだと感じる。彼女の佇まいが、こ
の芝居の目指すところを示している。通常の会話ではあり得ない、
過剰に詩的な言葉が突如語られるこの感じは、全体にテンションが
上がっていて観客が巻き込まれていてこそ有効に作用する。その芝
居世界に飲み込まれてしまうと違和感はないのだが、そこまでの強
度があったとは言いづらい。他の役者も新人を含めそれぞれいい味
を出している。特に引場道太、佐竹允介は迫力もあり立ち姿が堂々
として印象に残る。ただ、それぞれの演技の質、方向性がかなり違
うので、全体としての強さに欠けるところが惜しい。もちろん役者
がみな同じ質の演技をしなければならないということではない。そ
れはあり得ないし面白みもない。言葉にするのが難しいが、結構無
理のあるストーリーでも何だかわからないが力ずくで納得させられ
てしまう爆発力のような、そんな空気感が出せるといい。演出やス
タッフワークでの改善があればもっとそれが出るはず。スタジオで
あのセット、もちろん簡単に作ったものではないのだが、何でも屋
ユキの侘しい部屋、隣のゲイ・得との部屋とも繋がるのだが、もう
少し作り込むか、あるいはもっと省略して素舞台に近づけるかした
い気がする。壁の意匠があまりにチープ。横に広いセットが部屋の
感覚をつかませない。場面転換で神社などのシーンになるにしても、
もっとやりようがあるし、大した変化でない割りに暗転が長い。暗
転の効果的な芝居もあるが、この芝居はなくてよいと思う。音響の
フェードアウトがかなりカットアウト的に切れてしまう。後半多用
される(恐らく姫神の?)曲は美しいが、少し多用し過ぎ。見立ての
馬に跨り、風車を手に見得を切るユキ、そして背後のパネルが落と
され一斉に多くの風車が回る。いかにもテント芝居っぽいラストな
のだが、圧倒的なカタルシスに欠ける。やりたいことは伝わってく
るのだが、あの空間で、客席を巻き込んだ劇世界を作り出すことが
出来ていたかといえば、難しかったかと思う。さらに凝縮し純度を
高めた圧力の高い芝居を期待する。しかし、こういうタイプの演劇
への取り組みは確かに「引き出し」をひとつ増やしたと思う。
[668] オトアン 2006/11/14(火) 00:42 [削除]
[公演名] フランケンシュタイナー [劇団名] 爆男倶楽部
ああ、爆男倶楽部も20周年だ。カタコンベや第二黎明期が劇
団としての活動を始める前から、まだ狭かった新潟の演劇界を盛り
上げてきた懐かしい顔が、客演も含めて集まり、もう40・50代に
なろうという面々が、相変わらずのノリで芝居をやっている。それ
だけで何だか元気にさせられる。20年を経て円熟して上手くなって
いるのかといえば、そんなことはない(失礼)。むしろ、そういう滑
舌で、そういう頭髪密度で、そういう腹回りで(超失礼)、と数々の
突っ込みが入るおっさんたちが、それでもキメまくって台詞を叫び、
殺陣をこなし、堂々のヒーローとして舞台に立つことに自然と笑み
が浮かんでくる。ああ、こうやって好きな芝居をやっている姿は何
と素敵だろう。これぞ爆男。史実を絡めた荒唐無稽な冒険譚、テン
ト芝居のように自由度の高い火、水の使用、大規模な装置の転換に
屋台崩し、選曲に至るまで、あの頃よく見たこういう芝居が、こう
して見られること。若い人たちはこういう芝居をあまりやらなくな
ったが、でも自分たちの好きなタイプの芝居を(多少の無理を押して
も)見たい・やりたいという気持ちが伝わってくる。雨にうたれなが
ら駆け込んだ遊劇地帯NEOS。暗くきれいとはいえない会場に濃い
メイクの役者、ちょぴりコワくてドキドキしながらもわくわくして
見たあの頃の思いが蘇る。
ネタバレ。何度か再演されている「フランケンシュタイナー」の
06年版、舞台は大東亜戦争直前、人体の欠損に機械を結合するフラ
ンケンシュタイナー計画をドイツとの共同で開発中の医学博士・永
友佑をベルリンから日本へ送るため、天才レーサー・西(にし)東次
郎(とうじろう:60年代のレーサー浮谷東次郎が時代を超えモデル)、
陽気なイタリア人レーサー・トニーニョ卓郎、射撃の天才・伊達順
之助(満蒙独立運動に参加した実在の馬賊)、天才エンジニア・岩谷
時郎らが集められる。背後にはドイツ人シュタイナーがいるが、永
友は兵器としての使用に危惧を感じ平和利用を考えて日本を目指す。
一方それを阻止しようとする英国情報部のデビッド青木、関東軍情
報部の坂田利郎(将棋名人阪田三吉をイメージ)、気功を操るインテ
リギャング・周明華、取材に駆け回る記者・宮本徳子。そして満州
の黒幕・甘粕正彦に、清朝王女・愛新覚羅顕シこと東洋のマタハリ
こと男装の麗人・川島芳子、馬賊・小白竜こと小日向白朗ら実在の
人物たちが絡む。そしてこれらを目撃し伝える語り部となる、李香
蘭こと山口淑子。メルセデスの咆哮を響かせながら疾走するトージ
ローたち、彼らは大義名分より自分の内側から湧き上がる声に突き
動かされてひたすら走るのだ。日本軍と意見が乖離する関東軍は計
画を潰そうとする。英国と日本の血を併せ持つ青木は2つの国の間
で揺れる。そして収斂していく漢(をとこ)たち。ストーリーのアラ
や役者のミスなどはもうどこかへすっ飛んでしまうこのエナジー。
モーゼルのピストルはパンパン唸り、リンゴが爆破され、鉄パイプ
をレールに滑り降りる伊達、パイプを鉄棒のようにくるくる回る坂
田、舞台はベルリン・ミカドハウスから満映、上海、ハルビンと目
まぐるしく入れ替わり、天井から雨が降り、後ろの壁が取っ払われ
てスーパーチャ−ジャー搭載のかのマシンが登場する、この楽しさ。
20年前の学生演劇の熱が、今もここには在る。
[674] オトアン 2006/11/15(水) 22:55 [削除]
[公演名] TRIPLE VISION [劇団名] Noism06
金森穣、大植真太郎、稲尾芳文とクリスティン・ヒョット・稲尾、
同世代で世界を見てきた振付家、3者3通りの個性。それによって
新たな輝きを増したダンサーたち。3つのパートは20〜30分とい
うことで短いかと思ったが、否、実に濃い時間である。
◇black ice(ver.06) :振付・金森穣
ヴァージョンアップし深化したblack ice。削ぎ落とされて、逆に内
部が豊饒になっているようだ。上手奥の菱形(ダイヤ)状オブジェは
舞台上に影を伸ばし、かつスクリーンとして映像を紡ぐ。舞台面に
接するダンサーの身体部位が映し出され、床面に仕掛けがあってリ
アルタイムの映像であるように見えるが、別撮りであるとわかって
くる。しかし、映像と動きはほぼ完璧にシンクロしている。上がっ
ていく幕に手を伸ばしながら地に引き戻されては崩れる女性(佐藤
菜美)。オブジェの前で横たわる女性(井関佐和子)を男性(宮河愛一
郎)が支えても、その脚は倒れ胴体は崩れる。人間存在を象徴するよ
うな印象的なオープニングから、中野綾子、平原慎太郎を加えて展
開していく。オブジェの影に入りその影響下で自らの身体をレント
ゲン写真のように晒していく女性たち、それに絡み合う男性たち。
ひとりひとりがオブジェに気づき、「モノリス」のように見上げるシ
ーン。やがてリノリウムの隙間に顔を入れ、ついにその隙間に沈み
込んでいく井関佐和子。地に潜って行くおんなの顔が映し出される、
不気味で胸に残るラストまで、濃密で充実した時を、見る者は共有
する。
◇solo,solo:振付・大植真太郎
とにかく衝撃(笑激)的。難しい顔して見るだけがコンテンポラリー
ダンスではなく、笑って見ていいんだと、TripleBillの近藤良平作
品でもわかっていたはずだが、こんなに笑うとは。幕間の時から、
スタッフジャンパーを着た青木尚哉がひっそりとマイクセットをす
るパフォーマンス。あまりに気づかれないので、最終日はやたら派
手になっていたが、大植氏によれば「野放し」で任せられていたら
しい。幕が上がると青木は下手で音響卓に向かう。これも最終日に
はマイクを握るなど日々変化していった。音楽は極力排除されなが
ら、「音」について強く意識させられる。上手には布の人形(ひとが
た)、傍らには韓国語のアジテーションが流れるボイスレコーダー。
下手に横たわっていた平原慎太郎が起きあがりその音のする器具に
近づいて持ち上げると、下手奥から金森、石川勇太、山田勇気らが
駆け寄ってくる。宮河愛一郎も加わり、くんずほぐれつの中、上手
奥できゃいきゃい言っていた女性陣がやってくる。お間抜けな衣装
(袴、だるだるニット、ショタコン的?な石川のダブダブYシャツ
など)を纏ったダンサーたちが、時に言葉を発しながら動き回る。宮
河の「おれ、つえ〜」から、平原の「全然違うよ」、山田勇気の「25
キロ」「人でしょ」、高原伸子のアイドルソングなどなど、日々バリ
エーションのある「言葉」の数々。言葉は、身体表現=「ダンス」
として発せられている。人形はやがて解体され「もの」になってい
く。その広げられた布地の中で蠢くダンサーたち。その中から現れ
る人形としての「ひと」。笑いながら、実はとても哲学的な内容であ
ることに気づく。舞台用ウェイトを振り回す一見乱暴な動きも、計
算され大変な訓練の上に成り立っている。全身を包む布を脱ぎ、や
がて伸びたブリーフ一丁の姿でしかし他の人々に拒まれ緞帳の外に
取り残される平原。疎外感、自己と他者性といった現代思想的問題
を意識させられる。
◇Siboney:振付・稲尾芳文、クリスティン・ヒョット・稲尾
幕が上がり、金森・井関のペアがラテンで情熱的なダンスを繰り広
げる後方にはライトに浮かぶ横一列のダンサーたち。暖色系の衣装
と照明が新鮮に感じられる。換わって高原・宮河・平原のトリオで
の絡みが始まり、後方ではポージングを決めるダンサーたち。次々
と切り替わるバラエティーに富む選曲の音楽、様々なリズムに乗り、
各々が各々ランダムに動きながら、それらが万華鏡のような一体感
を持ち美しい模様が繰り広げられていく。個々の所作やポーズには
美しさだけでなくユーモアが散りばめられ、シリアスさとコミカル
さがいい具合に入り混じっている。繰り広げられる動きの中、起承
転結のクライマックスを迎えることなく、次第に明かりがフェード
アウトしていく。営みの継続を感じさせる。
それぞれに違う視点、しかしどこか世界観の繋がっている感覚。世
界を見てきた若き振付家たちの心踊る競演は、ダンサーにとっても、
観客にとってもいい刺激だった。
[708] オトアン 2006/12/02(土) 15:34 [削除]
[公演名] リア王 [劇団名] KURITAカンパニー 旗揚げ公演
シェークスピア能楽堂シリーズの演出家が立ち上げたカンパニ
ーであり、出演者の多くがその経験を共有しているが、今回スタジ
オBでのKURITAカンパニー旗揚げ公演は、その流れを汲みつつ考
えてみれば当然なのだが様々な点で違いがあった。そしてそのこと
がこのカンパニーに好感を覚えた理由のひとつだ。役者を入れ替え
て単に再演するのではなく、別のアプローチ。
能楽堂では、和の舞台に衣装、様式的な登退場と所作、そして白
石加代子のリアを中心に女性たちが演じること、テキストも削ぎ落
とされ、登場人物は「影法師」を使うことで大幅に減らされ、テー
マがすっと浮かび上がってくるような、斬新な手法が見られるいわ
ば通好みのシェークスピアだった。今回、まず張り紙で85分・休
憩・100分の2幕と知らされ(予めこうやってわかるとありがたいに
ゃー)、「うぉマジかよ、やる気だな」とファイティングポーズを(心
の中で)とったことよ。こんなにストレートに、正面からシェークス
ピアをやる。しかも伝統に絡めとられることなく若々しく。素直に
拍手を贈りたい。
能楽堂鏡板の常盤の緑松でなく赤茶色の松が立てられ、木製の椅
子が一脚、上下に紗幕張で楽師のスペースがありその前に剣立てが
あるだけのシンプルなセット。衣装は(特に道化は)和的なニュアン
スも感じさせながら基本的には無国籍、西洋から中近東、バテッィ
クまで取り入れたゴージャスでスタイリッシュなものをしかも何着
か替える贅沢さ。音は生での打楽器音がメインで、管なども使用す
るがSE的でよくマッチする。担当する女優たちには大変だろうが
よい訓練だろう。場面の切り替えは台詞を終えた役者が背を向けは
けていく様式的な動きの中で既に次の場面が始まるというテンポの
よさ。そして膨大かつ小難しいながらも諧謔を散りばめたシェーク
スピアの台詞を見事に消化し、なおうそ臭くない心情を乗せて見せ
る役者たちが素晴らしい。あの立て板に水の台詞をハイテンション
で185分。こっちもきついかなと思ったが、だれず飽きずに見れた。
また能楽堂のスタイリッシュさに加えて、今回は殺陣もありエドマ
ンドやオズワルドに見る欲望や野心など、男臭さや猥雑さなど、シ
ェークスピアに本来あったであろうものがあった。この新潟の若い
役者たちは全国的にも通用するレベルにあると思う。栗田氏のリア
は、まず佇まいからしてリアのイメージに(自分には)ぴったり。荒
井和真もよい味。倣岸で愚かだが哀切で感情移入できる人間像を描
き出している。役者は何人か年齢設定など別の役でも、と思わない
でもなかったが、逆にいくつものバリエーションが可能なポテンシ
ャルを持ったカンパニーだとも言える。どこまでがコンクリートな
メンバーなのかわからないのだが。
よく知られているストーリーなのだが、シェークスピア演劇の魂は
単なる筋書きではなく、枝葉末節に見えるが詩人でもある沙翁が紡
ぐ詩のような台詞の一葉一葉にこそあるということを今回改めて認
識した。今どきこんなこと言う人間はいないのだが、しかしそこに
現在にも通じる人の本質が現れる。最近、ナチュラルな台詞回しの
芝居に好きなものが多いが、こういう芝居もアリだなと思う。ただ
このカンパニーと役者たちには、「シェークスピアもできる」存在で
あってほしい。可能性を制限する必要はないと思う。
[709] オトアン 2006/12/03(日) 01:14 [削除]
[公演名] 彼女に与えるべきではないエサのいくつか [劇団名]
劇団カタコンベ
記憶を辿れば高橋景子のノリコ、鈴木則子のケイコでの初演から、
谷藤幹枝・赤塚すいかによるカタコンベバージョン、また六日町高
校演劇部による上演など、様々な形での上演がなされてきたが、そ
れぞれが魅力的で印象深い。29〜30くらいと推定される年齢設定で、
何だかキャストが変わるたびより若くなっていく印象があるが、役
者はそれぞれが「現在」を如実に体現しているのだろう。今回のほ
しのゆきえ・麦森あいえは未完成ながら役を自分に引きつけ好感の
持てる舞台を作り上げた。最初明子と直子を逆の配役で予想してい
たのだが、しかし観てみれば納得、自然な感じがあった。入れ替え
可能ではあろうけど。
105分ほどの芝居、女性2人。2人のシーンかどちらか1人の芝居
で、当然モノローグも多い。カタコンベ特有の暗転も、美しいブリ
ッジの曲と相まって、観る者にとって必要必然な間である。シェー
クスピアの登場人物が活発に行動するのに対し、この芝居では行動
する以上に思い考える。大きな物語ではなく、描かれる物語世界は
小さいが、今を生きる我々がより深くその心情にコミットできるの
はもちろん後者だ。ただこれは芝居のベクトルが違うので、どちら
がいいということではない。
ネタバレあり。
動物園爬虫類舎に勤める女性で、同年の親友の父親と年を超え結ば
れるという、そうそうない設定ながら、そういう境遇でこういう年
齢の女性をリアルに思い描きかつその心情に自分を重ねられるとい
うことはそれだけ台本に力があるということだ。そこここに振りま
かれているくすぐり=笑いの要素、特に映画や流行歌のネタは世代
によってウケ方も違うし、いわゆる胸式の、呟くように訥々と語ら
れる独白は客に退屈と思われるリスクを負っている。しかし、直子
(ほしの)が語る自己と世界(宇宙)との関わりという果てしない哲学
的命題は、ヤマちゃんが没入して行き、それを回想する直子がまた
没入し、それを見ている我々もまた飲み込まれて行く深淵でありこ
の芝居の大切な主題のひとつだし、明子が夢の中で見る人の寿命を
示すらしい砂時計のシーンも、あからさまではあるが生と死とそれ
を超えたものについて考えさせる。一般受けするのかどうかはわか
らないが、ずっと心の中で暖めていきたい芝居だ。
麦森あいえの明るく報われない明子の頑張ってる姿がとてもいと
おしく見える。うまさというより、生きている感じ。そしてみじめ
っぽくない痛み。ほしのゆきえの直子は、明子への複雑な思いと自
分のこれからについての逡巡を抑えた演技で見せる。いずれも、過
去のバージョンより感情表現はストレートに思えるが、無理がない。
当然のことながら役者が変われば別の明子と直子になる。それぞ
れの役に対する印象も微妙に変わってくる。それでもストーリーか
ら浮かび上がってくるエッセンスがある。そして、毎回新たな発見
がある。同じバージョンで同じ役者が何回やっても恐らく完全とい
うことはないのであり、それでも一回一回の上演ごとに取替え不可
能なひとつの世界ができあがる。これからの日程でさらに化けてい
くことだろう。楽しみなことだ。
[717] ちぇき 2006/12/09(土) 10:44 [削除]
[公演名] リア王 [劇団名] KURITAカンパニー 旗揚げ公演
新潟大学齋藤陽一研究室 芸能時評No181 リア王 アップで
す!
ちぇきらー
http://comnet.ge.niigata-u.ac.jp/writing/kurita-lear.html
[726] オトアン 2006/12/17(日) 09:57 [削除]
[公演名] 演劇ぷろじぇくと坂下さん公演act.2 [劇団名] わりと
夕陽(改訂版)
「もしもしガシャーン」の芝居を観たことはない。「劇団どくんご」
テント公演「ベビーフードの日々」に「もしもし」の2人・奈尾真
とたかはしみちこが出ていたのを観たのみ。そこから予想すると、
結構笑わせる、どろどろ絶叫系だけど現代を舞台にした芝居、では
ないかと。今回「坂下さん」Ver.を観て、ある程度予期した部分と、
それ以上の部分があって、台本そのものが意外に?ナンセンスでな
いウェルメイドなものであったこと、そして新潟の誇る演出と役者
によって新たに生み出された面があると思う。
いかにもなアングラをやろうと思えばいくらでもそうできそうな芝
居なのだが、やはりそうはなっていない。どこか倉庫のような、段
ボールなどに覆われている階上の部屋。高い所にわずかに覗く明か
り窓。この場所が、半透明のアクリルプラスティック板による段ボ
ールをはじめ、白い内装で仕上げられ、役者の衣装もすっきり小ぎ
れい。セットの一部としてのコンポを上手く使った、音楽の使い方
や細やかな照明。よくできた小道具。それぞれスタッフの力である
し、トータルでコンセプトを決定していく演出・中嶋かねまさなら
ではの気の配り方だと思う。ジャンボ佐々木、谷藤幹枝の2人は舞
台に上がると否応なしにそれぞれの味を瞬時に醸し出す安定感があ
る。そこに年輪というか経験が重なって、ふっと抜ける部分など、
以前とはまた違う演技の質をも垣間見せる。
ネタバレ。
赤子らしいおくるみを抱えた男(ジャンボ)とセルフタイマーをセッ
トして寄り添う女(谷藤)の映写から始まる冒頭のシーンに、最後ま
で説明はない。過去のある時点であるとすればこれは舞台上の2人
ではない(少なくとも片方は)。しかし見方によっては、幸せな将来
を(一つの願望として)見ることもできる。
この部屋に潜んでいるらしい杉田昭(ジャンボ)が毛布にくるまって
いる。荷物を抱えた身重の和泉真知(谷藤)がやってくる。真知を「先
生」と呼ぶ昭との会話で、次第に浮かび上がってくるのは、ある事
件(両親と姉・婚約者が焼死)で重要参考人らしい昭が、5歳くらい
年長でかつて昭の教師だった真知の世話になってかくまわれている
こと。両者の間に少なくともわかりやすい恋愛感情などは表されず、
真知は気弱?な昭に対し強気。部屋に立ち込める異臭を指摘する真
知。昭はふとした折に真知(あるいはお腹の子)に対し害意を持つか
のように暴走しようとする右手を押さえ込み、ボールペンを(注射の
ように)刺す。姉に対する強い執着を靴やピアソラの曲に示す昭。死
に迫る姉の腹から嬰児を取り出し、しかし助からなかったその子を
ずっと保持していたのだ。真知の妹で昭の同級生であったという「マ
ユミ」、その子で真知が我が子のように面倒を見て愛情を注ぐ「ゴロ
ー」は直接登場しない。幼い頃からかわいい妹に対し太っていた自
分にコンプレックスを持ち、今も隠れて過食(と恐らく嘔吐)をする
真知。「マユミ」と真知の夫は、この建物で密会している。垣間見せ
る真知の殺意。階段から転落した真知は、どうやら流産したようだ
が腹に詰め物をして妊婦の姿を保つ。そしてこれもどうやら「マユ
ミ」と夫の失踪に何らかの手を下したらしい。重要そうなシーンを
あえてすかす、このわりとな感じが全般に見られる。一緒に逃げよ
うと真知は昭を説くが、昭は逃げようとせず、葛藤の果てにその右
手を切断して持って行けと言う。ボールペンを並べて貼り鋸刃とし
て、自らの手を切る昭。しかし真知は「ゴロー」からの電話に答え
て「今日(の食事)はトリ」と言う。それぞれがそれぞれの「悲劇」
を抱えながら、食べて寝て日常は続いて行く。
私見だが、自作ならばディテールまでこうだという確固たる意見を
持てるが、他人の作品では難しい。しかしそれでもこれはもう自分
の作品だと言えるくらい強引に解釈してもよい。「NINAGAWAなん
とか」ではないが、NAKAJIMA夕陽と言えるもの。今回は3人とス
タッフのコラボで次第に出来上がってきた感じで、それもまたいい
のだが、中嶋カラー全開も期待せずにいられない。
[728] オトアン 2006/12/18(月) 01:39 [削除]
[公演名] イヌの日 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイダース presents
ネタバレ。ストーリーを中心に。
舞台の上半分は中津家の邸宅、上手に居間、下手に離れて中津正行
の母・和子の寝室。暗闇の中男女の喘ぐ声から始まる(ここら辺とか、
とことんいやーな話である点パルコ劇場の「噂の男」とどこか重な
る)。和子と警官である五味との濡れ場。下手側には客で中津の友
人・西田明夫が恋人陽子に金をせびっている。和子は未婚の母で若
い頃から身体を資本に稼いで来たのだが、そのことは幼い頃から中
津のトラウマとなり女性や性的関係についての嫌悪感を抱かせてい
る。五味以外にも多くの男と関係を持つ和子が、明夫とも懇ろであ
ることを目撃した中津はその場を去るが、その後明夫は行方不明。
舞台の下半分は暗い枝分かれした洞穴で、中津家の裏にある防空壕。
そこで中津とオーバーオールの菊沢真理恵が顔を合わせるシーンが
一瞬あるが、この時中津は車で引いた猫と明夫を埋めに来たこと、
しかし菊沢によって助けられたことが後でわかる。中津は子分格の
広瀬幸治に、小学5年生の時から17年防空壕に監禁している男女
4名の世話を依頼しどこかへ出かける。もともとはいじめられてい
た菊沢に好意を持っていて監禁し、寂しくないように同級生・洋介、
同級生の妹・柴、近所の中二生・孝之を一緒にしたのだが、体は大
人になっても精神的には子どものまま、外界は世紀末で大変だとい
う中津の言葉を信じ与えられる食料で生存し遊びにふける日々の4
人は、想像を絶する環境の中で、何やら得体の知れぬ白い「野菜」
を育て、鬱になるとこれを食べて躁になる。明夫がいなくなり、陽
子は新たな恋人候補として家も仕事もなく追われているらしい宮本
(在日韓国・朝鮮人)を連れて来る。やたら細やかに気を使う宮本を
和子は家に住まわせる。広瀬は言うことを何でも聞くという宮本に
壕の4人の世話を頼む。異様に4人と波長の合った宮本はやがて地
下に居続けるようになる。苛立つ広瀬だが、菊沢から無邪気で隠微
(淫靡)な「遊び」に誘われのめり込む。これは助けた明夫から無垢
な菊沢が教えられたものだが、菊沢にとってこれは罪悪感のないコ
ミュニケーションでありやがて宮本も菊沢に誘われて行く。宮本が
いないことに不審を感じた陽子もこの地下世界を知り、連れ戻そう
とするが宮本は聞かない。一方中津がいないと関係を避ける和子を、
盗撮した写真をネタ(関係を持った男たちを中津が消しているらし
い事)に縛ろうとする五味。中津の監禁を知っていた和子は明夫や陽
子の口を封じ中津を守ろうと地下へ。中津は例の「野菜」に幻覚・
覚醒効果があるのではという五味の言葉で海外に売ろうと出かけて
いたが、全く効果がなく相手にされず怒って帰って来る。そして部
外者が多く立ち入っていること、また菊沢が男たちと性的な関係に
なっていることに衝撃を受ける。五味を伴って戻った中津は母を淫
売となじり、監禁の責任を彼女に身代わりさせようとする。「嘘でも
いいから好きだと言ってくれたら言う通りにする」という和子に、
しばしの沈黙の後「好きだよ」と言い放つ中津。そして暴露本に使う
と4人の写真を撮り始める。地上に向かう中津、五味、引き立てら
れる和子。宮本は逃げようと言う広瀬に、壕にあった手榴弾を渡し
入口を塞ぐよう頼む。4人と一緒に地下に留まるため。広瀬は陽子
を連れて梯子を上り手榴弾を破裂させる…。
続く
[729] オトアン 2006/12/18(月) 01:43 [削除]
[公演名] イヌの日 [劇団名] 阿佐ヶ谷スパイダース presents
続き。
タイトルの映写で描かれるのは、小学生時代に母と男たちの姿を見
て傷つき、いじめられる菊沢に心を寄せる中津の姿だと後になって
気づく。監禁という異常な方法と、他の3人を巻き添えにするとい
う形でしか気持ちを表せない中津は、「女を知らない」と五味に看破
されるように性を忌避している。母の情人たちへの憎悪、母への罵
りは歪んだマザーコンプレックスでもある。一方、息子には自分の
醜行を知られたくないが息子がいなければ男を漁らない和子も歪ん
でいる。息子の犯罪を知りながら、好きなようにさせてやること、
その罪を背負うことでしか愛情を表現できない和子は、自身が親の
愛情を知らないのだ。この母子のすれ違う愛情。愛情ではなく罵り
の言葉でかろうじて母への思慕を表していた中津は「好きだよ」と
言ってはならなかったのだが、それをわかった上で、言ってしまう
ことでそれは嘘だと宣言した。何とも非情な愛の言葉。初演になか
った和子の存在で物語は大きく膨らみを増した。長く親を離れ、も
う死んでいると思ってきた孝之は、「母親」にそんなことをしてはい
けないという真っ直ぐな発言をする。そこには自分の思いが投影さ
れる。洋介は、菊沢を蔑みながらカメラを向ける中津に、菊沢が好
きだと言った小学生の中津の言葉をすごくいいと思ったと語り、監
禁すらそれで納得していたとさえ言う。だからそんなことをするな、
と。広瀬や宮本同様、洋介にも微妙に菊沢への思いがあるように思
われる。しかし、中津はそれらをことごとく無視する。もはや、一
線を越えてしまったのだ。長塚圭史はここで止めればまだ救いがあ
るというポイントを次々にすっと越えて行く。「いい話」にしない。
宮本がやたらと気を回すこと、日常世界に背を向けて地下の「子ども
の世界」に馴染むことなどは在日であることに関係があるように思
うし、中津の「臭い」という発言に怒って飛び掛かりぼこぼこにされ
ることも、ほんの少しこの問題が見える。孝之の、一見柴をハブに
しているようで実はとても気に掛けている姿、男女の機微を知らな
いがゆえの幼い行動とほのかな思い、素っ頓狂なようでふと覗く絶
望、中津の向けるカメラから柴や洋介を守ろうとしピースを出す姿
など、実に細やか。柴の少女らしいおばかさんっぽさ、孝之への好
意。物事を深く考えない、ただ普通に暮らしていたい陽子のキャラ
クターも非常にリアル。こうしたディテールが上手くできているた
め、結構強引な設定でも嘘っぽくない。爆発の翌夏、中津は広瀬と
2人の女を伴い肝試しとして壕に入り、爆発の後4人の姿は消えて
ただ1人気がふれて発見されたと語る。恐らくは宮本だろうが、こ
れが事実かどうかは語られない。中津を見限ったはずがまた行動を
共にしている広瀬は、しかし気が落ち着かない。そして壕内に響く
4人の声に恐れる。男女2組に分かれ(中津の「変化」が見える)、し
かし声の響く中怯えたように走って顔を合わせる中津と広瀬。様々
に解釈できる終わり方で、決して後味はよくない。そしてそれは作
者の意図通り。こういうどろどろの芝居で、しかしやたら笑えると
いうのが阿佐ヶ谷スパイダースらしい。カーテンコールで長塚が喋
って驚いたが(本多劇場ではなかったもん)、大サービスの新潟公演
はうれしい。
[731] オトアン 2006/12/18(月) 22:04 [削除]
[公演名] D-Soul [劇団名] GATE OF HEAVEN
「芝居の丼」は何本見ても1500円、お得なのだろうが、1本だ
けでも安くなるわけではない。坂下さん、中央ヤマモダンなど他の
場所でも幾つか公演があったが時間的に見れるのはこれだけだった
ので見てみました。
なるほどダンスメインの公演。とはいえ小芝居から入り、ところど
ころでネタのように芝居が散りばめられるのだけれど、最終的にそ
れで何かを言いたいわけではないらしい(少なくとも伝わってはこ
ない)。タイトルのGATEなのか、後ろに作られた門らしきものも、
思わせぶりながら特に使われることも開くこともない。ダンスは
HIPHOP的なもの、ジャズダンス的なものなど各種あって、ソロの
女性とかああなかなか上手いと思う。モブの群舞は、技量の差が見
えてしまうのだが、結構迫力がある。まあワシがもう少し若ければ
この程度は踊れたじゃろうが(爆)。踊りながら皆で歌われてしまう
と、ミュージカル的な(いたたまれなさを伴う)でもちょっと感じて
しまうものがある。このエネルギーは貴い。大事にしてほしい。そ
して、もうちょっと言えば使い方がもったいない。ダンスの質は、
自己顕示の面が強く、曲に乗って「のっている」自分の気持ちよさ
が前面に出ている。それはベースとして必要なものだが、それなら
ダンスだけでいいわけで、こういう公演の形を採るからにはそれな
りに表現したいものがあるんでしょう?で、歌っている歌詞に思い
を乗せているのかもしれないが、それぞれに繋がりがないので単に
オムニバスで歌い踊るだけになっている。
自分なんかから見ると随分幼く見えるメンバーもいて、オトナっぽ
いダンスの振りが微笑ましいのだが、それにしては選曲が、えっ本
当は幾つなの?って感じ。佐野元春!レベッカ!マイコ〜弱寸!!ア
ルフィ〜〜!!!いや懐かしくていいんだけど。アツく歌われちゃって
うれしい気もするんだけど。曲や詞に引きずられてしまう部分は、
演者にも客にもある。曲を表現する手段としてのダンスもあるし、
曲を手段としてダンスを作り出すこともある。また曲にインスパイ
アされた精神の動きが身体表現となる場合もある(先日の
CassisBeat×Yuppe×Noppuはこれに近いかな)。歌詞を歌いながら
のダンスは、その世界に限定されてしまう面がある。短期間で振付
け考えて、覚えて、練習して、頑張ったんだなあとしみじみするの
だが、このエネルギー効率的に方向付けたらもっとすごいものでき
るのになあ。
表現者は自分のやりたいことをやるのが基本。そのパッションがな
ければ何もできない。ただ、受け手が要る。音楽でも芝居でも美術
でもおよそ表現するということは需要と供給のバランスの上にある。
自分がやりたいことが、内輪の、スモールサークルオブフレンズに
だけ届けばそれでいい、他の人には通じなくてもいいというならば
それだけのことで、それを否定はしない。けれど、より広く届けた
いと思うなら、これでいいのかという自己吟味、総括は必要。これ
は複雑ながら、大衆に迎合して日和ることではないので注意。個々
のスキルを磨くことと同時に、表現したい内容と表現手段をさらに
突き詰めて考えた方がいい。一回見てどうこう言える立場でないの
は承知だが、今混沌としてとっ散らかっている中には様々な可能性
が広がっている。これを絞って行くことは多方面の道を幾つか閉じ
ることになるかも知れないが、ホースを細くすることで水の飛距離
は格段に伸びる。もちろん、そうしないことも選択の一つです。
[734] オトアン 2006/12/24(日) 01:13 [削除]
[公演名] トナカイの首につける鈴 [劇団名] 劇団第二黎明期
バックビートのリズムは体に沁みるなあ。仙台のみの公演から
2年越しの願いがかなったイブイブ、限定50席のプレミア感。そ
ういった周辺事情はともかく、充実した1時間をありがたく味わう
ことができた。大きな事件が起こるわけではない、恐らく今日もど
こかで起こっていておかしくない情景ではあるが、それを軽妙な会
話により2人だけで見せていくシダジュンの筆と、文字上では表現
できないものをきちんと描き出す役者の力で、演劇だからこその表
現が成立しており、この2人だからこそ現出しうる世界が舞台上に
ある。
ネタバレ。
「猫の手サービス」が登場する作品はいずれも楽しくかろみがあり
ながらも余韻が残る。今回も、「猫の手サービス」で様々な役割を声
色変えつつこなす「シモゲンニュウ(下源入と脳内変換しましたよ、
県民だもん)はるか」を高橋景子がきっちり舞台上で生かして見せた。
ジャンプスーツ姿がとてもスタイリッシュ。西堀DOMOの至近距離
にある客席、しかし彼女の視線は決してその数メートル先にいる客
に焦点を合わせない。中空に据えられた視線は、彼女がその周囲に
ある(例えば車のフロントウインドウなどの)物体を認識しながらも
その向こうを見ていることを雄弁に語る。格式のある家を離婚によ
って去り、息子タカシと年に一度クリスマスイブに会うことを楽し
みに、しゃきしゃき仕事をこなす、そんなひとりで生きる女性の姿
を違和感なく演じる。そして車にキーをつけてロックしたと仕事を
依頼する「山田ひばり」を演じる山崎真波、彼女は芝居のたびに役
柄に沿って印象が変わるしそのつど見た目と言うか顔かたちが変化
しているように思うのだが、今回はそういう(身体的には男性とい
う)設定を、いかにもそれっぽくしないでいてそれもありかなと感じ
させる説得力があった。お洒落して彼氏の母親と3人で会う予定と
いうが、実はその母親がシモゲンニュウであることを承知の上であ
えて呼び出し、いろいろな会話を持ちかけている。当初はビジネス
ライクな何でも屋と調子のいい客のやり取りに見えるが、次第に互
いの素性を理解しつつもなお表面的なやり取りを維持する姿、やが
てほころびの中から見えてくる真実、そしてその中での、それぞれ
が思いを抱えた一個の人間同士としての触れ合い。変化していく両
者の関係や心情をナチュラルに描く点で流石は第二黎明期。どこか
奇矯な設定も無理なく見せる。
「猫の手サービス」の事務所、山田の車の周囲、そしてシモゲン
ニュウの車の中、という場面の変化を、削ぎ落としたセットでちゃ
んと見せている。DOMOの狭い空間で、大きな物語ではなく描かれ
るのは小さな世界の一こま、終わってみれば1時間というコンパク
トさでありながら、それをさほど意識しない、濃さのある作品。こ
の場所で、この役者で、だからこそ成り立つ芝居というものがある。
もちろん他の場所で他の役者でもできるのだが、「今ここにある」も
のはここにしかないという当たり前だけれど貴重な真実。
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